いつからここが尸魂界だと錯覚していた?   作:yvrararara

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七十二話

 三月二十六日の朝。

 春休み初日を迎え、ゆっくりと起床した私は、ベッドの傍らに置いていたスマートフォンの画面が点滅していることに気づいた。

 

 画面を開くと、見慣れないグループチャットが作成されていた。メンバーは私とひより、そして橘茜先輩の三人。

 

 トーク画面には、今朝早くに橘先輩から送られてきた長文のメッセージが投下されていた。

 

『藍染くん、椎名さん。おはよう! 朝早くからごめんなさい! 昨日は本当に、本当にありがとう! お二人が背中を押してくれたおかげで……私、無事に告白することができました! そして……お付き合いすることになったの! 本当に、ありがとう!』

 

(おおおおおおおおっ!! やったぁぁぁぁぁっ!!)

 

 メッセージを読んだ瞬間、私はベッドの上でガッツポーズを決め、内心で歓喜の雄叫びを上げていた。

 

(本当によかったぁ……! あの厳格で不器用な学先輩と、ずっとその背中を追いかけ続けてきた橘先輩。俺が心から尊敬する二人が、ようやく結ばれたんだ! 本当に、本当に嬉しいなぁ!)

 

 私は大興奮しながら、指を高速で動かして返信を打とうとする。

 

(ここは素直に「おめでとうございます!」と送るべきか……? いや、待て。俺からいきなりそんな普通のテンションのメッセージが届いたら、逆に気味悪がって戸惑うかもしれない。キャラクター性を保ちつつ、最大限の祝福を伝える完璧な言い回しが必要だな……!)

 

 一瞬の思考の末、私は絶妙なオサレ具合に調整したメッセージを打ち込んだ。

 

『――心よりの祝福を。君たちの往く道が、これからも眩い光に満ちていることを願っている。交際おめでとう』

 

 すると、ほぼ同タイミングでひよりもメッセージに気づいたのか、可愛らしいスタンプと共に祝福の言葉が送られてきた。

 

『橘先輩、本当におめでとうございます! わたしも自分のことのように嬉しいです! 勇気を出した橘先輩は、本当に素敵です!』

 

 私たちのメッセージに、すぐに橘先輩から返信が来る。

 

『二人とも、本当にありがとうね! それで……もし、今日二人が予定がなかったら、藍染くんの部屋で料理を作ってくれないかな? 実は、この学校を去る前に最後に藍染くんの料理を食べたいねって、学くんと話してたの』

 

 続けて、ポンポンとメッセージが追加される。

 

『もちろん椎名さんも来てね! 明日は生徒会のお別れ会だから、椎名さんには今日直接感謝を伝えたいの!』

 

(…………っ!?)

 

 私はスマートフォンの画面を二度見、いや三度見した。

 

(『学くん』!? 今、『学くん』って書いてあったよね!? 堀北くんじゃなくて、学くん!? うわぁぁぁぁぁ尊い!! なにその初々しいカップルみたいな呼び方! いやカップルになったばっかりなんだけどさ!! 朝から破壊力が高すぎる!!)

 

 顔を火照らせて悶絶する私の元に、ひよりから個別のメッセージが届いた。

 

『惣右介くん。もともと今日は惣右介くんのお部屋で一緒に晩ご飯を食べる予定でしたから、ちょうどいいですね!』

 

 ひよりの言う通り、今日はもとから二人でまったりと過ごす約束をしていたのだ。

 

『ああ。予定通り日中から私の部屋で過ごして、夕方に二人を迎え入れよう』

 

 ひよりにそう返信し、橘先輩へのグループチャットにも快諾の旨を伝えた。

 ベッドから抜け出し、手早く身支度を整える。

 

 やがて、予定通り私の部屋へとやってきたひよりと共に、穏やかな読書の時間を楽しんだ。

 

 春の陽光が差し込む部屋で、お互いに好きな本を読みながら、時折感想を語り合う。私の肩に寄りかかってページを捲るひよりの銀髪から、甘く良い香りが漂ってくる。至福の時間だった。

 

 

 そして夕方。

 私たちは、今夜の晩餐のための買い出しにケヤキモールのスーパーへと向かった。

 

「今宵は趣を変えよう。獣の肉は退け、母なる海と大地の恵みが織り成す、繊細で気高き調べを奏でるとしようか」

 

