いつからここが尸魂界だと錯覚していた?   作:yvrararara

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百十話

 深い森を抜け、指定された【I2】エリアの海岸へと出た。

 

 波の音が静かに響く砂浜には、他の生徒の姿は全く見当たらない。ただ一人、教員の司馬が腕を組んで立っているだけだった。

 

 さらに視線を海へ向けると、少し離れた海上に小型のボートが不自然に停泊しているのが見える。

 

「ここの課題を受けに来たんですが」

 

 警戒を表に出さず、淡々と声をかける。

 

「そうか。運が良かったな。この課題のエントリーは、一人限定だ」

 

 司馬は表情ひとつ変えずにそう告げた――直後。

 

 砂を蹴る音すらさせず、司馬が異常な速度で間合いを詰めてきた。完全に急所を狙った、プロの暗殺者のような鋭い手刀がオレの首筋へと振り下ろされる。

 

「――っ」

 

 オレは最小限の動きで上体を逸らし、その一撃を紙一重で捌いた。空を切った手刀が風を裂く鋭い音を鳴らす。

 

(なるほど。月城が去った後も、まだ配下が残っていたということか)

 

 次々と繰り出される連撃を冷静に捌きながら、オレは瞬時に状況を理解した。

 

 このI2エリアの課題はダミー。ここでオレを物理的に戦闘不能にし、誰の目にも触れない海路から無理やりホワイトルームへと連れ帰る腹積もりなのだろう。

 

 一方、無表情で攻撃を続ける司馬の内心は、焦燥と驚愕に包まれていた。

 

(データ上では知っていたが……これほどまでとは……!)

 

 ホワイトルームの最高傑作。その実力を書類や映像でどれだけ叩き込まれていようと、実際に相対した時のプレッシャーは司馬の想像を遥かに超えていた。どれだけ本気の殺意を込めて死角から打ち込んでも、まるで最初から軌道を知っていたかのように、無造作かつ完璧に防がれる。

 

 この【I2】の課題は、学校のシステムに細工をして『綾小路清隆のタブレットにのみ』表示されるように仕組んだものだ。しかし、司馬は事前に周囲のGPS反応を確認しており、そう遠くない位置に他の生徒がいることを知っている。

 

(このまま長引けば、他の生徒の目に触れる可能性がある……! 時間がない……!)

 

 司馬がさらに踏み込んで必殺の一撃を放とうとした、まさにその時だった。

 

「――無様だな。私の眼前にてそのような薄汚い真似を……身の程を知れ」

 

 不意に、背後の森から静かで、しかしひどく威圧的な声が響いた。

 

 その声に司馬が僅かに反応を遅らせた隙を突き、オレは距離を取って声の主へと視線を向ける。

 

 そこに立っていたのは、池や須藤とグループを組んでいる龍園のクラスの生徒――時任裕也だった。

 

「……時任?」

 

「如何にも。……教員風情が、我がグループの池が身を呈して繋いだ(けい)に牙を剥くとはな。その驕り、万死に値すると知れ」

 

 冷たく見下すような視線。腕を組み、微動だにしないその佇まい。

 

 なにより、その不可解すぎる『口調』。

 

(時任? これも惣右介が指示を出しているのか……? いや、それにしても……(けい)……?)

 

 オレは内心で激しく困惑した。

 

 彼が池と同様に混合合宿以降、藍染惣右介の影響を多大に受けていることは知っている。だが、先ほどの池とも違う。まるでどこかの名門貴族の当主のような、プライドが高く冷徹なキャラクターへと完全にシフトしているのだ。

 

「……無関係な生徒か。邪魔をするな」

 

 想定外の乱入者に、司馬が忌々しげに低い声を漏らす。

 

 だが、時任は表情ひとつ崩さず、ふっ、と冷笑を浮かべた。

 

「邪魔、だと? 愚かしい。貴様のごとき矮小な存在が、私が征く覇道を阻めるとでも思っているのか」

 

 時任は一切の隙を見せない優雅な足取りで、ゆっくりと司馬へ向けて歩みを進めながら、その鋭い眼光を放った。

 

「……行け。ここは(けい)の戦場ではない」

 

 時任は背中を向けたまま、静かにそう言った。

 

 その姿を見た、司馬は内心で毒づく。

 

(わざわざここに来るとは……。最初から綾小路清隆を追っていたということか?)

 

「あ、ああ……助かるが。……なぜお前がオレを助けるんだ?」

 

 オレの問いに、時任は僅かに視線を横へ流し、冷徹に言い放った。

 

「簡単なことだ。(けい)が『藍染惣右介の友』というのならば、私が(けい)を助けることに些少の躊躇もない」

 

 その言葉を聞いた瞬間、オレの思考は一時停止した。

 

(単純にオレたちのグループを一位にする為ではないのか……。やはり、惣右介が手を回してくれているのか……? それに、『藍染惣右介の友』だと……? オレのことを友だと、あの惣右介が思っているということか……?)

