いつからここが尸魂界だと錯覚していた? 作:yvrararara
体育祭もいよいよ終盤戦。
午後の競技が次々と消化されていく中、グラウンドの熱気は最高潮に達しようとしていた。容赦なく照りつける秋の太陽が、砂埃に塗れた生徒たちの汗を煌めかせ、勝敗に一喜一憂する歓声が空高く吸い込まれていく。
次に行われるのは、推薦参加種目である『男女混合二人三脚』だ。
各クラスから選抜された男女ペアが出場し、息の合った走りを競うという定番の競技である。
本来、我がAクラスの戦略としては、男子トップの身体能力を持つ私と、女子の中で最も足の速い津辺仁美がペアを組んで確実な1位をもぎ取る予定だった。一之瀬たちも「藍染くんと津辺さんのペアなら絶対に負けないね!」と太鼓判を押しており、すんなりとペアが決定するかに思われた。
しかし、その話し合いの最中、普段は運動に消極的で控えめなひよりが、「……あの、私、惣右介くんと出たいです!」と、珍しく強い意思を持って立候補したのだ。
(ひより、運動が苦手なのに、自分から競技に参加したいって言い出すなんて……偉い! めちゃくちゃ偉いぞ!!どんなに足が遅くても、俺がカバーして絶対に勝たせてやるからな!)
私は内心で感動の涙を滝のように流しながら、ひよりの健気な挑戦を全力で受け入れていた。
スタートラインに立ち、互いの足首を紐でしっかりと結び合う。
私の隣には、少し緊張した面持ちで、小柄なひよりが立っていた。彼女の銀色の髪が、風に揺れてふわりと甘い香りを漂わせている。
(よし、ひよりの緊張をほぐすために、『一緒に走って、絶対一位を取ろうね!』って爽やかに声をかけてあげよう!)
私は彼女を見下ろし、優しく微笑みかけたつもりだった。
しかし、無情にも藍染惣右介の強靭なエゴは、またしてもオサレな文脈へと強制変換してしまう。
「――案ずるな。私が玉座へと至る道程に、君の歩幅を合わせる必要はない。ただ私の傍で、世界が傅く景色を見下ろしていればいい」
(訳:一緒に走って、絶対一位を取ろうね!)
「…………はいっ! 頑張りますっ!」
一瞬だけ目をパチクリとさせたひよりだったが、すぐに私の言いたいことを100%の精度で察知し、両手をギュッと握りしめて気合いの入った笑顔を見せてくれた。
(ああもう、尊い……! この大天使がいれば、俺はどこまででも走れる気がする!)
そんなふうにひよりと和やかな(?)やり取りをしていると、ふと、すぐ隣のレーンに並んでいるペアが目に入った。
Dクラスから選出された、綾小路清隆と櫛田桔梗のペアだ。
(おっ、清隆じゃん! こんな種目にも出てるんだな。せっかくだし、軽く挨拶しておこう!)
私は「やっほー、清隆! お互い全力で頑張ろうね!」と気さくに話しかけようとした。
だが、ここで発動したオサレポエムは、私の純粋なエールを、高みから盤面を見下ろす支配者のような響きへと変換してしまった。
「――清隆。君の隠し持つ『見えざる刃』が、この盤面をどう切り裂くのか……せいぜい、私を楽しませてくれ」
「っ……!」
私の言葉を聞いた瞬間、普段は無表情な綾小路の瞳が、わずかに鋭く眇められた。
隣の櫛田が「えっ? あ、藍染くん……?」と笑顔を引きつらせてドン引きしている中、ひよりがすぐさま完璧なフォローを入れる。
「『綾小路くん、 お互い全力で頑張りましょうね!』とのことです」
「……ああ。よろしく頼む」
綾小路は短く返事をしたものの、その瞳の奥には明らかな警戒と探りの色が浮かんでいた。
綾小路は内心で、高速の思考を巡らせていた。
(『見えざる刃が盤面をどう切り裂くか』だと? あいつはオレの実力を知っている上で、わざわざそんな言い回しをした……。まさか、今隣にいる櫛田が白組に出場表を流出させたこと、そしてオレがそれに気づきながらあえて見逃し、この状況を利用しようとしていることまで完全に看破しているのか? オレの思惑すらも、あいつにとっては退屈しのぎに過ぎないというのか。やはり藍染惣右介は、この学校で最も危険な存在だ……!)
