いつからここが尸魂界だと錯覚していた? 作:yvrararara
放課後の学生寮。
私の自室である広めのワンルームには、ダージリンの芳醇な香りが漂っていた。
ローテーブルを囲むように配置されたクッションには、既に、一之瀬、神崎、ひよりが腰を下ろしている。
ひよりが手慣れた様子で淹れてくれた紅茶を優雅に啜りながら、私たちはこれから訪れる『客人』たちを待っていた。
(……はぁ。本当は俺、この話し合いには絶対に参加したくなかったんだけどな)
私は表面上はどこまでも傲慢で完璧な笑みを浮かべつつ、内心で深いため息をついていた。
(俺は色々とやらかしたせいで堀北さんにめちゃくちゃ嫌われてるから、交渉は君たちだけでやってくれって頼んだのに……)
『藍染くんには絶対に参加してほしいの!』と一之瀬に泣き落としレベルで懇願され、神崎からも『――交渉という盤面において、お前という絶対的な存在がそこに座しているだけで、Dクラスは不用意な手札を切れなくなる。……頼む』と、なぜか少し俺のオサレな言い回しに影響されたような、無駄に熱い信頼の眼差しを向けられてしまい、結局なし崩し的に俺の部屋が会場になってしまったのだ。
「ひよりちゃんの淹れる紅茶、いつも本当に美味しいね」
「ふふっ、ありがとうございます。帆波ちゃん。今日は少し茶葉をブレンドしてみたんです」
女子二人が和やかに言葉を交わし、神崎も静かにカップを傾けている。まるで優雅な貴族のティータイムのような光景だが、これから話し合う内容は泥臭い体育祭の戦略についてだ。
『――ピンポーン』
静かな部屋に、無機質なインターホンの音が鳴り響いた。
「――敵襲だ。……先ずは、紅茶でも淹れようか」
(訳:あ、Dクラスの人たち来たみたいだね。ひより、彼らの分の紅茶の準備お願いできる?)
私はティーカップをソーサーにコトリと置き、極めて落ち着き払ったラスボスのような風格で呟いた。
「敵じゃないよ!藍染くん! 今日はこれから協力するための話し合いなんだからね!」
一之瀬がすかさず、呆れたような、しかし慣れた様子でツッコミを入れる。
「ふふっ、お客様ですね。では、Dクラスの皆さんの分の紅茶も準備しますね」
ひよりは私のオサレな言い回しにニコニコと笑いながら、新たな茶葉とカップの準備に優雅に取り掛かってくれた。
私は、玄関へ向かおうと立ち上がった一之瀬を手で制し、家主として自ら迎えに出る。
ガチャリと扉を開けると、そこにはDクラスの代表者である三人の姿があった。
「やあ、藍染くん。今日は招いてくれてありがとう」
爽やかな笑顔で挨拶をしてきたのは、Dクラスのリーダー格である平田洋介。
その後ろには、いつも通り何を考えているのか分からない無表情の幼馴染、綾小路清隆が立っている。
そして――。
「…………ッ!!」
平田の隣に立つ黒髪の美少女、堀北鈴音。
彼女は私の顔を見た瞬間、ギリッと奥歯を噛み鳴らし、射殺さんばかりの鋭い眼光で私を睨みつけてきた。
(ひぇぇぇぇっ!? 堀北さんめっちゃブチギレてるじゃん!! こっわ! え、何その目!? 完全に殺意の波動に目覚めてるじゃん! 助けて!学お兄ちゃん!!)
