いつからここが尸魂界だと錯覚していた?   作:yvrararara

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六十三話

 三月五日。

 理不尽な生贄の儀式である『クラス内投票』を明日に控えた、朝のホームルーム。

 

 担任である星之宮先生が教壇に立つなり、バンッと勢いよく手を叩いた。

 

「みんなおはよう! 朝からすっごいビッグニュースというか、重要なお知らせがあるんだけど……なんと! 今回の特別試験に限って、プライベートポイントによる『退学取り消し』の権利が、半額の一千万ポイントになりましたーっ!」

 

 星之宮先生の明るい声に、教室が一瞬静まり返り、直後に大歓声が巻き起こった。

 

「マジかよ!? 一千万なら、クラスの貯金で全然余裕じゃないか!」

 

「よかったぁ……。これならクラス貯金もかなり余裕を残せるね!」

 

 クラスメイトたちが手を取り合って安堵の笑みを浮かべる中、私は一人、静かに腕を組んで目を閉じていた。

 

(……俺の尊厳と羞恥心を犠牲にして『黒棺』の完全詠唱した甲斐があったな。……いや、思い出すだけで顔から火が出そうだけどな!! もう絶対二度とやらんぞあんなこと!!)

 

 私は内心で盛大に身悶えしつつも、表面上は絶対者の余裕を崩さず、静かに微笑を浮かべていた。

 

 ふと視線を前に向けると、教壇に近い席に座る一之瀬も、クラスの無事が確定的になったことに安堵の笑みを浮かべていた。だが、彼女はすぐに少しだけ考え込むように視線を落とし、何かを思案しているようだった。

 

 ホームルームが終わり、一時間目の授業が始まるまでの僅かな時間。

 私とひよりの席に、一之瀬と神崎が揃ってやってきた。

 

「藍染くん、ひよりちゃん。ちょっといいかな?」

 

「ああ、構わないよ」

 

 一之瀬は嬉しそうに微笑みながらも、ひどく申し訳なさそうな、少しだけ思い詰めたような表情を浮かべた。

 

「退学回避の条件が一千万ポイントになって、私たちのクラスの貯金にはかなり余裕が出たよね。それで……その、すごく勝手なお願いなんだけど……」

 

 一之瀬は迷うように言葉を濁した後、意を決したように私とひよりを見つめた。

 

「CクラスとDクラスの子たちが退学にならないように……うちのクラスの余ったポイントを、貸してあげるのはどうかなって、思って」

 

(……やっぱり一之瀬なら、そう考えるよな)

 

 私は内心で深く頷いた。彼女の底抜けの善性なら、自分たちが助かっただけで満足するはずがない。困っている他クラスの生徒を見過ごせないのは、一之瀬帆波という人間の美徳だ。

 

(だが……こればっかりはクラス皆の大事な貯金だ。いくら余裕ができたとはいえ、流石にこの四人だけで決めるわけにはいかないな)

 

 私が思考を巡らせていると、隣に立つ神崎がすぐに厳しい顔で反対の意を示した。

 

「一之瀬。お前の優しさは立派だ。俺も個人的にはその理念を尊重したい気持ちはある。だが、俺たちは今、クラス間闘争の最中なんだぞ? 何のメリットもなく他クラスを助けるというのはどうなんだ? それに……あの下位の二クラスに貸したとして、まともに返済される保証がどこにある?」

 

 神崎の言葉は、ぐうの音も出ないほどの正論だった。

 

「それは……」

 

 一之瀬が言葉に詰まる中、ひよりが静かに口を開いた。

 

「帆波ちゃんのお気持ちは、とてもよくわかります。ですが……やはり、クラスの貯金である以上、クラスメイトの皆さんに聞いて、全員が納得してから動くべきだと思います。それに、貸すのであれば条件として『相手のクラス全員が納得し、返済の約束をすること』を絶対の条件にする必要があります」

 

「やっぱり、私の我儘すぎるよね……ごめんなさい」

 