「賛成です! せっかくのお祝いですから、素敵なものにしましょう!」

 

 ひよりと二人で食材を選びながら、メニューを組み立てていく。

 

 前菜には『彩り野菜とサーモンのテリーヌ』、スープは『冷製ヴィシソワーズ』、メインには『真鯛のポワレ・ヴァンブランソース』、そしてシメに『帆立とアスパラガスのジェノベーゼパスタ』という、フランス料理のフルコース風に決定した。

 

 部屋に戻り、キッチンに並んで立つ。ひよりが一生懸命に野菜を洗ったり切ったりして手伝ってくれる姿が愛らしく、私は終始オサレな笑みを絶やすことなく調理を進めた。

 

 

 午後十九時。

 ピンポーン、と部屋のチャイムが鳴った。

 

「あっ、わたしが出ますね!」

 

 ひよりがパタパタと玄関へ向かい、ドアを開ける。

 

「堀北先輩、橘先輩、いらっしゃいませ!」

 

「椎名さん……!」

 

 ドアが開くや否や、橘先輩がひよりにガバッと抱きついた。

 

「本当に、本当にありがとう……! 椎名さんが背中を押してくれなかったら、私、絶対に言えなかった……!」

 

 涙ぐみながら感謝を伝える橘先輩の背中を、ひよりは優しく撫でる。

 

「ふふっ。わたしも、橘先輩の幸せそうな顔が見られて本当に嬉しいです。……さあ、中に入ってください」

 

 ひよりに促され、二人がリビングへと入ってくる。

 

「藍染、椎名。……急な頼みを聞いてくれて、感謝する」

 

 堀北学先輩は、いつもの厳格な表情を崩してはいないものの、どこか気恥ずかしそうに、少しだけ頬を染めながら小さく頭を下げた。

 

「――さあ、王とその伴侶の席はすでに用意してあるよ。掛けるがいい」

 

 私は腕を広げ、ダイニングテーブルへと二人を案内した。

 席に着く際、学先輩がごく自然な動作で橘先輩の椅子を引きながら、静かに声をかけた。

 

「ほら、茜。座れ」

 

「あ、うん。ありがとう、学くん」

 

「…………ッ!!」

 

 私は危うく、手に持っていたワイングラス(中身はぶどうジュース)を落としそうになった。

 

(あ、茜!? まさかの下の名前呼び!? お互いに!? うわぁぁぁぁぁ破壊力高すぎるって!! あの鉄仮面みたいな学先輩が、ナチュラルに彼女をエスコートして『茜』って呼んでる!! 尊い!! 尊死する!!)

 

 内心で大絶叫し、床を転げ回りたくなる衝動を必死に抑え込みながら、私はあくまで涼しい顔で料理をサーブした。

 

「さあ、始めようか。新たなる門出に――乾杯」

 

「「「乾杯!」」」

 

 四人でグラスを合わせ、和やかな晩餐がスタートした。

 

「……美味いな。相変わらず、お前の料理は凄い」

 

 真鯛のポワレを口に運んだ学先輩が、感嘆の息を漏らす。

 

「この学校を去る前に、どうしてももう一度お前の料理を食べておきたかったんだ。俺も茜も、お前の味が忘れられなくてな」

 

「本当に美味しい! レストランのフルコースみたい!」

 

 橘先輩も、目を輝かせながら舌鼓を打っている。

 すると、私の隣に座るひよりが、えへんっと胸を張り、とても可愛らしいドヤ顔を見せた。

 

「ふふっ。惣右介くんの料理は世界一ですからっ!」

 

 恋人の愛らしい姿に内心でデレデレになりながら、私は「君たちの口に合って何よりだ」とオサレに微笑んだ。

 

 美味しい料理を楽しみながら、話題は自然と昨日の『告白』の顛末へと移っていった。

 

「それで……どうやって告白したんですか?」

 

 ひよりが、少し身を乗り出してストレートに尋ねる。

 その直球な質問に、橘先輩は「ひゃっ!」と変な声を上げ、学先輩もゴホッと小さく咳き込んで顔を赤らめた。

 

「そ、その……夕方に、思い切って学くんを寮の裏に呼び出して……」

 

 顔を真っ赤にしてモジモジしながら、橘先輩が語り始める。

 

