いつからここが尸魂界だと錯覚していた? 作:yvrararara
放課後の生徒会室。
かつては、新生徒会長となった南雲雅から発せられるネチネチとした悪意と、私を孤立させようとする陰湿なプレッシャーが充満する、ひどく息苦しい空間だった。
だが、今の生徒会室は少しだけ毛色が違う。
「おや南雲。この書類、数字が少し合っていないようだが? 生徒会長ともあろう者が、このような初歩的なミスを見逃すとはね。もっと視野を広く持った方がいいんじゃないか?」
「チッ……! うるせぇよ鬼龍院! てめぇは自分の仕事だけやってりゃいいんだよ!」
「ハハッ! 忠告をしてやったのに随分な態度だな。まあいい、私が直しておいてやろう」
銀髪を揺らす二年生の自由人・鬼龍院楓花が、余裕たっぷりの笑みで南雲をからかい、南雲が額に青筋を浮かべて舌打ちを返す。
その隣で、南雲の取り巻きである新書記の殿河と溝脇は、鬼龍院の圧倒的な実務能力と我が道を行くプレッシャーに萎縮し、すっかり借りてきた猫のように大人しくなっていた。
(おおお……! 鬼龍院先輩が南雲のヘイトをガンガン稼いで引き受けてくれてるおかげで、俺への直接的なダル絡みがめちゃくちゃ減ってるぞ!)
私は内心でウキウキと小躍りしながら、自身のデスクで恐るべきスピードで書類仕事を進めていく。
南雲のちょっかいが軽減されたことにより、私の仕事の効率はさらに跳ね上がっていた。
「――私の分の決裁は全て完了した。後は好きに荒れ狂うがいい」
私は綺麗に揃えた書類の束をデスクに置き、優雅に立ち上がった。
「えっ、もう終わったの!? さすが藍染くん! 私もあと少しだから、すぐ行くね!」
一之瀬も嬉しそうにペンを走らせる。
私たちは南雲の苛立たしげな視線を背中で受け流しながら、足早に生徒会室を後にし、クラスの勉強会が行われている教室へと向かった。
教室では、ペーパーシャッフルに向けた対策が着々と進められていた。
事前の『小テスト』はすでに終わり、学校側からのペア発表も完了している。一之瀬の的確な点数調整の指示が見事にハマり、成績上位者と下位者が綺麗に組み合わさった理想的なペアが完成していた。
ここから先は、ペアの合計点が退学ボーダーラインである『700点』を確実に超えるための底上げと、相手クラスであるBクラスへぶつける『問題作成』がメインとなる。
「この数学の問題だが……Bクラスの連中の足を掬うため、定石の公式にささやかな『毒』を仕込んでおいた。視界を惑わす応用問題だが、どうだろうか?」
神崎が、自作した問題用紙を私やひよりに見せてくる。
「いいんじゃないかな! 難しすぎず、でも基礎が分かってないと解けない絶妙なラインだと思うよ!」
一之瀬が笑顔で太鼓判を押す。
攻撃先であるBクラスへの問題作成は、神崎やひよりたちを中心とした頭脳陣によって、教師の検閲に弾かれないギリギリの難易度を攻めた嫌らしい問題が完成しつつあった。
私も、ペア同士で教え合っているクラスメイトたちの間を回りながら、分からない箇所を(ひよりに翻訳してもらい)的確に指導していく。
全てが順調だ。Aクラスの団結力は、日を追うごとに強固なものとなっている。
その日の勉強会も、充実した空気の中で有意義に進み、私たちは解散した。
自室に戻り、シャワーを浴びてソファでくつろいでいた時のことだった。
テーブルの上に置いていた私の携帯電話が、ブーッ、ブーッと低い振動音を立てた。
(ん? 誰だろう)
画面を見ると、登録されていない『知らない番号』が表示されている。
少し怪訝に思いつつも、私は通話ボタンを押した。
「……誰だ」
『おお、出た出た。いきなり電話してごめんな? 藍染』
スピーカー越しに聞こえてきたのは、ひどく軽薄で、それでいてどこか腹の底を見せないような、男の声だった。
(この声……確か、坂柳のクラスにいるやつだな。幹部の一人だ)
