いつからここが尸魂界だと錯覚していた?   作:yvrararara

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五十九話

 二月十四日。

 一年の中で最も街が浮き足立ち、甘い空気に包まれる日――バレンタインデー。

 

 高度育成高等学校の中であってもその例外ではなく、朝から校内の至る所で、頬を染めた女子生徒が男子生徒を呼び出す初々しい光景が見受けられた。浮ついた歓声、恥じらいを含んだ笑い声、そして甘いチョコレートの香りが、冬の冷たい空気を微かに温めているかのようだった。

 

 だが、そんな色めき立った世間の空気など一切届かない場所が、この学校には存在する。

 

 放課後の生徒会室。

 そこには、ただ静かに書類をめくる音と、キーボードを叩くタイピング音だけが規則正しく響いていた。

 

「――藍染。来年度の新入生歓迎会に関する予算案だが、昨年のデータをベースに少し修正を加えた。確認しておいてくれ」

 

「……ああ。手回しが早いな、南雲」

 

 南雲雅から差し出されたタブレットを受け取り、私は淡々と目を通す。

 画面に並ぶ緻密な予算配分と、理にかなった人員配置。そこにあるのは、かつての独裁的で他者を見下すような南雲の姿ではなかった。混合合宿での完全な敗北と、先日の謝罪を経て、彼は見違えるように変わっていた。

 

 あの混合合宿の夜、私が放った『黒棺』の詠唱による絶対的な死の恐怖と、憧れの堀北学からの完全なる見限りの宣告。あの二つの出来事は、南雲の心を完膚なきまでにへし折り、一時は廃人の様な状態へと彼を追い込んだ。

 

 だが、朝比奈先輩の献身的な叱咤激励が、彼を絶望の淵から引き戻した。

 

 見事に立ち直った南雲は、自らの傲慢さと罪を正面から受け止め、学先輩や橘先輩、一之瀬、そして私に対して真っ向から頭を下げて謝罪し、赦しを得たのだ。

 

 今の彼は、自らの信念である『実力主義』は曲げないまま、無関係な者を巻き込むような強引なやり方を捨て、純粋に生徒会長としての職務を全うしようとしている。かつて彼が超えようと足掻いていた前生徒会長・堀北学のような、真に器の大きな人間へとなれるように、確実な成長への一歩を踏み出していた。

 

「――悪くない。だが、星々の運行を見定めるには、天球儀の精度が少々甘い。……第二体育館の装飾費はまだ削れる。浮いた予算で、新入生に配るパンフレットの質を上げるべきだ。見え透いた虚飾よりも、実のある知の共有こそが王道というものだろう」

 

 私が無意識にオサレで偉そうなポエムを交えて指摘すると、南雲の眉間がピキッと微かに引きつった。

 

「……っ。相変わらず、いちいち癪に障る言い回しをしやがる。だが……言っていることは正論だ。分かった、それで組み直そう」

 

 かつてなら激昂して噛み付いてきたであろう場面でも、今の南雲は一瞬の苛立ちをグッと呑み込み、自身の感情をコントロールして素直に私の意見を採用した。

 

(うわあああ、ごめんって!! 普通に『体育館の装飾費削ってパンフレットに回そう』って言いたかっただけなんだよ!……でも、以前の南雲なら、ここで俺にマウントを取るような嫌味の一つでも言ってきただろうに。南雲が一切煽ってこなくなったおかげで、俺の『自動反撃の煽りポエム』も発動しなくなった。……まあ、相変わらず通常運転でも息を吐くように傲慢なポエムは出ちゃうんだけどさ。それにしても、随分と丸くなったというか、本当に器が大きくなったよな、南雲)

 

 私は内心でそんな感慨を抱きながら、静かにタブレットを返却した。

 

 するとそこへ、優雅に紅茶を飲みながら、書類を捌いていた鬼龍院楓花が、面白そうに口を挟んできた。

 

「ふふっ。それにしても、随分と殊勝な心がけになったものだな、南雲。……今まで君の理不尽なゲームのせいで、無惨に退学させられていった生徒たちが可哀想だね」

 

