いつからここが尸魂界だと錯覚していた?   作:yvrararara

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八十二話

 五月五日、火曜日。

 波乱に満ちた新学期の疲れを癒す、ゴールデンウィークの最終日。

 

 この日は外に出ず、私の部屋でひよりと二人、まったりと読書をして過ごす予定になっていた。

 

 朝、目を覚ました私は、ベッドの中で手元の端末を操作し、一人のクラスメイト宛てにメッセージを打ち込んでいた。

 

 送信先は、先日私の情けない恋の悩みに的確なアドバイスをくれた恩人、姫野ユキだ。

 

『――君の助言のおかげで、無事に月を捕まえることができた。私に最善手を示してくれたこと、感謝するよ、姫野』

 

 送信して数分も経たないうちに、姫野から短い返信が届いた。

 

『ヘタレな藍染くんにしては、頑張ったじゃん。良かったね』

 

(姫野ぉぉ! 相変わらずレスポンスが塩すぎる!! でも、背中を押してくれたことには本当に感謝してるぞ!!)

 

 私は一人で口元を綻ばせながら、ベッドから起き上がった。 

 

 

 それからしばらくして、ひよりが私の部屋に遊びにやってきた。

 

 彼女が手慣れた様子で淹れてくれた温かいダージリンの香りが、部屋を満たしていく。私たちはソファに並んで座り、各々の本を開いて静かな読書タイムへと入った。

 

 初夏の穏やかな陽射しが、カーテンの隙間から差し込み、隣に座るひよりの銀色の髪をきらきらと輝かせている。

 

 ……しかし。活字を追っているはずの私の脳内は、目の前のミステリー小説の展開など全く入ってきていなかった。

 

(……やばい。意識してしまう)

 

 すぐ隣から伝わってくる、ひよりのほのかな体温。ページを捲るかすかな衣擦れの音。そして、甘く優しいシャンプーの香り。

 

 ――ひよりと交わした『初めてのキス』。

 

 触れた唇の驚くほどの柔らかさや、彼女の驚いたような、それでいてひどく嬉しそうに潤んだ瞳が、フラッシュバックのように何度も脳裏を駆け巡るのだ。

 

(だめだ、ドキドキしすぎてるぞ俺!本の文字が全部ミミズの這った跡に見える!!)

 

 必死に平静を装いながら本に視線を戻そうとするが、どうしても集中できない。

 

 ふと、隣からじっと見つめるような視線を感じて顔を向ける。

 すると、ひよりが本から顔を上げ、こちらをチラチラと盗み見ていた。

 私と目が合うと、彼女はビクッと肩を揺らし、ほんのりと頬を桜色に染めた。

 

「……あの、惣右介くん。ずっと同じページから、進んでいないみたいですけど……」

 

「……少し、別の深遠なる事象について思考を巡らせていてね」

 

 私がオサレに誤魔化そうとすると、ひよりは本で口元を半分隠しながら、えへへ、と照れたようにはにかむ笑顔を浮かべた。

 

「……ふふっ。実は私も、です。昨日のこと、ずっと考えちゃって……文字が頭に入ってきません」

 

(うおおおおおっ!! 可愛すぎるって!!! なにその破壊力!? 恥ずかしがりながらも素直に伝えてくるの反則だろ!! 俺をキュン死させる気か!!)

 

 内心で大絶叫しながらも、私はオサレな外面を総動員し「……そうか。なら、もう少しだけ、活字よりもお互いの時間を楽しむとしようか」と優雅に微笑み返すことしかできなかった。

 

 

 

 その後、お昼時になり、私たちはそのまま部屋で私が作った簡単な昼食を共にした。

 

 食後のティータイムを二人で甘く楽しんでいると、不意に私の端末が振動した。

 

「ん? メッセージか」

 

 画面を確認すると、送り主は綾小路清隆だった。

 

『少し話したいことがある。都合が良ければ、今から堀北を連れて惣右介の部屋に行ってもいいか?』

 

「清隆からだ。今から堀北と一緒に、この部屋に来たいらしいが……ひより、構わないかな?」 

 

「はいっ、全然大丈夫ですよ! ちょうどお茶のおかわりを淹れようと思っていたところですし」

 

 ひよりが快く頷いてくれたので、私は清隆に『ああ、待っているよ』と承諾のメッセージを返した。

 

 

