いつからここが尸魂界だと錯覚していた?   作:yvrararara

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百四話

 坂柳からのナビゲートに従い、私は森の奥――事件の首謀者であり、実行犯である八神拓也の元へと真っ直ぐに駆け抜けた。

 

 指定されたエリアの開けた場所に出ると、そこに一人で佇む八神の姿があった。

 

 私の足音に気づいた彼が振り返り、生徒会室で見せるような、人懐っこく爽やかな笑顔を浮かべる。

 

「あ、藍染先輩! こんにちは! こんなところで奇遇ですね」

 

 その完璧なまでに作り込まれた表の顔。

 

 だが、私はその茶番に付き合う気など微塵もなかった。一切の歩みを緩めることなく彼に近づき、唐突に、そして冷徹に言い放った。

 

「――悪いが、前置きは省かせてもらうよ。私はすでに確信している。君が、姫野を襲撃した犯人だとね」

 

「……え?」

 

 八神が目を丸くし、戸惑ったように首を傾げる。

 

「な、なんのことですか? 襲撃って……?」

 

「惚ける必要はない。既に椿たちから、君の指示で腕時計を壊したという確固たる証言と録音は得ている」

 

「っ……」

 

 私の言葉に、八神の表情が僅かに強張る。だが、彼はすぐに焦ったような顔を作り、必死に弁明を始めた。

 

「そ、それは……! ……藍染先輩は、綾小路先輩を退学にする特別試験についてご存知ですか?」

 

「――ああ」

 

「僕は、その特別試験自体には反対だったんです。でも……天沢さんや宝泉くんに脅されて、仕方なく椿さんたちに腕時計を壊すように指示しました。くっ……まさか彼らが、綾小路先輩じゃなくて姫野先輩を狙うなんて……!」

 

 さも自分が被害者であるかのように振る舞う八神。私は冷酷な目で見下ろし、短く吐き捨てた。

 

「その見え透いた嘘はやめたまえ。酷く見苦しい。清隆の退学に反対だというのなら、なぜ同じ生徒会の私に相談しなかった?」

 

「そ、それは……僕個人の感情では反対すべきだと思っていましたが、クラスのためには二千万ポイントという賞金はあまりに魅力的で……」

 

「――無駄な問答だな」

 

 私は呆れたように溜め息をついた。

 

「私が確信している以上、君のくだらない言い訳などどうでもいい。……先ほど接触した天沢は、同期である君のことを自らの身を挺してまで庇おうとしていたというのに……。その彼女に罪をなすりつけるとは、本当に惨めで愚かな存在だね。君は」

 

「っ……!」

 

 私の言葉に、八神の瞳の奥に明確な『憎悪』の火が灯ったのを私は見逃さなかった。

 

「私の怒りを清隆に向けさせ、共倒れを狙おうとでも画策していたのだろうが……あまりにも浅ましく、矮小な策だ。所詮は、清隆の足元にも及ばない失敗作。清隆どころか、坂柳や一之瀬たちと比べても酷く劣る。まさしく不良品だな。ホワイトルームなどという、不完全でくだらない施設にお似合いの惨めな存在だ」

 

「……っ!」

 

 彼の最大のコンプレックスである『綾小路清隆』を引き合いに出し、徹底的にその存在価値を踏みにじる。

 

 その瞬間、八神の内側に渦巻く黒い感情が、限界を超えて膨れ上がった。

 

(ホワイトルームを追放された、未完成のゴミが……っ! 何様のつもりだ……! 殺してやる……!)

 

 八神はうつむき、ギリッと奥歯を鳴らす。

 

 そして再び顔を上げた時、彼の顔からは先ほどまでの爽やかな笑顔も、焦ったような表情も完全に消え失せていた。

 

 一切の感情を排した、冷たく無機質な無表情。

 

「……何のことですか? 僕が姫野先輩を突き飛ばしたという、直接的な証拠でもあるんですか?」

 

 どこまでも自身が優位に立っていると勘違いしている傲慢な問い。

 

 私は彼を哀れむように見つめ、静かに答えた。

 

「――そうか。君はまだ、状況を理解していないようだ」

 

 私はポケットから、あらかじめ自身の力で破壊しておいた自分の腕時計を取り出し、彼に見せつけた。

 