「すごく足が震えて、声も上擦っちゃったんだけど……藍染くんと椎名さんが言ってくれた言葉を思い出して……『ずっと前から好きでした、学くんの特別になりたいです』って……」

 

「…………」

 

 語りながらさらに顔を赤くして俯く橘先輩。その隣で、学先輩もまた、ひどく照れくさそうに片手で顔を覆っていた。

 

「……恥ずかしながら、俺はこれまで、茜の想いに全く気づくことができなかった。己の視野の狭さを痛感するばかりだ」

 

 学先輩は深く息を吐き、橘先輩の方を優しく見つめた。

 

「だが……告白を聞いた瞬間、俺は自分の中にあった明確な答えに気づいた。……俺の隣には、茜にいてほしいと、そう思ったんだ」

 

(おおおおおおおおっ!! 学先輩!! いい!! 最高だね!! 青春だね!!)

 

 私は内心で盛大なスタンディングオベーションを送りつつ、静かに口を開く。

 

「――当然の帰結だ。王の隣には、それに相応しい花が咲く。君たちの魂が惹かれ合うのは、星々が導かれるように絶対の理なのだから」

 

 オサレな言葉で二人を祝福する。

 すると、私の言葉を聞いたひよりが、パァッと花が咲くような心からの笑顔を浮かべた。

 

「本当に、お二人が結ばれてよかったです。橘先輩のずっと温めてきた想いが届いて……わたしも、自分のことのように嬉しいです」

 

 ひよりは両手を胸の前で合わせ、純粋な喜びを込めて祝福の言葉を紡いだ。

 

「ありがとう、椎名さん……っ。本当に、椎名さんと藍染くんのおかげだよ」

 

 橘先輩が照れくさそうに、けれど幸せいっぱいの笑顔で返す。

 学先輩も、少しだけ目元を緩ませて深く頷いた。

 

「ああ。お前たち二人が茜の背中を押してくれたこと、俺からも礼を言う。……ありがとう」

 

(うわぁぁぁ! 何この空間、幸せオーラが満ち溢れてて最高すぎる!! 俺とひよりの応援が、尊敬する先輩たちの幸せに繋がったなんて……感無量だよ!!)

 

 私は内心で感動の涙を流しつつ、絶対強者の外面を保つため「……ふっ、他愛もない」と涼しい顔で微笑みを返した。

 

 食事が終わり、ひよりが淹れてくれた香りの良い紅茶と共に、和やかなティータイムを楽しむ。

 

 やがて夜も更け、二人が帰る時間となった。

 

「藍染くん、椎名さん。今日は本当にありがとう」

 

 玄関先で、橘先輩がひよりの手を両手で優しく包み込む。

 

「私も学くんも、三十一日にこの学校を旅立ちます。だから、最後の日は……ぜひ、お見送りに来てほしいの」

 

 橘先輩は、晴れやかな笑顔でそう告げた。

 

「もちろん、藍染くんもね!」

 

「はいっ。もちろんです。喜んで行かせていただきます」

 

 ひよりが嬉しそうに頷くと、私もフッと目を細めて答えた。

 

「――当然だ。我々が見送らないわけにはいかないだろう」

 

「……ああ。二人とも、改めて感謝する。……明日の焼肉も、楽しみにしているぞ」

 

 学先輩は最後に少しだけ表情を和らげて微笑み、橘先輩と肩を並べて私の部屋を後にした。

 

 二人の背中を見送った後。

 リビングに戻り、ひよりと共に食器の後片付けを始める。

 

「……あの二人が幸せそうで、惣右介くんもとても嬉しそうですね」

 

 スポンジで皿を洗いながら、ひよりがふわりと微笑みかけてきた。

 その言葉に、私はお皿を受け取りながら、オサレに肯定する。

 

「――無論だ。己の歩む道を定めることができた魂は、等しく尊く、そして美しい。彼らの往く道に祝福を贈るのは、後に続く者としての礼儀だからね」

 

(訳:めちゃくちゃ嬉しいし尊くて最高だね!! ほんと、あの二人がくっついてくれて良かった!!)