 それから十分ほど後。

 部屋のチャイムが鳴り、私が扉を開けると、そこには相変わらず何を考えているか読めない無表情の清隆と、凛とした表情の堀北鈴音が立っていた。

 

「休日の昼下がりにすまないな、お邪魔する」

 

「急にごめんなさい。どうしても、あなたに伝えておきたいことがあって」

 

「構わないさ。さあ、入りたまえ」

 

 二人をリビングのテーブルへ案内すると、ひよりが手際よく四人分の紅茶を淹れてくれた。

 

「ありがとう、椎名さん」

 

「いいえ、ゆっくりしていってくださいね」

 

 紅茶のカップが配られたところで、私は正面に座る清隆を見据え、フッとオサレで傲慢な笑みを浮かべた。

 

「――深淵に潜む龍が、ようやくその目を見開いたようだな。盤上に真の実力を示した君が、これからいかなる軌跡を描くのか……私は心待ちにしているよ、清隆」 

 

 先日の特別試験での、彼の『五教科五百点満点』という結果に対するオサレな賛辞だ。事情は察しているため、野暮な理由は聞かず、ただ純粋な期待だけを告げる。

 

 すかさず、隣に座るひよりがニコッと微笑んで翻訳を入れる。

 

「『綾小路くんがようやく本気を出してくれて嬉しいです。これからのあなたの活躍を、とても楽しみにしていますね』とのことです!」

 

 ひよりの完璧な翻訳を聞き、清隆は少しだけ肩の力を抜いて「……あまり期待しないでくれ。ただ、そうせざるを得ない状況になっただけだ」と淡々と返した。

 

「で、今日はその清隆の付き添いかな、堀北?」

 

 私が視線を移すと、堀北は真っ直ぐに私の目を見つめ返した。

 

「いいえ、用があるのは私の方よ。……藍染くん。私は生徒会に入るつもりよ」

 

 その言葉に、部屋の空気が少しだけ引き締まる。

 

「正式に連休が明けたら、南雲生徒会長のところへ直訴しに行くわ。でも、まずは兄さんがこの学校で誰よりも認めていた貴方に、一番に話を持ってきたの」

 

(おおっ……!!) 

 

 私は内心で、大きな感嘆の声を上げていた。

 

(学先輩の足跡を辿るってことだな!今の彼女の目には、学先輩の辿った道を自らの足で歩み、そしていつか兄を『越える』という、強い意思の炎が宿っている。見違えるほど成長したな!)

 

 私は彼女の成長をひそかに喜びつつも、やはり口から出るのはオサレで絶対的な強者としての言葉だった。

 

「――空を翔ける鷹の軌跡を追うことは容易いが、自らがその羽ばたきで新たなる嵐を起こす覚悟はあるのかな? この生徒会という盤上は、ただの模倣者が生き残れるほど甘い場所ではないぞ」

 

「『お兄様の真似事をするだけではなく、ご自身の力で新しい道を切り開く覚悟があるのですね。あなたのその強い決意に、とても期待していますよ』と、仰っています!」

 

(ひより!! 完璧すぎる!! 俺のちょっと偉そうな言い回しから、応援してるっていう本心だけを綺麗に抽出して伝えてくれた!! うちの彼女、有能すぎないか!?) 

 

(……いや、待てよ?)

 

 ふと、これまでの堀北とのやり取りが脳裏をよぎる。

 

 思えば今までの堀北との会話は、俺が傲慢なオサレポエムで煽り、ひよりがそれに致死量の毒を盛って翻訳(という名の追撃)をするのがお決まりの流れだったはずだ。

 

 それがどうだ。今回のひよりの言葉には、微塵も毒々しさがない。純度百パーセントの温かなエールになっている。

 

(なぜ今回は毒を盛らなかったんだ? ……もしかして、堀北さんが確かな成長を見せたことで、俺自身が無意識のうちに彼女を『煽る』必要性を感じなくなっていたのか? だから俺のポエム自体から、すでに刺々しさが消えていた……?)

 

(そしてひよりは、俺すら明確に自覚していなかったその深層心理の変化を完璧に読み取り、それに合わせて意図的に毒を抜いた翻訳をしたというのか……!?)

