いつからここが尸魂界だと錯覚していた?   作:yvrararara

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十五話

六月中旬。梅雨の走りか、どんよりとした厚い曇り空から、湿気を多分に含んだ生温かい風が吹き抜ける季節となった。

 

 高度育成高等学校での生活も二ヶ月が過ぎようとしており、生徒たちの間にはこの学校独自の残酷なルールに対する「慣れ」と「諦め」、そして「野心」が複雑に交錯し始めている。

 

 毎月振り込まれるポイントの増減に一喜一憂し、他クラスの動向を探り合うのが、この学校の日常だ。

 

 そんな中、私の1年Bクラスにおける立ち位置は、奇妙な、本当に奇妙な安定を見せていた。

 

(……今日も、平和だ。平和すぎて、逆にちょっと怖いな)

 

 窓際の一番後ろの席。私の周囲には相変わらず不可視の結界があるかのように、不用意に近づく者はいない。私が頬杖をついて窓の外を眺めているだけで、「魔王が下界を品定めしている」という威圧感が周囲に撒き散らされているからだ。

 

 だが、入学当初の一ヶ月前のような「関わったら殺される」という命の危険を感じる恐怖の視線は、今ではすっかり影を潜めている。代わりに向けられるのは、「畏敬」と、どこか「親しみ」すら混じった視線だ。

 

 それもこれも、五月の中間テストでの全員赤点回避、そして日々の勉強会における『スパルタ個別指導』のおかげである。

 

 今では、私が口を開いて「――過去の愚者たちが紡いだ戯言に耳を貸す必要はない」などと、世界を滅ぼす魔王のような物騒なポエムを吐いても、クラスメイトたちは「あ、また始まった」「藍染ワールド全開だな」「椎名さん、翻訳お願い!」と、もはや一種の微笑ましい日常風景として受け入れているのだ。 

 私が絶対に間違ったことを教えないこと、そして何より、隣に座る椎名ひよりという『天使の翻訳機』を通せば、私の言葉の裏にある「みんなにテストを乗り切ってほしい」という(ただの善意の)本音が伝わるからだ。

 

 だが、そんな穏やかな日常に、一石を投じる質問が投げかけられた。

 

「ねえ、藍染くん。……一つ、聞いてもいいかな?」

 

 昼休み。学級委員の一之瀬帆波が、いつになく真剣な、そして少し思い詰めたような表情で私の席にやってきた。

 

 彼女の背後には、神崎や柴田といったクラスの中心メンバーも心配そうに控えている。そして私の隣には、当然のようにひよりが寄り添っている。

 

「藍染くんが、生徒会の『副会長』になったっていう噂……本当だったんだね。昨日、生徒会の掲示板に正式に貼り出されてて、クラスのみんなもびっくりしてたんだ。……どうして、そんなに早く認められたの? どうやって、生徒会に入ったのか教えてほしいんだ」

 

 一之瀬の真っ直ぐな瞳には、純粋な疑問と、そして隠しきれない「焦燥」の色が濃く滲んでいた。

 

 無理もない。実は一之瀬帆波、そしてAクラスのリーダー候補である葛城康平という実力者たちは、入学早々に生徒会入りを志望し、生徒会長である堀北学への面接に臨んでいた。しかし、結果は「時期尚早」と一蹴され、入会を断られているのだ。

 

 それなのに、素行不良(にしか見えない)で、言葉の通じない(ように見える)1年生の私が、いきなりナンバー2の座である副会長に就いたのだ。彼女からすれば、自分に足りないものが何なのか、どうしても知りたいはずだった。

 

(ああ、それね。……いや、正直に言うと、俺もなんであんなことになったのか分からなくて困ってるんだよ。生徒会なんて激務の極み、全力で断ろうとしたら、勝手に『私が天に立つ』とか言っちゃって、会長が『その野心ごと飼い慣らしてやる』って超解釈で採用されちゃったんだよ……)

 

 私は内心で情けない溜め息をつきながら、一之瀬の真っ直ぐな善意と努力に応えるべく、口を開いた。

 

「――一之瀬。……君の瞳に映る景色は、あまりにも眩しすぎる」

 

(うわあ、始まったよ自動変換。一之瀬さん、そんなに自分を追い詰めないでって言いたいだけなんだ! お前は十分頑張ってるよって!)

