いつからここが尸魂界だと錯覚していた? 作:yvrararara
七月十日。金曜日。
午後から予定されている一年生間の暴力事件の『再審議』を控え、生徒たちの間にはどこか浮き足立ったような、あるいは重苦しいような空気が漂っていた。
なにせ、一年生全員のプライベートポイントの支給が、この事件の解決までストップしているのだ。他クラスの揉め事とはいえ、完全に無関心でいられる者は少ない。
昼休み。
私とひよりがいつものように特等席で昼食をとっていると、学級委員の一之瀬帆波と、副委員の神崎隆二が険しい顔をして近づいてきた。
「藍染くん、椎名さん。ちょっと相談があるんだけど……いいかな?」
一之瀬は声を潜め、周囲に誰もいないことを確認してから、本題を切り出した。
「実はさっき、Dクラスの堀北さんから協力を持ちかけられたんだ。……Cクラスの石崎くんたちに、訴えを取り下げさせるための『作戦』について」
一之瀬が語ったその作戦の内容は、次のようなものだった。
事件現場である特別棟の裏に、本物そっくりの『ダミーの監視カメラ』を設置する。そして石崎たちをそこに呼び出し、「お前たちが須藤くんを殴っている一部始終は、このカメラに録画されている。学校に提出されたくなければ、訴えを取り下げろ」と脅迫する。そのダミーカメラ設置資金の借用と、Cクラスを信じ込ませるための立ち会いを、信頼の厚いBクラスの一之瀬に手伝ってほしい、というのだ。
「なるほど。合理的な策だ」
一之瀬の説明を聞き終え、神崎が腕を組んで頷いた。
「Cクラスの連中は偽りを並べている可能性が高い。自業自得だ。このまま不毛な泥沼の審議が続けば、ポイントの支給停止も長引く。我々にとっても、一刻も早くこの茶番に幕引きを図るメリットはある。……その策に協力してもいいんじゃないか?」
神崎の意見は、損得勘定で見れば間違っていない。
しかし、一之瀬は少し迷っているようだった。彼女は、私の隣で静かに話を聞いていたひよりへと視線を向けた。
「椎名さんは……どう思う? 藍染くんは今日の再審議で進行役をするから、あまり意見は言えないかもしれないけど……」
「そうですね……」
ひよりは小首を傾げ、私を見上げた。
「……惣右介くんは、どう思われますか?」
ひよりからのパスを受け、私は内心で盛大に頭を抱えていた。
(いやいやいや!! 待て待て待て!! なんだそのダミーカメラ作戦って!? 偽の証拠を突きつけて相手に要求を飲ませるって、立派な犯罪行為だぞ!?)
私は現代日本の一般人としての真っ当な倫理観をフル回転させていた。
(もしそんなことして、ダミーだってバレてみろ。退学とまではいかなくても、実行犯のDクラスはもちろん、協力した一之瀬まで共犯として『重いペナルティ』を食らうリスクが高すぎる! Bクラス全員が連帯責任でポイントを大幅に剥奪されるかもしれないんだぞ!? 絶対にダメだ!!)
私は一之瀬を全力で止めるべく、冷徹な視線を彼女に向け、口を開いた。
「――浅ましい。虚像をもって真実を偽装するなど、三流の奇術師にも劣る愚行だ」
(訳:ダメだよ! 偽のカメラで脅すなんて、完全に犯罪じゃん!)
「……自らの手を汚泥で染め、見え透いた奈落へ共に落ちようというのか? ……真の王は、そのような下劣な盤面を蹴り砕き、光の道を歩むものだ。……私が君に望むのは、そんな悪意に染まることではない」
(訳:もしバレたら重いペナルティを受けるし、Bクラスまで巻き込まれるリスクがあるんだぞ? それに、一之瀬さんにはそんな危ない橋を渡ってほしくない!)