清隆の私に対する警戒度が、またしても見当違いの方向に跳ね上がってしまった瞬間だった。
(ん……? なんだか清隆、すごく難しい顔をしてるな……?)
もしかして本番直前で緊張しているのだろうか。私が的外れな気遣いをしながら彼から視線を外し、自分のスタート位置へと向き直った、その直後だった。
『――位置について、よーい、ドン!!』
開始のホイッスルが鳴り響く。
「いきますよ、惣右介くん! せーのっ……!」
「ああ」
ひよりが一生懸命に足を出そうとした瞬間。私は彼女の腰にガッチリと腕を回し、ほとんど彼女の身体を『持ち上げる』ような体勢をとった。
「わわっ!?」
ひよりの足がふわりと地面から浮き上がる。
私はそのまま、自分の足だけで凄まじい脚力を爆発させ、まるで一人で走っているかのような圧倒的なスピードでトラックを駆け抜けた。
二人三脚とは名ばかりの、私による『ひより運搬レース』である。しかし、足はしっかりと結ばれており、ひよりの足も形だけは空中で動いているため、ルール上は何の違反もない。
他のペアが「いっちに、いっちに」と苦労して足並みを揃えている横を、私は爆風を巻き起こしながら瞬く間に抜き去っていく。
「ひゃああああっ! 風が、風が凄いです惣右介くんっ!」
腕の中でひよりが目を回しながら叫んでいるが、私は一切減速することなく、圧倒的なスピードでトラックを駆け抜け、余裕の表情でゴールテープを切った。当然、ぶっちぎりの1位である。
「はぁ、はぁ……びっくりしました……」
足を結んでいた紐を解くと、ひよりはその場でぴょんぴょんと飛び跳ねて喜んだ。
「でも、1位です! 凄いです惣右介くんっ!」
「ああ。君の導きがあったからこその勝利だ」
(訳:ひよりが一緒に走ってくれたからだよ!)
(……可愛い。ぴょんぴょん跳ねてるの、小動物みたいでマジで癒される……。体力と精神力が全回復していく……!)
私は彼女の頭を撫でたい衝動を必死に堪えながら、静かに目を細めていた。
そして、ついに体育祭の全競技の最後を飾る種目がやってきた。
『三学年合同1200メートルリレー』。
各学年のクラスから男女3名ずつ、計6名を選出してバトンを繋ぐ、体育祭の華であり、最も配点の高い競技である。
我がAクラスの選抜メンバーは、津辺、一之瀬、初川、柴田、神崎、そしてアンカーを務める私、藍染惣右介だ。
グラウンドの中央に集まった全校生徒が見守る中、第一走者の女子たちがスタートラインにつく。
『――パーンッ!!』
ピストルの乾いた音が鳴り響き、最終レースが幕を開けた。
Aクラスの第一走者・初川が好スタートを切り、続く柴田が持ち前の運動神経を見せつけてバトンを繋ぐ。その後も津辺、堅実で無駄のない走りの神崎と、男女交互に実力者たちが全力を尽くして走っていく。
そして、いよいよ最終走者である私の元へ、息を切らした第五走者の一之瀬がバトンを持って走ってくる。
「頼んだよ、藍染くん!!」
「ああ」
一之瀬からバトンを受け取った時点で、Aクラスの順位は『3位』だった。
すぐ前には三年Bクラスの生徒、そしてはるか前方、トップを独走しているのは、二年生の生徒会長候補――南雲雅だった。
南雲はチラッと後ろを振り返り、私がバトンを受け取ったのを確認すると、ニヤリと嘲笑うようなドヤ顔を向けてきた。
「こっちまで来れるもんなら来てみろよ!」という声が聞こえてきそうだった。
(うわぁ、南雲めっちゃ煽ってくるじゃん。これは負けられないな。Aクラスのみんなが必死に繋いでくれたバトンだし、藍染スペックを全開にさせてもらう!)