 

「地を這う者が天の理を問うたところで、返ってくるのは冷徹な沈黙のみだ。……君が望むその椅子は、誰かに与えられるものではない。自らの意志で全てを蹂躙し、奪い取る覚悟がなければ、その門は永遠に閉ざされたままだろうね」

 

(うわああああああ!! きっつ!! なにこれ!! せっかく質問してくれた一之瀬さんに『お前に資格はない、奪い取る覚悟がないなら一生諦めろ』って突き放すようなこと言っちゃった!! 最低だ俺!! 泣いちゃう! 一之瀬さん絶対泣いちゃう!!)

 

 案の定、私の苛烈極まりない宣告を受けた一之瀬は、ハッとしたように目を見開き、みるみるうちに顔色を失っていった。

 

「……奪い取る、覚悟……。私には、それが足りないってこと、かな……」

 

 悲しげに俯き、震える声で呟く一之瀬。彼女の繊細で優しい心を、私のデタラメな自動翻訳が粉々に砕いてしまった。背後にいる神崎も「藍染……いくらなんでも言い過ぎじゃないか?」と顔をしかめている。

 

(一之瀬さん!! 違うんだ! 今のは完全に俺の口が勝手に暴走しただけで、忘れて!! 俺、ただのラッキーと会長の勘違いで入っただけなんだよ!! お願い助けてひより!!)

 

 私が内心で絶叫し、救いを求めるように隣を見ると、そこには慈愛に満ちた笑みを浮かべる、世界最強の翻訳機がいた。

 

「一之瀬さん、大丈夫ですよ」

 

 ひよりが立ち上がり、優しく一之瀬の肩に手を置いた。

 

「惣右介くんはこう仰っているんです。『君はとても真っ直ぐで正しいけれど、生徒会長は今の君では、その優しさが弱点になると考えているのかもしれない。僕が生徒会に入ったのは、ただの偶然と少しの縁があっただけ。君も焦らずに、今は自分の信じる道を進めば、いつか必ず認められるはずだよ』……と」

 

「「「…………えっ?」」」

 

 一之瀬だけでなく、背後で聞いていた神崎や柴田までもが、驚いたようにひよりと私を交互に見た。

 

「そうなの……? 今のあの物騒な言葉、そんなに優しい意味だったの……?」

「はい。惣右介くんは少し言葉が鋭すぎてしまいますけど、誰よりも一之瀬さんのことを高く評価していますから。それに、惣右介くん自身も生徒会の仕事が大変で、本当は図書室でゆっくり本を読みたいって思っているくらいなんですよ」

 

(ひよりぃぃぃ!! 完璧すぎる!! 100点満点の超解釈だよ!! お前は神か!! 仏か!!)

 

「そっか……。奪い取る覚悟っていうのは、誰かを傷つける覚悟じゃなくて、自分を強く持てってことだったんだね。……ありがとう、藍染くん。椎名さんも。わたし、藍染くんの言葉の意味を勘違いするところだった。もう一度自分に何ができるか、じっくり考えてみるよ!」

 

 一之瀬は再び太陽のような元気を取り戻し、晴れやかな笑顔で去っていった。神崎も「……藍染、お前の紡ぐ言葉はひどく難解だが、その奥底に流れる真理はいつも揺るぎないな」と、なぜかさらに尊敬の念を深めて頷いている。

 

 私はドッと冷や汗を流しながら、ひよりに向かって(一生感謝するよ……)と深く念じた。

 