私は内心で盛大に悲鳴を上げた。
無理もない。彼女が私にここまでの殺意を抱くのには、海よりも深く、そして完全に私に非がある(ように見える)理由がある。
まずは一学期、生徒会での暴力事件の審議において、私が副会長の権限でDクラスに重いペナルティを下したこと。
そして何より……無人島特別試験の二日目に森で遭遇した際のことだ。私は例の呪いのせいで彼女を「泥を這う負け犬」と煽り倒した挙句、お兄ちゃんへのコンプレックスを『憧れは、理解から最も遠い感情だよ』という伝説のポエムで完膚なきまでに抉り抜いてしまったのだ。あの時の彼女の絶望と怒りに満ちた表情は、今でもトラウマになって夢に見る。
極めつけは、優待者試験における、Cクラスの龍園との結託だ。結果的にDクラスを出し抜いたのだから、プライドが高く、勝利に執念を燃やす彼女からすれば、私は『自分を完膚なきまでにコケにした巨大な壁』であり、『この世で最も憎むべき不倶戴天の敵』に他ならない。
「ほ、堀北さん。とりあえず中に入ろう? 睨み合ってても始まらないよ」
「そうだな。まずは一之瀬たちの話を聞こう」
平田が苦笑いしながら宥め、背後から清隆も淡々と声をかける。
だが、堀北の怒りの炎は収まる気配がない。彼女は玄関の敷居を跨ぐことすら拒否するように、冷徹な声で言い放った。
「平田くん、綾小路くん。私は最初から、この男と話し合うこと自体に反対だったわ。……彼が前回の試験で、Cクラスの龍園くんと結託して何をしたか忘れたのかしら? このような卑劣な男と、信頼関係を結んで協力することなど不可能よ」
手厳しい。ぐうの音も出ないほどの正論である。
私だって好きで龍園と組んだわけではないのだ。クラスを勝利に導くための苦肉の策だったのだと、どうか分かってほしい。
(頼む堀北さん、とりあえず上がってお茶でも飲んで落ち着いてくれ! 俺だって波風立てずに平和に話し合いたいんだ!)
私は彼女の怒りを鎮めるべく、極めて紳士的で、友好的な歓迎の言葉をかけようと口を開いた。
「――地に這う羽虫が、己を踏み潰した巨象の足跡を憎んで何になる?」
(ああああああああっ!! 違う!! なんでそういう煽り度MAXの言葉に変換されるのォォォ!?)
私が発した氷のように冷酷なバリトンボイスが、玄関の空間を凍りつかせる。
見下ろすような視線。極めて傲慢な立ち姿。
私という存在そのものが、彼女の神経を逆撫でするための『完成された芸術品』のように振る舞っていた。
「……なっ、相変わらず何を言っているのあなたは! 人を虫けら扱いするなんて、どこまで見下せば気が済むの……!」
堀北の顔が怒りで朱に染まる。
そこに、部屋の奥からパタパタと小走りでやってきた大天使が、ふんわりとした笑顔で合流した。
「あ、堀北さん。いらっしゃいませ」
ひよりは天使のような微笑みを浮かべると、堀北に向かって透き通るような声で『翻訳』を始めた。
「『道端の虫を踏み潰したことにいちいち頓着しないように、前回の試験であなたたちを出し抜いたことなど、私にとっては取るに足らない些事です。過ぎたことをいつまでも根に持って喚くのは見苦しいですよ』……と、惣右介くんは仰っています」
(ひよりさぁぁぁぁん!! やめてぇぇぇ! なんでそんな正確かつ致死量の毒を盛った翻訳しちゃうの!? もっとオブラートに包んで! 嘘でもいいから「歓迎してます」って言って!!)
「…………ッ!! 藍染惣右介ぇぇぇっ!!」
堀北の堪忍袋の緒が、完全にブチ切れる音がした。
彼女が一歩前へ踏み出し、私の胸倉を掴みかかろうとした瞬間、平田と清隆が慌てて両脇から彼女の腕を押さえ込んだ。
「ストップ、ストップ堀北さん! 落ち着いて! 今日は喧嘩しに来たわけじゃないよね!?」
「離しなさい平田くん! この男、今日という今日は絶対に許さないわ……!」
玄関先で暴れる黒髪の美少女と、それを必死に抑え込むイケメンと無表情。
私は内心でガクガクと震え上がりながらも、外面は微動だにせず、堀北の怒りを涼しい顔で嘲笑うかのような『不敵な笑み』を顔に貼り付け続けていた。
「まあまあ、立ち話もなんだし、中に入ってよ。ひよりちゃんが美味しい紅茶を淹れてくれたからさ」
騒ぎを聞きつけた一之瀬が、部屋の奥から顔を出して場を和ませる。