 

 私の言葉の裏にある本心を完璧に読み取ってくれた、ひよりは「ふふっ」と楽しそうに、そして愛おしそうに笑った。

 

 

 翌日、三月二十七日。

 春休みの二日目。昨夜は愛しい恋人と共に、堀北学先輩と橘先輩の新たなる門出を祝うという最高に尊い時間を過ごしたが、今日はうってかわって静かな午前中を迎えていた。

 

 今日の夜は生徒会メンバー全員での『お別れ会』が予定されているが、それまでの日中は特に予定がない。ひよりは今日、一之瀬たちAクラスの女子グループに誘われて遊びに出かけている。

 

「……暇だな」

 

 自室のソファに寝転がり、私は天井を見上げて呟いた。

 

(せっかくの春休みなのに、昼間から一人で部屋にいるのもなぁ。……そうだ! 清隆でも呼んで、一緒にゲームして遊ぼう!)

 

 思い立ったが吉日。私はすぐさま端末を手に取り、清隆へと短いメッセージを飛ばした。

 

 数分後、綾小路から『わかった』とだけ返信があり、ほどなくして私の部屋のチャイムが鳴った。

 

「――よく来たね、清隆。さあ、上がるがいい」

 

「……ああ。お邪魔する」

 

 相変わらず感情の読めない平坦な表情の綾小路を部屋に招き入れる。

 時計の針はちょうどお昼時を指していた。

 

「――まずは昼食にしよう。……至高の味わいをもたらす『黄金の一皿』を君に供しよう」

 

 オサレで傲慢に宣言し、私はエプロンを身に着けてキッチンへと立った。

 

 手際よく卵とご飯をフライパンで煽り、ネギと自家製のチャーシューを刻んで投入。パラパラに仕上がった黄金色の炒飯を皿に盛り付け、綾小路の前に差し出す。

 

「……相変わらず、お前の作る料理は美味いな、惣右介」

 

 一口食べた綾小路が、淡々としながらも確かな感心を込めて呟いた。

 

(ふふっ、だろう? 俺の炒飯は火力が命だからな!)

 

 内心で得意げに胸を張りつつ、私は「当然だ。私の歩む道に、妥協など存在しない」と涼しい顔でお茶を啜る。

 

 しかし、私の向かいで炒飯を口に運ぶ綾小路の内心は、決して穏やかなものではなかった。

 

(……惣右介。またオレを呼び出してきたか。本当にただ昼食を振る舞ってゲームをするだけなのか……? いや、この男に限って意図のない行動をとるとは考えにくい)

 

 綾小路は、息をするように吐き出される私の言葉の裏を探るように思考を巡らせていた。

 

 そんな彼の警戒など露知らず、私は炒飯を食べながら、ふと気になっていた話題を口にした。

 

「そういえば……学年末特別試験の結果は、残念だったね。やはり、清隆といえど、根本的なクラスの能力差を完全に覆すことは厳しかったのかな?」

 

 私は目を細め、彼を試すような視線を向けた。

 その問いに、綾小路の手がピタリと止まる。

 

(……特別試験のことか。惣右介はオレが負けた原因を、クラスの能力差だと結論づけている。……惣右介は月城がホワイトルームからの刺客であることはすでに知っている。ここで、今回の試験における月城の不正介入があったことを伝えておくべきか? 生徒会役員である惣右介が味方にいる状況は、月城を牽制する上で非常にありがたい。だが……)

 

 綾小路は少しの間沈黙し、すぐにその考えを打ち消した。

 

(いや……坂柳の言葉を信じるなら、惣右介はいざという時、確実にオレに協力してくれるはずだ。ならば、焦って今ここで情報を開示する必要はない。このカードを切るべき、もっと最適なタイミングが必ず訪れる)

 

 僅かな沈黙の後、綾小路は小さく息を吐き、言葉を濁すように静かに答えた。

 

「……そうだな。オレがどう足掻こうと、生徒一人一人の能力差が最終的な勝負を分けた。坂柳の采配も完璧だった。オレの力不足だ」

 

「……ふっ、そうか」

 

 私はオサレに口角を吊り上げた。

 

「盤上の駒の性能差は、盤を握る者の才覚すらも凌駕したというわけだ。……だが、敗北を知ることは決して恥ではない。その絶望こそが、君をさらなる高みへと押し上げるのだからね」

 

(訳:そっかぁ、やっぱりBクラスは強かったか! まあ、清隆ならこの負けをバネにして、また強くなるだろうね!)

 

 昼食を終えた後は、夕方まで二人で格闘ゲームに興じた。

 

「甘いね。その隙は、致命的だ」

 

(よっしゃぁ! 昇龍拳決まった!! 俺の勝ち!!)

