いつからここが尸魂界だと錯覚していた? 作:yvrararara
豪華客船でのバカンスも四日目。
この日、私はクラスメイトたちと共に船内の巨大なプール施設へと足を運んでいた。
南国の太陽が降り注ぎ、澄み切った水面がキラキラと眩しく輝く中、プールには多くの生徒たちが溢れ、楽しげな歓声が響き渡っている。
「惣右介くーん! お水、とっても気持ちいいですよー!」
「藍染くーん! 一緒に遊ぼうよー!」
「藍染、早く来いよ! ビーチボールやろうぜ!」
プールの中から、可愛らしい水着に身を包んだひよりと一之瀬、そして水面で大きく手を振る柴田が声をかけてくる。
そのすぐ傍では、網倉や白波たちが楽しそうに水を掛け合って遊び、巻き込まれた神崎がオサレに顔を拭っていた。
(うんうん、平和だなぁ。みんな心からバカンスを楽しめてるみたいで何よりだ)
私はパラソルの下、優雅にデッキチェアに腰掛けながら、トロピカルジュースを片手に愛すべきクラスメイトたちの賑やかな姿を眺めてほっこりとしていた。
「お、藍染。お前もバカンスを楽しんでいるみたいだな」
ふと、傍らから声をかけられ視線を向ける。
そこに立っていたのは、鍛え上げられた肉体を惜しげもなく晒し、爽やかな笑みを浮かべる三年生の生徒会長、南雲雅だった。
(おっ、南雲じゃん! お疲れ様! にしてもここのプール凄い設備だよね!)
私は内心で親しげに挨拶を返しながら、ゆっくりと口角を上げた。
「――南雲か。この巨大な揺り籠、悪くない造りだ。君も束の間の休息を楽しんでいるようだね」
「ああ。お疲れ。それにしても、今回の特別試験は見事な結果だったな。俺たちも全力で挑んだが、一歩及ばなかったか」
南雲の言葉に、嫌味や嫉妬は一切含まれていない。どこまでも晴れやかで、全力を出し切った男の清々しい表情だった。
(三年生たちも凄かったよ! 点差も僅かだったしね。南雲が本気で学年全体を指揮して徹底的にポイントをかき集めていれば、結果は変わっていたと思うよ)
私は彼の健闘を心から称え、極上のバリトンボイスを響かせた。
「――驕るつもりはない。君たちが放つ熱量は、確かな脅威だった。君がその権で全軍を統べていたなら、盤面は容易く覆っていたかもしれないからね」
私のポエムを受け取った南雲は、少しだけ照れくさそうに笑い、プールサイドの柵に寄りかかった。
「まあ、そうかもしれないな。だが、俺はお前と同じ条件で……己の実力だけで本気で挑むことに価値があると思ったのさ」
「……」
「……お前が一日参加してない日があったのは少し残念だったがな。もうこんな大掛かりな合同の特別試験はおそらく最後だろう。完全な状態のお前と競い合いたかった。だが……悔いはないさ」
南雲の瞳には、かつての傲慢な独裁者の面影は微塵もない。己の限界に挑み、正々堂々と敗北を受け入れる、真の強者の光が宿っていた。
(南雲ぉぉぉ……! 本当にカッコいい男になったな!)