「君が意図的に証拠を残さなかったように、この無人島の森には監視カメラもなく、GPSの情報だけが頼りだ。……つまり」

 

 私は腕時計をポケットに仕舞い込むと同時に、これまで意識の底に抑え込んでいた『本気の殺気』と『圧倒的な重圧』を完全に解放した。

 

「――今ここで、君を葬り去ろうとも、証拠一つ残らないということだ」

 

「……っ!? な、なんだ……!?」

 

 大気が軋み、森の木々が悲鳴を上げる。

 

 目に見えない物理的な質量となってのしかかる悍ましい重圧に、八神は目を見開き、ガクンと膝を折った。

 

(な、なんだ!?なんなんだ!? この異常なまでの重圧は……!)

 

 本能が警鐘を鳴らす。目の前の存在は、決して敵に回してはいけない『怪物』なのだと。

 

 私は震える八神にゆっくりと歩み寄りながら、冷酷に告げた。

 

「……そのまま首を垂れているといい。愚かで惨めな君の首を刎ね飛ばすのに、ちょうどいい角度だ」

 

「っ……! 調子に、乗るなぁぁっ!!」

 

 恐怖と屈辱で完全に理性を飛ばした八神が、獣のような咆哮と共に地面を蹴った。

 

 ホワイトルームで培われた、常人なら視認すら困難な速度と破壊力を秘めた本気の拳。

 

 それが私の顔面を捉えようとした、次の瞬間――。

 

「――これが、君の全力か?」

 

 ピタリ、と。

 

 私は八神の渾身の拳を、ただ『指一本』で受け止めていた。

 

「なっ……!?」

 

 驚愕に顔を歪める八神を見下ろし、私は心底からの失望を込めて吐き捨てた。

 

「ホワイトルームで過ごした君の人生は、まさしく無意味で……何の価値もないものだったようだね」

 

 自身の渾身の右ストレートが、あろうことか指一本で止められた。

 

 その事実を前に、八神の中でかろうじて保たれていた理性の糸が完全に千切れ飛んだ。

 

「う、うわぁぁぁぁっ!!」

 

 絶叫と共に、八神は死に物狂いで猛攻を仕掛けてきた。

 

 ホワイトルームという過酷な環境で血反吐を吐きながら身につけた、極限の武術。洗練された左フック、死角からの鋭いローキック、喉元を穿つような手刀、そして急所を的確に狙う無数の連撃。 

 

 その攻防の最中。私は八神が放った左の連撃をいなすついでに、彼の腕に巻かれていた腕時計の盤面へと軽く指を弾き当てた。

 

 パキン、と。 

 

 ごく小さな破砕音と共に、八神の腕時計の機能が完全に沈黙する。

 

「……っ! なぜだ! なぜ当たらない……!?」

 

 その全てが、まるで児戯であった。

 

 私は一歩も動くことなく、迫り来る八神の攻撃の全てを弾き、いなし、受け止め続けた。どれほど速度を上げようと、どれほど殺意を込めようと、彼の手足が私に届くことは決してない。

 

「――どうした。もう終わりじゃないだろう?」

 

 息を切らし、動きの鈍った八神を見下ろしながら、私は冷酷に告げる。

 

「早く次の手を打つがいい。最後の一つが潰えるまで、一つずつ微に砕いていこう」

 

「ひっ……!?」

 

 その言葉に含まれた底知れぬ狂気と、一切の底が見えない圧倒的な力の差。

 八神の顔が、明らかな恐怖と絶望に染まっていく。

 

「な、なんなんだ! お前は……! たかが同じクラスの、あのゴミみたいな女一人のためだろう!?」

 

 八神は後ずさりながら、狂乱したように喚き散らした。

 

(なぜだ……! なぜこんなことになっている!?)

