いつからここが尸魂界だと錯覚していた?   作:yvrararara

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八十一話

 五月二日。

 待ちに待ったゴールデンウィークの初日。この日は約束通り、ひよりと二人でケヤキモールの落ち着いたカフェに足を運んでいた。

 

 穏やかなBGMが流れる店内。コーヒーと紅茶の良い香りが漂う特等席のソファで、私たちは向かい合って座り、静かな読書の時間を楽しんでいた。

 

 だが――私の視線は、活字の上を滑っては幾度となく持ち上がり、目の前に座る銀色の天使へと吸い寄せられていた。

 

(……可愛いなぁ)

 

 ひよりは今、物語のクライマックスに差し掛かっているのか、眉を少し寄せて真剣な表情でページを見つめている。時折、ハッとしたように目を丸くしたり、ふうっと小さく息を吐いたり。本の世界にどっぷりと入り込んでいるその百面相が、もう愛おしくてたまらない。

 

 彼女の集中を妨げないよう、私もゆっくりと自分の手元のページを捲りながら、二人で共有するこの心地よい静寂と甘い時間をただひたすらに味わい尽くすのだった。

 

 そして、数時間のまったりとしたカフェタイムを満喫した後、私たちは連れ立ってスーパーへ食材の買い出しに向かった。

 

「今日はパスタを作ってくださるんですよね。楽しみですっ!」

 

「ああ。君の期待を超える、極上の一皿を約束しよう」

 

 私の部屋に戻り、キッチンに立つ。手際よくニンニクと唐辛子をオリーブオイルで熱し、新鮮な魚介をフランベ。トマトソースを絡めた本格的なペスカトーレを仕上げていく。 

 

「わぁ……とっても美味しいです!」

 

 向かいの席で、パスタを一口食べたひよりがパァッと花が咲くような笑顔を見せた。

 

「――私が導き出した完璧なる調和において、最後に一つだけ足りなかったもの。君のその可憐な微笑みこそが、この一皿を真の完成へと至らしめる至高の隠し味なのだ」

 

 オサレに答えつつ、内心では(よっしゃ大成功!! ひよりの笑顔いただきました!!)とガッツポーズを決める。

 

 そして、問題の時間がやってきた。

 

 食後のティータイム。二人でソファに並んで座り、温かいダージリンの香りを楽しみながら、テレビで流れるバラエティ番組をぼんやりと眺める。

 

 肩と肩が触れ合う距離。ひよりのほのかに甘いシャンプーの香りが鼻腔をくすぐる。

 

(……今か?)

 

 私はティーカップをテーブルに置き、心臓を早鐘のように鳴らしていた。

 

(今、すごく良い雰囲気な気がする。ここで俺がそっと肩を抱き寄せ、顔を近づけて……! ……いや待って!!)

 

 いざ実行に移そうとした瞬間、強烈な恥ずかしさが全身を駆け巡った。

 

(ひ、ひよりの顔が直視できない!! 目が合ったら爆発しそう!! え、なにこれ意識しすぎなのか!? どうすればいいんだ!? 右からいく? 左から? そもそもどういう顔して近づけばいいんだ!?)

 

 私が隣で一人、内心でカチコチに固まっていると、ひよりが不思議そうに小首を傾げた。

 

「……惣右介くん? どうかしましたか? お顔が少し赤いですよ」

 

 覗き込んでくるその無防備で愛らしい瞳。

 

(やばいやばいやばい! 近すぎる! そして可愛すぎるって!!)

 

 内心でかつてないほどのパニックを起こしつつも、私は完璧なオサレの外面を総動員して、あくまで優雅に微笑み返した。

 

「――気にする必要はないよ。ただ、君の淹れてくれた紅茶の温もりが、少しばかり私を熱くさせたようだ」

 

 私は焦りを微塵も表に出さずオサレにそう告げて、なんとかその場をやり過ごすことしかできなかった。

 

 結局その日は、タイミングを完全に見失ったまま、ひよりを自室前まで送り届けて解散となった。

 

「それじゃあ、また明後日。おやすみなさい、惣右介くん」

 

「ああ。良い夢を、ひより」

 

 優雅な笑みを浮かべたまま手を振って彼女を見送り、自室に戻った後、私はベッドにダイブし、枕に顔を押し付けて悶絶した。

 