私は内心で彼の成長に深く感動し、ただ静かに――フッと、この上なくオサレで涼しげな笑みを返した。
「……ははっ。お前もせっかくのバカンスだ、しっかり楽しめよ」
南雲は私の笑みの意味を好敵手への敬意と受け取ったのか、満足げに片手を上げて去っていった。
その後、私はプールから上がってきたひよりたちと合流し、賑やかで楽しい時間を心ゆくまで堪能したのだった。
バカンス五日目。
この日は、朝からひよりと二人きりで船の展望デッキを訪れていた。
心地よい潮風を感じながら、二人で並んでデッキチェアに座り、静かに読書を楽しむ。波の音と、時折ページをめくる音だけが響く、最高の雰囲気だ。
そんな穏やかな時間をしばらく過ごしていた時だった。
ふと視線を上げると、少し離れた手すりの前に、一人の女子生徒が立っているのに気がついた。
長い髪を潮風に揺らし、どこか虚ろな瞳で遠くの海を見つめているのは、一年生の天沢一夏だった。
(天沢か……。俺も八神を赦すことはできなかったとはいえ、天沢にとっては共に育った大切な同期だったのだろうな……)
無人島試験で私のクラスメイトを襲撃した八神拓也は、私の完全なる断罪によって精神を破壊され、自首という形で学校を去った。
残された彼女の心中を察し、私は本を閉じて立ち上がった。
「――少し、迷える雛鳥に道を示してこよう」
(訳:天沢がいるから、ちょっと声かけてくるね)
「はい。私も一緒に行きますね」
ひよりも静かに栞を挟み、私の隣に寄り添うように歩き出す。
手すりに寄りかかる天沢の背後に立ち、私はオサレなトーンで声をかけた。
「――随分と、重い鎖を引き摺っているようだね。その瞳の濁りは、海の青さにも溶けそうにない」
「『随分と気落ちしているようですね。大丈夫ですか?』と心配していますっ」
私のポエムの直後、ひよりが優しい笑顔で完璧な翻訳を入れる。
その声に肩をビクッと震わせた天沢は、ゆっくりとこちらを振り返った。
「……藍染先輩。それに、椎名先輩も……」
天沢の表情は、以前のような小悪魔的な余裕などなく、ひどく悲しそうに沈んでいた。
「……拓也のことは聞きました」
「――そうか」
天沢はギュッと手を握り締め、深く頭を下げた。
「……拓也の命を奪わないでくれて、ありがとうございました」
八神の共犯者として疑われた際、天沢自身も私の本気の殺気と重圧を直接浴びている。だからこそ、あの時の圧倒的な恐怖と絶望を知る彼女にとって、八神が「生きていること」自体が奇跡に近い恩赦だったのだろう。
私は彼女の心に寄り添うように、静かに問いかけた。
「――それで? 翼をもがれた雛鳥は、これからどうするつもりなのかな?」
「『君はこれからどうするつもりですか?』とのことです」
ひよりの翻訳を受け、天沢は自嘲気味に潤んだ瞳を揺らした。
「この学校のことですか? ……すでにホワイトルームからは見限られてますし、拓也もいない。私にはもう、帰る場所はないけど、ここにいる意味もない……。これから、どうしたらいいんでしょうか……?」
同期を失い、目的も居場所も失った彼女の瞳から、ポロリと涙がこぼれ落ちる。
私は、行き場を失った後輩へ向け、道標となるべくオサレな言葉を紡いだ。
「――愚問だな。帰るべき場所がないと嘆くのなら、自らがその『止まり木』となればいい。私自身、この箱庭を悪くないと思っている。君もここで己の魂を磨き上げ、いつか、地に墜ちたあの男が帰るべき場所になりたまえ」
「『私自身はこの学校を気に入っています。君もこの学校でかけがえのない時間を過ごしてほしいです。そして君も大きく成長し、いつか八神くんの帰る場所となってあげてくださいね』とのことですっ」
ひよりの温かい翻訳が、潮風に乗って天沢の心へと沁み渡っていく。
「……! 藍染先輩……」
天沢はハッとして顔を上げ、大粒の涙を流しながら私を見つめた。
「――彼が犯した罪は、決して消えることはない。だが、その罪の重さを知り、再び這い上がる意志があるのなら……私は、彼を赦そう」
「『八神くんは決して赦されないことをしました。ですが、罪を償い心を入れ替えるというのなら、彼のことを赦しますよ』と言っています」
さらに私は、行き場を失って震える後輩へ向けて、静かに言葉を続けた。