 鬼龍院は不敵な笑みを浮かべ、微塵も思っていないであろう同情の言葉を投げかける。明らかに南雲の反応を楽しむための揶揄いだった。

 

 生徒会室の空気が一瞬だけピンと張り詰める。桐山などは「余計なことを言うな」とばかりに顔を顰めていたが――南雲の反応は、かつてのそれとは違っていた。

 

 彼はタイピングする手を止め、ゆっくりと鬼龍院の方へ向き直った。

 

「……ああ。お前の言う通りだ、鬼龍院」

 

「ほう?」

 

「過去の行いは、どれだけ悔いても決して消えることはない。俺の傲慢さと幼さのせいで、多くの優秀な生徒の未来を奪ってしまった。今となっては、本当に申し訳ないことをしたと心の底から思っている」

 

 南雲の口から紡がれた、あまりにも素直な謝罪。その声音には、嘘偽りのない深い後悔と、確かな覚悟が滲んでいた。

 

「だが……だからこそ、俺はもう逃げない。過去の罪を一生背負った上で、これからの生徒会を、この学校を、誰もが納得する正しい形へ導いてみせる。それが、俺にできる唯一の贖罪であり、これからの俺の義務だ」

 

 南雲の迷いのない宣言に、生徒会室にいた役員たちは一様に驚きに目を見開いた。あの傍若無人だった南雲雅が、真っ当な生徒会長として学校のために尽くすと宣言したのだ。

 

 鬼龍院も一瞬だけ目を丸くした後、クスクスと面白そうに肩を震わせた。

 

「くははっ! これは傑作だ。同級生としてずっと君を見てきたが、ここまで劇的に変わるとはね。……一体、誰に影響されたんだか」

 

 鬼龍院はそう言いながら、目を細めて意味深な視線を私へと向けてきた。

 

(いや、俺じゃ無いって!!)

 

 私は内心で激しく首を横に振った。

 

(確かに、あの合宿で徹底的に南雲の心をへし折って、どん底に叩き落としたのは俺かもしれないけど! あそこから立ち直らせて、改心させたのは間違いなく朝比奈先輩の献身と、学先輩と橘先輩の寛大さのおかげだって! 俺はただ、生徒会の業務を円滑に進めるために『あからさまにビクビクすんな』って伝言しただけで、急にこんな聖人君子みたいな真人間になるなんて微塵も思ってなかったからね!?)

 

 私に向けられる『お前が変えたんだろ』という鬼龍院からの面白がるような視線。

 

 だが、ここで慌てて否定するのは私の魔王としての美学が許さない。

 私は内心の盛大なツッコミを完璧なポーカーフェイスで隠し、ただフッと短く笑い、窓の外へと視線を逸らすだけにとどめた。

 

「……フッ。止まっていた歯車が、本来の軌道を取り戻しただけのことだ。特筆すべきことではない」

 

「ふふ、相変わらず面白い後輩だ」

 

 鬼龍院は満足そうに微笑み、南雲もまた、小さく息を吐いて書類作成へと戻っていった。

 

 

 ――生徒会の業務を予定通りに終わらせた私は、足早に図書室へと向かっていた。

 

 放課後の静かな図書室。独特の紙とインクの匂いが漂うその空間の奥で、窓際の席に座る一人の少女の姿を見つけた。

 

 銀色に輝く美しい髪。色素の薄い神秘的な瞳。彼女は分厚いハードカバーの小説を熱心に読み耽っていたが、私の足音に気づくと、パタンと本を閉じて顔を上げた。

 

「あっ……惣右介くん!」

 

 椎名ひよりは、花が綻ぶような、ふわりとした柔らかい笑顔を向けてくれた。

 

「お待ちしていましたっ。生徒会のお仕事、お疲れ様です」

 

(……うおおおおおっ! 今日のひよりも超絶可愛いなぁ!!)