 

「……くっ」

 

(なんでオレは休日にまで、この底知れぬ男の相手をして神経をすり減らしているんだ……)

 

 私は純粋にゲームを大満喫し、清隆は終わりの見えない心理戦に一人で疲労困憊するという、いつもの時間が過ぎていった。

 

 

 夕方になり、清隆を見送った後。

 私は身支度を整え、今夜の『お別れ会』の会場となっているケヤキモール内の高級焼肉店へと向かった。

 

 店の前には、すでに私服姿の一之瀬が立って待っていた。

 

「あっ、藍染くん! こっちこっち!」

 

「……待たせたね、一之瀬」

 

 私が歩み寄ると、一之瀬はパァッと明るい笑顔を浮かべた。

 

「ううん、私も今来たところ! 堀北先輩たちの最後のお別れ会だもん、後輩が先輩たちを待たせるわけにはいかないからね!」

 

「……心意気は立派だ」

 

 私はオサレに頷きつつ、ふと彼女に尋ねる。

 

「今日はひよりたちと遊びに行っていたのだろう? 楽しめたかな?」

 

「うんっ! もう、すっごく楽しかったよ!」

 

 一之瀬は嬉しそうに目を輝かせた。

 

「みんなでショッピングに行ってきたんだけどね、ひよりちゃん、すっごく可愛い服を買ってたんだよ! 今度のデート、藍染くんも楽しみにしててね!」

 

(ひよりの春服……!! 可愛い服……!! うわぁぁ絶対に似合う!! 天使が春を纏って降臨するじゃん!! 早く見たい!! 一之瀬たち、最高のショッピングをありがとう!!)

 

 内心でホワホワと幸せな気持ちに包まれ、大興奮しながらも、私はフッと目を細めた。

 

「……ふっ。どんな装いであろうと、彼女の真なる美しさを覆い隠すことなど不可能だが……春の息吹を纏った彼女の姿は、この退屈な世界に極上の彩りをもたらすことだろう。大いに期待させてもらうよ」

 

「ふふっ、藍染くんってば、ひよりちゃんのことになると本当に嬉しそうだね」

 

 一之瀬はくすくすと笑い、私たちは連れ立って店内へと入った。

 

 予約していた広い座敷の個室に入ってしばらくすると、襖が開き、現生徒会の二年生メンバーが揃って姿を現した。

 

「おお、藍染に一之瀬。一年生組はもう来てたか」

 

「お疲れ様です、南雲先輩」

 

「あとは主役の二人が来るのを待つだけだな」

 

 南雲が上座を空けたまま席に着く。

 それからさらに数分後、再び襖が静かに開き、堀北学先輩と橘茜先輩が揃って個室へと入ってきた。

 

「……待たせたな」

 

「ご、ごめんなさい! 皆さん、お待たせしちゃって……!」

 

 どこか気恥ずかしそうな学先輩と、顔を真っ赤にしてペコペコと頭を下げる橘先輩。

 

「お疲れ様です、堀北先輩、橘先輩。さあ、こちらへ」

 

 南雲が立ち上がり、上座の席を二人に勧めた。

 全員が席に着き、まずは南雲の音頭で乾杯が行われた。

 

 喉を潤した後、学先輩は小さく咳払いをし、静かに、しかし確かな声で口を開いた。

 

「……お前たちには、俺がこの学校を去る前に、一つだけ報告しておきたいことがある」

 

 個室の空気がピリッと引き締まる。

 学先輩は、隣に座る橘先輩の方をチラリと見やり、言葉を続けた。

 

「……俺と茜は、昨日から正式に交際することになった。苦楽を共にしてくれた生徒会のメンバーには、隠さず伝えておくべきだと思ってな」

 

 その報告に、一瞬の静寂が落ちた。

 そして――。

 

「ええっ!? ほ、本当ですか!? おめでとうございます、堀北先輩、橘先輩!!」

 

 一之瀬がパァッと顔を輝かせて祝福の声を上げた。

 

 学先輩の政権下では生徒会に所属していなかった殿河や溝脇、鬼龍院先輩といった二年生メンバーたちも、驚きつつも温かい拍手を送る。

 

「ほほう。あの厳格な堀北先輩にも、春が訪れたというわけか。それはめでたいな」

 