私の圧倒的な威圧感と、手厳しい否定のポエム。
一之瀬と神崎が息を呑んだところで、ひよりが静かに、そして真剣な声で翻訳を始めた。
「……惣右介くんはこう仰っています。『偽の証拠で相手を脅し要求を飲ませることは、立派な犯罪行為です。もしバレた場合、協力したBクラスまで共犯として重いペナルティを受けるリスクが高すぎます。それに……一之瀬さんに、そんな汚いことをしてほしくない』……と」
ひよりは、一之瀬の目を真っ直ぐに見つめた。
「私も、惣右介くんと同意見です。一之瀬さんに、犯罪の片棒を担ぐような真似はしてほしくありません。正々堂々と、他の方法を探すべきです」
「「…………っ!!」」
ひよりの真っ直ぐな言葉と、そこに込められた優しさに、神崎はハッとして「……確かに、藍染と椎名の言う通りだ。不用意に手を汚すには、背負うべき代償が大きすぎる」と自分の短慮を恥じた。
しかし。
一之瀬帆波の様子は、明らかに異常だった。
「は、はんざい……」
彼女の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
瞳孔が揺れ、肩が小刻みに震え始めた。
まるで、見えない幽霊に首を絞められているかのように、呼吸が荒くなる。
「脅迫……犯罪……手を、泥で……染めて……」
一之瀬は両手で自分の腕を抱きしめ、ガタガタと震えながら後退った。
「えっ? 一之瀬さん? どうしたんですか?」
「おい、一之瀬、顔色が悪いぞ……」
ひよりと神崎が心配そうに声をかけるが、一之瀬はパニックに陥ったように首を横に振った。
「ご、ごめん……! ちょっと、具合が悪くて……! Dクラスの作戦は、断るね。……ごめんなさい!!」
一之瀬はそう叫ぶと、逃げるように教室を飛び出していってしまった。
(えっ!? なんだなんだ!? 『犯罪』って言葉を聞いた途端、急におかしくなったぞ!?)
私は内心で激しく動揺した。何か、彼女の深いトラウマに触れてしまったのだろうか。
「惣右介くん。一之瀬さん、明らかに様子がおかしかったです」
「ああ……。私の言葉が、図らずも彼女の深淵を抉ってしまったようだ」
(訳:うん、俺もそう思う。俺の言い方がキツすぎたかな……)
「……惣右介くんは、放課後、生徒会室での再審議に向かわなければなりませんよね」
ひよりが、決意を秘めた瞳で私を見た。
「一之瀬さんのことは、私に任せてください。私が彼女のお話を聞いてきます」
「……頼んだぞ、ひより。彼女の魂に、君の光を届けてやってくれ」
(訳:ひより、頼む! 一之瀬を慰めてやってくれ!)
私はひよりに一之瀬のフォローを託し、自分は、地獄の裁判長としての役割を果たすことにした。
放課後。
Bクラスの女子が暮らす学生寮の一室――椎名ひよりの部屋。
「一之瀬さん。温かい紅茶を淹れました。……少し、落ち着きましたか?」
ひよりが、ソファで膝を抱えて丸くなっている一之瀬に、湯気を立てるティーカップを差し出した。
一之瀬は微かに震える手でカップを受け取り、「……ありがとう、椎名さん」と消え入りそうな声で呟いた。
教室を飛び出した一之瀬を追いかけ、ひよりは彼女を自分の部屋へと連れてきていた。
「ごめんね、椎名さん……。私、リーダーなのに、情けないよね……」
「そんなことありません。誰にでも、思い出したくないことの一つや二つ、あるものです」
ひよりは一之瀬の隣に座り、彼女の背中を優しく撫でた。
その温かく、全てを包み込むような優しさに触れ……一之瀬の瞳から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「私……最低なんだ」
一之瀬は、堰を切ったように、自身の隠し続けてきた『過去』を語り始めた。
「中学の時……母子家庭で、すごく貧しくて。妹の誕生日に、どうしても可愛い髪留めをプレゼントしたくて……でもお金がなくて。……私、万引きしちゃったの」
一之瀬の震える声が、静かな部屋に響く。
「母にバレて、泣きながら謝罪に行って……お店の人は許してくれたけど、母は私のせいで心労で倒れちゃって。一家がバラバラになりかけた。……私、自分が信じられなくなって、半年間引きこもって……逃げるように、学費のかからないこの学校に来たの」
一之瀬は、両手で顔を覆い、嗚咽を漏らした。
「だから……藍染くんと椎名さんから『犯罪』って言葉を聞いて、フラッシュバックしちゃって……。藍染くんの言う通りだよ。どんなに誰かを助けたい理由があっても、間違った方法で、泥に染まるようなやり方を選んじゃダメなんだ……」
「一之瀬さん……」
「私、やっぱりリーダー失格だ……。本当は、汚くて、ずるくて、弱い人間なんだよ……っ!」
一之瀬の悲痛な叫び。
しかし、ひよりは微塵も驚くことなく、ただ優しく、ふわりと一之瀬の身体を抱きしめた。
「っ……椎名、さん……?」