私はバトンを強く握りしめ、前傾姿勢をとった。
――そして、爆発。
まるで足元で爆竹が弾けたかのような凄まじい踏み込みで、私は加速した。
トラックの砂を大きく蹴り上げ、風を切り裂く。筋肉の痛みも疲労も一切感じない。ただ純粋に『最も速く前へ進むための最適解』を身体が自動で実行していく。
「なっ……!?」
まずは前を走っていた三年Bクラスの生徒を、瞬きする間に抜き去る。
そして、トップを走る南雲の背中が、みるみるうちに近づいてくる。
最初は余裕の笑みを浮かべていた南雲だったが、背後から迫る私の異常な足音と、観客席からの悲鳴にも似たどよめきに気づき、ハッと振り返った。
「ばか、な……! なんだその速さは……!?」
南雲の瞳に、信じられないものを見るような驚愕が浮かぶ。
私は彼の真横に並び立った瞬間、彼を一瞥すらせず、ただ前方だけを冷徹に見据えたまま、一気に置き去りにした。
「くそぉぉぉっ!!」
南雲が顔を歪めて必死に腕を振るが、私との距離は絶望的なまでに開いていく。
私はそのまま誰の追随も許さず、圧倒的な大差をつけてトップでゴールテープを切った。
「やったぁぁぁっ!! 藍染くん1位!!」
「すげえええええ!! なんだよあの追い上げ!!」
Aクラスのテントから、割れんばかりの歓声が沸き起こる。
息一つ乱さずに歩いて戻ろうとする私に、後ろから荒い息を吐きながら南雲が近づいてきた。
「はぁ、はぁ……てめぇ、藍染……!」
南雲は顔を真っ赤にして、私を睨みつけている。
「たまたま足が速かったくらいで調子に乗るなよ……! 一年の中でトップを取ろうが、紅組の敗北はもう確定してるんだ。せいぜい俺の掌の上で、無様に這いつくばって敗北を噛み締めるんだな!」
(うわぁ、わざわざ負け惜しみと、自分の暗躍の自慢をしに絡んできたよ! ……でも待てよ。さっき、紅組が負けそうなのは俺が普段から南雲を煽りすぎたせいだって反省したばかりだ。ここはグッと堪えて穏便にあしらって、これ以上ヘイトを稼がないようにしないと……!)
私は内心で強く自戒し、適当に波風を立てない挨拶をして帰ることにした。
「――泥中に沈みゆく自らの足元すら見えず、玉座を騙るか。この程度の矮小な策で私を下したつもりなら、滑稽を通り越して哀れだな。……私の歩む道に、這いつくばるだけの泥は不要だ。踏み潰される前に、己の底の浅さを知ることだ」
(うわああああ!! めちゃくちゃ凶悪に煽り返しちゃった!! 俺の口、どんだけ南雲を煽るのが大好きなの!? っていうか南雲も南雲だよ、なんでわざわざ俺のところに極上の燃料投下しに煽られに来るの!?ドMなの!? ほら見ろ、完全にプライド粉々にされた顔してるじゃん!!)
「……ッ!! てめぇ……!! 殺す!! 絶対に潰してやるからな藍染!!」
背後で南雲が完全にブチギレて発狂しているのをBGMに、私は内心で『二学期も粘着確定』と言う事実に血の涙を流しながらも、表面上は一切崩れぬ優雅な足取りでAクラスのテントへと帰還した。
全競技が終了し、ついに運命の結果発表の時間がやってきた。
グラウンドの中央に設置された巨大な電光掲示板に、総合得点が映し出される。
『総合優勝――白組!!』
その瞬間、BクラスとCクラスのテントから歓喜の雄叫びが上がった。
対照的に、紅組である私たちの陣営には重い空気が沈み込む。
二年生、三年生、そして私たち一年生単体で見ても、Aクラスは見事に学年1位の成績を収めていた。
私が個人として『学年最優秀選手』に選ばれ(ちなみに大会全体の最優秀選手は、三年生の生徒会長・堀北学だった)、クラスとしても各競技で着実にポイントを稼いだはずだった。
しかし――結果的に紅組が敗北した原因は、明確だった。
一年生Dクラスが、Bクラスの坂柳とCクラスの龍園によって完全に手玉に取られ、出場表の漏洩から的確に弱点を突かれて徹底的にポイントを奪われ、文字通り『潰された』こと。