 一之瀬がシュンと肩を落とす。

 

「ふふっ。帆波ちゃんのその優しさは、とても素敵ですよ」

 

 ひよりは優しく微笑みかけ、落ち込む一之瀬をフォローするように言葉を紡いだ。

 

「ですが、善意だけでは組織は立ち行きません。クラスメイト全員が納得できる使い方をしないと、今後のクラス運営に支障をきたしてしまいます。私個人としては……何かしらの『Aクラスへの明確なメリット』さえ提示できれば、提案自体は問題ないかと思います」

 

「……そうだな。一之瀬、さっきはキツい言い方をしてすまなかった」

 

 神崎も少しだけ表情を和らげ、一之瀬へと向き直る。

 

「俺たちのクラスのリーダーはお前だ。お前が望むなら、その意思を可能な限り尊重しよう。だが、椎名の言う通り、クラスを納得させるための最低限の条件は必要だ」

 

「ひよりちゃん……神崎くん……ありがとう」

 

 一之瀬は瞳を潤ませながら、パッと顔を上げた。

 

「惣右介くんは、どう思いますか?」

 

 ひよりが私に視線を向ける。

 

(……理不尽な退学者を出さないためにも、他クラスへのポイント貸与自体には賛成だ)

 

(月城へ牽制も出来たし、次回の試験で退学者が大量に出るような試験が行われる可能性は低い。だが、いざという時の救済ラインである二千万ポイントの半数をここで手放す以上、ただの慈善事業で終わらせるわけにはいかない)

 

(だからこそ、神崎やひよりの言う通り、クラス全員が納得できる明確な『見返り』の提示は不可欠だろう)

 

 私は思考をまとめると、余裕たっぷりに微笑み、オサレな言葉を紡いだ。

 

「――太陽が己の光を分け与えるのは、大地に恩恵をもたらすためではない。ただ、自らが光り輝く絶対的な存在であるが故だ。だが……光を受け取る側の作法として、相応の供物は必要だろうね」

 

「『私個人としては貸してもいいと思いますが、みんなを納得させるための条件や見返りは必要ですね』とのことです!」

 

 ひよりが完璧に翻訳すると、一之瀬は嬉しそうに頷いた。

 

 その後、一之瀬は授業前の僅かな時間を使って、クラスの皆にその提案を説明した。

 

「みんな、聞いてほしいの。私たちには余裕ができたけど、CクラスやDクラスには一千万でも厳しいかもしれない。だから……もし向こうが望むなら、私たちのポイントを貸してあげたいの。もちろん、無条件じゃなくて、ちゃんと私たちのクラスにもメリットがある形にするから……!」

 

 一之瀬の必死な訴えに対し、クラスメイトたちの反応は概ね好意的なものだった。

 

「一之瀬がそうしたいなら、俺たちは反対しないよ」

 

「うん。でも、流石に無条件でタダ貸しするってなると……万が一返ってこなかった時、クラスの貯金が減るだけになっちゃうから不安かな」

 

「それなら、向こうのクラスの子たちが全員で持っているポイントをかき集めて、それでも足りない分の『不足分』だけを貸すって形ならどう? それで、利子をつけて返してもらうなら、私たちにとっても損はないと思うし」

 

「それに、返済が遅れたり踏み倒されたりしないように、学校側から毎月強制的に徴収できるようにちゃんと契約に盛り込むべきだろうな」

 

 クラスの財産を守るための現実的な意見が出される中、一之瀬は真剣な表情でコクリと頷いた。

 

「……うん、強制徴収の契約は私も必要だと思う。みんなの大事なポイントを貸す以上、そこはしっかりしないとね。でも、これ以上厳しいペナルティを設定したり、法外な利子をつけたりするのはやめよう」

 

「私の我儘かもしれないけど……彼らを助けるためにポイントを貸すのに、厳しすぎる条件で向こうの首を絞めすぎちゃったら、本末転倒になっちゃうから……」

 