(俺はなんてヘタレ野郎なんだぁぁぁ!! この見た目と声でヘタレって、一番アカンやつだろ!! なにやってんだよ俺の馬鹿!! 外面だけは完璧に保ってたけど、間近で見るひよりが可愛すぎて直視できなかったんだよ……うーん……)

 

 自己嫌悪と彼女への愛おしさに挟まれながら、私のGW初日は情けなく幕を閉じた。

 

 

 次の日。五月三日。

 この日、ひよりは一之瀬たちクラスの女子と遊びに行く約束をしていたため、私には珍しく予定が入っていなかった。

 

 せっかくの休みに一人で部屋に引きこもっているのも勿体ないと思い、私は散歩がてらケヤキモールへと足を向けた。

 

 しかし、私の脳内は昨晩からの引きずりで、完全に『ひよりへのキス問題』に支配されていた。

 

(どうしよう……。明日の映画デートの後にでも絶対に決めたいけど、いざその時になったらまた俺のヘタレチキンハートが発動してしまうんじゃないか……?)

 

 眉間に皺を寄せ、ひたすら悶々と考え込みながらモールの通路を歩く。

 

 ――だが、私は一つ、重大なことを見落としていた。

 

 身長186センチ、怜悧で端正な顔立ちの私が、眉間に深い皺を寄せて深刻な表情で歩いていると、客観的には『とてつもなく不機嫌で恐ろしい魔王』にしか見えないという事実を。

 

「ひっ……!」

 

「お、おい見ろよ……生徒会副会長の藍染だ……」

 

「やばい、ご機嫌斜めなのか……? すんげぇオーラ出てるぞ……」

 

「目ぇ合わせるな、殺されるぞ……」

 

 無自覚に垂れ流されるとんでもない威圧感のせいで、周囲の生徒たちはサァーッと道を空けていく。

 

 しかし、自分の思考の迷宮に完全に囚われていた私は、そんな周囲の反応に全く気づいていなかった。

 

「あれ? 藍染くん。どうしたの?」

 

 不意に、少し気怠げで特徴的なトーンの声が私を引き止めた。

 

 顔を上げると、そこには二年Aクラスのクラスメイト、姫野ユキが立っていた。

 

「いつにも増して、半端ないオーラ出てるよ? みんな怯えてるじゃん」

 

(姫野!? びっくりした!! 全然気づかなかった!!俺、そんなヤバいオーラ垂れ流してた!?)

 

 内心で大いに焦りつつも、私は表情筋を完璧に統制し、ゆっくりと振り返ってフッと不敵な笑みを浮かべた。

 

「――奇遇だね、姫野。この無機質な箱庭の中で、まさか君と交差することになるとは」

 

「……相変わらず、すごい言い回しだね。っていうか、絶対に話題を逸らそうとしたでしょ」

 

 姫野はジト目で私の本質を射抜いてきた。

 

「何か悩み事? 藍染くんがそこまで余裕のない顔して歩いてるなんて、よっぽどのことだよね」

 

(鋭い!! いや、めちゃくちゃ悩んでるけど! 『彼女へのキスのタイミングが掴めません、可愛すぎて恥ずかしいです』なんて、このガワで言えるわけがないだろ! 恥ずかしすぎるわ!!)

 

「……フッ。君の杞憂だ。私を煩わせる事象など、この盤上には存在しない」

 

 私は涼しい顔で視線を逸らし、完璧な強者を演じきろうとした。

 

 しかし、姫野はため息を一つ吐き、ズバリと核心を突いてきた。

 

「藍染くんって、意外にヘタレなところあるし。……どうせ、椎名さん関係でしょ?」

 

(うおおおおっ!? 鋭すぎるって!! いや、俺って案外周りから見たら分かりやすいのか!?それとも姫野が鋭すぎるのか!?)

 

 内心で大地震が起きていた。だが、同時に一つの考えがよぎる。

 

(……待てよ。姫野は客観的でクールな視点を持ってる。それに、口も堅い。彼女なら、意外と真剣に相談に乗ってくれるんじゃないか……?)