そして何より――二年生全体を牛耳る南雲が、自クラスを学年首位へ導きながら、白組がリードするように立ち回ったことだ。仮に紅組が勝ってれば、俺たち一年Aクラスは白組のBクラスに対して全体勝敗のボーナスで200クラスポイントもの大差をつけることが出来た。南雲は『学年全体を支配している』という自分と同じアイデンティティを取られることを嫌って徹底的に妨害してきたのだろう。
そのマイナスが絶望的に響き、紅組は白組に敗れてしまったのだ。
試験前のクラスポイントと、今回の体育祭のペナルティを合わせた、最新のクラスポイントの推移は以下の通りだ。
・Aクラス(一之瀬) : 1157cp → −50 = 1107cp
・Bクラス(坂柳) : 924cp → −50 = 874cp
・Cクラス(龍園) : 658cp → ±0 = 658cp
・Dクラス(堀北) : 112cp → −200 = 0cp
(……紅組全体としては負けてペナルティを食らったが、一年生の中で学年1位を死守したおかげで、Bクラスとのポイント差が縮まることだけは阻止できたぞ)
Aクラスのテントでは、生徒たちがどんよりと肩を落としていた。
「くそっ……学年では俺たちが1位だったのに、紅組が負けたせいでクラスポイントがマイナス50になっちまうなんて……」
柴田が悔しそうに呟く。
「仕方ないよ。Dクラスが足を引っ張りすぎだし、まさかあんなにボロ負けするなんて……」
網倉もため息をついた。
そんな重い空気を吹き飛ばすように、一之瀬帆波がテントの真ん中に立ち、パンッと大きく手を叩いた。
「みんな、顔を上げて! 確かに結果はマイナスになっちゃったけど、私たちAクラス自体は学年で1位だったんだよ! みんなが協力して、全力で頑張った結果だもん! この悔しさは、次の試験で絶対に取り返そう!」
一之瀬の太陽のような明るい笑顔と力強い言葉に、生徒たちの顔に少しずつ生気が戻っていく。
「……そうだな。俺たちはやるべきことをやった。地に視線を落とし、立ち止まっている暇などないはずだ」
神崎も頷き、クラスの雰囲気が再び前向きなものへと変わっていった。
(……さすがは一之瀬だ。あのメンタルと統率力は本当に頼りになるな)
私はパイプ椅子に深く腰掛けながら、冷静に今回の体育祭を総括していた。
(今回は、完全に龍園と坂柳、そして南雲の作戦勝ちだな。……いや、南雲に関しては『一年生を支配させない』というあいつのプライドに加え、俺の普段の煽りが絶妙なスパイスになってしまった結果だからマジで反省しないと。でも煽られたら自動反撃しちゃうんだよなぁ、俺の口……。だが、事前に対策を打ってB・Cクラスからの直接的な妨害を警戒していた甲斐もあって、うちのクラスからは怪我人が一人も出なかった。それは大きな収穫だ)
私はDクラスのテントを遠目に眺める。
(堀北は可哀想だが、あの一回の接触事故だけじゃ故意と判断することはできないし、泣き寝入りするしかないだろうな。……それにしても、出場表の件だ。今のDクラスの状況を考えれば、ポイントで買収されたか、龍園に脅されたのか、考えればキリがないが、間違いなく裏切り者がいるはずだ。……だが、清隆なら、裏切りを未然に防ぐか、偽の出場表を流出させるくらいのことは簡単にできたはずだ。あいつのことだ、この敗北の状況すらも利用する狙いがあるのか?)
私が思考に耽っていると、ひよりがパタパタと小走りで私の元へやってきた。
「惣右介くんっ! 今日は本当に大活躍でしたねっ! かっこよかったです!」
ひよりが満面の笑みで私を称えてくれる。
(やった! ひよりに褒められてめちゃくちゃ嬉しい! でも、これは俺一人の力じゃない。みんなが一生懸命頑張った結果だよ! 俺が南雲を煽りすぎたせいでクラスポイントはマイナスになっちゃったかもだけど、みんな怪我なくベストを尽くせたし、本当によく頑張ったね!)