「私の番号をどこで手に入れた」
『俺は一年Bクラスの橋本正義だ。連絡先は、Dクラスの櫛田ちゃんから少し前に聞かせてもらってな。あの娘、一年生のほぼ全員の連絡先知ってるし、愛想良くて親切だから助かったよ』
(なるほど。Dクラスの櫛田か)
あの八方美人な彼女なら、他クラスの生徒から連絡先を聞かれても、笑顔で教えてしまうだろう。恐ろしい情報網だ。
『単刀直入に言うぜ。今から少し、外で話せないか?』
「……用件による」
『お互いの、今後のクラス間闘争における“有益な取引”についてだ。悪い話じゃないと思うぜ』
(取引、ね。まあ、一応話くらいは聞いておくか)
私は承諾の意を伝え、橋本が指定した場所――特別棟の裏手にある、監視カメラの死角となっている薄暗いエリアへと向かった。
夜の冷たい風が吹く特別棟の裏手。
街灯の光も届かない暗がりの中で、橋本正義は壁に寄りかかりながら私を待っていた。
「夜分遅くにすまんな、藍染。来てくれて助かるよ」
橋本はヘラヘラと笑いながら手を上げた。
「前置きは省く。用件を言いたまえ」
私が冷たく促すと、橋本は周囲に誰もいないことを確認してから、声を潜めて切り出した。
「なに、そんなに警戒しないでくれよ。俺はただ、Aクラスの頭脳であり、生徒会副会長でもあるお前と、個人的にパイプを繋いでおきたかっただけさ」
「パイプ、だと?」
「ああ。俺はちょっとした情報屋みたいなもんでね。お前たち、何か知りたい情報はないか? 例えば……今回のペーパーシャッフルで、俺たちBクラスが作る問題とかさ」
橋本は悪びれる様子もなく、飄々とした態度で提案してきた。
「どうだ? 悪い話じゃないだろう? これでも俺だって、自分のクラスを裏切るっていう危険な橋を渡ってるんだぜ?」
私は内心で、彼の意図を瞬時に分析した。
(……これは坂柳の罠か? あえて俺たちに偽のテスト問題を流し、ペーパーシャッフルで勝利するための策……いや、違うな。こいつの目は、本気で俺に取り入ろうとしている)
(だとすれば、真の目的は一つだ。こうして俺たちAクラスに恩を売り続け、いずれ自分をAクラスへ『引き抜いて』もらうための保険をかけることだろう。仮に坂柳たちにバレても、「Bクラスが勝つために、Aクラスに偽情報を流そうとしただけだ」と言い訳ができるよう、二段構えで立ち回っている、狡猾な男だ)
(だが、一之瀬は『困難に立ち向かって成長してこそ、特権に相応しい』という確固たる信念を持っている。お前からそんな卑怯な手で情報を買い取って勝利したところで、彼女が望むクラスの成長には繋がらない)
私は思考をまとめ、橋本の小賢しい提案をきっぱりと断るために口を開いた。
「――泥に塗れた果実で、王の食卓を飾れるとでも? ……無様だな。我々が歩む覇道に、他者のこぼした薄汚れた蜜など必要ない」
(訳:悪いけど、一之瀬の方針にも合わないし、そんな裏工作で得た情報はいらないよ)
「ッ……!」
私の静かで、それでいて絶対的な威圧感を伴った言葉の刃に、橋本は思わず後ずさりし、肩を震わせた。
夜の闇の中、私の瞳が冷たく光を放っているように見えたのだろう。彼は顔を引き攣らせた。
「……言葉の意味はよく分からねえが、交渉決裂、ってわけだな。だが、俺は諦めないぜ。また……声をかけさせてもらう」
(自分の保身のために、ずいぶんと危険な綱渡りをする男だ……)
私は少しだけ哀れみを感じつつも、彼に一つの『忠告』をしてやることにした。
(上手く立ち回っているつもりだろうが、あの坂柳有栖がこんな小賢しい動きに気付かないはずがない。あいつはそういう裏切り者に一番容赦しないタイプだろ。それに、スパイ行為が横行すれば、学校側の望むクラス闘争が成立しなくなる。そんなことになれば、いずれ『クラス内の裏切り者を消すような試験』を用意するかもしれない。その時のリスクまで、こいつは考えているのか?)