一之瀬の底抜けに明るい声と平田たちの必死の説得により、堀北はようやく肩で息をしながらも矛を収め、渋々と部屋の中へと足を踏み入れた。
――数分後。
ローテーブルを挟んで、AクラスとDクラスのメンバーが対峙する形で座っていた。
堀北は紅茶に一切手をつけることなく、未だに私を親の仇のように睨み続けている。私はその視線に胃に穴が開きそうな恐怖を感じながらも、優雅に脚を組み、絶対王者の余裕を崩さずにティーカップを傾けていた。
「……ははは。えっと、体育祭についての話し合いだよね? 一之瀬さん」
平田が引き攣った苦笑いを浮かべながら、強引に本題へと軌道を修正する。
「うんっ! わざわざ来てもらってごめんね。今日Dクラスのみんなを呼んだのは、体育祭での協力体制について具体的な提案があったからなんだ」
一之瀬は真剣な表情になり、手元のノートを開いた。
「先日、私たちAクラスで決めた作戦なんだけど……全体競技である『棒倒し』『騎馬戦』『玉入れ』の3種目に関しては、Dクラスと事前に戦略を共有して、協力し合えないかなって思ってるの」
「協力、か。具体的にはどういう風に?」
「たとえば棒倒しなら、お互いのクラスの防衛陣と攻撃陣の配置を調整して、強力なCクラスやBクラスの攻撃を無力化する。騎馬戦も、お互いのクラスで協力し合って、ターゲットを絞る形にしたいの」
一之瀬の提案は、極めて真っ当で合理的なものだった。
「なるほど……。確かに、全体競技で不要な争いを避ければ、お互いにポイントを獲得する確率は上がるね」
平田が顎に手を当てて納得の表情を浮かべる。
「ただし」と、一之瀬は言葉を続けた。
「徒競走や障害物競走といった『個人戦の出場表』までは、お互いに共有しなくてもいいかなって思ってるんだ。個人戦はそれぞれのクラス事情もあるだろうし、そこまで縛り付けちゃうと息苦しくなっちゃうからね」
「うん、僕もそれでいいと思うよ。全体競技での部分的な協力。Dクラスにとっても悪い話じゃない」
平田の同意に、一之瀬はパッと花が咲くような笑顔を見せた。
一方、堀北は依然として沈黙を保ち、その鋭い視線を私から一切逸らそうとしない。
私はティーカップをソーサーに置き、ふと隣に座る神崎へ視線を向けた。
「……流石だな、藍染」
神崎は、なぜか感心したような目で私を見つめ、小声で呟いた。
「敵対するクラスの代表者からのあのような露骨な敵意と挑発を受けながらも、一切動じることなく、ただ冷徹に『盤面』を見下ろしている。……お前のその底知れぬ胆力には、恐れ入るよ」
(えっ? いや神崎お前、俺が今めちゃくちゃビビって心拍数爆上がりしてるの気付いてないの!? なにその尊敬の眼差し!)
そして逆隣に座るひよりはといえば、「お茶、おかわりいかがですか?」とニコニコしながら、この地獄のような空気感を微塵も気にしていない様子だった。
――そして、もう一人。
この空間で最も厄介な思考回路を持つ男、綾小路清隆は、紅茶の香る平和な部屋の中で、誰にも悟られないように密かに脳内の演算を加速させていた。
(……藍染惣右介。相変わらず、何を考えているのか底が見えない男だ)
清隆は、無表情の仮面の下で、目の前で優雅に微笑む幼馴染を観察していた。
(先ほどの玄関先での出来事。あれは単なる挑発ではない。前回の試験で敗北を味わった堀北のトラウマを的確に抉り、彼女の冷静さを奪うための巧妙な『心理攻撃』だ。……現に、堀北は怒りで視野が狭窄し、一之瀬の提案に対する思考力を著しく低下させられている)
清隆の視線が、部屋のレイアウトや、並べられたティーカップに向けられる。
(この茶会の場もそうだ。自らのテリトリーであるこの部屋に招き入れ、あえてリラックスした空気感を作ることで、逆に堀北の警戒心とストレスを増幅させている。一之瀬を交渉の表舞台に立たせ、自身は『高みから見物する絶対者』を演じることで、この話し合いの主導権を完全にAクラスへと引きずり込んだ。……恐ろしい男だ。生徒会副会長という権力を手にした今、もはや彼の盤上から逃れることは不可能なのかもしれない)
綾小路清隆は、自分の深読みに自ら絡め取られ、藍染惣右介に対する警戒レベルをさらに数段階引き上げていた。
(……なんか、清隆がすげー真剣な目でこっち見てるな。なんだ? もしかして、紅茶のおかわりでも欲しいのかな?)
