いつからここが尸魂界だと錯覚していた? 作:yvrararara
四月五日。
春の陽光が差し込む高度育成高等学校の敷地内は、新学期を目前に控えた特有の静けさと、微かな高揚感に包まれていた。
春休みも終盤に差し掛かったこの日、生徒会室と体育館では、八日に控えた始業式、そして入学式に向けた準備が着々と進められていた。
広大な体育館の方では、一之瀬、桐山、殿河、溝脇といった生徒会役員たちが、吹奏楽部や教職員と連携し、会場設営の確認に追われている。彼らの掛け声や、パイプ椅子が規則正しく並べられる音が、春の空気に静かな活気を与えていた。
一方、生徒会室では、南雲の補佐を行う中枢メンバーが集まり、より繊細な書類作業やシステム設定に勤しんでいた。
「――南雲。新たなる駒たちを導く道標、及びこの箱庭の新たなる理となる『OAA』の通達書類……そのすべての精査は完了している。システムという名の天秤の動作テストも、すでに寸分の狂いもなく仕上げておいた」
(訳:新入生への案内状とOAAの各クラスへの通達書類の最終チェック終わったぞ。システムの動作テストもバッチリだ!)
私は手元にあった分厚いファイルの束を完璧に処理し終え、生徒会長のデスクに座る南雲の前にオサレに置き放った。
「相変わらずバケモンみたいな処理速度だな、藍染……。お前のその完璧な働きっぷりが基準になっちまったら、これから入ってくる奴らのハードルが跳ね上がりそうだぜ」
南雲は呆れたように息を吐きながらも、どこか嬉しそうに口角を吊り上げた。彼にとって最後の一年間を迎える現在。その表情からは以前のような刺々しい焦燥感は完全に消え去り、正々堂々と実力で上に立つ王としての、確かな風格を漂わせていた。
「ふふっ、優秀すぎる後輩を持つとトップも苦労するな、南雲。だが、藍染のこの淀みない働きぶりを見ていると、私まで退屈せずに済むというものだ」
ソファで優雅に脚を組みながら書類に目を通していた鬼龍院先輩も、面白そうにくすりと笑った。
(よし! これで今日の俺の仕事は全部終わりだ! さっさと片付けたのには理由がある。今日はこの後、愛しのひよりとケヤキモールでデートの約束があるからな! 春休みの残り少ない時間を、存分にイチャイチャして過ごすんだ!!)
内心では尻尾を振って喜ぶ犬のように歓喜のステップを踏みながらも、私の外面が崩れることは決してない。
「――当然だ。私の歩む道に、停滞という概念は存在しない。君たちも、せいぜい私に振り落とされないよう、その玉座で足掻き続けることだね」
私は南雲と鬼龍院先輩に向けて傲慢でオサレな笑みを残し、静かに生徒会室を後にした。
――一時間後。ケヤキモール内のカフェ。
「惣右介くん、お疲れ様です。生徒会のお仕事、大変でしたか?」
「いや、私にとっては造作もないことだ。それよりも、君を待たせてしまったことの方が、よほど重罪だね」
「ふふっ、わたしも今来たところですから、全然大丈夫ですよ」
窓際の席で向かい合って座る私とひよりの周りには、甘く穏やかな時間が流れていた。
テーブルには二つのコーヒーカップと、それぞれのお気に入りの本。春の柔らかな日差しが窓越しに差し込み、ひよりの美しい銀髪をきらきらと輝かせている。
私たちは時折ページを捲る手を止め、読んでいる本の感想を語り合い、他愛のない会話で笑い合った。
(あぁ……最高だ。生徒会での事務作業の疲れが一瞬で吹き飛んでいく。ひよりと一緒に本を読んでいるこの時間こそが、俺にとっての至福なんだよな。これから始まる二年生としての過酷な特別試験の数々……その嵐の前の静けさとして、この平和な時間を全力で噛み締めておこう)
私が内心で大いに癒されながら、コーヒーの香りを楽しんでいた、その時だった。
テーブルの上に置いていた私の端末が、無機質な振動音を立てた。画面を見ると、発信者は綾小路清隆だった。
(おっ! 清隆から電話なんて珍しいな)
私は内心で少し驚きつつも、オサレな手つきで通話ボタンを押した。
「――君からコンタクトを取るとは珍しいな、清隆」
『……少し、お前に相談したいことがあってな。今、時間は空いているか?』
「ほう」
私は通話状態のまま、向かいに座るひよりにオサレな視線を向けた。
「――迷える子羊が、私に教えを乞いたいそうだ。……私たちの甘美な時間に水を差しても構わないかい?」
(訳:清隆がちょっと相談したいことがあるんだって。合流しても問題ないかな?)
私がそう問いかけると、ひよりは花が咲くような笑顔で首を縦に振った。
「綾小路くんが惣右介くんに相談したいことがあるのですね。全然大丈夫ですよ!」
(ひより……! マジで天使かよ!!ありがとう!!)