 一之瀬の優しくも芯のある言葉に、クラスメイトたちも「それもそうか」「一之瀬らしいな」と納得の笑顔を浮かべた。

 

 こうして、クラスメイトたちから建設的な意見が次々と出され、最終的に貸し出しの条件が決定した。

 

『Cクラス・Dクラスがクラス全員からポイントを徴収し、なお足りない不足分のみを貸し出す』

 

『貸し付けたポイントには十パーセントの利子を上乗せして返済してもらう(例:五百万貸すなら五百五十万にして返済)』

 

『返済が滞った場合は、学校側を通じて強制的にポイントを徴収する契約を結ぶ』

 

 一之瀬の優しさと、Aクラスとしての盤石なリスク管理が両立した提案だった。

 

 今日の放課後には、私たちAクラス自身が明日の投票へ向けて『票のコントロール』の最終確認をする話し合いが予定されていたため、交渉は昼休みを利用して行うことになった。

 

 手分けして行動するため、Cクラスへの交渉は一之瀬と神崎が。そしてDクラスへの交渉は、私とひよりが向かうこととなった。

 

 

 昼休み。

 一之瀬と神崎は、Cクラスの教室へと足を踏み入れた。

 

「……なんだ? Aクラスの奴らが、なんの用だ?」

 

 Cクラスの生徒たちは、突然の来訪者に対して明らかに警戒の色を見せていた。

 

「みんな、急にごめんなさい。ちょっとだけ話を聞いてほしいの」

 

 一之瀬は教壇の前に立ち、今朝の通達で一千万ポイントでの救済が可能になったことを前提に、Cクラスの現状を案じる言葉を口にした。

 

「もし、みんなでポイントをかき集めても一千万に届かないなら……私たちAクラスから、不足分を少しの利子付きで貸すことができるよ。そうすれば、Cクラスからも退学者を出さずに済むかもしれない。だから――」

 

「あー、はいはい。ストップ」

 

 一之瀬の言葉を遮ったのは、教室の後方で女子たちと固まっていた真鍋志保だった。

 

「なに? Aクラスの優等生様は、わざわざ下っ端のクラスに慈悲をかけに来たってわけ? 悪いけど、余計なお世話でーす」

 

 真鍋は鼻で笑いながら、一之瀬を小馬鹿にするように手をヒラヒラと振った。

 

「うちのクラスからは、もう『退学する人間』が決まってるから。あいつを救うために、私たちが大事なポイントを出すわけないじゃん」

 

「そーそー。あんな奴のために一千万とか、馬鹿馬鹿しい」

 

 真鍋の取り巻きの女子たちも、口々に同調する。彼女たちにとって、かつての暴君・龍園が退学になることは確定事項であり、むしろ歓迎すべきことだったのだ。

 

「ほ、本当にいいの……? クラスの仲間が、退学しちゃうんだよ!?」

 

 一之瀬が狼狽えながら問いかける。

 

「仲間ぁ? 冗談キツいわ。あんな奴、退学してくれた方が清々するわよ! とにかく、あんたたちの偽善には付き合ってらんないから。余計なお世話よ」

 

 真鍋の冷酷な言葉に、教室の隅で静かに息を潜めていた石崎が、限界を迎えたように立ち上がった。

 

「てめぇ……! 真鍋ぇッ!!」

 

「な、なによ! なんか文句あるわけ!?」

 

 石崎が殺気を放ちながら睨みつけると、真鍋も負けじと声を荒げた。

 

(……クソが。笑ってられるのも今のうちだぜ。こっちは既にBクラスと取引して、龍園さんが退学する可能性は消滅してんだよ……! 明日、絶望に顔を歪めて退学になるのはテメェだ!!)

