いつからここが尸魂界だと錯覚していた? 作:yvrararara
三月三十一日。
正門へと続く並木道には、桜の蕾が今にも弾けそうなほどに膨らみ、柔らかな春の息吹が吹き抜けていた。
この日は、この高度育成高等学校において特別な意味を持つ日。卒業生たちが、三年間の過酷な学び舎に別れを告げ、外の広い世界へと旅立っていく日である。
私とひよりは、約束通り正門へと足を運んだ。
「――今日で、この箱庭に別れを告げるのだな。出立の前に、君たちの新たな門出に立ち会ってあげよう。学、橘」
私が静かに、けれど絶対的な自信と覇気を内包した声で語りかけると、手荷物を傍らに置き、春の陽射しを浴びて穏やかに佇んでいた二人が振り返った。
「藍染。それに椎名も。来てくれたか」
「藍染くん! 椎名さん!」
いつもは鋼のように厳格で、一切の隙をも見せなかった学先輩。しかし今日の彼は、重責から解放され、憑き物が落ちたかのような穏やかな空気を纏っていた。隣で嬉しそうに手を振る橘先輩も、春の陽光をその身に宿したような柔らかな装いで、隣に立つ学先輩に寄り添うその姿は、完全に一人の『恋する乙女』であった。
「――かつての盟約を違えることなど、私の美学に反するからね。それに……美しき蝶が繭を脱ぎ、新たなる空へ羽ばたく瞬間だ。この眼で確と見届けさせてもらおう」
私がフッと、オサレな笑みを浮かべて歩み寄ると、隣にいたひよりがパァッと明るい笑顔で口を開いた。
「惣右介くんは、『お約束していましたし、心から尊敬するお二人に最後にどうしてもご挨拶したかったので!』と言っています!」
「ふっ……そうか」
ひよりの完璧な翻訳を聞き、学先輩は口元を緩めて深く頷き、私の真っ直ぐな瞳を見つめ返した。
「三年間、長いようであっという間だった。……藍染。俺はお前が来てくれるのを待っていた」
「……」
「あの混合合宿での特別試験。お前が事前に南雲の企みを看破し、俺に的確な忠告を与えてくれなければ、俺は不覚を取り、茜を退学の危機に晒していたかもしれない。……それに、南雲のことだ」
学先輩は少しだけ目を伏せ、かつての好敵手であり、今は後継者となった男の顔を思い浮かべるように息を吐いた。
「あいつは俺を越えようと執着するあまり、手段を選ばす己の力を誇示することに躍起になっていた。……情けない話だが、俺の力では、あいつのその歪な執着を正してやることができなかった。だが、お前という『絶対的な強者』の壁に直面し、己の未熟さを骨の髄まで叩き込まれ、一度は完全に心をへし折られた。だが、そこから再び這い上がり、自身の足で前を向いたことで、あいつは初めて俺の呪縛から解放された。そして今、南雲雅としての確かな道を歩み始めている」
学先輩の言葉一つ一つに、飾らない本音と、深い実感がこもっている。
「それから……俺の妹、鈴音のことだ」
学先輩はふと、妹を想う兄としての穏やかな、しかし確かな期待を込めた眼差しになった。
「あいつはまだ未熟で、欠点も多い。だが……いずれ俺を越え、お前という絶対的な壁に挑むに足る存在になると、俺は信じている」
「……」
「お前には、これからも鈴音の前に立ちはだかる『巨大な壁』であってほしい。お前という圧倒的な高みを目指し続けることが、あいつをどこまでも強くしてくれるはずだ」
そう語る学先輩の表情は、どこか清々しかった。そして再び、生徒会長としての、あるいは一人の男としての真摯な顔つきに戻り、言葉を続ける。
「……俺はこの三年間、常に最前線でAクラスを牽引し、生徒会長としてこの学校の伝統を守り抜いてきたという自負がある。だが、そうした自己の功績以上に……得体の知れなかったお前を、あの時生徒会に引き入れたこと。それがこの学校に、これほど大きな財産を残してくれた」
学先輩は私の目を真っ直ぐに射抜き、この上なく真摯な声で告げた。
「そのことを、俺は心から誇りに思う。……礼を言わせてくれ。本当に、ありがとう。藍染」
(うおおおおおおおおおおおおおっ!! マジか!! マジですか学先輩!! あの偉大なる、完全無欠の学先輩から、『誇りに思う』だなんて言ってもらえる日が来るなんて……!! 畏れ多い!! 畏れ多すぎる!!)