 

 だとしたら、恐るべき洞察力である。私は隣で可憐に微笑む彼女の底知れぬ理解度に、一人勝手に戦慄を覚えていた。

 

 そんな私の内心のどよめきなど知る由もなく、ひよりの翻訳を聞いた堀北は、ふっと口元に柔らかい笑みを浮かべた。

 

「……ええ。もちろんよ。生半可な気持ちで足を踏み入れるつもりはないわ。厳しい言葉、感謝するわ」

 

 自らの覚悟を再確認するように頷く堀北。その見事な成長ぶりに、私はさらに内心での評価を爆上がりさせていた。

 

 

 用件も済み、少し場が和んだところで、ひよりがポンと手を叩いた。

 

「せっかく四人集まったことですし、少しゲームでもしませんか?」

 

「ゲーム……?」

 

 堀北は少し考え込むように顎に手を当てた。

 

「そうね。藍染くんの思考の癖や考え方が、ゲームを通して少しは分かるかもしれないわ。付き合うわ」

 

 どこまでも真面目に分析の機会と捉える堀北。

 だが、その提案を聞いた清隆は、僅かに顔をしかめ、スッと目を逸らした。

 

「……悪いが、格闘系のゲームだけはやめてくれ。惣右介に壁際で無限コンボを決められ続けて、少しトラウマになってるんだ……」

 

(清隆ぁぁぁ!! そんなにショック受けてたの!? ごめんね!!)

 

 清隆のげっそりとした様子を見て、ひよりがクスクスと笑いながら提案した。

 

「ふふっ、それならプレイヤースキルだけでなく、運の要素が大きく絡むゲームにしましょう! ちょうどいいのがありますよ。『桃鉄』はどうでしょうか?」

 

(桃鉄か……。思い出すな。この前、一之瀬と神崎と俺の四人でやった時、ひよりが俺たち全員を完膚なきまでに叩き潰して無双していたのを。神崎なんて途中からオサレポエムが止まらなくなってたからな……。普段はあんなに天使なひよりが、このゲームの時だけは冷酷な悪魔のようになってしまうんだよなぁ……)

 

 私は内心で密かに冷や汗を流しつつも、表面上はあくまで余裕の笑みを崩さずに答えた。

 

「いいだろう。盤上の富と運命を支配する遊戯、受けて立とうじゃないか」

 

 私がオサレに了承すると、堀北も小さく頷いた。

 

「負けるつもりはないわ」

 

 かくして、私の部屋のテレビに映し出された日本地図を舞台に、二年AクラスとDクラスの精鋭たちによる『桃太郎電鉄』の過酷なサイコロの旅が幕を開けた。

 

 設定は五年間。初夏の午後から始めるにはちょうどいい時間設定だ。

 

「さあ、サイコロという名の理不尽な運命が支配する盤上……君たちはどこまで私を楽しませてくれるかな?」

 

 私はコントローラーを片手に、オサレで絶対的な強者感を漂わせながら言い放った。

 

 

 

 ――ゲーム開始からわずか数ヶ月(ゲーム内時間)。

 

 この盤上において、完全に『神に見放された男』が一人いた。

 

「……また、1か」

 

 清隆が、一切の感情を排した無表情のまま、ポツリと呟いた。

 

 彼のサイコロ運は、まさに絶望的だった。3連続で『1』を出し、見事に赤マスに止まり続けるという奇跡的な不運を発揮している。さらに運の悪いことに、最初に貧乏神に取り憑かれたのも彼だった。

 

(き、清隆ぁぁぁ!! ホワイトルームの最高傑作が、ただの乱数調整にボコボコにされてる!! 見てるこっちが辛くなってくるから、お願いだからもうちょっと良い目を出してくれ!!)

 

 内心で激しく同情しながらも、私はフッと冷ややかな笑みを浮かべた。

 

「――どうした、清隆。君の歩みは随分と重いようだな。運命という見えざる手に抗うことすら諦めたのか?」

 

「……諦めているわけじゃない。ただ、確率論がオレを拒絶しているだけだ」

 

 静かに遠い目をする清隆。その背中からは、筆舌に尽くしがたい哀愁が漂っていた。

 

 一方、そんな悲惨な男とは対照的に、この盤上で神の如き豪運と圧倒的な支配力を振るっている存在がいた。

 

「あ、また目的地に着いちゃいました。えへへ、皆さんお先に失礼しますね」

 

 隣に座る我が天使、ひよりである。

 彼女のサイコロ運は、完全にバグっていた。

 

