いつからここが尸魂界だと錯覚していた? 作:yvrararara
満場一致特別試験という泥沼の戦いを終えた翌日。土曜日の午前。
オレの自室には、休日の穏やかな空気とはかけ離れた、異様なまでの緊張感が張り詰めていた。
「うぅぅ……頭が……割れるぅ……」
「む、無理だよぉ……もう数字がゲジゲジにしか見えないよぉ……」
ローテーブルに向かって悲痛な呻き声を上げているのは、恵と佐藤の二人だ。
彼女たちの目の前には、オレが昨晩の内に作成した特別製のプリントの山が積まれている。
事の発端は昨日。
過酷な満場一致特別試験を経て、『自分や親友である佐藤が、クラスに貢献できずに退学者として選ばれてしまうかもしれない』という強烈な危機感を抱いた恵から、直接頼み込まれたことだった。
『清隆!私と麻耶ちゃんに、死なない程度にスパルタで勉強を教えて!』
その本気の頼みに対し、オレは最適解で応えた。
ホワイトルームにおける学習メソッドを、一般の高校生がギリギリ精神崩壊しないレベルまで調整し、徹底的に効率化を追求した『綾小路式・超高密度カリキュラム』である。
「ペンが止まっているぞ。その基礎問題で五秒以上フリーズするのは、脳の処理をサボっている証拠だ」
「ひぃっ!や、やってる!やってるからぁ!」
オレが淡々と指摘すると、恵は涙目になりながら猛然とペンを走らせ始めた。
(……とはいえ、教える側もなかなか骨が折れるな)
そんなことを考えていると、机の上に置いていたオレのスマホが短く振動した。
着信画面には『堀北鈴音』の名前が表示されている。
「もしもし。オレだ」
『もしもし。今からあなたの部屋に伺ってもいいかしら?』
電話口から、いつも通りの冷静な声が響く。
「ああ。今は恵と佐藤が部屋で勉強会をしているが、堀北が問題ないというなら来ればいい」
『……そう。分かったわ。五分後くらいに向かわせてもらうわ』
それだけ言い残し、通話が切れた。
スマホをテーブルに置いたオレの顔を、恵がすがるような目で見上げてくる。
「ね、ねえ清隆……今、堀北さんが来るって言ったわよね?じゃあ、お茶とか出さなきゃいけないし、少し休憩できるね!」
「うんうん!もう勉強しすぎて、頭から熱が出そうだよ〜」
佐藤も恵に同調し、両手で顔を仰ぎながら限界をアピールしてくる。
だが、オレは無慈悲な現実を告げた。
「何を言っている?まだ今日のカリキュラムは終わっていない。ノルマが終わるまで、休憩はなしだ」
「……え?」
「……嘘でしょ?」
二人の顔から、パァッと血の気が引いていく。
「安心しろ。お前たちを三年生に入るまでに、学力評価『A』にまで上げてみせる。オレの計算上、このペースで睡眠時間以外を勉強に捧げれば必ず到達できるはずだ」
「「…………っ!!」」
学力評価A。
夢のような響きだが、それに至るまでの道のりを想像したのか、二人の頭頂部からプスプスと煙が上がる幻覚が見えた。
完全に心が折れかけている二人。しかし、ここで止めるわけにはいかない。
「せ、せめて何かご褒美を……!」
恵がプルプルと震えながら、虫の息で懇願してきた。
「う、うん!このままだと干からびちゃうよぉ!」
佐藤も涙目で追従する。
ご褒美、か。オレは少し考えた後、無言で恵の後ろに立ち、そのサラサラとした髪を優しく撫でた。
「えへへ……」
途端に、恵の表情がとろけたように緩む。単純だが、効果はてきめんらしい。
すると、その様子を見ていた佐藤が「いいなぁ……」と羨ましそうな視線を向けてきた。
オレはためらうことなく、空いているもう片方の手で佐藤の頭もポンポンと撫でてやった。
「ふえっ!?あ、ありがと……えへへへ」
佐藤も顔を真っ赤にして照れ笑いを浮かべる。
結果として、二人のモチベーションは完全に限界突破した。
「よし!麻耶ちゃん!次の方程式解くわよ!」
「うんっ!負けないからね恵ちゃん!」
背筋をピンと伸ばし、驚異的な集中力で再びプリントの山へと向かっていく二人。
(恵なら、オレが佐藤の頭を撫でると怒るかと思ったが……それどころではないようだな)
普段なら確実に嫉妬してへそを曲げる場面だが、脳のキャパシティを限界まで勉強に振り向けているため、怒る余裕すらないらしい。ホワイトルーム式の副産物として、思わぬ発見だった。