学先輩のあまりにも真っ直ぐで重みのある称賛の言葉に、私は内心で感激のあまり泣き崩れ、盛大なスタンディングオベーションを巻き起こしていた。
(……思い返せば、当初は生徒会になんて絶対に入りたくない、面倒事には巻き込まれたくないって本気で思ってた。だけど……この一年間、生徒会の役員として活動してきたおかげで、本当にたくさんの忘れられない思い出ができた。……何より、心から尊敬できる学先輩と橘先輩という二人の素晴らしい先導者のもとで働けたことは、俺の人生においてかけがえのない財産になった……!!)
胸の奥から込み上げてくる熱い感情。視界が滲みそうになるのを必死に堪えながら、私は絶対強者たる『藍染惣右介』の外面を崩さぬよう、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「――フッ。王がその玉座を去る前に、ずいぶんと粋な賛辞を贈ってくれるものだ」
私は相変わらずの余裕の笑みを浮かべ、傲慢でありながらも、最大限の敬意を込めたオサレなポエムを紡ぎ出す。
「私が手を貸した以上、救済されるのは当然の帰結。君が築き上げた盤上を、私という圧倒的な力で彩ってあげたまでのことだよ。……だが、そうだな。君という優れた先導者がいたからこそ、私の力もまた、退屈せずに振るうことができた」
私はフッと目を細め、去り行く強者への手向けとして言葉を繋ぐ。
「君の妹が私に届く日が来るかどうかも、せいぜい天上から見守ってあげよう。……私を見出した君の目に狂いがなかったこと、大いに誇るがいい」
私が傲慢にそう告げると、学先輩は少しだけ目を見張り、やがて「ふっ……相変わらず、お前という男は底が知れないな」と、心底楽しそうな、声を出しての笑いを見せた。
一方、私たち男二人が少し熱苦しい会話を交わしている間、少し離れた場所ではひよりと橘先輩が、完全に二人の世界に入り込んで和やかなガールズトークに花を咲かせていた。
「本当に、おめでとうございます、橘先輩。お二人が結ばれて、わたしも自分のことのように嬉しかったです」
ひよりが両手を胸の前で合わせ、花が綻ぶような心からの笑顔で祝福の言葉を贈る。
「えへへ……ありがとう、椎名さん。本当に、ずっと夢みたいで……。でも、椎名さんや藍染くんたちがいっぱい背中を押してくれたおかげだよ。本当に感謝してるの」
橘先輩は頬をほんのりと朱に染めながら、照れくさそうに笑う。
「でも、堀北先輩も惣右介くんと同じで、そういうところは本当に鈍感ですから……橘先輩も、これまでたくさんヤキモキされたんじゃないですか?」
「あははっ! そうそう、そうなの! 学くんったら、生徒会長としては完璧なのに、わたしの気持ちにはいっつも全然気づいてくれなくて! 椎名さんも、藍染くんのあの天然なところに苦労してるんじゃない?」
「ふふっ、ええ。とても頼りになるんですけど、時々とんでもなく不器用ですから。……でも、そんなところも含めて、大好きなんですけどね」
「うんうん、わかる! わかるよ椎名さん!」
意気投合してキャッキャと笑い合う二人の姿は、まるで本当の姉妹のように微笑ましく、その尊すぎる光景に私の心のシャッターは毎秒千回ペースで切られていた。
やがて、四人で輪になり、この一年間の様々な出来事について思い出話に花を咲かせる。
生徒会室での他愛のない日常、一之瀬も含めた5人で何度も食事会をしたこと、橘先輩がパニックになるほどの膨大な書類仕事を、私が一瞬で処理して驚かせたこと。語り尽くせないほどの思い出が、春の陽射しの中で優しく溶けていく。