 

 石崎は内心で怒りを滾らせながらも、ここで計画を暴露するわけにはいかないため、ギリッと奥歯を噛み締めて再び席に座り直した。

 

「……わかった。もし、気が変わったら今日の放課後までに教えてね。待ってるから」

 

 一之瀬は深く悲しそうな顔をして、教室を後にした。

 廊下に出た一之瀬に、神崎が静かに声をかける。

 

「気にするな。お前は悪くない。クラスによって方針や抱えている事情は違うからな。俺たちには、これ以上どうすることもできない」

 

「……うん。悲しいけど、仕方がないよね……」

 

 一之瀬は、分断されたCクラスの現状に心を痛めながら、力なく頷くことしかできなかった。

 

 

 一方、その頃。

 私とひよりは、Dクラスの教室へと向かっていた。

 

 昼休みということもあり、食堂や購買へ向かおうと席を立つ生徒も多い。ここでダラダラと話しかけても、まともに取り合ってもらえないだろう。

 

 私は教室の入り口に立つと、極めて偉そうで威圧的な声を響かせた。

 

「――歩みを止めたまえ。この私が直々に、言葉を下賜しよう。……さあ、席に着くんだ」

 

「ひっ……!?」

 

「せ、生徒会副会長……!?」

 

「くっ……! この肌を直接焼くような強大な重圧……流石は我らが『絶対的支配者』たる藍染様……! 畏れ多くも、この身に貴方の深淵なる言の葉を刻ませていただこう……ッ!」

 

 突然、自らの右腕を疼かせるように押さえながら、池が一人だけ真顔でそんな痛々しいセリフを叫んだ。

 

(池ェェェェッ!? 堀北さんが前言ってたけど、こんなに酷いの!? いや、いくらなんでも俺、ここまで酷くないけど!? 完全に末期の症状じゃねーか!!)

 

 私は盛大にツッコミたい衝動と顔から火が出そうな羞恥を必死に堪え、表面上は冷徹な表情を崩さずに教卓へと歩を進めた。

 

 私は教壇に立つと、一之瀬と同様の条件――全員からポイントを徴収し、不足分に一割の利子をつけて貸し出す。そして、返済が滞った場合は学校を通じた強制徴収の契約を結ぶ――という提案を、ひたすらオサレで傲慢な言葉で告げた。

 

「『私たちはAクラスのリーダーである一之瀬さんの意思でここに来ました。もしあなたたちがクラス全員のポイントを集めても一千万に届かない場合、不足分に十パーセントの利子をつけてお貸ししますよ。ただし、万が一返済が遅れた場合は、学校側を通じて強制的に徴収する契約を結ばせていただきます』とのことです!」

 

 ひよりが完璧な翻訳を披露すると、教室がざわめいた。

 

 真っ先に反応したのは、クラスのまとめ役である平田だった。

 

「ほ、本当かい!? それなら、是非貸してほしい! 利子分も含めて、僕たちDクラスが必ず返すって誓うから……!」

 

 平田が希望の光を見出したように顔を輝かせた、その瞬間。

 

「はぁ!? ふざけんなよ!!」

 

 教室の空気をぶち壊すような、下品な怒声が響き渡った。

 

 立ち上がったのは、山内春樹だった。

 

「なんで俺たちのポイントを全部集めないとダメなんだよ!? 貸してくれるって言うなら、お前らが一千万全部払ってくれたらいいだろ!! どうせAクラスにはポイントがいっぱい余ってんだからさぁ!」

 

 ピシッ。

 山内のあまりにも身勝手で乞食のような発言に、教室の空気が完全に凍りついた。

 

(……………………は?)

 

 私は内心で、ドン引きを通り越して絶句していた。

 

(こ、こいつ……マジで言ってんのか? 自分たちのクラスメイトを救うためのポイントを、なんで俺たちが全額負担しなきゃいけないんだよ。そもそも、助けてもらう側のお前たちが身銭を切る誠意すら見せないで、うちのクラスメイトたちが納得するとでも思ってるのか……? しかもこいつ、Dクラスの『三馬鹿』って呼ばれてる奴の一人だろ? 日頃の素行を考えれば、真っ先に退学候補になるのはお前なんじゃないのか……?)

