いつからここが尸魂界だと錯覚していた?   作:yvrararara

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五十八話

 放課後の生徒会室。

 夕暮れの茜色が窓から差し込む中、南雲雅はただ一人、会長席に深く腰を沈めたまま虚空を見つめていた。

 

 彼の瞳には、かつての野心に満ちた輝きも、他者を見下すような傲慢な光もない。ただ、深い絶望と拭い去れない『恐怖』の残滓が、べったりとへばりついていた。

 

(……俺は、何をしているんだ)

 

 無意識のうちに、自身の両手が微かに震えていることに気づく。

 

 混合合宿の夜。暗闇の中で相対した、藍染惣右介という存在。

 あれは、同じ高校生などという次元の生き物ではなかった。自らの矮小な理など一切通用しない、底なしの深淵。命そのものを握り潰されるかのような、圧倒的で絶対的な『死』の気配。

 

 思い出すだけで、心臓が早鐘を打ち、全身から冷や汗が噴き出す。

 

『――警告は一度だけだ。もし彼女の光を微塵でも曇らせるような真似をしたなら……君のちっぽけな箱庭ごと、その存在を跡形もなく消し去ってやろう』

 

 あの時叩きつけられた絶対的な畏怖が、フラッシュバックして南雲の呼吸を浅くする。

 

 橘茜を退学に追い込むという自らの完璧な戦略は、藍染によって最初からすべて見抜かれており、遊戯のように盤面をひっくり返された。

 

 そして何より、南雲の心を完全にへし折ったのは、堀北学からの『視線』だった。

 

『――お前は勝負事において嘘はつかない男だと思っていたが、俺の見込み違いだったようだ。他者を巻き込み、盤外から泥を投げるような真似しかできないのなら、もはや俺が相手をする価値もない。二度と、お前の挑戦を受けることはないだろう』

 

 かつて自分が憧れ、追い越し、絶望させようと誓った男からの、完全な見限り。

 

 恐怖と絶望が入り混じった感情が喉の奥に詰まり、南雲はギリッと奥歯を噛み締めた。

 

 その時だった。

 

「雅、またこんな暗いところで一人で考え込んでるの?」

 

 生徒会室の扉が開き、いつもと変わらない気さくな声が響いた。

 クラスメイトであり、仲のいい友人、朝比奈なずなだった。彼女は少し心配そうな、けれど温かな眼差しで南雲を見つめていた。

 

「……なずなか。何の用だ」

 

 南雲は強がって普段の声音を装おうとしたが、その声には明らかな疲労が滲んでいた。

 

「別に用ってわけじゃないけど。雅があんまりにも抜け殻みたいになってるから、ちょっとね」

 

 朝比奈は南雲の机の前に立ち、小さく息を吐いた。

 

「さっき、ケヤキモールで藍染くんと椎名さんに会ってきたよ。雅への伝言、預かってきた」

 

「……藍染から、だと?」

 

 その名を聞いた瞬間、南雲の肩がビクッと跳ねた。

 

「うん。『私がした警告さえ守れば何もしないから、そんなに怯えなくていい。あからさまにビクビクされると周りに変な気を遣わせて面倒だから、今まで通り普通に生徒会の仕事をこなせ』だってさ」

 

「……ッ!」

 

 朝比奈の言葉を聞き、南雲の胸の内に一瞬だけ「チッ、何様のつもりだ」という怒りがよぎった。だが、それと同時にあの夜の絶対的な威圧感が脳裏をよぎり、怒りは瞬時に恐怖へと塗り潰された。

 

 自分の怯えすらも、あの男にとっては『面倒なノイズ』でしかない。自分と藍染の間にある、見上げるほどの圧倒的な格差を突きつけられ、南雲は言葉を失った。

 

 そんな南雲の様子を見て、朝比奈はふっと柔らかな笑みを浮かべた。

 

「――私はでも、安心したよ」

 

「……何?」

 

「確かに、私たちのクラスは雅の実力のおかげでここまで勝ってこれたし、このままいけば間違いなくAクラスで卒業できると思う。雅の力は本物だよ」

 

 朝比奈は真っ直ぐに南雲の目を見た。

 