そして、別れの時間が刻一刻と近づいてきた時。
学先輩が、少しだけ姿勢を正して私たちを見た。
「藍染、椎名。……お前たちは、まだこれから二年間の学生生活が残っている。この学校は過酷だが、お前たち二人なら、どんな困難も乗り越えていけると俺は信じている」
「はい。ありがとうございます」
ひよりが真っ直ぐに頷くと、学先輩は自分の手帳から一枚の小さな紙片を破り取り、そこにさらさらと何かを書き込んだ。
「……俺たちからの、最後のお願いだ。お前たちが二年後、無事にこの学校を卒業し……俺たちと同じ大学へと進学してきてくれることを、心から待っている」
そう言って、学先輩は連絡先が書かれた紙片を私に差し出した。
「これは、俺と橘の連絡先だ。学校の敷地内にいる間は外部との連絡は一切取れないルールになっているが……二年後、お前たちが卒業したその日には、必ず連絡してこい。その時は、また美味い飯でも食いに行こう」
「学先輩……」
その言葉の温かさに、私は胸が熱くなるのを感じながら、紙片を両手でしっかりと受け取った。
(……二年後、か。絶対に卒業して、また会いたいな。学先輩たちと同じ大学に進学するっていうのも、最高の目標ができた気分だ)
私は内心で強く誓いながら、その想いを隠すように不敵に笑う。
「――ああ。君たちが望むのなら、二年後、その頂に再び私の足跡を刻んであげよう。……この紙片は、その時まで私の絶対の記憶と共に保管しておく」
「ああ。……短い間だったが、世話になったな」
学先輩は私と固い握手を交わし、ひよりとも言葉を交わす。
最後に、橘先輩がひよりをぎゅっと抱きしめ、私にも満面の笑みで手を振ってくれた。
彼らは最後に、学先輩の妹である堀北鈴音と会う予定になっている。その大切な兄妹の時間を邪魔する野暮な真似はできない。
「では、私たちはこれで。……お二人の往く道に、輝かしき光があらんことを」
私はオサレに一礼し、ひよりと共にその場を後にした。
並木道を歩きながら、私とひよりの間には、少しだけ切なくも温かい沈黙が流れていた。
「……寂しくなりますね」
ぽつりと、ひよりが寂しそうな声で呟く。
「ああ。だが、別れは決して終わりではない。新たな世界への輝かしい門出だ。……二人の幸福な未来を、ここから祈り続けよう」
「ええ、そうですね。……ふふっ、二年後が、今からとても楽しみです」
ひよりが優しく微笑み、私の腕にそっと自分の腕を絡ませてきた。春の風が、彼女の銀髪をふわりと揺らす。
そんな穏やかな空気を堪能しながら歩いていると、前方から見慣れた姿が歩いてくるのに気がついた。
「……ん?」
手持ち無沙汰にポケットに手を突っ込み、相変わらず何を考えているのか分からない平坦な表情で歩いてくる男――綾小路清隆だった。
「清隆。……君も、去り行く先導者への手向けに来たのかな?」
私が話しかけると、綾小路は少しだけ立ち止まり、短く答えた。
「……まあな。学に呼ばれてるんだ」
(おっ、やっぱり清隆も呼ばれてるのか。学先輩、清隆のことも高く評価してたし、最後に一言伝えておきたいことがあるんだろうな)
私は内心で納得しつつも、彼の周囲にいるはずの人物がいないことに気がつき、オサレな口調で尋ねた。
「ほう? てっきり堀北も一緒かと思ったが……彼女の姿が見えないようだな?」
学先輩が一番会いたがっている妹の姿がない。その問いに、綾小路は小さく息を吐き、無感情な瞳で答えた。
