いつからここが尸魂界だと錯覚していた? 作:yvrararara
三月二十四日。
肌寒い風の中に微かな春の暖かさが混じり始めた早朝。高度育成高等学校の生徒会室には、かつてないほどの張り詰めた、しかしどこか清々しい空気が漂っていた。
「マイクの音響テスト、および来賓席の最終チェックは完了している」
「ああ。吹奏楽部の配置と、卒業生入場の動線確保も完璧だ」
桐山や殿河からの報告を受け、上座に立つ南雲が静かに頷いた。
「ご苦労。……いよいよだな。三年生たちを送り出す大仕事だ。一切の抜かりなく、完璧な式典にするぞ」
「「「はいっ!」」」
南雲の号令に、生徒会役員全員が力強く応える。私と一之瀬もその中に混じり、真剣な面持ちで頷いた。
最後の打ち合わせを終えた私たちは、そのまま卒業式の舞台となる体育館へと移動し、最終準備に取り掛かった。紅白の幕が張られ、壇上には見事な生花が飾られている。パイプ椅子は寸分の狂いもなく整列し、厳粛な式典の幕開けを静かに待っていた。
午前九時。
在校生と教職員、そして保護者や来賓が着席し、静寂に包まれた体育館に、吹奏楽部が奏でる荘厳な入場行進曲が鳴り響いた。
「――卒業生、入場」
司会の教師の声と共に、体育館の後方にある大きな扉が開かれる。
拍手喝采の中、先頭を切って入場してきたのは、三年Aクラス。その先頭を歩くのは、元生徒会長であり、この学校の絶対的な模範であった堀北学先輩だ。厳格で威風堂々としたその歩みは、最後までこの学校のトップであり続けた者の誇りに満ちていた。
その少し後ろには、元書記の橘茜先輩の姿もある。彼女はすでに入場した時点で目を真っ赤に腫らし、必死に涙を堪えながら歩いていた。
そして、その後ろに続くクラスの列の中には、あの混合合宿で私と同じ大グループになり、共に過酷な試験を乗り越えた権田先輩をはじめとする、元三年Dクラスの面々の姿もあった。
彼らは合宿での奮闘をきっかけにクラス全体の士気を爆発させ、諦めることなく戦い抜き、最後の最後に見事な下克上を果たして、三年Cクラスへと昇格して卒業の日を迎えたのだ。晴れやかな笑顔で胸を張って歩く権田先輩たちの姿を見た瞬間、私の胸の奥で何かが熱く込み上げてきた。
(うわぁぁぁぁ……! ダメだ、俺、めちゃくちゃ泣きそうなんだけど!! 堀北先輩も橘先輩もみんな本当に今日で卒業しちゃうんだな……。我慢しろ俺の涙腺! 藍染惣右介はこんな公の場で鼻水を啜ったりしないんだよ!!)
内心では大号泣しそうになりながらも、私はあくまで涼しい顔で、優雅に微笑みながら拍手を送り続けた。
やがて卒業生全員が着席し、式典は粛々と進行していく。
卒業証書授与、校長からの祝辞、来賓祝辞と続き――いよいよ、在校生代表による送辞の時間がやってきた。
「――在校生代表、送辞。生徒会長、南雲雅」
名前を呼ばれた南雲は、堂々とした足取りで壇上へと上がり、マイクの前に立った。
「……春の息吹が感じられる今日の佳き日、卒業を迎えられる三年生の皆様に、在校生を代表して心よりお祝い申し上げます」
最初は定型文から入った南雲先輩だったが、次第にその言葉は、彼自身の熱を帯びた生きた言葉へと変わっていった。
「我々在校生にとって、先輩方の背中は常に高く、そして遠いものでした。この高度育成高等学校という過酷な環境において、数々の困難な特別試験を乗り越え、常に最前線を走り続けてこられた先輩方の姿は、我々後輩にとっての確かな道標でした」