 

 放課後。

 私はひよりに「生徒会の仕事、なるべくすぐ終わらせて図書室に行くから先に行ってて」とメールを送り、重い足取りで特別棟の最上階、生徒会室へと向かった。

 

 生徒会に入って二週間。

 副会長・南雲雅との関係は、相変わらずの冷戦状態だ。いや、冷戦どころか、彼は私が室内に入るたびに舌打ちを隠そうともせず、あからさまな敵意を剥き出しにしている。

 

 ガチャリ、とドアを開けて入室する。

 

「……また来たか、1年の。てめぇに副会長の席はまだ早いってことが、いつになったら分かるんだ?」

 

 ソファにふんぞり返る南雲が、親の仇でも見るような目で睨みつけてきた。

 

「――南雲。……君の吠え声も、二週間聞き続ければ心地よい子守唄に聞こえてくるよ」

 

(訳:南雲先輩、今日もお元気ですね。こんにちは)

 

「……っ、てめぇ!! 舐めた口利きやがって!!」

 

 爆発寸前の南雲を無視し、私は指定された副会長用のデスクに座る。

 

 そこには、今日も山のような書類――予算案の確認、各部活動からの申請書、学校行事の企画書などが、うず高く積まれていた。

 

「それでは、藍染くん。今日から早速、この備品発注の精査と、各部活動への通達文書の作成をやってもらいます。……先週のペースなら、一時間もあれば終わりますよね?」

 

 生徒会書記、橘茜が凛とした表情で、丁寧な、しかしどこか試すような視線を向けてくる。

 

 彼女は誰に対しても敬語を崩さない真面目な性格であり、何より堀北学という生徒会長を絶対的に敬愛している。そのため、当初は「会長を誑かした危険人物」として私を極度に警戒していた。

 

 しかし、私の異常なまでの事務処理能力を目の当たりにするうち、最近では少しずつだが、その頑なな態度が軟化しているように感じる。

 

「――一時間? ……橘、君は私を誰だと思っているのかな? 私がその気になれば、この程度の文字の羅列など、瞬きをする間に無価値なゴミへと変えてみせるよ」

 

(訳:了解です、橘先輩。30分で終わらせますね。任せてください)

 

 私が傲慢に言い放ち、キーボードに手をかける。

 

 橘は、以前なら「失礼ですよ!」と本気で怒っていたところだが、今はフッと小さく息を吐き、呆れたような、しかし仕事仲間としての信頼を込めたような態度を見せた。

 

「……そうですか。それだけ自信があるなら、期待しています。お茶は、その仕事が終わったら用意しますから。……お砂糖は二個でよろしかったですよね?」

 

(…………!?)

 

 私はタイピングする手を止めずに、内心で目玉が飛び出るほど驚愕した。

 

 橘先輩、今、俺の意図を察した!? ひよりの翻訳を一言も通していないのに、俺が「仕事終わったらお茶飲みたい。甘党だから砂糖は二個入れてほしい」と思っていることまで見抜いたのか!?

 

 会長一筋の真面目な先輩が、俺の態度(ポエム)の裏にあるポンコツな本音を、事務的な有能さゆえに完全にパターン化して理解し始めている……!

 

「――……悪くない。君の淹れる茶は、この淀んだ空間で唯一、私の知性を潤す雫だ」

 

(訳:ありがとうございます! 橘先輩の淹れてくれる紅茶、大好きです!)