私はクラスメイトたちへの労いと感謝、そして密かな反省の気持ちを込めて、優しく微笑みかけようとした。
しかし、私の口から放たれたのは、あまりにもスケールが大きく、仰々しいラスボス特有の長台詞だった。
「――個の輝きなど、広大な天を照らすには至らない。真に美しいのは、泥に塗れながらも星を目指し、共に歩みを止めなかった者たちの軌跡だ。……盤上の小さな石の喪失など、その確かな歩みを前にしては語るに落ちるというものさ」
「えっ……!?」
「あ、藍染くん……?」
私のその難解で壮大なセリフを聞いた周囲のクラスメイトたちが、一斉に首を傾げて戸惑った表情を浮かべた。
「や、やばい……紅組が負けて、藍染くん何か難しいこと言って怒ってるんじゃないか……?」
「俺たちの頑張りが足りなかったから呆れられてる……?」
テントの空気が一瞬にして緊張感に包まれた。
しかし、ひよりだけはクスッと小さく笑い、周囲のクラスメイトたちに向けて澄んだ声で翻訳を告げた。
「安心してください皆さん。惣右介くんは、『僕一人の力ではなく、みんなが一生懸命頑張ったからこその結果です。クラスポイントは減ってしまいましたが、皆さんが怪我なくベストを尽くせたことが何より素晴らしいですね』と言っているんですよ」
「えっ!? そうなの藍染くん!?」
「なんだ、藍染くん、俺たちのことちゃんと労ってくれてたんだな……!」
「よかったぁ、怒ってるのかと思ってヒヤヒヤしたよ!」
ひよりの完璧な意訳により、クラスメイトたちは一気に安堵の表情を浮かべ、テントは再び温かい笑い声と一体感に包まれた。
(ひよりぃぃぃ!!ありがとう!!!君がいなかったら、俺の純粋な感謝が『魔王の気まぐれな評価』みたいに受け取られてただろうな……!)
一方、歓喜に包まれる白組陣営や、前を向くAクラスとは対照的に、Dクラスのテントは文字通り『お通夜』のような陰惨な空気に支配されていた。
この体育祭の圧倒的な敗北により、彼らが血を吐くような思いで積み上げてきたクラスポイントは、残酷にも『0』に逆戻りしたのだ。
リーダーである堀北鈴音は満身創痍の状態で、途中で帰ってしまった須藤をなんとか説得して連れ戻すことには成功したようだが、時すでに遅く、挽回できる状況ではなかった。
「……なぁ。あいつが最初から本気出して走ってれば、もっとマシな結果になってたんじゃねえの?」
池や山内といったDクラスの男子生徒たちが、恨みがましい視線を一点に向けて愚痴をこぼしている。
彼らの視線の先には、最後のリレーで、生徒会長である堀北学と同等の凄まじい走りを見せつけた男、綾小路清隆がいた。
「そうだよな! 普段から手ぇ抜いて、こんな大事な時にだけいい格好しやがってよ! あいつが全部の競技で本気出してりゃ、紅組が勝ってたんじゃないか!?」
「やめようよ、池くん、山内くん。綾小路くんだって、リレーではあんなに頑張ってくれたんだから……」
櫛田桔梗や平田洋介が必死に彼らを諌めようとするが、理不尽な連敗で限界まで溜まりきったクラスの不信感と苛立ちは、簡単に消えるものではない。
そんな泥沼の雰囲気の中にあっても、綾小路清隆はただ一人、周囲の雑音など一切聞こえていないかのように、いつもの冷淡な無表情を崩さず、静かにグラウンドを見つめていた。
(……今回、櫛田が裏切り、龍園に情報を流すことは最初から把握していた。だからこそ、オレはあえて介入せず事態を静観した。中途半端な結果で終わらせるより、一度完全に叩き潰された方が、堀北という人間を根本から成長させるための劇薬になるからだ。加えて、身内の中に『クラスを裏切る者』が存在するという現実を、痛感させる必要もあった)
綾小路は内心で、今回の体育祭の盤面を淡々と振り返っていた。
(龍園が坂柳とまで結託し、ここまで徹底的にDクラスを潰しに来たのは少々予想外ではあったが……結果的に、堀北の鼻を完全にへし折り、己の無力さを自覚させるにはこれ以上ない最高の舞台装置となった)
クラスポイントが再び0に戻ったことすら、彼にとっては目的のための必要経費に過ぎない。
(これでDクラスはもう失うものはなくなった。問題は、上に上がることを執拗に強要してくる茶柱からの干渉がますます面倒になることくらいか。……)
クラスメイトからの非難も、ポイントの喪失も、彼にとっては些末なノイズに過ぎない。
その瞳の奥で、彼が何を考え、次なる盤面に向けてどのような策略を巡らせているのかは、誰にも分からない。
波乱に満ちた体育祭は、各クラスに深い爪痕と新たな火種を残し、静かに幕を下ろしたのだった。