「――もし彼が深淵から光を望むのなら、私も手を差し伸べよう。追放された身とはいえ、私もかつてあの『白き揺り籠』で時を過ごした先達だからね。道に迷った時は、いつでも私を頼りたまえ」
「『もし八神くんが心を入れ替えて頑張るなら、私も手を貸しますよ。私もあの施設にいた先輩ですから、困ったことがあればいつでも私を頼ってくださいね』とのことですっ」
天沢は信じられないものを見るように、大きく見開いた瞳からポロポロと涙を溢れさせた。
「……どうして。どうして、私たちにそこまでしてくれるんですか……?」
「――理由など不要だ。ただ、同じ檻に縛られていた雛鳥たちが、自らの力で真の空へ羽ばたく姿を眺めるのも、悪くない余興だからね」
「『可愛い後輩たちには、これからの人生を楽しく笑って過ごしてほしいだけですよ』と言っていますっ」
その言葉と、ひよりの太陽のように温かい笑顔を受け取った天沢は、堰を切ったように泣き崩れた。
「……っ。本当に……本当に、ありがとうございます……っ!」
天沢は手すりにしがみつくようにして、しばらくの間、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
ひとしきり泣いて顔を上げた天沢の表情は、先程までの暗く重い絶望の陰りが嘘のように、すっきりと晴れやかなものへと変わっていた。
目元を赤く腫らしながらも、彼女はその瞳に確かな光を宿し、私たちを真っ直ぐに見据える。
「……私も、この学校で三年間、全力で過ごしてみます。そしていつか、拓也が帰ってくる『止まり木』になれるように……!」
それは彼女自身が初めて見つけた、明確な意志と希望だった。
(天沢も元気になってくれて良かった。これで彼女も、きっと自分の力で前を向いて歩いていけるだろう)
私は内心で深く安堵の息を吐きながら、オサレにフッと涼しげな笑みをこぼした。
「本当に、ありがとうございました……!」
天沢はもう一度深く頭を下げると、憑き物が落ちたような軽い足取りで、デッキを後にしていった。
天沢の後ろ姿が完全に見えなくなった後、隣に立つひよりが海風に髪を揺らしながら、ホッとしたように微笑んだ。
「……天沢さんも、元気になってくれたみたいで良かったですね」
「――ああ。彼の魂に刻まれた罪の痕が消えることはない。だが、あの白き揺り籠での歪な教えが、彼らの羽を歪曲させたのもまた真実。彼女にはこの箱庭で新たな絆を紡ぎ、自らの魂を気高く昇華させてほしいものだ。そしていつか……地に墜ちたあの男を支え、その魂をも高みへと導く光となるようにね」
(訳:八神自身に非がない訳ではないが、幼い頃からの極端な教育が彼らを大きく歪めたことは事実だからね。天沢には、この学校で過ごすうちに大切な仲間を作り、人間として大きく成長してもらいたいよ。そしていつか、八神を支え、彼を正しい方向へ導けるような存在になってほしいんだ)
彼女は私のオサレな言葉の奥にある真意を真っ直ぐに受け取り、優しく目を細めた。
「ふふっ。……惣右介くんは、本当に優しいですね」
その真っ直ぐな称賛に、私は少しだけ照れくささを感じながら言葉を紡いだ。
「――慈愛、か。それは君が、孤絶した私の世界に光を齎し、周囲の星々との線を描いてくれたからに他ならない。君という導き手が不在であったなら、私はこの箱庭で三年の月日を独り、ただ書物の海に沈んでやり過ごしていただろう。今の私が在るのは、君のおかげだ。……感謝しているよ、ひより」
(訳:優しい、か。それも俺をクラスのみんなと繋げてくれたひよりがいたからだよ。ひよりがいなければ、俺はきっと一人で三年間読書をして過ごすだけで、誰とも友達になんてなれなかったかもしれない。ひよりのおかげで今の俺がいるんだ。本当にいつもありがとうね)
私の心からの感謝の言葉に、ひよりは少しだけ頬を朱に染め、嬉しそうに微笑み返してくれた。
「私こそ……惣右介くんがいてくれたから、帆波ちゃんや、クラスのみなさんという大切なお友達がたくさんできました。惣右介くんには、いつも感謝しているんですよ」
ひよりがそっと私の手に触れ、その温もりを分かち合うように指を絡める。
青く澄み渡る空と、どこまでも広がる穏やかな海。
潮風が優しく吹き抜ける展望デッキで、私たちは互いへの尽きせぬ感謝と愛情を伝え合いながら、この上なく幸せで満ち足りた時間を静かに過ごすのだった。