 

 先ほどまでの生徒会での重苦しい空気など一瞬で吹き飛び、私の心の中は暖かな春の日差しに包まれていた。

 

「――待たせたね、ひより。栞を挟む手は止められたかな」

 

「はい。ちょうどキリの良いところでしたから。ふふっ、行きましょうか」

 

 私たちは自然な動作で立ち上がり、図書室を後にする。

 

 今日は二月十四日。バレンタインデーということもあり、私たちはこの後、ケヤキモールへデートに出かける約束をしていたのだ。

 

 廊下を歩きながら、私はそっとひよりの右手に自分の左手を重ねる。ひよりは一瞬だけビクッと肩を揺らしたが、すぐに嬉しそうに私の手をギュッと握り返してくれた。

 

 その小さくて温かい感触に、私の口角は自然と緩みっぱなしだった。

 

 ケヤキモールは、いつにも増して多くの学生たちで賑わっていた。

 バレンタイン特設コーナーのピンクや赤の装飾が目を引き、あちこちでカップルたちが楽しそうに笑い合っている。私たちもその幸福な空気の中を、手を繋いでゆっくりと歩いた。

 

 今日のメインの目的は、映画鑑賞だ。

 以前、二人で一緒に読んで感想を語り合った本格ミステリ小説が実写映画化され、モールの映画館で上映されているのだ。ひよりが「どうしても惣右介くんと一緒に観たいです」と誘ってくれたため、このバレンタインデートの予定に組み込まれたのである。

 

 私たちはポップコーンとドリンクを買い、暗いシアター内のペアシートへと腰を下ろした。

 

 やがて照明が落ち、巨大なスクリーンに映像が映し出される。

 

 本格的なミステリ作品ということもあり、序盤から複雑な人間関係や細かな伏線が画面の至る所に張り巡らされていく。

 

 当然、すでに原作の小説を読破し、ひよりと感想まで語り合っている私にとっては、真犯人の正体も、アリバイトリックの仕組みも、動機の根幹すらも最初から完全に分かっている状態だ。

 

 だが、だからといってこの映画が退屈だったわけではない。

 

 結末が分かっていてもなお、原作の緻密なロジックをどう映像として落とし込み、観客を欺こうとしているのか、その演出技法や映像美には確かな芸術性が宿っていた。カメラワークの意図や役者の視線の動きなど、実写ならではの工夫も随所に光っている。ひよりが誘ってくれたこの映画は、間違いなく素晴らしい完成度を誇る名作だった。私はその精巧に作られた盤面を、上空から俯瞰するように楽しんでいた。

 

 しかし――私の脳の処理能力の半分以上は、スクリーンではなく、すぐ隣に座るひよりに向けられていた。

 

 スクリーンの淡い光に照らされたひよりの横顔。

 

 彼女は物語にすっかり入り込んでいるらしく、探偵がピンチに陥るシーンでは「あっ」と小さく口を開けて息を呑み、謎が解明に向かうシーンでは身を乗り出すようにして目を輝かせ、穏やかな日常シーンではホッと肩の力を抜いて微笑む。

 

(尊い……!! なにこの生き物、マジで大天使すぎる。真剣にスクリーンを見つめる瞳も、ちょっと口が半開きになってるのも、全部が尊い……っ!もちろん、映画の緻密なロジックも素晴らしい。だが! 今俺の目の前にある『ひよりの笑顔』こそが、この空間において最も価値のある至高の芸術だ!! 映画も最高だけど、ひよりも最高!! デート最高!!)

 

 私は内心で激しく悶絶しながら、映画の完璧な鑑賞と、ひよりの可愛さの堪能という、二つの極上の体験を同時に並行処理して味わい尽くしていた。

 

 映画が終わった後、私たちは夕食の材料を買い出しし、私の部屋へと向かった。

 

 二人で作ったオムライスを向かい合って食べる。

 

「映画、とっても面白かったですね! 原作の小説とは少し犯人の動機が変更されていましたけれど、映像ならではの伏線の張り方が素晴らしかったです!」

 

 ひよりは目をキラキラと輝かせながら、映画の感想を熱っぽく語ってくれる。

 

「特に、中盤のあの密室トリック! 小説を読んだ時は少し想像しにくかったんですが、映像で見るとすごく説得力がありましたよね。惣右介くんはどう思いましたか?」

 