南雲は体育館に並ぶ三年生たちを真っ直ぐに見据え、静かに、しかし確かな意志を込めて言葉を紡ぐ。
「時に厳しく、時に寛大に我々を導いてくださった先輩方。その背中から己の未熟さを思い知らされると同時に、上を目指すための強い渇望を与えていただきました。……中でも、前生徒会長である堀北学先輩には、反発を繰り返す俺の野心を受け止め、生徒会長としての在り方を示していただいたことに、深く感謝しております」
南雲は、かつての傲慢だった自分を省みるように一度言葉を区切り、再び顔を上げた。
「先輩方が築き上げ、守り抜いてきたこの学校の偉大な歴史は、俺たちが確かに引き継ぎます。そして――俺たちは、俺たちのやり方で、先輩方が残した功績を必ず超えてみせます。それが、残された後輩としての最大の恩返しだと信じて」
南雲らしさである野心と自信を残しつつも、そこには確かな成長と、深い敬意が込められていた。その素晴らしい送辞に、私は内心で(南雲、めっちゃ立派な生徒会長になってるじゃん……!)と深く感動していた。
続いて、卒業生代表による答辞。
壇上に上がったのは、当然、堀北学先輩だ。
「――答辞。本日、我々は三年間の学び舎を巣立ちます。振り返れば、この高度育成高等学校での日々は、決して平坦なものではありませんでした。理不尽な試験、クラス間の熾烈な争い、己の無力さへの絶望。幾度となく打ちのめされそうになったこともありました」
静まり返った体育館に、学先輩の深く、重みのある声が響き渡る。
「しかし、我々は一人ではありませんでした。競い合い、時には手を差し伸べ合った仲間たちがいたからこそ、今日という日を迎えることができました。……在校生の皆さん。この学校での経験は、必ずや君たちの血肉となります。立ち止まるな。常に前を向き、己の信じる道を切り開いていってほしい」
厳格でありながらも、学校と生徒たちを心から思いやる、愛に満ちた素晴らしい答辞。
その言葉の重みに、私は内心で深く深く頷きながら、静かに、そして優雅に微笑んだ。
式は終盤に差し掛かり、ついに『その時』がやってきた。
「――最後に、在校生を代表して、生徒会副会長・藍染惣右介より、閉式のことば」
司会の声に合わせ、私は静かに立ち上がった。
体育館中の視線が、一斉に私へと突き刺さる。壇上へと向かう赤絨毯を歩きながら、私は必死に頭の中で言葉を整理していた。
(よし、大丈夫だ俺! 昨日考えた通り、『先輩方、ご卒業おめでとうございます。先輩方のこれからの未来が、明るく素晴らしいものであることを祈っています』っていう無難で礼儀正しい言葉を言えばいいんだ! それさえ言えれば、この卒業式は完璧な形で幕を下ろせる!)
マイクの前に立ち、私は静かに息を吸い込んだ。
しかし――。
私の前に座る、三年間を戦い抜いた卒業生たちの顔。
涙を流す橘先輩、誇らしげな権田先輩、そして、私を真っ直ぐに見つめる堀北学先輩。
その姿を見た瞬間、私の中に潜む『藍染惣右介』の魂が、そんな定型文のような薄っぺらい無難な挨拶など、絶対に許してはくれなかった。
「――別離を嘆く必要はない。それは決して喪失などではなく、君たちが次なる高みへと至るための必然の過程に過ぎない」
私の口から紡がれたのは、マイクを通さずとも体育館全体を震わせるほどの絶対的な覇気を孕んだ声だった。
(あぁぁぁぁっ!! 違う!! 俺が言いたいのはそんなポエムじゃない!!)