 

 八神の計算では、確かにクラスメイトに危害を加えれば藍染が怒ることは分かっていた。だからこそ巧妙にGPSを偽装し、その矛先を綾小路清隆に向けさせることで共倒れを狙ったのだ。

 

 だが、結果は瞬く間に自分の犯行だと見破られた。おまけに、八神が想定していた『怒り』の度合いを、目の前の化け物は遥かに凌駕していた。たかがクラスメイト一人のために、これほどまでの異常な殺意と執着を見せることなど、ホワイトルームで効率と合理性のみを叩き込まれてきた彼の理解の範疇を完全に超えていたのだ。

 

 しかし、恐怖のあまり彼が口走ったその言葉は、自らの首をさらに絞めるだけの最悪の愚行だった。

 

「……『ゴミ』……だと?」

 

「ひっ……!?」

 

 その瞬間、八神は自らの全身の血液が凍りつくのを感じた。

 

 藍染から放たれる重圧がさらに密度を増す。それはもはや気迫や殺気といった次元を超え、大気そのものが物理的な質量を持ってのしかかってくるかのような、おぞましい錯覚。

 

 周囲の木々すらもがその重力に耐えきれず悲鳴を上げていると錯覚するほどの威圧感に、八神は呼吸すらまともにできなくなった。

 

「――そうか。まだ、絶望が足りないか」

 

「っ……!!」

 

 目に見えるほどの殺意の奔流に、八神は慌てて数メートルほど距離を取った。

 

「な、なぜ僕だと確信を持った!? なぜ綾小路の仕業だと思わなかったんだ!?」

 

 己の完璧なはずの計画がなぜ破綻したのか。理解できない恐怖から、八神は半狂乱になって問いかけてきた。

 

「――簡単なことだ。清隆は、私の力の一端を理解している。私を本気で敵に回すことの『絶望』を理解しているからこそ、決して、こんな愚かな真似はしない。その時点で、清隆や月城の可能性は低い」

 

 私は彼を心底から侮蔑するように、冷たい視線を投げ下ろす。

 

「その程度のことも解らない程度の知能しかないとはね。正直、私も坂柳も、君の計画のあまりの杜撰さ、浅ましさに、本当にホワイトルーム生かと疑問を持ったくらいだよ」

 

「……っ! 舐めるなぁ!!」

 

 最大の拠り所であるホワイトルーム生としての矜持を否定され、八神は顔を真っ赤にして激昂した。

 

「僕の方が、お前より長くホワイトルームで学習している!! お前のような未完成のゴミが、僕を見下すな!!」

 

 吠え猛り、再び襲いかかろうと腰を落とした八神。

 

 だが、彼の視界から私の姿がブレて消えた。

 

「――な」

 

 八神が状況を理解するよりも早く、私はすでに彼の目の前に立っていた。

 

 そして、一切の容赦なく、振り上げた右腕を八神の肩口から袈裟懸けに振り下ろす。

 

 ――だが、私の手は彼の肉体に一ミリたりとも触れてはいない。

 

「…………、ぁ……?」

 

 八神の動きが完全に停止した。

 

 圧倒的な格上から放たれた極限の殺気と、刃物のように研ぎ澄まされた冷徹な重圧。それを真っ向から浴びた八神の脳は、己の身体が『鋭利な刃で完全に両断された』と完全に誤認していた。

 

 物理的な外傷など、どこにもない。骨も砕けていなければ、一滴の血も流れていない。 

 

 だが、脳が強烈に錯覚した『死の幻影』は、神経を焼き切るような絶対的な激痛となって彼の全身を駆け巡った。

 

「ぐっ、があああああああっ!! ああぁぁぁっ!!」

 

 存在しない傷口から噴き出す幻の血を必死に押さえるように肩を抱き、八神は激痛に顔を歪め、地面を転げ回ってのたうち回った。

 

「痛いっ! 斬られたっ……! あぁっ! ぐあぁぁっ……!」

 

「さて」

 

 物理的なダメージは皆無でありながら、脳が作り出した究極の痛みに無様に泥に塗れる八神を見下ろし、私は静かに宣告する。

 

「君が自身の意思で犯行を自白し、法の裁きを受けるというのなら……これ以上は何もしない」

 

「ひっ……あ、あぁ……痛い、いたいぃ……っ」

 

 もはやそこに、狡猾な策略家の面影はない。

 

 あるのは、圧倒的な死の恐怖と存在しない痛みに顔を歪める、惨めな一人の少年の姿だけだった。

 

 八神は恐怖と絶望に染まった顔で這い蹲りながら、不格好に立ち上がった。

 