 

 あまりの馬鹿さ加減に私が頭を抱えそうになっていると、最後列に座っていた堀北鈴音が鋭い声で一喝した。

 

「黙りなさい! 山内くん!あなたは自分がどれほど恥知らずなことを言っているのか理解しているの!?」

 

「なっ、なんだよ堀北! 俺は間違ったこと言ってねーだろ!」

 

「間違っているわ。根本的にね」

 

 堀北は山内を冷たく切り捨てると、鋭い視線を私へと向けた。

 

「……藍染くん。あなたの目的は何? わざわざ私たちを下に見るような態度で、こんな好条件を提示してくるなんて……裏に何か思惑があるんじゃないの?」

 

「フッ。穿った見方だな。だが、安心したまえ。私の個人的な思惑など、この盤面には一切介在していない。――先ほども言っただろう。これはあくまで、光り輝く太陽……Aクラスのリーダーである一之瀬帆波の『慈悲』だ」

 

「『裏に何か思惑があるわけではありません。これは純粋に、Aクラスのリーダーである帆波ちゃんの優しさからの提案です』とのことです!」

 

 ひよりが穏やかに完璧な翻訳を披露する。

 

「……一之瀬さんの厚意、ということね。穿った見方をしてごめんなさい」

 

 堀北は僅かに警戒を解き、小さく息を吐いた。

 

「……私たちのクラスにとって、ありがたい話であることは事実よ。平田くんの言う通り、私たちは――」

 

「ちょっと待ってよ!」

 

 堀北が交渉に乗ろうとした矢先、今度は篠原や本堂たちが反発の声を上げた。

 

「いくら足りない分を貸してくれるって言っても、私たち個人のプライベートポイントが全部なくなっちゃうのは嫌なんだけど!」

 

「そうだよ! 俺だって今月買いたいゲームあるのにさ!」

 

「愚か者どもめッ!」

 

 突如、教室に池の芝居がかった大声が響き渡った。

 

「藍染様が、我らのために慈悲深き御言葉を下賜してくださっているというのに……ッ! その深淵なる真意が理解できないとは、貴様ら、あまりにも救いようがないぞッ!」

 

「寛治! お前は黙ってろ! 話がややこしくなるだろ!」

 

 須藤が頭を抱えながら、すかさず激しいツッコミを入れる。

 

「そ、そうだよ、みんな落ち着いて……。誰かが退学になっちゃうなんて、私、やっぱり悲しいよ……っ。だから、少し我慢してでも一之瀬さんたちの提案に乗った方がいいんじゃないかな?」

 

 櫛田も不安げな表情を作り、胸の前で手を組みながらクラスを宥めようとする。

 

「フハハハハ! これはまた、随分と滑稽な喜劇だねぇ」

 

 そんな混沌とし始めた教室の片隅で、高円寺だけは我が道を行くように優雅に脚を組み、一人だけ楽しそうに私の方へと視線を向けていた。

 

 教室の中で、平田や櫛田、堀北を中心とする『賛成派』と、山内や篠原を中心とする『反発派』が真っ二つに割れ、激しい言い争いが始まった。

 

(……ええー……? マジかよ……。自分たちの置かれてる状況分かってんのか?)

 

 私は、醜い言い争いを繰り広げるDクラスの惨状を前に、内心で深くため息をついた。

 

(これでも、かなりそっちに有利な条件だと思うんだがな。返済が遅れたら強制徴収されるとはいえ、それ以上のペナルティを設定しているわけでもない。最後にちょっと色をつけて返してくれってだけの話なのに……自分の身銭を切るのが嫌で、この一年間苦楽を共にした仲間を切り捨てるって言うのか?)

 

 私は視線を巡らせ、教室内でただ一人、静かにその光景を見つめる男の姿を探した。

 

(……清隆。お前は何を考えているんだ? お前ならば、この異常な空間をまとめ上げることも可能だろうに。なぜ静観している?)