私は橋本を見下ろし、冷徹な声でアドバイスのポエムを紡いだ。
「――盤上の毒は、いずれ自らの足元をも腐らせる。白き女王の眼を欺けると錯覚するその浅はかさが、君自身の首を真綿で絞めていると知れ。……天を仰ぐ前に、足元の泥濘を警戒することだな」
(訳:坂柳はお前の動きに気づくと思うぞ。スパイみたいな真似はやめた方がいいと思うけど)
「ッ……!」
橋本は目を見開き、奥歯をギリッと噛み締めた。
「――最後に憶えておくと良い。目に見える裏切りなど知れている。本当に恐ろしいのは、目に見えぬ裏切りだよ」
私の静かな、けれど底冷えするような忠告に、橋本は顔を引き攣らせると、逃げるようにその場を立ち去っていった。
自室に戻った私は、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、喉を潤しながら一人思考にふけっていた。
(まあ、Aクラスで卒業すれば、希望する大学への進学や大企業への就職が100パーセント保証されるっていう『特権』があるんだ。それを目当てに、あの手この手で裏切りを画策する奴が出てくるのも無理はないよな)
私はソファに身を沈め、ふと自身の未来について思いを馳せた。
(……よく考えたらさ。俺、Aクラスで卒業してその特権をもらったとしても、絶対に普通の就職なんてできないよな?)
もし仮にAクラスの特権で無理やり大企業に入社できたとしても、上司に「おい藍染、これコピーしといて」と頼まれたら、
『――君如きが、私に指図するなどと。……己の矮小さを知れ』
とか言って、三日でクビになる未来しか見えない。
(……ダメだ。俺、この『呪い』がある以上、組織の歯車として働くのは絶対に不可能だ。卒業したら起業するか、藍染スペックの頭脳を生かして投資家として株とかで稼ぐしか選択肢がないんだよなぁ……)
私は少しだけ自虐的な笑みを漏らした。
まあ、それはそれで自由でいいかもしれない。
(それはそうと。橋本のような動きがあるということは、これから先、CクラスやDクラスの生徒たちからも、「自らスパイをするから、将来引き抜いてくれ」と交渉を持ちかけてくる奴が現れるかもしれない。リーダーである一之瀬と、この件についての方針を早めに擦り合わせておいた方がいいな)
私は明日の予定を頭の中で組み立てながら、静かに目を閉じた。
翌日の放課後。
教室での勉強会を終えた後、私は一之瀬とひよりを自室に招き、夕食を共にしていた。
本日のメニューは、腕によりをかけた『秋鮭のムニエル レモンバターソース』と『濃厚キノコのポタージュ』、そして彩り豊かな『温野菜のサラダ』だ。
「ん〜っ! 鮭の皮がパリパリで、身はふっくらしてて最高に美味しいっ! 藍染くん、本当にお料理上手だね!」
「はいっ、キノコのポタージュもすごく深みがあって美味しいです!」
「口に合ったのなら何よりだ」
二人が私の料理を笑顔で頬張る姿を見て、私の心は最高に癒されていた。
食事が一通り終わり、ひよりが手際よく食後のダージリンティーを淹れてくれたところで、私は本題を切り出すことにした。
(橋本という個人名はもちろん、接触があった事実自体を伏せておくか。無用な混乱を招くかもしれないしな。あくまで仮定の話として聞いてみよう)
私はティーカップを置き、真剣な表情で一之瀬を見つめた。
「――一之瀬。仮に、他者の魂を売り渡し、己の安寧を購おうとする卑しき者が、この盤上の影で蠢き始めたとしよう。我々に対し、情報という毒を対価に、光の玉座への切符を求めてきた者がいたとすれば……君は、この盤面をどう見据える?」
一之瀬がポカンとした表情を浮かべると、隣に座っていたひよりが、ふわりと微笑みながら私のポエムを翻訳してくれた。
「『仮に、他クラスの生徒から、自分のクラスの情報を流して恩を売る代わりに、将来自分をAクラスに引き抜いてもらいたい、と裏取引を持ちかけられたとします。帆波ちゃんなら、この提案についてどう考えますか?』とのことですよ」
「……っ」
ひよりの翻訳を聞いた瞬間、一之瀬の顔から先ほどまでの明るい笑顔が消え、少しだけ悲しそうな、胸を痛めるような表情に変わった。
「そっか……。そうだよね、どうしてもAクラスの特権で卒業したいって強く思っていれば、そういう手段を選んでしまう子も出てくるかもしれないよね……」
一之瀬はティーカップを両手で包み込むように持ち、うつむき加減で言葉を紡いだ。
「藍染くんが言いたいのは、もしそういう裏取引を持ちかけられた時に、私たちがそれに乗って相手のクラスの弱みを握るかどうか、そして将来ポイントが貯まった時に、その子を引き抜くために使うかってことだよね?」