 

 胸の奥で奇妙な違和感が脈打つ。藍染惣右介という男の真意が、未だに霧の中に隠れているようだった。

 

「これは学校の用意した課題だ。部外者が邪魔をするというのか?」

 

 司馬が怒りに任せて声を荒らげる。時任は冷ややかな瞳で司馬を射抜いた。

 

「二度は言わぬ。貴様が藍染惣右介の敵というのなら、私が斬り伏せてやろう」

 

(斬り伏せる……だと? まさか時任も、惣右介のような『アレ』ができるというのか……!?)

 

 しかし、司馬が時任へと襲い掛かったその瞬間、オレは思わず肩の力を抜いた。

 

 時任の拳は、極めて正確な、しかし紛れもない――ただの格闘術だった。

 

(……普通に殴っているな。……いや、今は課題を急ぐべきだ)

 

 時任と司馬が激しくぶつかり合う中、オレは短く言葉をかける。

 

「助かった」

 

 それだけ言い残し、オレは再び森へと駆け出した。

 

     

 突然の乱入者に、司馬は苛立ちを隠せなかった。

 

(邪魔が入った……! それにこの生徒も、なかなかに腕が立つ……)

 

 時任の動きには迷いがなく、執拗で正確だった。 

 

(ここから追うのは無理か……。データとしては十分とは言えないが、最低限の報告はできるだろう)

 

 司馬は不本意ながらも戦闘を中断した。時任も全身に打撃を負い、その体は既に限界に近いほどボロボロだったが、その背筋だけは折れることなく真っ直ぐに伸びていた。

 

「……見事だ。課題はクリアだ」

 

 司馬は時任のタブレットに得点の獲得通知を送り、その場を離れる。

 

 時任は言葉を返すこともなく、血を吐くような痛みに耐えながら、優雅な足取りで静かに立ち去っていった。

     

 

 

 一方、海岸から遠ざかりながら、綾小路は静かに思考を巡らせていた。

 

(池に続いて時任までもが……惣右介の指示でオレを助けてくれたということか)

 

 あの二人には、感謝しなければならないだろう。だが、それ以上に綾小路の心を占めていたのは、時任が残した言葉だった。

 

(……それに、『友』か)

 

 時任が残した『友』という言葉。

 その響きが、森を駆け抜けるオレの脳内で何度も反響していた。

 

(やはり、オレが勘違いをしていたということか……?)

 

 これまでの藍染惣右介の不可解な言動の数々。そのパズルのピースが、今になって全く別の形に組み上がり始めていた。

 

(休日に、よく自室へオレを誘ってきていたのも、オレの実力を測るためのテストや牽制などではなく……純粋に『友』としてゲームを楽しむためだった、とでも言うのか?)

 

 いくらなんでも、とオレは内心で首を振る。

 

 あの藍染惣右介が、ただ純粋に友人と遊ぶためだけにオレを部屋に招いていた?あの底知れない男が、そんな真似をするなど、到底信じられるものではない。

 

 しかし、オレの思考を縛る前提が崩れ去った今、その可能性を完全に否定しきれないのもまた事実だった。

 

(それに、自身の手駒を使ってまでオレを助けてくれたのは紛れもない事実だ。客観的に見て、この無人島試験でオレを助ける行為は、惣右介にとって明確なデメリットでしかない)

 

 グループの得点争いにおいて、オレの行動を止めるか、最悪リタイアに追い込む方が、間違いなく彼らの勝利へと繋がる。にもかかわらず、惣右介はそのリスクを負ってでも、オレを宝泉や刺客の手から救い出そうとしてくれたというのか。

 

(オレを助けてくれた、池と時任……)

 

 時任については直接の関わりが薄いため詳しくは知らないが、池は違う。入学当初の彼は、間違いなくクラスの中でも最底辺に位置する生徒だった。能力も低く、精神的にも未熟。

 

 だが、その池が藍染惣右介に心酔し、血の滲むような努力を重ねた結果、あの暴力の化身である宝泉和臣を足止めできるまでに成長している。

 

(オレならば、効率を求めて間違いなく切り捨てるような『使えない駒』を、惣右介は『切り札』として使えるレベルにまで引き上げている)

 

 恐怖による支配ではなく、心からの忠誠と尊敬によって人を動かし、潜在能力を限界まで引き出す。

 

 藍染惣右介という男は、ホワイトルーム時代から既に完成された規格外の天才だと思っていた。だが、現実は違ったのだ。

 

(彼はこの学校で『友情』や『恋愛』といった、ホワイトルームでは無価値なものと教えられていた感情を取り入れ、オレの想像を遥かに超える高みへと更なる進化を遂げている……)

 

 能力の高さだけではない。人間としての器の大きさ。

 これが、オレと惣右介の決定的な差なのだろうか。

 