「さあな。あいつが今どこで何をしているのか、オレは知らない」
そう言い残すと、綾小路は軽く手を上げて、学先輩たちの待つ正門の方へと歩き去っていった。
(知らない、ねぇ。清隆のことだ、絶対何か知ってるのにわざとはぐらかしたな……まあいい)
綾小路と別れ、私たちがさらに数分ほど歩き進めた、その時だった。
「――っ! はぁっ……はぁっ……!」
前方から、ひどく急いだ様子の足音と、荒い息遣いが近づいてきた。
視線を向けると、そこにいたのは、額に汗を滲ませ、必死の形相で正門へ向かって全力疾走してくる少女――堀北鈴音だった。
「あっ……堀北さん……」
ひよりが驚いたように目を丸くし、小さく声を上げる。
彼女が驚いたのも無理はない。私たちの横を風のように駆け抜けていった彼女の姿は、以前とは決定的に異なっていたからだ。
背中まで届いていた長く美しい黒髪は、まるで何かを断ち切るようにバッサリと切り落とされ、彼女の決意を思わせるような、潔いショートヘアへと変わっていたのだ。
「髪を……切ったんですね。だいぶ、印象が変わりました」
ひよりが、少しだけ感嘆の混じった声で呟く。
走り去る彼女の後ろ姿を見つめながら、私は内心で深い感慨を抱いていた。
(……いい目をしていたな。以前の、ただ兄の背中だけを盲目的に追いかけ、兄の理想に近づくことだけに執着していた『依存』の目は完全に消え失せていた。自分の足で立ち、自分の意志で前を向く、本当の『リーダー』としての力強い目だった。あの髪を切り落とした姿を見れば、学先輩もきっと、妹の成長を心から喜んでくれるだろうな)
これから始まる二年生としての一年間、彼女たちDクラスが抱える問題は山積みだ。しかし、今の彼女ならきっと、あのクラスをまとめ上げることができるだろう。
私は、走り去る彼女の背中に向かって、オサレに目を細めて呟いた。
「――素晴らしい。己を縛り付けていた古い殻を自らの手で破り捨て、ついに真なる羽ばたきを見せたか」
私のそのポエムじみた評価を聞いて、ひよりは私の顔を見上げ、悪戯っぽくふふっと笑った。
「……惣右介くん、なんだかとても、楽しそうですね?」
「私が、かい?」
「はい。とても良いお顔をされています」
(楽しい、か。……うん。そうだね。ひよりの言う通りかもしれない)
私は内心で、ひよりの言葉を静かに反芻した。
(この高度育成高等学校という場所は、理不尽なルールが横行するし、利己的な生徒や問題も山積みで、正直狂っている部分も多々あると思う。だけど……この過酷な環境だからこそ、挫折や困難を乗り越え、自分の殻を破って劇的に成長できた生徒が数多くいるのも事実だ。生徒たちが劇的に成長していく姿を間近で見られるのは……うん。本当に、悪くない。いや、最高に素晴らしいな)
学先輩たちの残した意志は、南雲へと引き継がれ、そして妹である堀北さんの中にも確かに根付いた。
来年度からはOAAが導入され、各クラスの同盟や、新たな一年生たちとの予測不能な戦いが幕を開けるだろう。盤上はさらに混沌とし、熱を帯びていくはずだ。
だが、恐れるものは何もない。私の隣には、こんなにも愛らしく、頼もしい恋人がいてくれるのだから。
「――当然だ。これから始まる新たなる一年が、どれほど未知の盤上であろうとも……私が君と共に歩む道は、常に光に満ちた最高の舞台となるのだからね」
私はひよりの小さな手をそっと握り返し、春の陽光が降り注ぐ中、オサレな笑みを深めて次なる戦いの季節へと歩みを進めたのだった。