内心の絶叫など露知らず、私は卒業生たちを見渡し、傲慢に、しかし彼らの三年間を全て肯定するような慈愛を込めて微笑むと、さらに極上のオサレポエムを朗読し始めた。
「この過酷な盤上で、君たちは幾度も絶望に打ちのめされただろう。己の限界を悟り、理不尽に歯を食いしばった日もあったはずだ。だが――君たちは決して、地を這うことを良しとはしなかった。競い合い、奪い合い、時に手を取り合って足掻き続けたその泥臭い熱情こそが、君たちを紛れもなく『強者』へと進化させたのだ」
しんと静まり返る体育館。教師も、在校生も、そして当の卒業生たちすらも、全員が私の放つ圧倒的な言霊に魂を鷲掴みにされていた。
「もはや、君たちの歩みを阻む壁など存在しない。社会という名の混沌に放たれようとも、決して他者の引いた軌跡をなぞるな。既存の理に傅き、恐怖に立ち竦むには、君たちの魂はすでに気高すぎる」
それは、天に立つ者が人に与える啓示の如く、重く、深く、体育館の空気を支配していく。
「己の足で踏み荒らし、己の意志で世界を創り変えろ。君たちが歩みを進めたその足跡こそが、これからの未来を統べる新たなる『理』となるのだから。……この箱庭を去り行く気高き者たちへ、最大のはなむけを贈ろう」
私はフッと目を細め、静かに、そして力強く告げた。
「――君たちの未来に、絶対の光があらんことを」
静寂。
数秒の後――卒業生たちの席から、堰を切ったように啜り泣く声が聞こえ始めた。
感極まって涙を流し、肩を震わせる生徒たちが多数。橘先輩に至っては、もはやハンカチで顔を覆って号泣している。
そして、先頭に座る堀北学先輩は、私の顔を見て「お前になら、この学校を任せられるな」とでも言うように、深い信頼と安堵の入り混じった表情で、微かに微笑んで頷いた。
(めちゃくちゃ偉そうなこと言ってる!! 完全に神様みたいな上からの目線で喋っちゃったよ俺!! 『絶対の光があらんことを』って、ここは教会か何かか!? ……でも、卒業生のみんなの心には響いたみたいだし、学先輩も笑ってくれてるから……よかったぁぁぁ……)
私は内心で盛大なセルフツッコミを入れつつ、安堵の息を吐き出した。
同時に、本当にこれで彼らとお別れなのだという寂しさが、じわじわと胸の奥に広がっていくのを感じていた。
その後、卒業式は無事に閉式し、吹奏楽部の演奏と共に卒業生たちが退場していった。
――数時間後。生徒会室。
後片付けのために集まった生徒会のメンバーたちは、皆どこかやり切ったような、満足げな表情を浮かべていた。
「さすがは藍染だ。あの厳粛な空気の中で、あれほど堂々とした演説をやってのけるとはな」
南雲が、呆れたような、それでいて感心したような笑みを浮かべて私の肩を叩いた。
「ふふ……私としたことが、つい貰い泣きしそうになってしまったよ。お前の言葉には、人の魂を震わせる妙な引力があるな」
普段は飄々としていて感情を表に出さない鬼龍院先輩までもが、珍しく真面目な顔つきで目を細め、私を褒め称えた。
「ふっ、俺たちが卒業する時も、お前のあんな演説が聞けることを期待しているぜ」
南雲の言葉に、私は涼しい顔で「気が向いたらな」とだけ返しておく。
「すごくよかったよ、藍染くん! 私、感動してずっと泣いちゃってた……!」
隣に立つ一之瀬も、まだ少し目元を赤くしながら満面の笑みを向けてくれた。
夕方からは『謝恩会』が開催される。私たちは会場へ向かい、食事や飲み物の手配などの手伝いを行った。
謝恩会が始まり、会場が和やかな空気に包まれた頃。
私は、ロビーで待たせていたひよりを連れて、学先輩と橘先輩に最後の挨拶をしようと会場内を歩いていた。
その途中――。
「藍染!!」
不意に背後から声をかけられ、振り返ると、そこには権田先輩をはじめとする、混合合宿の際の大グループの先輩たちが立っていた。
「権田……。それに、皆もか」
「おう! 卒業式、最高に感動したぜ! お前のあのすげえ言葉、心にビンビン響いたんだよな!」
権田先輩は照れくさそうに笑いながら、私の前に立った。
「それに……お前には、どうしても直接お礼が言いたくてな。あの混合合宿で、圧倒的な実力を見せつけて俺たちを引っ張ってくれたお前を見たおかげで……俺たち、最後まで諦めずに足掻くことができたんだ。ずっとDクラスの底辺で諦めてた俺たちの士気を上げてくれたのは、間違いなくお前だ。本当に、ありがとうな!」
権田先輩の言葉に、他の先輩たちも深く頷き、私に向けて深々と頭を下げた。
(う、嬉しい……! 嬉しいけど、俺、さっきめちゃくちゃ偉そうなこと言っちゃったよ!? それなのにこんなに感謝してくれるなんて……権田先輩たち、本当にいい人たちだな! 本当に、卒業おめでとうございます!!)
内心で大感激しながらも、私の口から出力されるのは、やはり絶対強者としての傲慢な言葉だった。
「――泥に塗れることを恐れぬ者にのみ、掴める星がある。君たちが自らの足で歩み続けた軌跡こそが、その昇格の証だ。誰に感謝する必要もない。誇るがいい」
(だから偉そうなんだってば!! 『誇るがいい』じゃないよ!!)