 

 私の視線に気づいたのか、あるいはただの偶然か。清隆は無機質な瞳でこちらを向いた。

 

「みんな、落ち着いて! ここはクラスから退学者を出さないのが一番大事なことじゃないかッ!!」

 

 平田が、これまでにないほどの大声で叫んだ。その顔は悲痛というより、激しい怒りに赤く染まっている。

 

「どうして……どうしてそんな酷いことが言えるんだ! クラスメイトが退学になるかもしれないんだぞ! 誰かが傷ついていい理由なんて、どこにもないんだッ!」

 

 平田が机をバンと叩くと、教室が一瞬だけしんと静まり返った。

 

「平田くんの言う通りよ。感情論を抜きにしても、ここで退学者を出すべきではないわ」

 

 静寂を縫うように立ち上がった堀北が、平田に同調する声を上げた。

 

「私たちに資金がない以上、Aクラスからポイントを借り入れる……つまり多額の借金を背負うことになるわね。それでも、ここで欠員を出して他クラスと人数差を付けられる絶望的な不利に比べれば、借金をしてでも退学者を防ぐ方が、今後のためにはよほど合理的な選択なのよ」

 

「ちょっと待ってよ! 堀北さん、さっきからリーダーぶって偉そうに言ってるけどさ!」

 

 堀北の論理的な指摘に真っ向から噛み付いたのは、篠原だった。

 

「私たちのクラスが、ここからAクラスなんて目指せるわけないじゃない! どうせ上がれないなら、誰かを庇ってポイントをすっからかんにするより、退学者を出してでも手元にポイントを残しておいた方が絶対にいいわよ!」

 

「篠原の言う通りだぜ! 別にいいじゃねーか、この試験はクラスで嫌われてる奴がいなくなるだけだろ!?」

 

 山内が悪びれずに同調し、ヘラヘラと笑いながら決定的な言葉を吐き捨てた。

 

「むしろ、足引っ張ってる奴が消えてくれた方が俺たちにとっても都合がいいだろ!」

 

「……っ! 君たちという人は本当にッ!!」

 

 二人の冷酷な割り切りに、平田の瞳に宿っていた理性が完全に弾け飛んだ。

 

「誰かが犠牲になってもいいなんて、どうしてそんな風に簡単に言えるんだ!!」

 

 平田の顔は怒りで引きつり、今にも二人に掴みかからんばかりの剣幕だった。平田が怒りで震える中、山内や篠原の意見に同調する反発派の声も重なり始め、教室は収拾のつかない混沌へと加速していく。

 

 堀北は、かつてない平田の異常な怒りの剣幕と、論理が全く通用しないクラスの空気に呑まれ、言葉を失ってその場に立ち尽くしていた。

 

 クイッ、クイッ。

 私の隣で、ひよりが静かに私の袖を引いた。彼女を見下ろすと、ひよりは哀しそうな顔で、静かに首を横に振った。

 

(……ああ。これ以上の交渉は無意味だな。こんな有様なら、いっそポイント貸与の提案など持ち込まない方が良かったか。下手に希望を見せたせいで、彼らの絶望をより深くしてしまった。……せっかく動いてくれた一之瀬を悲しませないためにも、この醜悪な顛末は胸の内に留めておこう)

 

 私は静かに目を閉じ、交渉の打ち切りを決断した。

 

「――フッ。見苦しい泥の底で、互いの足を引っ張り合うといいだろう。空の星々を掴む意志すらない者たちに、私が与える光など一筋も存在しない」

 

 私がオサレで偉そうな捨て台詞を教室に響かせ、背を向けたその時だった。

 

「待ってくれ! 藍染くん!」

 

 悲痛な叫びと共に、平田がすがりつくように声を上げてきた。その顔は深い絶望に染まり、差し出した手は微かに震えている。

 

「絶対に返すと誓うから……! 僕が責任を持ってなんとかするから……だから、どうにか……っ!」

 

(……平田。お前は本当に、底抜けにお人好しでいい奴なんだろうな)

 

 私は必死に訴えかける平田の姿に、内心で静かに同情する。

 