私は尊さのあまり天を仰ぎそうになるのを必死に堪え、再び端末へと声を落とした。
「――寛大な彼女の許可は下りたよ。ひよりも同席することになるが、来るがいい」
『ああ。……むしろ好都合だ』
「そうか。ならば、君が辿り着くまで特等席を空けておいてあげよう」
通話を切り、私は優雅にコーヒーを啜って彼を待った。
――それから数十分後。
「待たせたな」
私たちのテーブルの脇に、両手をポケットに突っ込み、何を考えているのか全く読めない無機質な瞳をした男――綾小路清隆が姿を現した。
「フッ。よくぞ辿り着いたね。運命の羅針盤が、君を正しい座標へと導いたようだ」
私のそのポエムじみた挨拶に、清隆はピタッと動きを止め、僅かに眉を動かした。
そこにすかさず、ひよりがパァッと明るい笑顔で口を開く。
「『いらっしゃい、綾小路くん。お待ちしていましたよ』と言っています!」
(……運命の羅針盤、正しい座標。オレがここへ来るまでの動線、あるいはオレが抱えている『問題』の最適解すらもすでに計算の内にあるという暗示か? だが、椎名の翻訳を通せば、ただの歓迎の挨拶にも聞こえる……いや、深読みしすぎるのは危険か)
清隆は相変わらず私の言葉の裏を深く探りつつも、静かに息を吐いて空いている席に腰を下ろした。
「この私に教えを乞うとは、ずいぶんと殊勝な心掛けだね」
私が鷹揚に頷くと、清隆は少しの沈黙の後、その無感情な瞳で私とひよりを交互に見つめ、信じられないような問いを口にした。
「――恋愛とは、どういうものだ?」
(…………は?)
私は内心で盛大にずっこけた。
(恋愛!? あの清隆が、急に恋愛について聞いてきた!? え、なに!? もしかしてついに思春期が到来したの!? それとも誰か好きな子でもできたのか!?)
私の内心の激しい動揺をよそに、隣のひよりはポッと頬を赤く染め、少し恥ずかしそうに視線を彷徨わせた。
「えっと……恋愛、ですか。そうですね……とても幸せで、心がぽかぽかして……一緒にいるだけで、たまらなく心地のいいもの、でしょうか」
ひよりはチラリと私の方を見つめ、はにかむように微笑んだ。
「……惣右介くんと一緒にいると、わたしはいつも、そう感じています」
(ぐはぁっ!! 可愛すぎる!! 俺の彼女が可愛すぎて心臓が止まる!! 答え方が百点満点すぎるだろ!!)
私は尊さのあまり吐血しそうになるのを必死に堪え、あくまで絶対強者としての威厳を保ったまま、フッと目を細めて清隆を見た。
「――魂の共鳴だ。己という完全な存在に、もう一つの魂が寄り添うことで、世界はさらなる高みへと昇華される」
私はオサレにそう言い放ち、ひよりの小さな手をそっと握った。
ひよりも嬉しそうに、ぎゅっと私の手を握り返してくる。
清隆はその光景を、瞬き一つせずにじっと観察していた。
やがて、彼は自分の中の『何か』に確かな結論を下したように、ゆっくりと席を立った。
「……そうか。参考になった」
「ほう。もう答えは出たのかい? せっかく席を用意したのだから、もう少し寛いでいってもいいんだよ」
「いや、十分だ。これ以上、二人の邪魔をするのも悪いからな。……礼を言う」
清隆は短くそう告げると、それ以上は何も語らず、静かに踵を返してカフェから去っていった。
遠ざかる清隆の背中を見つめながら、ひよりが不思議そうに小首を傾げる。
「綾小路くん、急にどうしたんでしょうか? 恋のお悩み相談……という雰囲気でもありませんでしたけれど」
「さあね。だが……春の訪れが、彼の凍てついた心を少しだけ溶かしたのかもしれないね」
私はオサレに言葉を濁し、再びひよりとの甘い時間へと戻っていった。
一方、カフェを後にして一人歩くオレ――綾小路清隆の脳内では、かつてないほど深く、熱を帯びた思考が巡っていた。
(……藍染惣右介。ホワイトルーム時代からオレの先を行く規格外の怪物だった男が、今は当時を遥かに超える、全く別次元の存在へと進化している)
オレは、先ほどの惣右介が見せていた圧倒的な余裕と、椎名ひよりに向けられていた熱を帯びた眼差しを思い返していた。
ホワイトルームでは、他者への執着や愛情は非合理的なノイズでしかないと教え込まれてきた。だが、現実は違った。藍染惣右介は『恋愛』を通して弱体化するどころか、より盤石な『絶対者』としての完成度を高めている。
(オレがあの男の背中に追いつくためには――ホワイトルームで学べなかったその未知の領域を、オレ自身も学ぶ必要がある)
人を愛するとはどういうことか。誰かに心を揺れ動かされるとは、どのような状態を指すのか。
となれば、行動を起こすのは早い方がいい。
オレの頭の中にはすでに、一人の少女の姿が思い描かれていた。オレに対して強固な感情を向けており、その内面も深く把握している存在。彼女を『恋愛の教科書』とするならば、最も効率的に学習できるはずだ。