 

 意を決した私は、あくまで「余裕のある支配者」の佇まいを崩さず、ゆっくりと姫野に向き直った。

 

「……そこまで見抜かれているのなら、隠すのも無粋だな。実のところ……」

 

 私は一度だけ短く息を吐き、オサレな言い回しで切り出した。

 

「――私としたことが、自らを照らす『月』への距離を、いかにして詰めるべきか図りかねているのだ。あまりにも眩いその輝きを前にすると、天に座すはずのこの私の歩みすらも、無様に鈍ってしまう。…………白状しよう。ひよりと唇を重ねるべき最善の刻が、全く見えないのだ」 

 

 数秒の沈黙。

 

 姫野は目を丸くしてパチクリとさせた後――。

 

「……っ、あはははははっ!! ぷっ、あはははっ!!」

 

 文字通りお腹を抱え、大爆笑し始めた。普段の彼女からは想像もつかないほどの豪快な笑いっぷりだ。

 

「……ほう。私の言葉の何が君の琴線に触れたのかな」

 

(ひ、姫野ぉぉぉ!? なんでそんな爆笑してんの!? 恥ずかしすぎて死にそうなんですけど!!)

 

「だ、だって……! あははっ! ヘタレすぎない!? いつもあんなに魔王みたいで偉そうな態度とってるくせに、要するに『彼女が可愛すぎて照れちゃって、いつキスすればいいか分かんない』ってことでしょ!? 中身は思春期の男子中学生じゃんっ!!」

 

(ぐぬぬぬぬ!! 言い返せない!! いや姫野の言う通りだよ! 俺だってこのキャラと中身のギャップに苦しんでるんだよ!!)

 

 ひとしきり笑い転げた後、姫野は目尻に浮かんだ涙を指で拭いながら、ようやく呼吸を整えた。

 

「ふふっ……あー面白かった。藍染くんのそんな人間臭いところ、初めて見たよ」

 

「……笑い終えたなら、無知な私に何か有益な啓示を与えてくれないか」

 

 あくまで上から目線を貫く私に、姫野は呆れつつも優しく、確かな口調で言った。

 

「あのさぁ、椎名さんも藍染くんのことが大好きなんだから、そんなに難しく考えなくていいのに」

 

「……フッ。彼女の感情を疑っているわけではないさ。ただ、私の不用意な踏み込みで、この甘美な時間に相応しくない無粋な空気を作ってしまうのは本意ではない」

 

(いやああああ! わかってる、わかってるけど恥ずかしいんだよ! いざ顔を近づけようとした瞬間に可愛すぎて頭が真っ白になっちゃうんだって!! どういうムードで、どのタイミングでいけば正解なの!? 誰かマニュアルくれよ!!)

 

 声に出さなかった悲痛な叫びすらも察したように、姫野は軽く肩をすくめた。

 

「……あのさぁ。タイミングなんて、自分で作っちゃえばいいんだよ。ここは周りを海に囲まれた人工島なんだし、ロケーションには困らないでしょ。例えば……夜、二人で海沿いを散歩してる時とかどう?」

 

「海……だと……?」

 

「そう。波の音だけが聞こえる静かな場所で、立ち止まって海を見つめるの。それで、ふっと会話が途切れて、彼女がこっちを見上げた瞬間……そこで急にいかずに、まずは優しく頬や髪に手を添える。そうすれば、女の子も心の準備ができるから。あとはそのまま、ゆっくり流れに乗るだけ」

 

(な、なるほどぉぉぉっ!! 夜の海!! すげえロマンチックだ!! やっぱり姫野に相談してよかった!! ……でも待てよ? あの姫野から、こんな王道シチュエーションがすらすら出てくるとは。さてはこいつ、意外とロマンチストなのか??)

 

 一瞬、そのギャップをからかおうかという考えが頭をよぎったが、私はすぐにそれを打ち消した。

 

(いや、やめておこう。こんなに真剣にアドバイスをくれたんだ。ここは素直に感謝すべきだ!)

 

 私は無意識に漏れ出ていた不穏なオーラを綺麗さっぱり収束させ、姫野に向けてオサレに、しかし心からの感謝を込めて微笑んだ。

 

「――有益な助言に感謝しよう、姫野。君の言葉で、私の視界を覆っていた霧は晴れた。おかげで、盤上の最善手が見えたよ」

 

 私が真っ直ぐにそう告げると、姫野はいつもの気怠げな表情を少しだけ緩め、柔らかく笑った。

 

「はいはい、相変わらず無駄に壮大な言い回しだね。……まあ、女の子ってのはみんな、そういうベタなシチュエーションへの憧れがあるもんなんだよ。藍染くんも、腹を括って自信たっぷりにリードしてあげなよ」

 

「……ああ。無論だ」

 

「うん。……大丈夫、絶対に上手くいくから。頑張ってね」

 

 優しく、けれど力強く背中を押してくれる姫野の言葉に、私の迷いは完全に吹っ切れた。 

 

(よし、決めた!! 明日だ!! 明日の映画デートの後、夜の海辺に誘って絶対に決めてやる!!)