「でもね。自分の思い通りにならないものを力でねじ伏せて、誰も逆らえないようにする……そんな独裁者として傲慢な雅のままだったら、いつかきっと、取り返しのつかないことになってたと思う」

 

「取り返しのつかないこと……」

 

「だから、学生のうちに、こうやってどうしようもない『圧倒的な敗北』を味わうことができたのは、雅にとっても良かったんじゃないかと思うよ」

 

 朝比奈の言葉は、冷え切っていた南雲の心にゆっくりと染み込んでいった。

 

(……圧倒的な敗北、か)

 

 自分が井の中の蛙であったこと。天の高さも知らずに、小さな箱庭で王様気取りでいたこと。

 

 もし藍染という理不尽な存在に出会わず、社会に出てからこの傲慢さのまま誰かの逆鱗に触れていたとしたら、自分はどうなっていたのだろうか。

 

 ハッと息を呑んだ南雲は、目の前で優しく微笑む朝比奈の顔を見つめた。

 自分が今すべきことは何だ。影に怯え、歩みを止めることか?

 

 いや、違う。

 南雲はゆっくりと立ち上がり、深く息を吸い込んだ。

 

「……あいつは、本当に何様のつもりだよ」

 

 口から出たのは憎まれ口だったが、その声に以前のような険や怯えはなかった。憑き物が落ちたような、どこか晴れやかな響きがあった。

 

「ふふっ、雅が藍染くんに勝てる日は来ないかもね」

 

「うるせぇ。……でも、そうだな。お前の言う通りかもしれない」

 

 南雲は自嘲気味に笑い、朝比奈に向かって頭を下げた。

 

「分かったよ。……心配かけてすまなかったな、なずな。俺は俺のやり方で、もう一度立ち直ってみせるさ」

 

 その言葉に、朝比奈はパッと花が咲くような明るい笑顔を見せた。

 

「うん! その意気だよ、雅!」

 

 

 その日の夜。

 自室のベッドに寝転がりながら、古典文学のページをめくっていた私のスマートフォンが、短い振動音を立てた。

 

 画面を確認すると、メッセージアプリに新たなグループが作成されていた。

 メンバーは、堀北学、橘茜、一之瀬帆波、そして私。

 作成者は――南雲雅だった。

 

(ん? 南雲が俺たちを集めてグループ作成? 一体何の風の吹き回しだ?)

 

 訝しげに眉をひそめていると、すぐに南雲から長文のメッセージが投下された。

 

『夜分遅くに申し訳ありません。突然ですが、明日の夜、皆さんに時間をいただけないでしょうか。混合合宿での件を含め、俺のこれまでの行いについて、皆さんに直接、正式に謝罪をさせてほしいのです。場所はケヤキモールの焼肉店を予約しています。どうか、よろしくお願いします』

 

 画面を見つめたまま、私は小さく息を吐いた。

 

(ほう……? 朝比奈先輩が伝言を伝えてくれたことで、上手く立ち直ったみたいだな。それにしても、あのプライドの塊みたいな南雲が、自ら頭を下げて謝罪の場を設けるとは。朝比奈先輩のカウンセリング能力、恐るべし)

 

 南雲がまともに生徒会長としての機能を取り戻してくれるなら、副会長である私の仕事も減るため願ったり叶ったりである。

 

 グループ内では、すぐに学先輩から『分かった。行こう』と返信があり、それに続いて橘先輩と一之瀬も了承の返信をした。

 私も『――奢りならば、馳せ参じよう』と返信をしておいた。

 

 翌日の夜。

 ケヤキモールの高級焼肉店。その奥にある防音の行き届いた個室に、私たちは集まっていた。

 

 上座に学先輩と橘先輩。その向かいに私と一之瀬。そして、一番下座に南雲が座っている。

 

 全員が席に着くや否や、南雲は立ち上がり、深く、そして力強く頭を下げた。

 

「堀北先輩、橘先輩。……今回の混合合宿で、橘先輩を不当に退学に追い込もうとしたこと……本当に、申し訳ありませんでした」

 

 静まり返った個室に、南雲の真摯な声が響く。

 今までの彼からは想像もつかないほど素直で、心からの謝罪だった。

 橘先輩は驚きのあまり目を丸くし、学先輩は静かに目を閉じて南雲の言葉を受け止めていた。

 

「……頭を上げろ、南雲」

 