 そして、私に背を向け、なりふり構わず森の奥へと逃走を図る。

 

「――そうか。逃げるか」

 

 私は小さく息を吐き、静かに地を蹴った。

 

 必死に森を駆け抜けようとする八神。だが、彼が数歩進んだ次の瞬間――。

 

「ひっ!?」

 

 逃走しようとする八神の目の前に、私は一瞬で回り込み、立ち塞がった。

 

 恐怖に引き攣る彼の顔を冷たく見据え、私は静かに腕を上げる。

 

「君如きが、私に二度も刀を抜かせるな」

 

 私が放った二撃目の幻刀が、八神の脇腹を薙ぐように振り抜かれた。

 

「ガハッ……!?」

 

 刃のような殺気をまともに浴びた八神の脳は、自身の脇腹が深々と抉り取られたという『死の錯覚』を再び受信した。

 

 存在しない傷口から内臓が零れ落ちるようなおぞましい幻覚と、神経を焼き切るような激痛。肺から空気が強制的に押し出され、八神は胃液を撒き散らしながら地面に崩れ落ちた。

 

「あ、がっ……あぁぁぁっ……!」

 

 袈裟懸けに斬られたと思い込んでいる肩の痛みに加え、脇腹から全身を駆け巡る新たな激痛。

 

 泥と嘔吐物に塗れ、存在しない致命傷にのたうち回る八神を見下ろし、私は心底からの呆れを込めて吐き捨てた。

 

「――矮小な存在だな。あまりにも惨めだ」

 

「はぁっ、はぁっ……! お、お前だって……!」

 

 呼吸も絶え絶えになりながら、八神は血走った目で私を睨みつけ、喚き散らした。

 

「お前も、僕にこんな怪我をさせてるんだ! 僕が訴えれば、お前だって退学だ……!!」

 

 全身を斬り刻まれたと錯覚し、存在しない傷を必死に押さえながら叫ぶ彼が絞り出したのは、あまりにも滑稽な反論だった。

 

 私は彼を嘲笑うことすらせず、ただ淡々と事実を突きつける。

 

「――奇妙なことを言うね。怪我とは、一体何のことだ?」

 

「……は?」

 

 私の言葉に、八神は激痛に顔を歪めたまま、自身の身体を見下ろした。

 

 そこでようやく、彼は『異常』に気づく。

 

 体操服は破れていない。血は一滴も流れていない。肩にも、脇腹にも、鋭利な刃物で肉を抉られたような確かな激痛があるというのに、そこには『かすり傷一つ』存在していなかった。

 

「な、なんで……血が……傷が、ない……!? 刀で斬られたはずなのに……!」

 

 自分の脳が引き起こした強烈な錯覚と現実の矛盾にパニックに陥り、震える手で自身の身体をまさぐる八神。その無様な姿を冷たく見下ろす。

 

「一体いつから――私が刀を握っていると錯覚していた?」

 

「……っ!!」

 

「ここには監視カメラもない。そして何より、君の身体には斬撃を受けた痕跡など一切ない。全ては君の恐怖が作り出した幻影に過ぎないのだからね。……この状況下で、誰が君の妄言を信じるというんだ?」

 

「あ……、あぁ……っ」

 

 八神の顔から、完全に血の気が引いた。 

 

 客観的な証拠がないどころではない。傍から見れば『八神が一人で勝手に痛がって転げ回っているだけ』なのだ。これでは訴えることなど絶対に不可能だ。

 

「証拠すらない妄言で私を脅そうというのなら、幻ではなく、本当にその首を刎ね飛ばし、塵一つ残さず消し去るしかないようだね」

 

 私はゆっくりと、這い蹲る八神へと歩み寄り、距離を詰める。

 

(こ、殺される……!)