 

「ああ。吉報を待っていてくれ」

 

 私が自信に満ちた声で返すと、姫野は「はいはい、期待しないで待ってる」と呆れたように笑いながら去っていった。

 

 明日のデートに向けて、私の心はこれまでにないほどの決意と、ほんの少しの心地よい緊張感に包まれていた――。

 

 

 そして翌日。心地よい日差しが降り注ぐ中、私たちは昼前に寮のロビーで待ち合わせをし、連れ立ってケヤキモールへ向かった。

 

 行きつけのカフェでランチを済ませた後、予定通り映画館へと足を運ぶ。今回のチケットはひよりが手配してくれたものだが、そのタイトルを見て私は少し意外に思った。

 

「――いつもは難解なミステリーを好む君にしては、随分と甘やかな選択だね」

 

 私がオサレにそう問いかけると、ひよりは少し頬を染めて、手元のパンフレットに視線を落とした。

 

「あ……はい。その、たまにはこういうのも、いいかなと思いまして……」

 

(くっ! 照れてるひより可愛すぎか!! いやでも、恋愛映画ってことは……やっぱり意識してるってことだよな!?)

 

 そんな期待に胸を膨らませたものの、いざ映画が始まると、私の頭の中は今夜の『ミッション』で完全に占拠されてしまった。

 

(どうする? どのタイミングで誘う? もし海辺に人がいたらどうする!? いや、大丈夫だ、姫野のアドバイス通りにいけば……!)

 

 スクリーンで繰り広げられるドラマチックな展開など一切頭に入ってこず、私は暗闇の中でひたすら心臓をバクバクさせながら、ただ時間だけをやり過ごしてしまった。

 

 映画が終わり、私の部屋へと移動する。

 

 夕食を用意するまでの間、それぞれ本を読んで過ごすのは私たちの定番だが、今の私は活字を追うことすらままならなかった。

 

 どうしてもソワソワしてしまい、意味もなくページを捲っては、フワフワとした思考の海を漂う。

 

 すると、対面のソファに座っていたひよりが、パタンと本を閉じた。

 

「……惣右介くん。今日は、どうされたんですか?」

 

「ん?」

 

「映画の時も、少しうわの空というか……心ここにあらず、といったご様子でしたし。今も、本に集中できていないみたいですから」

 

 彼女は私の顔を覗き込むようにして、不安げに眉を下げる。

 

(っ! ご、ごめえええん!! せっかくひよりが映画に誘ってくれたのに、俺のせいで台無しにしてる!!)

 

 猛烈な自己嫌悪に苛まれつつも、私はゆっくりと本を置き、誠実さとオサレさをにブレンドして口を開いた。

 

「――済まない。君という美しい存在を前にして、私は少しばかり自分の内なる世界に迷い込んでいたようだ。君との貴重な時間を疎かにしたこと、深く謝罪しよう」

 

「いえ、謝ってほしいわけではないんです。ただ……なにか不安なことや、お悩みでもあるのかと心配になってしまって」

 

(ひ、ひよりいいい! 優しすぎる!! そして俺、本当にダメダメすぎるだろ!! 彼女に心配させるとか、彼氏として一番やっちゃいけないことだ!! こんな情けないところはもう見せられない!!)

 

 私は内心で自らに往復ビンタをかまし、腹を括った。

 

「君の気遣いに感謝するよ、ひより。……私の心は少しばかり波立っていたようだが、もう大丈夫だ。そうだ、食後に少し、夜の風を浴びに行かないか? 君と共に歩きたい道があるんだ」

 

 夕食後。私たちは手を繋ぎ、人工島の外周――海沿いの遊歩道を歩いていた。 

 

 周囲に誰の気配もないことを視線だけで確認しながら、静かな夜の海を横目に進む。姫野の助言通りの、完璧なロケーションだ。

 

「――少し、この景色を楽しもうか」

 

 私は甘くオサレな声音でそう告げ、足を止めた。

 

 暗闇の奥で瞬く対岸の夜景。水面に揺らめく柔らかな月明かり。そして、静かに寄せては返す波の音だけが、私たちの間を埋めている。

 

「……ふふ、とても綺麗ですね」

 

 夜の海風に銀色の髪をふわりと揺らしながら、ひよりはうっとりと目を細めて夜景を眺めていた。

 

(よし、ここだ!! ここで決めなきゃ男じゃない!! 頼むぞ俺の理性と度胸!!)