「一之瀬さんは、とっても優しくて、立派なリーダーですよ」
ひよりの透明な声が、一之瀬の耳元に優しく降り注ぐ。
「過去の過ちは、決して消えません。でも……一之瀬さんが今、クラスのみんなを大切に想い、誰かのために一生懸命になれるその心は、本物です。私は、そんな一之瀬さんが大好きです」
「あ……ああ……っ」
「惣右介くんも、そう信じているからこそ……一之瀬さんが間違った道に進むのを、全力で止めてくれたんです。一之瀬さんの眩しい光を、失ってほしくなかったから」
「藍染くん……椎名さん……っ!」
一之瀬は、ひよりの胸に顔を埋め、子供のように声を出して泣きじゃくった。
ひよりは、一之瀬の涙が枯れるまで、ずっと彼女の背中を優しく撫で続けていた。
やがて、涙が止まり、顔を上げた一之瀬は、少しだけ照れくさそうに、しかし晴れやかな笑顔を浮かべて口を開いた。
「……椎名さん。ううん……『ひよりちゃん』って、呼んでもいいかな?」
「はいっ。もちろんですよ、帆波ちゃん」
一之瀬は涙を拭い、ひよりの目を真っ直ぐに見つめ返した。
「ひよりちゃん……私、明日、クラスのみんなにも私の過去を包み隠さず話そうと思うんだ。……万引きのことも、全部」
「……」
「過去の罪は決して消えないし、みんなに軽蔑されるかもしれない。リーダーを降りろって言われるかもしれない。……それでも、私はこのクラスのみんなと一緒に上を目指したい。みんなのために、これからも頑張りたいの」
震えながらも、そこには確かな光を宿した強い決意があった。
ひよりは優しく微笑み、一之瀬の手をぎゅっと握り返した。
「みんな、きっと帆波ちゃんを受け入れてくれますよ。……それに、何があっても私と惣右介くんは、帆波ちゃんの味方ですからね」
「……うんっ! ありがとう、ひよりちゃん!」
罪の意識に押し潰されそうになっていた一之瀬の心は、銀髪の天使の抱擁と、不器用な魔王の優しさによって、確かな救済を得た。
そして二人の少女の間に、本当の意味での深い友情が結ばれたのである。
一方、その頃。
(……地獄だ。空気が重すぎて息ができない)
私は審議の席に座り、内心で滝のような冷や汗を流していた。
長テーブルを挟んで向かい合う、Cクラス陣営(坂上、石崎、小宮、近藤)と、Dクラス陣営(茶柱、堀北、須藤、綾小路)。
そして私の隣には、生徒会長の堀北学と、書記の橘茜。
一之瀬にダミーカメラ作戦の協力を断られたため、Dクラスの堀北鈴音は完全に手詰まりとなっていた。証拠は相変わらずなく、審議は昨日と同じ水掛け論へと陥っている。
「ですから、須藤が一方的に暴力を振るったのは明白です。Cクラスとしては、厳正な処罰を――」
「嘘つけ! 呼び出して殴りかかってきたのはそっちだろうが!」
坂上の慇懃無礼な主張と、須藤の怒号。茶柱は相変わらず沈黙を貫いている。
(あーもう、これどうすんだよ! ダミーカメラ作戦を止めたせいで、Dクラスが勝つ手段が無くなっちゃった! どっちもどっちの喧嘩なのに、このままだと永遠に終わらないぞ!)
私は内心で頭を抱えていた。
どう考えても、呼び出したCクラスも悪いし、過剰にボコボコにした須藤も悪いのだ。
(もうめんどくさい! どっちも悪いんだから、『喧嘩両成敗』で終わらせよう! これ以上ここにいたら、俺の胃に穴が空く!)
私は決意を固め、バンッ! とデスクを力強く叩いた。
その一撃で、室内の全ての視線が私に集まる。
「――茶番はそこまでだ」
私はゆっくりと立ち上がり、両陣営を見下ろすようにして、絶対的な威圧感を放ちながら宣告した。
「……互いに真実を語る舌を持たぬのなら、これ以上の審議は時間の無駄に過ぎない。……私が与えるのは、等しき『罰』のみだ」
「なっ……罰だと!?」
CクラスもDクラスも、息を呑んで私を見上げる。
「――先に牙を剥き、盤上を乱したCの獣どもには、己の短慮を悔いるだけの痛みを。……そして、過剰なる暴威で肉を裂いたDの狂犬には、さらなる重き鎖を与えよう」
(訳:どっちも悪いから両方ペナルティな! 須藤の方が相手に怪我させてるから、罰は重めにするぞ!)
「裁を言い渡す。……Cクラスは、クラスポイントを『50cp』減少。そして、身の程を知らぬ羽虫三匹(石崎・小宮・近藤)には、一週間の停学を与える」
「な、なんだと! 俺たちは被害者だぞ!」石崎が叫ぶ。
「……Dクラスも同様に、クラスポイントを『50cp』減少。そして、怒りに任せて過剰防衛を行った狂犬(須藤)は、二週間の停学だ」
「ふざけんな! なんで俺が二週間も停学なんだよ!」須藤が立ち上がり、机を蹴り飛ばす。
私は冷徹な視線で須藤を射抜いた。
「――私がそう決めたからだ。……これが、天の裁きだ。不服があるなら、神にでも祈るがいい」
(内心:やったー! 綺麗にまとまった! 怪我の度合いも考慮したし、これで文句ないだろ! 俺ってば名裁判長!)