それから数分後。
部屋のチャイムが鳴り、宣言通りに堀北が姿を現した。
「お邪魔します」
「ああ。向こうのテーブルは恵と佐藤が勉強中で完全にゾーンに入っているからな。悪いが、ベッドにでも座ってくれ。お茶かコーヒー、どっちがいる?」
「お茶でお願いするわ。ありがとう」
堀北は部屋の惨状――もとい、猛烈な勢いでカリキュラムをこなす二人の背中を見て、わずかに目を見張った。
「……二人とも、物凄い集中力ね。話しかけても気づかないんじゃないかしら」
「ああ。昨日あんな試験があったばかりだからな。危機感を持って勉強に取り組むのはいいことだ」
オレは堀北にお茶の入ったマグカップを渡し、自分も少し離れた位置に座った。
「……そうね」
マグカップを受け取った堀北の表情は、どこか暗い。
彼女の脳裏にあるのは、昨日の満場一致特別試験における、クラスの『歪み』だろう。
「で、話はあいつのことか?」
オレが単刀直入に切り出すと、堀北は静かに頷いた。
「……ええ。結局、彼女の問題は根本的には何も解決できていないわ。それどころか、高円寺くんにまで怪しまれる始末よ」
「ああ。だが、あいつもバカじゃない。これだけ警戒された上でプロテクトポイントもお前にある以上、今後下手な動きはできないだろう」
「そうかもしれないわね。だけど……私は、彼女とは本当の意味で心を通わせたいと思ってるわ」
「……」
堀北の口から出た予想外の言葉に、オレは少しだけ驚きを感じた。
「お前がそんなことを言うなんてな」
「……私も、変わって来ているのでしょうね。あなたもそうでしょう?」
「……そうだな」
「彼女のことは、私に任せてほしいの。今回の試験も、これまでも、あなたに頼りきりだった。だからこそ、彼女との決着は私がつけるわ」
堀北の瞳には、リーダーとしての強い覚悟が宿っていた。
「……そうさせてもらおう。オレは啓誠や洋介たちと連携して、学力の低い生徒の底上げに集中させてもらう」
「ええ、お願いするわ。……急に訪れて悪かったわね。これで失礼するわ」
要件だけを伝え、堀北は立ち上がった。
「構わない。すぐに行動するのか?」
「ええ。月曜までに決着をつけてみせるわ」
「そうか。期待している」
「任せてちょうだい」
堀北は短く答え、静かに部屋を退出していった。
ドアが閉まる音が響いても、恵と佐藤は一切振り返ることなく、鬼気迫る勢いでシャーペンを動かし続けている。彼女たちが堀北の来訪にすら気づいていなかったのは明白だ。
オレは冷めたお茶を口に運びながら、一人静かに思考を巡らせた。
(堀北と櫛田が和解できるか……)
不可能とは言わない。だが、櫛田があそこまで頑なな態度をとり、執着している以上、極めて難しい道のりになるだろう。
堀北がどう動こうと、それは彼女の自由だ。
(だが、今後櫛田がクラスに明確な不利益をもたらすようであれば――その時には、容赦なく退学してもらうことになるだろう)
オレは冷徹な損得勘定だけを胸の奥にしまい込み、再び修羅場と化している勉強会へと歩みを進めた。
綾小路くんの部屋を後にした私は、手元の端末を見つめながら小さくため息を吐いた。
何度か櫛田さんにメッセージを送ってみたが、一向に既読になる気配はないし、電話をかけても出ることはなかった。念のため直接彼女の部屋まで足を運んでみたものの、居留守を使っているのか、それとも出掛けているのか、チャイムを鳴らしても何の反応も得られなかった。
(……誰かに呼び出してもらうしかないでしょうね)
私は別件の用事を済ませるために生徒会室へと向かいながら、どうやって彼女との対話の場を設けるかと思考を巡らせていた。
誰かに頼むにしても、昨日の試験の直後というタイミングで、私からわざわざ休日に櫛田さんを呼び出そうとすれば、違和感を持たれてしまう可能性がある。
そんな課題を頭の片隅で考えながら、生徒会室の扉を開けると、そこには思いがけない人物の姿があった。
「あら、藍染くん。こんにちは」
生徒会副会長である藍染くんが、一人で窓際に立って外の景色を眺めていた。