 学先輩が静かに告げると、南雲はゆっくりと顔を上げた。

 

「お前が己の過ちに気づき、こうして自ら頭を下げることができたのなら、過去の遺恨は水に流そう。……橘も、それで構わないな?」

 

「は、はいっ! 私は全然気にしてませんから! 顔を上げてください、南雲くん!」

 

 橘先輩が慌ててフォローを入れると、南雲はホッと安堵の表情を浮かべた。

 しかし、彼の謝罪はまだ終わっていなかった。南雲は次に向き直り、私と一之瀬に向かって頭を下げた。

 

「一之瀬、それに藍染。生徒会での活動や特別試験でお前たちに執拗に妨害工作を仕掛けたこと、謝罪する。……そして藍染。お前を揺さぶるためとはいえ、お前の大切なクラスメイトである椎名ひよりを退学にすると脅したこと……本当に、すまなかった」

 

 その言葉が出た瞬間、個室の空気がピキリと凍りついた。

 

「……え?」

 

 声を発したのは、一之瀬だった。

 

 彼女は、南雲がひよりを退学のターゲットにしようとしていた事実を、この時初めて知ったのだ。

 

 いつもは太陽のように明るく、誰に対しても優しい一之瀬帆波の表情から、一切の笑みが消え去っていた。彼女はゆっくりと立ち上がり、冷たい怒りを孕んだ瞳で南雲を見下ろした。

 

「南雲先輩。……あなた、ひよりちゃんを退学にしようとしていたんですか?」

 

「ッ……あ、ああ。俺の浅はかな策だった」

 

「いくらクラス間の競争だからって、許されることと許されないことがあります。藍染くんを陥れるために、ひよりちゃんを標的にするなんて……そんな卑劣なやり方、私は絶対に認めません!」

 

 一之瀬の静かな、しかし確かな激怒。それは自らのクラスメイト――大切な仲間を傷つけようとした者に対する、リーダーとしての絶対的な拒絶だった。

 

 南雲は一之瀬に言い返すこともできず、ただ唇を噛み締めるしかなかった。

 

(おおぅ……一之瀬もガチギレしてる。仲間思いの彼女からすれば、親友のひよりが狙われていたなんて知ったらこうなるのは当然か。だが、これ以上南雲を追い詰めても仕方がない。ここは俺が上手く空気を変えるしかないな)

 

 私は座ったまま、冷徹な響きを持たせたオサレなポエムを紡ぎ出した。

 

「――一之瀬。牙を折られ、首を垂れる敗者に、それ以上の鞭を打つ必要はない」

 

「藍染くん……?」

 

「彼が自らの手で首を差し出し、己の矮小さを認めたというのなら……その無様な姿に免じて、赦しを与えようではないか」

 

(訳:大丈夫だよ一之瀬。もう南雲も反省してるし、二度とひよりには手を出さないって約束してるから。許してあげようぜ)

 

「くっ……!」

 

 私の圧倒的な上から目線のポエムに、南雲はカチンときたのか一瞬だけイラッとした表情を浮かべたが、なんとか奥歯を噛み締めて怒りを堪え忍んだ。彼もまた、ここで私に反発すれば二度と立ち直れなくなることを理解しているのだ。

 

 一之瀬も私の本心を汲み取ったのか、少しだけ不満そうに頬を膨らませた後、「……藍染くんがそう言うなら、分かりました」と渋々席に座り直した。

 

 そのやり取りを見て、学先輩がフッと柔らかく微笑んだ。

 

「どうやら、遺恨は断ち切れたようだな。……せっかくの場だ。過去の過ちを悔やむより、未来の糧としよう。南雲、お前の奢りだったな?」

 

「っ、はい! 今日は集まってもらって本当にありがとうございます。俺の奢りなんで、好きなだけ食べてください!」

 

 学先輩の完璧なフォローにより、個室の空気は一気に弛緩した。

 タッチパネルで大量の高級肉が注文され、次々とテーブルに運ばれてくる。

 私はすかさずトングを手に取り、焼き網の前に陣取った。

 

「――炎の洗礼を受けた肉片こそが、命の輝きを取り戻す。私が極上の焼き加減で、皆の皿を彩るとしよう」

 

(訳:俺が焼きますね! どんどん食べてください!)

