いつからここが尸魂界だと錯覚していた? 作:yvrararara
特別試験本部の奥深く、窓すらないコンテナの仮設室。
殺人未遂という凶行に及んだ危険人物として厳重に拘束された八神拓也は、冷たいパイプ椅子に座らされ、虚ろな瞳でただ床を見つめていた。
存在しない激痛の錯覚はすでに消え去っているはずだが、彼の心は完全に砕け散り、もはや一言も発する気力すら残っていない。
その静まり返った密室の扉が開き、月城理事長代行が静かに足を踏み入れた。
「……やってくれましたねぇ、八神くん」
月城の声には、いつもの芝居がかった胡散臭さは微塵もなかった。あるのは、自身の立場すらも危うくしたかつての駒に対する、底知れない冷たさと軽蔑だけだ。
「君の浅はかな暴走のせいで、私も今後の身の振り方を真剣に考える必要が出てきましたよ。……そもそも、ホワイトルームの枠にすら収まりきらず『規格外』として追放された藍染くんに、綾小路くんに遥かに劣る君が勝てるわけがないでしょうに」
「…………」
八神はピクリとも動かず、虚空を見つめ続けている。
月城は忌々しげに息を吐き、冷酷な事実を突きつけた。
「度重なる命令違反。あまつさえ、愚かにも藍染くんの逆鱗に触れ、彼に綾小路先生やホワイトルームそのものを『明確な標的』として認識させてしまった。……いいですか? 本来であれば、君の身柄は警察に引き渡される前に、私が責任をもって秘密裏に海の藻屑として処分する運命だったのですよ。全てを闇に葬るためにね」
「…………」
「はぁ……。藍染くんに感謝することですね。彼が去り際に言い残した言葉で、我々は君に対して一切手出しができなくなりました」
その言葉に、焦点の合っていなかった八神の瞳が、微かに揺れた。
「彼が庇護を約束した君を、もし我々が処分すれば……それこそ藍染くんの報復という、最悪の引き金を引くことになりますからね。……それは、彼が『厳罰を望まない』と言い残した他の一年生――天沢さんたちも同様です」
「……っ!」
八神の肩が、びくっと大きく跳ねた。
自分の命はおろか、自分と共にこの学校へ送り込まれた天沢一夏さえも、結果的に藍染の言葉によってホワイトルームの呪縛から救われたのだと理解したのだ。
「もちろん、被害に遭われたお二人に対しても、学校側としてできる最大限の補償とケアをしなければなりません。これ以上、彼に一切の不満を抱かせないためにもね」
驚愕に目を見開く八神を見下ろし、月城は自嘲気味に首を振った。
「私が君たちに手を出せなくなることまで、全てを見透かして放った言葉だったのでしょう。藍染くんにとって、君に与えた慈悲の蜘蛛の糸すらも、我々を縛る首輪の一つに過ぎない。……本当に、底知れない恐ろしい方です」
月城はそれ以上彼を責め立てることはせず、感情を切り捨てるように淡々と宣告した。
「明日、朝一番のボートで私と共に本土へ戻り、そのまま警察に向かいます。私たち……いえ、ホワイトルームは、君と天沢さんに、もう二度と干渉することはないでしょう」
扉が閉まり、再び一人きりになった密室で、八神の瞳からボロボロと大粒の涙が溢れ落ちた。
(僕は……何を、何てことをしてしまったんだろう……)
綾小路清隆と比較され、常に劣っていると蔑まれるだけの人生。なぜ自分は、あんな白く無機質なだけの場所を心の拠り所にし、自身の全てとして固執していたのか。
ホワイトルームで学んだ知識も暴力も、何の意味も持たなかった。自らの存在意義すら見失い、ただ壊れるしかなかった自分。
(こんな僕でも……罪を償い終わったら手を貸すと、あれだけの怒りを見せた藍染先輩は……言ってくれた……)
それが、真の強者が持つ『格』の差なのだと、八神は骨の髄まで理解した。
(……罪を償おう。僕の犯した罪は、決して許されるものじゃないだろうけど……。それでも、必ず償う。……そして、いつか……)
絶望の底に垂らされた、一筋の細い蜘蛛の糸。
八神はそれを決して手放さないと誓うように、静かに、しかし強く両手を握りしめた。
八神を拘束した仮設室を出た月城は、人気のない本部の裏手へと歩みを進めた。
暗がりの中、そこには彼の下で暗躍する配下の男――一年Dクラスの担任である司馬克典が、影のように静かに待機していた。