私は、幼馴染からの熱い視線(完全なる勘違い)を感じつつ、傲慢な笑みを崩さずに優雅に紅茶を一口含んだ。
「じゃあ、この条件でDクラスも合意してくれるかな?」
「うん、問題ないよ。持ち帰って、クラスのみんなにも説明しておくね」
結局、一之瀬と平田という『まともな常識人』二人によって、何度かの細かい調整と確認が行われ、無事にAクラスとDクラスの体育祭における部分的な協力関係が結ばれた。
「今日はありがとう、藍染くん、椎名さん、神崎くん、一之瀬さん。……行くよ、堀北さん」
「……ええ」
帰り際。堀北は最後に私を射抜くような眼差しで睨みつけた。
(ひぇっ……まだめっちゃ睨んでる! ここは最後くらい愛想良くして、少しでも関係修復の糸口を掴まないと! 『今日はごめんね、あんまり気に病まないでね』って優しく声をかけよう!)
私は極めて紳士的な笑みを浮かべ、別れの挨拶を口にした。
「――俯く必要はない。蟻が竜の鱗に触れられずとも、それを恥じる法はないのだから。……せいぜい、己の矮小さを噛み締めながら帰路につくことだ」
(うわあああああああ!!! また出た!! なんで俺の口は堀北さん相手だとこんなに煽りスキルがカンストするの!!?? これっぽっちも謝ってないし、むしろただの追い討ちじゃん!!)
「……ッ!!」
「『今日はごめんね、なんて気に病む必要はありませんよ。弱者が強者に及ばないのは当然の摂理ですから――」
(ひよりさぁぁぁん!! ストップ!!! お願いだからそこで止めてぇぇぇ!!)
「――せいぜい己の無力さを噛み締めて帰ってくださいね』……と仰っています」
(最後まで笑顔で言い切っちゃったああああ!!)
ひよりがニコニコと手を振りながら、致死量の猛毒を込めた完璧な翻訳を放つ。
堀北は全身を怒りでプルプルと震わせ、ギリッと血が滲むほど唇を噛み締めた。
「……言わせておけば。いいえ、もういいわ。藍染惣右介……絶対に、貴方をその傲慢な玉座から引き摺り下ろしてやるから……!!」
憎悪に満ちた捨て台詞を吐き捨てると、堀北は踵を返し、足音を荒げながら部屋を出て行った。
清隆もまた、一度だけ私と視線を交わし、何かを確認するように静かに立ち去っていった。
嵐のような客人たちが去り、再び静寂を取り戻した部屋。
「ふぅーっ……緊張したぁ……!」
一之瀬が大きく背伸びをして、ソファーに深く沈み込む。
「よくやったな、一之瀬。完璧な交渉だった」
神崎が労いの言葉をかけ、ひよりも「お疲れ様です、帆波ちゃん」と微笑んでいる。
そして一之瀬は、ジト目で私の方を見た。
「藍染くん……。さすがに堀北さんをあんなに煽ったらだめだよ。せっかく交渉がまとまったのに……」
「――妥協という鎖で繋がれた関係など、いずれ錆びて砕け散る。……圧倒的な『恐怖』だけが、彼らを従わせる唯一の絶対だ」
(訳:ごめんって! 俺もあんなこと言うつもりじゃなかったんだよおおお!)
「『ごめんなさい。しかし、生半可な優しさでは彼女のためになりません。圧倒的な力の差を見せつけ、恐怖を刻み込むことでしか、彼らを正しく導くことはできないのです』……だそうです」
「もうっ……藍染くんってば、時々すごくスパルタなんだから」
一之瀬が呆れたように、ぷくっと頬を膨らませる。
私はといえば、ようやく重圧から解放され、内心で安堵の涙と後悔の血涙を同時に流していた。
(終わった……! マジで胃が痛かった……! ていうか俺、妹さんをこんなにボロクソに煽り散らかしてたら、そのうちシスコンの会長がガチでブチギレちゃうよ……! 明日生徒会室行くのめちゃくちゃ怖いんだけど!!)
そんな私の情けない内心など知る由もなく、窓から差し込む夕日は、どこまでも傲慢で完璧な『藍染惣右介』の影を、部屋の床に長く濃く落としていたのであった。