(だが、さすがにここまで酷い状態のクラスに、うちのクラスのみんなが必死に貯めてきた大事なポイントを貸すわけにはいかない。お前一人で背負うと言っても限界があるし、強制的に徴収しようにもあの感じなら反発する生徒も多く、絶対に話がまとまらないだろう)

 

 どれだけ平田一人が足掻こうと、このクラスの崩壊はすでに手遅れなのだ。

 

「――這いつくばって見上げる空に、救済はないと知れ」

 

 私はピシャリと冷酷にそう言い放ち、歩みを進めた。

 

「あ……ああ……っ」

 

 背後で、完全に希望を絶たれた平田が、力なく膝から崩れ落ちる気配がした。それでも、私は振り返ることなくDクラスの教室を後にする。

 

 廊下を歩き出し、あの混沌とした教室からある程度距離を取ったところで、隣を歩くひよりがぽつりとこぼした。

 

「……平田くんには申し訳ないですけど……さすがに、あの状態では貸せませんね……」

 

「……ああ」

 

 私はひよりの冷静な言葉に同調し、前を見据えたまま静かに返す。

 

「自ら泥水をすする道を選んだ者たちに、差し伸べる手など不要だ。……彼らはただ、己の引いた狭い境界線の中で渇きゆく運命にある」

 

 

 昼休みの終わり際。

 私とひよりがAクラスの教室に戻ると、すでに一之瀬と神崎の姿があった。

 私たちは四人で集まり、互いの交渉結果について報告し合った。

 

「残念だが、交渉は決裂だ。Dクラスは返済に向けた意思統一ができず、貸与の条件を満たせなかった」

 

 私は一之瀬を無駄に傷つけないよう、あの教室で起きた醜悪な罵り合いや、身勝手な理由で仲間を切り捨てるような実態は伏せ、あくまで『条件の不一致』として結果だけを伝えた。

 

「そっか……。CクラスもDクラスも、ダメだったんだね……」

 

 一之瀬が悲しそうに目を伏せ、小さく息をつく。

 

「俺たちの提案は、決して悪くない条件だったはずだ。だが、向こうのクラスが内部で完全に割れてしまっている以上、どう足掻いても契約は結べないな」

 

 神崎が、淡々と客観的な事実を述べる。

 

(……神崎の言う通りだ。だが、実際は『意見が割れている』というレベルすら通り越して、すでに崩壊していたからな)

 

 私は内心でそう補足しながら、静かに頷いた。

 

(結局、月城から強引に譲歩を引き出せたのはよかったが……実際に得をしたのは、退学者を回避するだけの財力と結束力があったAクラスとBクラスのみ、か)

 

 私は卵焼きを口に運びながら、内心で思考を巡らせる。

 

(もし龍園が失脚していなければ、あいつの独裁体制でポイントを徴収して、話はまた違った結果になっていたかもしれないな。それにしても……Dクラスのあの有様は、かなり酷かった)

 

 自分の保身のために仲間を売り、あまつさえポイントを出してもらうことを当然のように要求してきた山内。そして、目先の数万ポイントを惜しんで仲間の退学を容認しようとする生徒たち。

 

(……いや、彼らを一方的に責めることはできないか。ずっとクラスポイントが最底辺で、毎月の極貧生活を強いられている状況から、なけなしの全額を徴収されるとなれば……ああいう反応をする生徒がいても、おかしくはないか)

 

 私は、目の前で落ち込む一之瀬や、静かに弁当を食べるひよりと神崎、そして談笑しているクラスメイトたちへと視線を向けた。

 

(もし、うちのクラスが同じ状況に陥ったとしたら……みんな迷うことなく、自らの身銭を切って仲間を助ける道を選ぶだろうな)

 

 圧倒的な『格差』。それは単なるポイントの差だけではない。クラスとしての理念、結束力、そして互いを思いやる心の差だ。

 

 私は、Aクラスの揺るぎない絆を再確認し、来たるべき明日の『クラス内投票』に思いを馳せた。

 

 

 

 

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