「……計画は、どうされますか」
司馬が感情の抜け落ちた声で、淡々と問いかける。
月城はネクタイを少し緩め、夜の海風を浴びながら薄く笑った。
「私は明日、八神くんと共に本土へ戻り、そのままこの学園の理事長代行を辞職します。……夏休みが終える頃には、本来のトップである坂柳理事長が復職することになるでしょうね」
「では、最終日に予定していた『テスト』は、私が一人で行いましょうか」
司馬の提案に、月城は忌々しげに目を細めた。
「そうですね。綾小路くんがホワイトルームを出てから衰えていないか、それとも外の世界でさらに進化しているのか……私としても、もう少しじっくりと様々なテストをしたかったところですが、仕方がありません。戦闘力のテストは、あなたに任せましょう」
「分かりました」
短く頷く司馬に対し、月城は念を押すように警告した。
「ですが、細心の注意を払ってください。すでに藍染くんは、ホワイトルームそのものを『標的』と見なしています。もしもの時は……」
「ええ。その時は、あくまで試験における『シークレットの戦闘課題』だとでも誤魔化しましょう。それに、決行するエリアは物理的に藍染が駆けつけられない距離を選びます」
「ええ、それがいいでしょう。藍染くんならば、クラスの勝利のために、本日の事件で生じた遅れを取り戻そうと純粋な試験に集中するはずですからね。彼がこちらに気を取られる暇はないでしょう」
月城はふっと息を吐き出し、見えない夜の水平線へと視線を向けた。
「想定よりも早く私が退くこととなり、綾小路先生から申し付かった仕事を全うすることが出来なくなりましたからね。……せめて最低限のデータだけは回収して去ることとしましょう」
月城の言葉が夜の静寂に溶けていく。
盤面が大きく崩れ去る中、彼らは最後の『テスト』を決行すべく、暗闇の中で静かに牙を研いでいた。
月明かりだけが頼りの暗い森の中を、私は一人、仲間たちの待つ拠点へと向かって歩いていた。
犯人を法の裁きに委ねるという結末には辿り着いたものの、姫野たちが負った心身の傷がすぐに消えるわけではない。夜の闇の中、私は今回の事件が残した爪痕の深さを静かに噛み締めていた。
(でも……そうだな。俺がいつまでも重苦しい空気を纏ってピリピリしていたら、被害に遭った姫野や吉田が『自分たちのせいで』って余計な責任を感じてしまうかもしれない。それに、待ってくれているひよりたちにも心配をかけちゃうよな)
被害者の心身のケアは星之宮先生に任せるしかない。ならば、自分にできる最善は、この重苦しい空気を払拭することだ。
(よし、俺自身はしっかり気持ちを切り替えよう!明日からはまた、純粋にこの無人島サバイバルで一位を目指すことに集中だ!)
私がひよりたちの待つ拠点へと帰り着いた頃には、夜もすっかり更けていた。
焚き火の微かな光の向こうで、私の足音に気づいた小さな影が弾かれたように立ち上がる。
「っ! 惣右介くん……!!」
ひよりが駆け寄ってくると、私の両手を彼女の小さな両手でぎゅっと包み込んだ。その温もりが、わずかに残っていた夜の冷気を優しく溶かしていく。
彼女の後ろからは、一之瀬や葛城をはじめとする大グループの面々も安堵の表情で駆け寄ってきた。
「――月を覆う黒雲はとうに散った。自らの矮小な影に怯えた哀れな迷い子は、真実の光に耐えきれず、自ら法の祭壇へと身を捧げに往ったよ」
「『遅くなってごめんなさい。犯人は無事に自白して、法の裁きを受けることになりましたよ』とのことですっ」
「う、うん……。本当に、本当にありがとう、藍染くんっ……」
一之瀬は一瞬キョトンとしたものの、ひよりの翻訳のおかげでしっかりと状況を理解し、大きな瞳に涙を浮かべながら深々と頭を下げた。葛城たちも、私の無事と事件の確実な解決に肩の荷を下ろしている。
「惣右介くん」
ひよりが包み込んでいた手をそっと離し、私を気遣うように見上げてくる。
「今日一日、ろくにご飯も食べていないんじゃないですか? 惣右介くんの分も残して温めてあるので、どうか食べてくださいね」
(おおおっ! そういえば怒りのあまり完全に忘れてたけど、朝から何も食べてないせいで限界突破で腹ペコだ! さすがひより、最高のタイミング! いただきます!)