「ああ」
「私は……それは違うと思う」
一之瀬は顔を上げ、まっすぐな、淀みのない瞳で私とひよりを見つめた。
「情報を流すってことは、自分のクラスの仲間を裏切るってことだよね。私は、そんなやり方で勝利を掴みたくない。たとえそんな卑怯な手で勝ってAクラスの特権を得たとしても、卒業して社会に出た後に絶対に通用しなくて困ると思うんだ。クラスのみんなで正面から困難を乗り越えて、ちゃんと成長してこそ、初めて特権に相応しい生徒になれるんだと思う。それに……」
彼女はギュッと拳を握りしめた。
「もし、私たちのクラスが全員で頑張って2000万ポイントを貯めることができたなら。そのポイントは、絶対にいざという時のため……私たちのクラスから『退学者』が出そうになった時の、みんなを守るための『セーフティネット』として置いておきたいな。他クラスの子を引き抜くためじゃなくて、今ここにいるAクラスの仲間を誰一人欠けさせないために使いたい」
一之瀬のその言葉には、クラスメイトへの深い愛情と、決して揺らぐことのないリーダーとしての強い覚悟が込められていた。
「……私も、帆波ちゃんの考えに賛成です。私たちAクラスの皆で、一緒に笑って卒業したいですから」
ひよりが、温かい眼差しで一之瀬に同意する。
(ああ……本当に、この子は最高のリーダーだ。裏切りや打算が横行するこの学校で、ここまで真っ直ぐに仲間を信じ抜ける強さ。俺も、全力でこのクラスを守り抜いてやろう)
私は内心で深く頷き、彼女の覚悟をさらに強固なものとするため、あえて厳しい現実を突きつけることにした。
「――君のその選択は、極めて理にかなっている。……いずれこの盤上において、箱庭の支配者を気取る者共は、盤面を乱す『毒』を浄化するための非情な試練を課すだろう。自らの手で、同胞に紛れた裏切り者を裁かせるような……逃れられぬ『粛清』の儀式をな」
(訳:俺も全く同じ意見だよ。それに、スパイや裏切りが横行すれば学校が意図するクラス間闘争のシステム自体が崩壊するから、いずれ学校側が強制的に『クラス内の裏切り者を退学させる為の試験』を用意する可能性もある。だから退学を防ぐためのポイント貯金は絶対に必要だ)
そのポエムを聞いたひよりは目を丸くし、ハッと息を呑んだ。
(自らの手で裏切り者を退学させる試験……? 私たちAクラスからそんな生徒が出るとは到底思えませんが……もし、学校側のシステムとして『絶対に誰かを一人選んで退学させなければならない状況』を強制されたら……。確かに、その時のためにポイントの貯金は不可欠ですね……!)
ひよりは一瞬恐怖を覚えつつも、私の論理的な推測に内心で深く納得し、慎重に言葉を選んで一之瀬に伝えた。
「『私も全く同じ意見です。それに、スパイ行為が横行すれば競争のシステムが成り立たなくなるので、いずれ学校側が強制的に、クラスの中から裏切り者を炙り出して退学させるような特別試験を用意する可能性があります。だから、いざという時のためのポイント貯金は絶対に必要です』と仰っています」
「えっ……!? クラスの中から、裏切り者を選んで退学させる試験……!?」
ひよりの翻訳を聞いた一之瀬は、そのあまりにも残酷な可能性に顔を青ざめさせた。
「そんな……。うちのクラスから仲間を裏切るような子が出るなんて、絶対に思えない。でも……藍染くんの言う通りかもしれない。この学校のやり方なら、システムを守るためにそういう極端な試験を強要してきてもおかしくない……」
一之瀬は震える手で自身の膝をギュッと握りしめ、しかしすぐに、その瞳に強い決意の光を宿して顔を上げた。
「……ありがとう、藍染くん。その忠告のおかげで、もっと覚悟が決まったよ。もし本当にそんな恐ろしい試験が来て、強制的に誰か一人を選ばなきゃいけない状況になったとしても、絶対に誰一人退学させないために……やっぱり、クラス貯金をしっかり貯めておく必要があるね!」
「――迷いなき光の輝きこそが、我々の往くべき道を照らし出す。その気高き意志、私が最後まで守り抜こう」
(訳:その意気だ。俺も全力でサポートするよ!)
「ふふっ、『その意気です。私も全力でサポートします』ですねっ」
「ありがとう、ひよりちゃん! 藍染くんも、大事なことを教えてくれてありがとうね!」
ひよりの完璧な翻訳が入り、一之瀬の顔にパッと満開の花のような笑顔が戻った。
温かい紅茶の香りに包まれた部屋の中で、私たちは互いの絆をさらに深め、次なる特別試験への結束を確かなものとしたのだった。