 

 私は華麗な手捌きで肉を網に乗せ、絶妙なタイミングで裏返していく。そして、最も美味しく焼き上がった特上カルビを、学先輩と橘先輩の取り皿へと滑らせた。

 

「ほら、橘。藍染が焼いてくれたぞ。冷めないうちに食べろ」

 

「あ、ありがとうございます、堀北くん! 藍染くんも、ありがとう!」

 

 学先輩に促され、嬉しそうに肉を頬張る橘先輩。その口元に少しタレがついてしまったのを、学先輩がさりげなく紙ナプキンを差し出して拭うよう促している。

 

 その光景を特等席で見つめながら、私は内心で盛大に悶え狂っていた。

 

(あああああ!! 尊い!! 橘先輩、めっちゃ幸せそう! 学先輩は相変わらず鈍感な堅物主人公ムーブかましてるけど、そのさりげない優しさがまた橘先輩の心にクリティカルヒットしてるんだよなぁ!! 頑張れ橘先輩! 俺はいつでも二人の恋路を全力で応援してるぞ!!)

 

 私は外見上は『無表情で黙々と肉を焼くクールな副会長』を維持しつつ、内心ではペンライトを振り回す限界オタクと化していた。

 

 一之瀬も先ほどの怒りはどこへやら、私が焼いた肉を「美味しいっ!」と満面の笑みで頬張っている。南雲も、最初は居心地が悪そうにしていたが、学先輩から仕事の話を振られるうちに、次第にいつもの調子を取り戻していった。

 

 穏やかな雰囲気の中で食事が進み、やがて網の上の肉が残り少なくなった頃。

 

 南雲は真剣な表情で、私たちに向かって宣言した。

 

「堀北先輩。俺は、俺の掲げる方針そのものを変えるつもりはありません。実力のある人間が特権に相応しいという考えは同じですし、下位のクラスに縛られている実力者が、個人の力で特権を得られるような学校にしたいという目標は変わりません」

 

 南雲の言葉には、かつての傲慢さではなく、純粋な信念が宿っていた。

 

「ですが……自分の力を誇示するためだけに、無関係な人間を巻き込んだり、不必要な退学者を増やすような強引なやり方は、もうしません。これからは、正当な実力主義のルールの中で、俺の理想を証明してみせます」

 

 それは、独裁者としてではなく、真の生徒会長としての立派な宣言だった。

 学先輩は満足そうに頷き、フッと口角を上げた。

 

「お前も、ようやく真の意味で『生徒会長』の顔になったな。……藍染のおかげで、お前は大きく成長できたようだ」

 

 学先輩はそう言って、私に向かって静かに頭を下げた。

 

「藍染。南雲の目を覚まさせてくれたこと、俺からも感謝する。これからの生徒会を、お前たちに任せられると確信できた」

 

「ほ、堀北くんが頭を下げるなんて……! 藍染くん、本当にありがとうね!」

 

 橘先輩も一緒になって頭を下げてくる。

 

(いやいや、俺はただ南雲がひよりに手を出そうとしたからブチギレて『黒棺』の詠唱しちゃっただけで、こんな立派な教育をしたつもりは微塵もないんだけど!? っていうか、学先輩からの評価がまた上がっちゃってるよ!)

 

 内心で冷や汗をかきながらも、私は堂々と胸を張り、手元の黒烏龍茶が入ったグラスを傾けた。

 

「――感謝など不要だ、学。私はただ、曇った鏡を磨き直したに過ぎない。……そこに映る自らの姿を見て、這い上がることを選んだのは彼自身の意志だ」

 

 私は南雲を一瞥し、不敵な笑みを浮かべて告げた。

 

「だが、忘れるな南雲。君が見上げた空の彼方、その頂きには常に私が座している。……二度と、その翼を泥に落とすことのないよう、せいぜい足掻くことだな」

 

(訳:ちゃんと反省して、立ち直ってくれて良かったよ! これからの生徒会、一緒に頑張ろうぜ。でも俺の仲間に手を出そうとしたら許さないからな!)

 

 私の圧倒的にオサレで傲慢なポエムに、南雲は今度は怒ることもなく、ただ静かに、けれど強い意志を込めて頷き返したのだった。

 

 

 

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