 

「……お世辞を言っても、仕事は減りませんよ。早く終わらせてください」

 

 橘は決して表情を崩すことなく、淡々と自分の作業に戻っていった。

 

 どうやら彼女は、私の「最悪な物言い」を、ある種の『独特すぎるコミュニケーション』だと割り切り、「会長が選んだ副会長なのだから、仕事さえ完璧にこなすなら世話を焼いてやろう」と解釈してくれているらしい。

 

(……助かる。ひより以外にも、なんとなく通じる人が出てきたのは、俺の生存戦略において信じられないくらい大きな一歩だ)

 

 私は猛烈なスピードで書類を片付け始めた。

 藍染スペックの頭脳は、書類の矛盾点を瞬時に弾き出し、最適解を指先に伝達する。

 

 タタタタタタッ! と、機関銃のようなタイピング音が室内に響き渡る。

 そして、約束通りきっかり30分で全ての業務を完遂した。

 それを見ていた生徒会長・堀北学が、満足げに一つ頷く。

 

「……藍染。やはりお前の事務処理能力は、既存の枠を超えているな。南雲の半分以下の時間で、倍の量をこなしている」

 

「チッ……!」と、比較された南雲が舌打ちをする。

 

「――当然の帰結だ。会長……君が用意した盤面があまりにも平坦すぎて、少々、指先が退屈していたところだよ」

 

(訳:会長、終わりました。今日はこれで上がってもいいですか?)

 

「そうか。ならば、今日はもう下がっていい。……橘、彼に茶を淹れてやってくれ」

 

「はい、会長。今、準備しますね」

 

 橘が手際よく淹れてくれた、砂糖が二個入った完璧な甘さの温かい紅茶を一杯だけ飲み干し、私は「――では、失礼するよ」とオサレに別れを告げ、生徒会室を後にした。

 

 

 図書室。

 そこには、窓際の特等席で、静かに本を読むひよりの姿があった。

 

「待たせたね、ひより」

 

「あ、惣右介くん。お疲れ様です。今日は随分と早かったですね」

 

 ひよりの隣に座ると、張り詰めていた神経が溶けていくのが分かった。生徒会での「完璧な副会長」という仮面を脱ぎ捨て、私はようやく深い呼吸ができる。

 

「――退屈な戯言を片付けるのに、時間は必要ないからね。……それよりも、君の隣に流れるこの静寂こそが、私にとっての唯一の真実だ」

 

(訳:仕事早く終わらせたよ! やっぱりひよりの隣が一番落ち着くなぁ。お待たせ)

 

「ふふっ。ありがとうございます。……あ、惣右介くん。生徒会のお仕事、橘先輩とは上手くやれていますか?」

 

 ひよりの問いに、私は先ほどの生徒会室でのやり取りを思い出す。

 

「――彼女は、私の放つ光に目が眩んでいるようだが。……少しずつ、私の影の輪郭を理解し始めているようだね」

 

(訳:橘先輩、最近なんとなく俺の言いたいことを察してくれるようになったんだよ。砂糖二個って覚えててくれたし、すっごくいい人だよね)

 

「それは良かったです。……惣右介くんの本当の優しさが、少しずつ広まっていくのは、私もとても嬉しいですから」

 

 ひよりは自分のことのように、本当に嬉しそうに微笑んだ。

 

(……優しさ、か。俺はただ、ひよりと一緒にいたくて、断れなくて右往左往してるだけなんだけどな)

 

 窓の外では、紫陽花の色が深まり、雨粒がガラスを打ち始めている。

 

 魔王のポエムは相変わらず暴発し続けているが、それを完璧に翻訳する天使と、少しずつ意図を察し始めた周囲の人々。

 

 藍染惣右介の孤独な戦いは、彼が気づかないうちに、多くの人々を巻き込む温かな波紋へと変わり始めていた。

 

(よし、明日は橘先輩に、いつもお茶を淹れてくれるお礼として、ケヤキモールで買ったちょっと良い紅茶の葉でもプレゼントしようかな……! もちろん、ひよりにも別のやつを買ってあるけどな! あと、プレゼント渡す時に『毒だ』とか言っちゃわないように、気をつけないと……!)

 

 内心でそんな平和な決意をしながら、私はひよりと共に、雨音の響く静かな読書の時間へと深く没頭していくのであった。

 

 

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