彼はゆっくりと振り返り、どこか芝居がかったような、しかし洗練された笑みを浮かべる。
「――ようこそ、静寂の玉座へ。……君たちのクラスは犠牲という名の血を流し、次なる階位へと歩を進める道を選んだようだね」
「……? ええ、そうね。藍染くんは、なんの用事なのかしら?」
相変わらずのポエムめいた言い回しに少し戸惑いつつも、私は用件を尋ねた。
「――置き忘れた過去の残像を拾いに来ただけさ」
「……? そう」
相変わらず意味はよく分からないけれど、私は目の前にいる彼を見て、ある妙案を閃いた。
(クラスメイトに伝言を頼むより、他クラスであり、生徒会副会長という立場にいる藍染くんに呼んでもらうのが一番都合がいいかもしれないわね。彼からの連絡であれば、櫛田さんも警戒せずに足を運ぶでしょうし)
私用で彼を利用し、嘘をつくのは心苦しいけれど、今は手段を選んでいる場合ではない。
「一つ頼みがあるんだけど、いいかしら?」
「――何かな?」
「櫛田桔梗さんの連絡先は知っているかしら?」
「――ああ」
「緊急で櫛田さんに話したい要件があるのだけれど、私の端末が故障してしまっていて、月曜まで修理できないの。悪いけれど、彼女をここに呼んでくれないかしら?」
私がもっともらしい嘘を並べてお願いをすると、藍染くんは僅かに目を細め、フッと面白そうに笑った。
「なるほど。そういうことなら、私が迷える子羊をこの盤上へと導いてあげよう」
藍染くんはそう言って端末を取り出し、手早くメッセージを送信してくれた。
それから十分も経たないうちに、生徒会室の扉がノックされる。
「失礼しまーす!藍染くん、いるかな?」
いつも通りの明るく愛想の良い声と共に、櫛田さんが生徒会室に入ってきた。
しかし、室内に藍染くんだけでなく私の姿があるのを見つけると、彼女の笑顔が一瞬だけ強張る。
「……堀北さんも、いたんだね」
「ええ。待っていたわ、櫛田さん」
櫛田さんが来たのを見届けると、藍染くんは優雅な動作でスッと立ち上がった。
「さて、私の役目はここまでだ。交わることのない二つの刃が、果たしてどのような軌跡を描くのか……。せいぜい、見えない毒に足元をすくわれないことだね」
「え……?藍染くん……?」
藍染くんが残した意味深な言葉に、櫛田さんがビクッと体を震わせ、警戒の眼差しを向ける。
本人はただカッコよく立ち去りたかっただけなのだろうが、秘密を抱える櫛田さんからすれば『何か裏があるのではないか』と邪推するには十分すぎる響きがあった。
藍染くんが退出して扉が閉まった途端、櫛田さんは愛想の良い笑顔を完全に消し去り、私を睨みつけた。
「……藍染くんを使って呼び出すなんて、なんの用?まさか、話したわけ?」
「話していないわ。ただ、確実にあなたを呼び出すためには、彼に頼るのが一番自然だったからよ」
「ふーん。で?わざわざ呼び出して、私の秘密を盾に脅そうってわけ?」
苛立ちを隠そうともしない櫛田さんに、私はあえて煽るような口調で言葉を返した。
「脅す?いいえ。ただ、事実を教えに来ただけよ。高円寺くんにも怪しまれていたし、このままだと、あなたの本性を知る人間が増える一方よ」
「っ……!誰のせいだと……!」
「誰のせいでもない、あなたの行動のせいでしょ。昨日の試験でも、無駄に反抗したせいで自らの首を絞めた。これ以上、自分の本性を隠すためにクラスに不利益をもたらすなら、私が言いふらすまでもなく、いずれあなたは破滅するわ」
「あんたに……あんたに何が分かるのよ!」
図星を突かれ、櫛田さんが激昂する。
私は、昔の孤独で傲慢だった自分を捨て去る覚悟を決め、彼女の前に進み出た。
「分かる必要はないわ。でも、私はあなたの秘密を盾に脅そうだなんて思っていない。あなたが自分の過去の秘密を、私が言いふらすと疑っているのは知っている。でも、私は絶対に言わない。それを証明するためなら、何でもするつもりよ」
「……」
「もし私があなたの秘密を少しでも漏らしたり、約束を破るような真似をしたら、その時は……私は自主退学をするわ」
「なっ……!?」
あまりの提案に言葉を失う櫛田さんを見据え、私は一歩距離を詰め、まっすぐにその瞳を見つめ返した。
「それにね、櫛田さん。私は……あなたのことを好ましく思っているのよ」