私の有無を言わせぬ絶対的な判決宣告に、生徒会室は凍りついた。
堀北学が、静かに頷く。
「……妥当な判断だ。藍染の裁定を、生徒会の最終決定とする。双方、異論は認めない」
茶柱先生は小さく息を吐き「……致し方ないな」と受け入れ、坂上先生も「……副会長の裁定ならば、従いましょう」と苦虫を噛み潰したような顔で頷いた。
しかし。
その場にいた誰よりも、内心で激しい驚愕に襲われていたのは――綾小路清隆だった。
(……やられたな)
綾小路は、虚ろな瞳の奥で、恐るべき男の影に戦慄していた。
(ここで双方に等しくペナルティを与え、かつ須藤に重い罰を下す。……これは単なる喧嘩両成敗ではない。この事件を裏で操り、Dクラスを潰そうとしていた『龍園』の思惑と、それをダミーカメラで出し抜こうとした『オレ』の動きを、完全に封じ込めたということだ)
綾小路の脳内で、藍染惣右介という男の解像度が恐ろしい形に歪んでいく。
(ダミーカメラの件も、事前に潰された……。盤上の全てを俯瞰し、支配している……。ホワイトルーム時代よりも、はるかに厄介な怪物に成長しているな)
完全なる勘違い。
だが、そのすれ違いこそが、実力至上主義の教室における真理である。
「……これにて、審議を終了する。解散だ」
学の言葉で、長かった裁判は幕を閉じた。
(やぁぁぁぁっと終わったぁぁぁぁ!!! もう二度と裁判長なんてやりたくない!! 早くひよりのところに行って、癒されたいぃぃぃ!!)
私は表面上「フッ」と冷笑を浮かべながら、内心では猛ダッシュで寮へと帰る準備をしていた。
翌日。
一年生全体の端末に、事件の解決と、遅れていたプライベートポイントの支給が通知された。
そして同時に、最新のクラスポイントが更新された。
Aクラス:1004 cp
Bクラス:732 cp
Cクラス:458 cp(50減)
Dクラス:37 cp(50減)
魔王の圧倒的な裁きによって、CとDのポイントが削られ、結果的にBクラスの優位性がさらに盤石なものとなった七月の始まり。
ホームルームが終わり、星之宮先生が教室を出ていった直後だった。
一之瀬が一人、教卓の前に立ち、クラス全員に向かって頭を下げた。
「みんな、少しだけ時間をくれるかな。……私から、みんなに聞いてほしいことがあるんだ」
真剣な表情の一之瀬に、神崎や柴田たちをはじめ、教室中が静まり返る。
そして一之瀬は、昨日ひよりに語った自身の罪――中学時代の万引きと、その後の引きこもりの過去を、一切誤魔化すことなく全員の前で告白した。
「……過去の罪は消えない。それは分かってる。軽蔑されても仕方ないと思う……」
一之瀬はギュッと拳を握りしめ、震える声で、それでも力強く叫んだ。
「でも……私はこのBクラスのみんなのことが大好きだから! みんなのために、これからも全力で頑張りたい! だから……こんな私だけど、どうかこれからも私を支えてほしい!」
静まり返る教室。
あまりに重い告白に、驚きで目を見開くクラスメイトたち。
だが、その沈黙を真っ先に破ったのは神崎だった。
「……何を言い出すかと思えば。お前が俺たちを裏切ってポイントを盗んだわけじゃないんだろ? なら、俺がお前を支えることに何の問題もない」
「そうだよ帆波ちゃん! 誰だって間違えることはあるよ! 帆波ちゃんが私たちを助けてくれてるのは事実なんだから!」
「そうそう! 一之瀬がリーダーじゃないと、俺たちまとまんないぜ!」
網倉や柴田、白波たちが次々と立ち上がり、温かい言葉をかける。
誰一人として、一之瀬を責める者はいなかった。
「みんな……っ!」
一之瀬の目から、再び大粒の涙が溢れ出し、彼女はクラスメイトたちの輪の中へと包まれていった。
(……よかったですね、帆波ちゃん)
ひよりは自分の席から、その温かい光景をニコニコと見守っていた。
(……ていうか、一之瀬がなんでいきなり過去の重い罪を告白してんの!? え、もしかして俺のせい!? 昨日俺がポエムでキツいこと言っちゃったから、耐えきれなくなって自首しちゃったの!? ごめん一之瀬!!)
一方で、事情を全く知らない私は、突然のヘビーな告白からの感動的なクラスの団結という急展開に、一人内心で大パニックに陥っていた。
天使の癒しによってトラウマを乗り越え、結束を深めたBクラスの面々とは対照的に、水面下では人工の天才の静かな闘志が、無自覚な魔王へと向けられようとしていた。