 

 本能が限界の警鐘を鳴らす。逃げなければ。だが、脳が錯覚し続ける激痛が体を呪縛し、指一本まともに動かすことすらできない。

 

「――首を垂れろ」

 

 見下ろす私の瞳には、一片の慈悲もなかった。 

 

 本当に殺される。そう確信した瞬間、八神の内にあったホワイトルームの矜持も、計算も、全てが完全に崩壊した。

 

「ま、待ってくれ!! じ、自首します!! 自首するから!!」

 

 鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、八神は狂乱したように叫んだ。

 

 だが、私は一切歩みを止めない。

 

「――そうか。だが、君を生かすことで、後々私の不利益となるかもしれないな」

 

「だ、誰かに自首を強要されたなんて絶対に言いません!! 僕が自らの意思で、罪の意識に耐えきれなくなって自首したと証言します!! だから……っ!」

 

 絶望に染まった顔で命乞いをする八神。もはやそこに、他人を盤上の駒として嘲笑っていた傲慢な少年の面影はない。

 

「――私に、君を信じろと言うのか? 私の大切な仲間を暗闇から突き落とし、傷つけた君を」

 

「……っ!! そ、それは……」

 

「――私にとっては、君のその薄っぺらい言葉を信じることより、今ここで君の命を絶ち、全ての憂いを断つ方が余程容易で確実だ」

 

 私のその言葉に、八神は絶望的な死の恐怖に飲み込まれ、ガチガチと歯の根を鳴らして震え上がった。

 

「お、お願いします……!! 二度と、絶対にこんなことはしません! 僕を、自首させてください……っ!」

 

 息も絶え絶えに、地面に額を擦りつけるようにして懇願する八神。

 

 もはや彼の心は完全に折れ、私という存在に対する絶対的な恐怖と絶望だけが刻み込まれていた。

 

 私は歩みを止め、冷たく見下ろした。

 

「……その言葉。違えるなよ」

 

「ひっ……!」

 

「もしも、私の大切な存在に二度牙を向くような愚行を犯せば、次はない。地の果てまで追い詰めてでも、その罪を償わせる」

 

 静かに、しかし絶対の死を伴った宣告。

 

 その言葉を聞いた瞬間、八神は完全に糸が切れたように、力なくその場に崩れ落ちた。もはや指先一つ動かす気力すら残っていないだろう。

 

 私は彼から視線を外し、トランシーバーのスイッチを入れた。

 

「――坂柳。終わったよ」

 

『……お疲れ様でした。無事、解決したようですね』

 

「ああ。犯人はやはり八神だった。本人が姫野を襲撃したことを認め、自首すると言っている」

 

『当然の報いです。……それで、どうしますか?』

 

「これから八神を連れて、試験本部へ向かう」

 

『分かりました。……無茶は、していませんよね?』

 

 私の苛烈な一面を知る坂柳が、確認するように問いかけてくる。

 

「――ああ。私も八神も、怪我一つしていない。安心したまえ」

 

『……さすがですね。それでは、私も本部付近でお待ちしております』

 

 私の完璧な返答に、彼女は安堵と称賛が混ざったような声色になり、通信は途絶えた。

 

 トランシーバーをしまい、私は地面で震え続ける八神を見下ろした。

 

「立て。これから本部へ向かう。私の前を歩け」

 

「ひっ……は、はい……っ!」

 

 存在しない激痛に顔を歪め、幻の傷を庇いながらも、八神は逆らうことなく不格好に立ち上がった。そして怯えた犬のように、促されるまま私の数歩前を歩き出す。

 

(……なんとか、直接的な暴力を振るうことなく制圧できたな)

 

 私は歩きながら、心の中で静かに息を吐いた。

 

 相手に触れることすらなく、極限の殺気と威圧感だけで脳に「斬られた」という完全な錯覚を引き起こす技術。

 

(ホワイトルーム時代に、あの『エア斬撃』を練習しておいた甲斐があったというものだ。あの時、清隆には全く通用しなかったが……指導員たちにはかなりの効果があったからな)

 

 かつてあの白い部屋で過ごしていた頃の記憶を、冷静に振り返りながら思考する。

 

 外傷を一切残さず、精神と脳の錯覚のみで完全に相手を屈服させる。これなら、後から医療スタッフがどれほど精密に検査しようと、私が暴行を働いたという証拠は一欠片も出ない。彼の妄言として処理されるだけだ。

 

 ――これで、終わった。

 

 姫野を傷つけた愚か者には、学校のルールなどではない、社会という逃げ場のない法廷で相応の罰が下るだろう。

 

 私は森の静寂の中で、一人、次なる盤面へと意識を巡らせながら歩き続けた。

 

 

 

 

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