心地よい春の風が吹き抜ける中、オレは自らの人間性を拡張し、次なる次元へと至るための『未知なる探求』の幕を静かに開けようとしていた。
――そして迎えた翌日。四月六日。
春休みの静寂に包まれた男子寮。オレの自室には、軽井沢恵の姿があった。
彼女は少し警戒した様子で腕を組み、不機嫌そうにオレを睨みつけている。
「……で? わざわざこんな休みの日に、あたしを部屋に呼び出して何の用よ?」
彼女の問いかけに対し、オレはベッドの端に腰掛けたまま、静かに、しかし唐突にその言葉を口にした。
「――オレと付き合うか?」
「…………は、はぁ!?」
あまりにも予想外すぎる言葉だったのか、彼女は目を丸くし、口をポカンと開けて硬直した。
数秒の後、彼女の顔が一気に真っ赤に染まり、パニックに陥ったように声を張り上げる。
「な、なに急にバカなこと言ってんのよ! つ、付き合うって……あんた本気で言ってんの!?」
「嫌なら断ってくれてもいい」
オレが落ち着いた声でそう告げると、彼女は戸惑ったように視線を泳がせ、恐る恐る尋ねてきた。
「あ、あんたが私のこと好き……ってこと?」
「ああ。オレは軽井沢恵が好きだ」
オレは微塵の躊躇いも見せず、ただ真っ直ぐにそう言い切った。
その淀みのない真っ直ぐな言葉に、軽井沢の思考は完全にショートしたようだった。
「す、すっ……好きっ!?」
ボフッ、と音が鳴りそうなほど限界まで顔を赤く染め上げ、彼女は両手で自身の口元を覆った。
「えっ、嘘、ほんとに……!? ちょ、ちょっと待ちなさいよ、そういうの普通もっとムードとか、心の準備とかあるでしょ……っ!」
あまりの恥ずかしさと予想外の喜びにパニックに陥り、しどろもどろになりながら抗議してくる。しかし、その上目遣いの瞳には隠しきれない歓喜の光が潤んでいた。
バクバクと鳴り止まない心臓の音を必死に誤魔化すように、彼女は慌てて一歩前に出た。
「嫌だったか?」
「べ、別に嫌なんて言ってないでしょ!」
「なら、どうする?」
「つ、付き合ってあげるわよ!」
売り言葉に買い言葉のように、軽井沢は勢い任せに叫んだ。その瞳は揺れ動き、頬は熟れた林檎のように赤く染まっている。
「それは、恵もオレのことが好きということか?」
オレが静かに核心を突くと、彼女は恥ずかしさのあまり身をよじり、上目遣いでこちらを睨んだ。
「は、はぁ!? そ、それ言わなきゃダメ……?」
「ああ。お前の口から直接聞きたい」
それは、彼女の隠された本心を完全に引き出すための誘導。
しかし、軽井沢にとってその追及は、決して不快なものではなかったのだろう。
彼女は一度深く息を吸い込み、少しだけ震える声で、己の隠し続けてきた本心を吐露し始めた。
「……す、好きよ。あんたにあの時……助けられてから……少しずつ、あんたのことが気になり始めて……。いつの間にか……だんだん、好きに……なってたの……」
彼女の言葉には、確かな熱と、オレへの絶対的な信頼、そして狂おしいほどの依存と好意が入り混じっていた。
涙ぐみながら必死に想いを伝えるその姿を、オレはただ静かに見つめていた。
そして、そっと腕を伸ばし、彼女の震える肩を抱き寄せる。
「あ……清隆……っ」
オレの胸に顔を埋め、安心したように力を抜く軽井沢。
その光景は、端から見れば、想いを通じ合わせた初々しい恋人同士の美しい瞬間そのものだっただろう。
――だが、彼女を抱きしめるオレの心の中に、幸福感や高揚感、あるいは愛情と呼ばれる感情は一切存在していなかった。
胸の奥にあるのは、どこまでも澄み切った静寂だけだ。
(……今はまだ、これでいい)
自らの胸で熱い息を吐く軽井沢の体温を感じながら、オレは極めて冷徹に己の内面を観察していた。
この行動は、あくまで自己成長のための探求。『軽井沢恵』という教科書を通して恋愛感情を学習し、オレがさらなる次元へと成長するための実験に過ぎない。
もし、この教科書を読み終え、すべての課程を修了した時。オレは彼女にどんな感情を抱いているのか。
愛おしいと慈しむのか。それとも――一切の感情が芽生えることなく、用済みの道具として無慈悲に切り捨てるのか。
今のオレには、まだその答えは分からない。ただ一つ確かなのは、オレの根底にある本質は、そう簡単に塗り替えられるものではないということだけだ。
未知なる感情の探求の果てに、その意味を理解することができるのか。この熱を知ることが、藍染惣右介という『完成された個』を超えるための鍵となるのだろうか。
その結末を知らぬまま、オレたちの二年生としての新たな日々が幕を開けようとしていた。
いつも感想コメントありがとうございます!楽しく読ませて頂いています!
これにて一年生編完結です!前話で紛らわしい終わり方してすみません!
二年生編もとりあえず十話分くらいはストックがあるので、お楽しみいただけたら幸いに思います!