 鬼龍院が面白そうに目を細めて笑った。

 

 そして、南雲は手元のグラスを軽く掲げ、フッと不敵に笑いかけた。

 

「……ははっ。ようやく、付き合い出したんですね。見ていて少しもどかしかったですが……おめでとうございます、堀北先輩、橘先輩」

 

 それは、南雲なりの、先輩への最大の敬意と祝福だった。

 

「ああ。……感謝する」

 

 学先輩は少しだけ照れくさそうに頷き、橘先輩は「も、もどかしかったって……みんなにそんな風に見られてたんですね……!」と両手で顔を覆って恥ずかしがっていた。

 

 祝福のムードに包まれたまま、和やかな焼肉の宴が始まった。

 私は迷わず学先輩と橘先輩の前の席に陣取り、トングを握りしめた。

 

(任せてくださいよ先輩方! 今日は俺が、最高の肉奉行としてお二人をおもてなししますからね!)

 

「――焦燥は、肉の旨味を殺す」

 

 私はオサレなセリフと共に、最高級のカルビやロースを網の上に並べていく。

 

「炎という名の試練を越え、己の命の輝きを絶頂まで高めた瞬間……その一瞬の芸術を、私が完璧に切り取ってみせよう」

 

 オサレポエムを垂れ流しながらも、私のトング捌きは一切の無駄がなく、完璧なタイミングで肉を返し、最高の焼き加減に仕上げていく。

 

 網の上で肉が焼ける音と香ばしい匂いが漂う中、南雲が学先輩に杯を向けた。

 

「堀北先輩。俺は、来年もあなたを追いかけるつもりです。あなたが進学する大学に、俺も必ず行きますよ。……そこで、今度こそあなたを超えてみせます」

 

「……そうか」

 

 学先輩は、かつての敵対していた後輩の力強い宣戦布告を、どこか頼もしそうに受け止めた。

 

「南雲。お前のその野心は、時に刃となる。だが、その刃を正しい方向へと振るうことができれば、必ずや大きな事を成し遂げるだろう。……期待しているぞ」

 

「ええ。見ていてください」

 

 二人の間に交わされる、男同士の熱い約束。

 

 一方、テーブルの反対側では、橘先輩、鬼龍院、一之瀬の三人で、珍しい女子トークに花が咲いていた。

 

「橘先輩、これからデートとかいっぱい行けますね!」

 

「えっ!? デ、デートなんてまだ全然……! そもそも、学くんがそういうロマンチックな場所に行く姿が想像できなくて……」

 

「くくっ。なら、私がとっておきの場所を教えてやろう。あの堅物には少し刺激が強いかもしれんがな」

 

 あの鬼龍院先輩が、楽しそうに女子たちの恋愛トークに交ざっている光景は、なかなかシュールで面白かった。

 

 宴は終始和やかな雰囲気で進み、やがてお開きの時間となった。

 

 店の外に出ると、春の夜風が心地よく火照った頬を撫でた。

 

「……皆、今日は本当にありがとう」

 

 学先輩が、生徒会メンバー全員を見渡して静かに口を開いた。

 

「俺はこの学校を去るが、お前たちが築いていく新たな歴史を、楽しみにしている。……これからの高度育成高等学校を、頼むぞ」

 

「「「はいっ!!」」」

 

 南雲や桐山をはじめ、私たち全員が深く頭を下げてその想いを受け取った。

 

「それじゃあ、またね! みんな、本当にありがとう!」

 

 橘先輩が明るく手を振り、学先輩の隣に並んで歩き出す。

 

 そして――学先輩が、ごく自然な動作で橘先輩の右手をそっと握り、二人は手を繋いだまま、夜の闇の中へと消えていった。

 

「……ふふっ。あの二人が結ばれて、本当に嬉しいね」

 

 隣に立つ一之瀬が、手を繋いで去っていく二人の背中を見送りながら、心底嬉しそうに呟いた。

 

 私は静かに夜空を仰ぎ、オサレに目を細めて肯定する。

 

「――無論だ。孤独な王が、ついに己の傍に咲く花の美しさに気づいたのだ。……彼らの往く道に、一片の曇りもあるはずがないさ」

 

 それは、私の心からの祝福だった。

 春の夜空には、名残惜しそうに、けれど温かく瞬く星々が輝いていた。

 

 

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