「――ああ。盤上に散りばめられたピースが、一つの真実へと収束していく様は見事だった。特に、冒頭の鏡の反射を利用した視線誘導。あれは観客の心理の盲点を突く、非常に計算された美しい演出だ。原作の持つ緻密なロジックを損なうことなく、映像作品としての最適解を提示していたと言える」

 

 私が映画の演出意図やトリックの構造について完璧な分析を交えてオサレに答えると、ひよりは感嘆したように小さく拍手をした。

 

「さすが惣右介くん、そんな細かいところまで気がついていたんですね! 私が誘った映画を、そこまで真剣に、深く楽しんでくれて……すごく、すごく嬉しいです!」

 

「――当然だ。君が私に提示してくれた世界に、目を背ける理由などない」

 

(訳:ひよりのおすすめ映画なんだから、全力で楽しむに決まってるじゃん!)

 

「えへへ……。私も、惣右介くんと一緒に観られて本当に良かったです」

 

 ひよりは嬉しそうに目を細め、オムライスを口に運んだ。

 

 夕食を終え、温かい紅茶を淹れてソファーで並んで座る。

 部屋には静かで、穏やかな時間が流れていた。

 

 すると、ひよりが少しだけソワソワと落ち着かない様子でモジモジし始めた。彼女は持参していた小さな紙袋から、綺麗にラッピングされたリボン付きの箱をそっと取り出す。

 

「あの、惣右介くん……」

 

 上目遣いで私を見つめるひよりの瞳には、微かな緊張と、いっぱいの期待が入り混じっていた。

 

「今日は、バレンタインデーですから。……その、私なりに、一生懸命作ってみたんです。……もしよかったら、受け取ってくれますか?」

 

 差し出されたのは、間違いなく手作りのチョコレートだった。

 

(――っっっ!!!)

 

 私の心臓が、今日一番の大きな音を立てて跳ね上がった。

 

(ひよりの手作りチョコ!!! キタアアアアアッ!!! やばい、嬉しすぎる!! この世界にこれ以上尊い物質が存在するのか!? いや、無い!! 絶対に無い!!)

 

 内心で歓喜の雄叫びを上げ、サンバを踊り狂う私。だが、ここで興奮を露わにしてしまえば威厳が台無しだ。

 

 私は極限まで高ぶる感情を強靭な精神力で抑え込み、ゆっくりと、優雅な動作でその箱を受け取った。

 

「――美しいな。君の指先が紡ぎ出したこの甘美なる結晶は、どんな名工の宝石よりも価値がある。……有難く、私の渇きを潤す糧とさせてもらおう」

 

(訳:ひより、本当にありがとう!! 手作りチョコめちゃくちゃ嬉しいよ!! 大切に食べるね!!)

 

 私が甘く、そしてオサレに感謝を告げると、ひよりは花が咲いたような極上の笑顔を見せた。

 

「ふふっ、こちらこそ、受け取ってくれてありがとうございます、惣右介くん!」

 

 その後、私はひよりが作ってくれたチョコを一つだけその場で味見させてもらった。口の中に広がる優しい甘さは、間違いなく私の人生で味わったどんなチョコよりも美味しかった。

 

 門限の時間がギリギリになるまで、私たちは肩を寄せ合い、映画のパンフレットを眺めながら二人きりの甘くまったりとした時間を過ごした。

 

 夜の冷たい風が吹く中、ひよりを彼女の部屋の前まで送り届ける。

 

「今日は、本当に素敵な一日でした。ありがとうございました、惣右介くん」

 

「――君の歩む道に、いつでも私の光が共にあることを忘れないでほしい。おやすみ、ひより」

 

「はいっ。おやすみなさい、惣右介くん」

 

 手を振り、部屋へと入っていくひよりを見送る。

 

 閉じられたドアを見つめながら、私はポケットの中にある、残りのチョコが入った箱の感触をそっと確かめた。

 

 甘く、穏やかで、そして確かな温もりを感じたバレンタインデー。

 このかけがえのない日常を守り抜くためなら、私はどんな過酷な試験であろうとも、勝利を掴み取ってみせると冬の夜空に瞬く星々に誓ったのだった。

 

 

 

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