 

 私は心の中で大きく深呼吸をし、ゆっくりと彼女の方へ向き直る。

 

 そして、不意に会話が途切れたその瞬間。

 

 波の音に紛れさせるように、私は彼女の白く柔らかな頬へ、壊れ物に触れるかのようにそっと手を添えた。

 

「え……っ」

 

 ひよりが驚いたように小さく肩を揺らし、私の瞳を真っ直ぐに見つめ返してくる。

 

 月明かりに照らされ、潤んだアメジストのように煌めく瞳。わずかに上気した頬。夜の静寂の中で、彼女から仄かに漂う甘い香りが私の理性を激しく揺さぶる。

 

(っ……!!)

 

 早鐘のように打ち鳴らされる心臓の音を必死に抑え込みながら、私はゆっくりと、本当にゆっくりと顔を近づけていく。

 

 ひよりは一瞬だけ戸惑うような表情を見せた後、長い睫毛を震わせ――すべてを委ねるように、静かに目を閉じた。

 

 重なる唇。

 

 それは、羽のように軽く、触れれば溶けてしまいそうなほど優しいキスだった。

 

 だが、そこには確かな熱があった。互いの体温が唇を通して伝わり、世界から波の音すらも遠ざかっていくような、甘く濃密な錯覚。

 

 時間にして数秒。永遠にも感じられたその瞬間の後、私は名残惜しさを堪えてゆっくりと唇を離した。

 

 だが、静かに目を開けたひよりの瞳から――ツー、と一筋の涙が零れ落ちた。

 

(……………………え? ) 

 

 私の頭は真っ白になった。

 

(や、やっぱりまだ早かったのかな……!? 無理させちゃった……!?)

 

 内心で大パニックに陥りながらも、私は咄嗟に分厚いオサレのヴェールを被り、焦燥を完璧に隠し切った声で紡ぐ。

 

「――すまない。私の独りよがりな熱情が、君の清らかな心に無理をさせてしまったようだな。まだ触れるべきではなかった。君の涙を見るくらいなら、私は自らの愚かさを……」

 

「違います、惣右介くん」

 

 私の謝罪を遮るように、ひよりは可憐に微笑んだ。その瞳からは、まだ涙が止めどなく溢れているというのに。

 

「謝らないでください。この涙は……悲しくて流したんじゃないんです」

 

「では……」

 

「とても、嬉しいんです。……惣右介くんが、私に触れてくれたことが。私を、こんなにも大切に想ってくれていることが伝わってきて……胸がいっぱいで」

 

 ひよりは頬をほんのりと赤く染めながら、私の服の袖をきゅっと掴んだ。

 

(ひ、ひよりぃぃぃぃぃ!! 大好きだよぉぉぉぉぉぉ!! なんなのこの大天使!! 宇宙一可愛いんですけど!! )

 

 安堵と歓喜でビッグバンを起こしそうになる感情を総動員して鎮め、私は彼女の涙をハンカチで、この世の何よりも愛おしいものを扱うように優しく拭った。

 

 そして、月明かりの下で、最も美しい響きを乗せて告げる。

 

「――君の涙は、どんな宝石よりも尊く、そして私の心を激しく締め付ける。約束しよう、ひより。これからは、君の瞳から溢れる雫が、喜びだけであることを。……私のすべてを懸けて、君を愛し抜くと」

 

 私が甘く囁くと、ひよりは顔を限界まで真っ赤に茹で上がらせ、嬉しさと気恥ずかしさが混ざったような表情で、私の胸にすり寄るように顔を埋めてコクリと頷いた。

 

(やったあああ!! ってか俺、まためちゃくちゃオサレで恥ずかしい愛の言葉を吐いてしまった!! ……いや、でも!)

 

 腕の中にすっぽりと収まる彼女の、小さく震える体温と柔らかな感触を確かめながら、私は大切な宝物を守るようにギュッと抱きしめ返す。

 

(ひよりがこんなに幸せそうに笑ってくれてるなら、もうオールオッケーだ!!)

 

 夜の海辺に、穏やかな波の音と、重なり合う二人の鼓動だけが、いつまでも優しく響き続けていた。

 

 

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