私が内心で頭を抱えていると、隣にいたひよりが一歩前に出て、パァッと明るい笑顔で口を開いた。
「惣右介くんは、『最後まで諦めずに頑張った皆さんの努力の賜物ですね。本当におめでとうございます』と言っています!」
「おおっ! お前、やっぱすげえいい奴だな! じゃあな、藍染! お前も立派に卒業しろよ!」
権田先輩たちはひよりの完璧な翻訳のおかげでさらに感動した様子で、爽やかに手を振って去っていった。
(ひより……! ありがとう!)
権田先輩たちを見送った後、私たちは会場の奥で談笑している学先輩と橘先輩の姿を見つけた。すでにそこには、南雲、桐山、朝比奈先輩たちの姿もあり、別れの挨拶を交わしているところだった。
「学。橘」
私が声をかけると、学先輩と橘先輩がこちらを振り返った。
「藍染。……一之瀬と、椎名もか」
「堀北先輩、橘先輩、ご卒業おめでとうございます! 藍染くんとひよりちゃんと一緒に、お祝いを言いに来ました!」
一之瀬が明るく、けれど少し寂しそうに微笑む。
「ふふ、ありがとう。藍染くんも、本当に素晴らしいことばをありがとうね。私、また泣いちゃいました」
橘先輩は嬉しそうに目を細め、「藍染くんたちのこれからの活躍、すごく期待しています!」と温かい言葉をかけてくれた。
「ああ。……藍染。お前には、本当に助けられた。これからの生徒会を、この学校を頼む」
学先輩も、いつもの厳格な表情の中に確かな優しさを滲ませて、私に向けて深く頷いた。
「……案ずるな。私の目の黒いうちは、この箱庭の無様な衰退など許しはしない」
私はオサレにそう返し、南雲たちと共に先輩たちとの最後の談笑を楽しんだ。
その会話の中で、三月三十一日に学先輩たちが正式にこの学校を去る前までに、一度生徒会のメンバー全員で慰労会を兼ねて焼肉を食べに行くことが決まった。
やがて南雲や桐山たちが気を利かせてその場を離れ、私とひより、一之瀬だけが残されたタイミングを見計らい、学先輩が静かに口を開いた。
「藍染。……三月三十一日、俺はこの学校を去る」
「ああ。知っている」
「……その日、お前も見送りに来てくれるか?」
学先輩の問いかけに、私はフッと不敵な笑みを浮かべた。
「当然だ。私が見送らないわけにはいかないだろう」
「……恩に着る。最後の最後は、鈴音と会おうと思っている。……その前に、来い」
「承知した」
妹との和解。それこそが、この不器用な兄が学校に残した最後の心残りなのだ。
――その日の夜。
男子寮の私の部屋で、私とひよりは二人で向かい合って夕食をとっていた。
卒業式と謝恩会を終えた後の、少しだけ気の抜けた静かな時間。
「……やっぱり、お別れとは悲しいものですね」
ひよりが、温かいお茶の入ったマグカップを両手で包み込みながら、ぽつりと呟いた。
「茶道部の先輩たちにもお別れの挨拶をしてきたんですが……どうしても、寂しい気持ちになってしまいました」
俯き加減のひよりの頭を、私は優しく撫でた。
(そうだよね。お世話になった先輩がいなくなるのは、やっぱり寂しいよな……)
私も心の中ではしんみりとしていたが、口から紡がれる言葉は、ひよりの寂しさを吹き飛ばすような、強くて甘いものだった。
「……そうだね。だが、ひより。これは決して悲しい別れなどではない」
私はオサレな笑みを浮かべ、窓の外の夜空を見つめた。
「彼らは先に、夜明けへと旅立っただけだ。……いつか我々もこの箱庭を卒業し、遥かなる高みへと至ったその時、再び彼らの前で、我々の進化を見せようじゃないか」
離れ離れになることを悲しむのではなく、いつか再会した時に、自分たちがどれほど成長したかを見せつけることを楽しみにしよう。
そんな私の不器用な慰めの意図を、ひよりは完璧に理解してくれた。
「そうですねっ!」
ひよりは顔を上げ、先ほどまでの寂しさを吹き飛ばすような、満面のパァッとした笑顔を咲かせた。
「わたしたちも、先輩たちに負けないように頑張りましょう!」
「ああ。君と共に歩む未来に、死角はないさ」
私はオサレに頷き返し、彼女の淹れてくれたお茶をゆっくりと口に運んだ。
激動の一年目が終わり、別れの春が過ぎていく。
だが、私たちの歩む軌跡は、まだ始まったばかりだった。