「……はぁ?な、何言ってんの?」
予想外の言葉だったのだろう。櫛田さんは本気で戸惑ったような声を上げた。
「自分の欲求を満たすためだとはいえ、他者に寄り添い、分け隔てなく優しさで包み込む。それは決して、誰にでも出来ることではないわ。そして、そのせいであなたがどれほど大きなストレスを抱え込んでしまっているのかも……今の私には理解できる」
「なによ、それ……同情してるってわけ?気持ち悪い」
「同情じゃないわ。純粋な称賛よ。もう私はあなたの本性を知っているのだから、私の前では取り繕う必要もない。私は……あなたと本当の意味で心を通わせて、友達になりたいと思っているわ」
「ふざけないで!」
櫛田さんが嫌悪感を剥き出しにして叫んだ。
「誰があんたなんかと友達になるかっての!冗談じゃないわ。あんたみたいにプライドばかり高くて、可愛げのない女なんて、私が一番嫌いなタイプよ!」
「ええ、知っているわ。でも、私はあなたの本音を知っても嫌いにはならなかった。むしろ、不器用なあなたをもっと知りたいと思った。……だめかしら?」
「……っ、ほんっと、調子狂う。なんなのよ、あんた。そんなキャラだったっけ?」
毒気を抜かれたように、櫛田さんが大きくため息をつく。
「私もこの学校で過ごすうちに変わったのよ。だから、あなたにもわかってほしいの」
私は、自分よりも少し背の低い彼女に対し、深く、静かに頭を下げた。
「今はまだ、私を信じられなくてもいい。でも、あなたのその力が、Dクラスには絶対に必要なの。あなたのコミュニケーション能力や情報網は、私にはない最大の武器よ。お願い、櫛田さん。私に――Dクラスに、力を貸してちょうだい」
静寂が、生徒会室を包み込んだ。
プライドの高い私が頭を下げたことに、櫛田さんは目を見開き、じっと私を見下ろしていた。
「……」
数秒の沈黙の後。
櫛田さんは再び大きなため息をつき、呆れたように肩をすくめた。
「……分かったわ。クラスには協力するし、あんたが裏切らないっていうなら、これからは何もしない」
顔を上げると、そこにはいつもの偽りの笑顔ではなく、少し不機嫌そうな、けれど自然な表情の櫛田さんがいた。
「だけど……」
「なにかしら?」
ずかずかと距離を詰めてきた櫛田さんが、突然私の顔に手を伸ばした。
「えっ——」
次の瞬間、私の両頬が力いっぱい横に引っ張られた。
「んぐっ!?」
「あはは!何その顔!超不細工なんだけど!」
本性の口調のまま、櫛田さんが腹を抱えて笑い出す。
「ふ、ふざけにゃいで……!」
私も黙って引っ張られ続けるつもりはない。伸ばされた櫛田さんの腕の隙間を縫い、彼女の頬を両手でガッチリとホールドし、思い切り引っ張り広げた。
「ふぎゃっ!?ひょっと、ふぁにふゅんのよ!」
「あにゃたからやっへきたんでしょ!」
生徒会室のど真ん中で、私と櫛田さんはお互いの頬を全力で引っ張り合った。
しばらくして、お互いに手を離す。
「痛てて……。はぁ、スッキリした。じゃあ私は帰るから」
赤くなった頬をさすりながら、櫛田さんは背を向けて生徒会室の扉へと向かう。その足取りは、ここへ来た時よりもずっと軽そうに見えた。
バタン、と扉が閉まり、私一人が生徒会室に残される。
「櫛田さんとも、一応和解出来たわね……」
まだジンジンと熱を持って痛む自分の頬をそっと撫でながら、私は小さく息を吐いた。
「ふふっ。痛かったけれど……なんだか少しだけ、友達っぽいことができたわね」
独り言を呟いた途端、自然と口元が綻んでいた。
かつての孤高を気取っていた私なら、こんなふうに誰かとじゃれ合うなんて絶対にあり得なかっただろう。
残された私と彼女の間には、以前のような冷たい断絶はもうない。
「……これから櫛田さんに信頼してもらうためにも、もっと頑張らないといけないわね」
誰もいない部屋に落ちた自分の声の響きも、我ながら随分と柔らかくなったように思う。
まだ脆い関係だけれど、ここからDクラスは新しい一歩を踏み出す。その確かな手応えと、胸に灯ったほんの少しの温かさを感じながら、私は気を取り直して生徒会室のデスクに向かい、残っていた用事を片付けるためにペンを走らせ始めた。