「――肉体という名の器が、これほどまでに原初の渇望を訴えるとはね。君が熾したその穏やかな焔と、丹念に紡がれた恵みの糧だけが、今の私の内なる虚洞を満たす至高の霊薬となるだろう」
「『ちょうどお腹がペコペコでした。温かいご飯、ありがとうございます』とのことですっ」
私の長大でオサレなポエムを、ひよりはいつものように完璧に翻訳してみせた。
そして、焚き火のそばに用意してあった食事を取り分けながら、ふふっ、と小さく微笑む。
「姫野さんたちを襲撃した犯人のことは、決して許せません。けれど……」
彼女は少しだけ悲しそうに目を伏せた後、すぐに柔らかな笑顔を私に向けた。
「惣右介くんが、いつもの『惣右介くん』に戻ってくれて、私、とても安心しました」
「うん。ひよりちゃんの言う通りだね」
私の前に立ち、一之瀬が力強く頷く。
「犯人のしたことは決して許されることじゃない。でも……私たちがいつまでも暗い顔を引きずってたら、姫野さんや吉田くんが『自分たちのせいで』って気にしちゃうかもしれない。彼らに責任を感じさせないためにも、この試験、絶対に勝とうね!」
沈みがちだった空気を払拭するように、一之瀬はあえて明るい声で皆を鼓舞した。だが、神崎はどこか思い詰めたような表情で口を開いた。
「ああ……だが。今日一日、藍染が試験に参加できなかったこともあり、上位陣との差が詰められている、あるいは逆転されているかもしれない」
「不甲斐ないが、神崎の言う通りだ」
葛城もまた、厳しい表情で腕を組んだ。
「最大の得点源である藍染がいなかったことで、かなりの数の課題を綾小路たちや南雲たちのグループに取られてしまったからな」
「でも、私たちだってそれなりに課題をクリアできたと思うけど?」
神室が少し疑問を呈するように小首を傾げる。
「ああ。坂柳も事件の方に意識を割いていたから正確な情報とは言えないが……真田や弥彦からも、猛スピードで課題を駆け巡る綾小路たちの情報を得ている。おそらく、我々の想像以上のペースで相当数の課題をクリアしていると見た方がいいだろう」
葛城の冷静な分析に、場に再び重い空気が漂いかける。だが――。
パンッ!
夜の森に、一之瀬の乾いた柏手が鳴り響いた。
「みんな! 悔やむのはやめよう!」
彼女は力強い眼差しで、仲間たちの顔を真っ直ぐに見渡した。
「私たちは、今日私たちができる精一杯のことをした! もしも相手がそれを上回っていたなら、明日から全力で巻き返すだけだよ! 姫野さんや吉田くんのためにも、私たち全員の力で絶対に一位を取ろう!」
(……本当に、一之瀬は頼もしいな)
一之瀬自身も、大切なクラスメイトである姫野たちが傷つけられたことで、誰よりも深く心を痛め、相当参っていたはずだ。それでも彼女は、仲間を導くために自ら立ち上がり、一番に前を向いてみせたのだ。
「……一之瀬の言う通りだ。弱音を吐いている場合じゃないな。姫野と吉田のためにも、絶対に勝とう」
一之瀬の言葉に当てられ、神崎も迷いを振り払うように頷いた。
(明日から全員で巻き返して、絶対トップを取ってやろう!)