(感情、か……)

 

 軽井沢恵との付き合いを通じて、オレも少しずつその領域に足を踏み入れているつもりだった。だが、まだ完全に理解できているとは言い難い。

 

 いや……彼女を『恋愛を学ぶための教科書』と称し、結局のところ己の成長のための道具として扱っている時点で、オレはまだスタートラインにすら立っていないのかもしれない。

 

(……それに、惣右介が本当にオレを『友』と思ってくれているのかどうか……)

 

 一人でいくら思考を巡らせたところで、あの底知れぬ男の真意を完璧に見透かすことなど不可能だ。

 

(すべては、この特別試験が終わった後で……直接惣右介に聞いてみるしかない、か)

 

 胸の奥に燻る奇妙な焦燥感と、ほんの僅かな期待感。

 

 初めて知るその感覚を振り払うように、オレは次なる課題へ向けて、さらに走る速度を上げた。

 

 

 

 一方、綾小路が己の真意について思考を巡らせていた頃。

 鬱蒼と茂る森の中を抜けながら、私は密かに安堵の息を吐いていた。

 

(ここまで、想定通りのペースで課題をクリアできたな……)

 

 だが、私の脳裏を過っていたのは、自身の得点状況よりも、別行動をとっている彼らのことだった。

 

(寛治と時任は……無茶をしていないといいが。俺の個人的な都合に彼らを巻き込んでしまったことには、申し訳なさを覚えるな)

 

「惣右介くん、かなりいいペースで課題をクリアできましたねっ! これで、逆転できているでしょうか……?」

 

 腕の中にいるひよりが、期待と不安の入り交じった上目遣いで私を見上げてくる。

 

 私は彼女の問いに対し、ふっと口角を上げて応えた。

 

「さてね。我々が最善を尽くしたとはいえ、勝利の行方は他者の歩みにも左右される。……黄金の獅子も、結局私には牙を剥かなかったからね。彼も我が道を行き、確実に星を重ねているはずだ。紙一重の、美しい勝負になるだろう」

 

「なるほど……。確かに、そうですね……」

 

 ひよりが納得したように小さく頷く。

 

 その時、手元のタブレットが短く振動し、画面に『試験終了』という無機質な文字が点灯した。

 

 

 午後十五時。十四日間に及ぶ過酷なサバイバル試験が、ついに終わりを迎えたのだ。

 

「時間だ。どうやら、この狂騒も幕引きのようだよ。……さあ、我々の帰るべき場所へ、ゆっくりと歩みを進めようか」

 

「はいっ! 早く姫野さんたちに会いたいですね……」

 

 試験の終わりを実感し、ひよりの顔にパッと明るい笑みが咲く。しかし、その瞳の奥にはリタイアを余儀なくされたクラスメイトへの心配が滲んでいた。

 

「ああ。星之宮に十分なケアは頼んであるが、彼女の心に刻まれた深い恐怖が、すぐに癒えるわけではないからね。皆で、彼女の心を温めに行こう」

 

「はい……!」

 

 私はひよりをそっと地面に下ろし、並んで歩幅を合わせながら、集合場所であるスタート地点の砂浜へと向かった。

 

 

     

 船着き場が設けられた砂浜には、既に激闘を終えた生徒たちが次々と集結し始めていた。

 

 その一角に、見慣れた顔ぶれが揃っている。私たちと大グループを組んでいる一之瀬、神崎、神室、葛城、そして坂柳だ。

 

「遅れてすまないね、待たせたかな」

 

 私が声をかけると、坂柳が杖を両手で握り直し、ふわりと優雅な微笑みを浮かべた。

 

「いいえ、ちょうど揃ったところです。……皆様、本当にお疲れ様でした。私たちは、やれることを精一杯取り組みました。結果発表を、楽しみに待ちましょう」

 

 坂柳の労いの言葉に、葛城が腕を組みながら重々しく頷く。

 

「ああ。吉田と姫野にも、良い報告ができるといいのだがな」

 

 理不尽な事件によって島を去った二人の姿を思い返しているのだろう。葛城の言葉には、仲間を気遣う実直さが滲み出ていた。

 

 その空気を明るく塗り替えるように、一之瀬がパッと太陽のような笑顔を弾けさせる。

 

「うん! そうだね! 早く船に戻って、みんなでお見舞いに行こうね!」

 

「はいっ!」

 

 ひよりも一之瀬の言葉に同意し、嬉しそうに微笑んだ。

 

「では、帰還するとしようか。我らの凱旋だ」

 

 私の言葉を合図に、私たちは豪華客船へと続くタラップへと足を踏み出す。

 

 十四日間という途方もなく長く、過酷だった無人島サバイバル試験。

 それぞれの思惑と誇りが交錯した真夏の特別試験が、ここに幕を下ろした。

 

 

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