「――玉座を空けた僅かな刻、地に這う者どもが束の間の夢を見たようだが……それも今宵までだ」
私が静かに、そして傲慢に紡いだ言葉に、皆の視線が集まる。
「明日より、我らが再び天を戴き、この盤面の頂に絶対の支配を刻み込もう。……這い上がる余地など、一片も残さずにな」
「『明日から全力で巻き返して、絶対に私たちが一位を取りましょうね』とのことですっ」
私の傲慢なポエムを、ひよりが即座に、かつ柔らかな笑顔で完璧に翻訳してみせる。
「にゃはは! うんっ、藍染くんもすっかりいつも通りに戻ってくれて安心したよ!」
「ああ……。正直、あの時の藍染から放たれていた重圧には、本能的な恐れを抱いてしまったからな……」
神崎はパチパチと燃える焚き火の炎を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「まるで、俺の知っている『藍染惣右介』という人間が、どこかへ消えてしまったんじゃないかと思ったよ。全く違う別の誰かを見ているような。……すまない、変なことを言って」
神崎が少し申し訳なさそうに苦笑する。あの時の私の殺気に、彼らも少なからず当てられてしまっていたのだろう。
傍らで、葛城と神室も「あれは寿命が縮む思いだった」と言わんばかりに無言で頷いていた。
「――もう自分の知る藍染惣右介ではない……か」
「えっ……?」
私の静かな呟きに、一之瀬が目を瞬かせる。
「残念だが、それは錯覚だよ。……君の知る藍染惣右介など、最初から何処にも居やしない」
(何言ってんのおぉぉ俺の口!? めちゃくちゃ裏切り者のセリフじゃねぇか!! なんでこの流れでそのセリフが出るんだよ!! 完全に黒幕の告白みたいになっちゃったよ!?)
言った直後、私は内心で激しく頭を抱え、地面をのたうち回りそうになった。
私のその不穏すぎるポエムを聞いて、神崎や葛城の顔がピリッと強張り、本能的な警戒心を露わにする。神室に至っては「こいつ何言ってんの?」とドン引きしたような目を向けていた。
せっかく温まりかけていた空気が、一瞬にして絶対零度に凍りつきかける。
だが、その張り詰めた空気を、世界で一番優しくて甘い声がふわりと溶かしてくれた。
「『誰しも色々な面を持っているように、普段は滅多に怒らない私にも、ああして怒る一面もあるんですよ』とのことですっ」
「……あ、ああ。なるほど。そういう意味か」
「驚かせないでくれ……。一瞬、得体の知れない裏切り者が目の前にいるのかと勘違いしてしまったぞ」
ひよりの完璧な意訳のおかげで、神崎と葛城はほっと胸を撫で下ろし、ピンと張っていた警戒を解いた。
(ひよりぃぃぃ!! 完璧すぎるフォロー本当にありがとう!! ひよりがいなかったら、俺完全にクラスを裏切って天に立つ黒幕だったよ!! 一生ついていきます!!)
私は内心で滝のような涙を流しながら、この世の女神たるひよりに向かって五体投地で感謝を捧げた。
「にゃ、にゃはは……。ちょっと心臓に悪い冗談だったけど、でも、藍染くんがあんなに怒ってたのも、友達である姫野さんや吉田くんを想う『優しさ』からだって、私たちはちゃんと分かってるからね」
一之瀬も苦笑いしながら、私を安心させるように温かい言葉をかけてくれる。
「ふふっ。ええ、惣右介くんは……誰よりも不器用で、誰よりも心優しい方ですから」
ひよりは私の隣で、焚き火の光に照らされた天使のような微笑みを浮かべた。
その言葉と笑顔に、私の内側に残っていた僅かな焦りさえもが、完全に浄化されていくのを感じた。
「……君たちの過分な評価に、感謝しよう」
私は内心のドタバタを完全に隠し通したまま、夜風を纏うように涼しげでオサレな笑みを返した。
パチッ、と焚き火の薪が爆ぜる音が、穏やかな夜の森に響く。
こうして、様々な悪意が交錯した激動の一日は終わりを告げた。
見えない脅威が暗躍した夜は過ぎ去り、やがて来るのは、純粋な実力と意志がぶつかり合う朝。
私たちは明日からの猛追を誓い合い、静かに燃える炎の温もりを感じながら、無人島での深い眠りについた。