 まるでサイコロの目を自在に操っているかのように、ピタリと目的地に連続でゴール。おまけに青マスに止まれば常に最高額を引き当て、黄マスに止まると強力なカードを次々と手に入れていく。

 

「くっ……! まだよ。ここは収益率の高い物件を優先して独占し、次の決算で一気に巻き返すわ……!」

 

 堀北が真剣な表情で画面を睨みつけ、堅実なプレイでコツコツと資産を増やし、見事な戦略で反撃の糸口を掴もうとしていた。

 

(おおっ!? 堀北さん、めちゃくちゃノリノリじゃん! 意外とこういうゲームを本気で楽しむタイプなのか!? さっきまでの真面目な顔から一転して、完全にゲーマーの目になってるぞ!)

 

 意外な一面を見せる堀北に、私は内心で少し微笑ましく思っていた。

 

 ――だが、そこに慈悲なき天使の鉄槌が下る。

 

「あ、堀北さん。私、この『デビル派遣カード』を使わせていただきますね。ふふっ」

 

 ひよりがいつも通りのふわふわとした満面の笑みで発動させたのは、他人に凶悪なデビルを送り込み、毎月強制的に所持金を奪う鬼畜カード。

 

「なっ……!? ちょ、ちょっと、椎名さん!? 私のところにデビルが大量に……あああっ! 私の資金がゴリゴリ削られていくわ!?」

 

「わぁ、デビルさんたち、画面の中をいっぱい飛んでて可愛いですね!」

 

「可愛くないわよ! 私の決算への計画が……っ!」

 

 堀北はワナワナと震えながらも、あまりにも無邪気で楽しそうなひよりの笑顔を前にしては、本気で怒ることもできずにただ唇を噛み締めるしかなかった。

 

(満面の笑顔で潰しに行ってる!! 桃鉄限定で発動するこの無慈悲なプレイング、マジで恐ろしいぞ!!)

 

 私も自らの知略を尽くして資産を増やし、なんとかひよりに食らいついてはいたものの、彼女の理不尽なまでの豪運と無慈悲なカード捌きの前には、常に後塵を拝する形となっていた。

 

 そしてゲームが三年目に突入した頃。劇的な変化が訪れる。

 

 圧倒的な豪運で突き進んでいたひよりが、目的地へ近づくために『ぶっとびカード』を使用した時のことだ。

 

「えいっ」

 

 ヘリコプターでランダムな場所へ飛んでいったひよりが着地したのは、なんと清隆のいるマスのピタリ真上だった。

 

「あっ、綾小路くんに重なっちゃいました」

 

 それにより、清隆にずっとくっついていた貧乏神が、ひよりへと移動したのだ。 

 

「……ふふっ! ようやく、椎名さんに逆転するチャンスが来たわね!」

 

 これまでひよりの理不尽な運に苦しめられてきた堀北が、この絶好の好機にパァッと顔を輝かせた。

 

 だが――その翌月。 

 

「貧乏神さん、困っちゃいますね。もう一枚『ぶっとびカード』があるので、使ってみます。えいっ」

 

 再び空を飛んだひよりが着地したのは――あろうことか、今度は堀北のいるマスのピタリ真上。

 

「えっ」

 

「あっ、堀北さんに貧乏神さんが移っちゃいましたね。ごめんなさい」

 

「嘘でしょ!? ぶっとびカードでピンポイントに私に被せてくるなんて、どんな確率よ!?」

 

 堀北の歓喜は、わずか一ターンにして絶望へと叩き落とされた。

 

 さらにひよりは、次のターンでリニアカードを使い悠々と堀北を振り切り、貧乏神を完全になすりつけることに成功する。

 

 そして、堀北にとっての真の地獄はここからだった。

 

「ふふっ、さっき手に入れた『キングに!カード』……ここで使わせていただきますね」

 

 ひよりが満面の笑みで発動させたのは、誰かについている貧乏神を、最悪の形態である『キングボンビー』へ強制的に変身させるという超鬼畜カード。

 

「なっ……!?」 

 

 画面の中で禍々しい煙が上がり、堀北についた貧乏神が、巨大で凶悪なキングボンビーへと姿を変えた。

 

『グェッヘッヘ!オレさまは ボンビラスの世界から やってきた キングボンビーだ!』

 

「あぁ……私の……私の資産が……っ!!」

 

 残された堀北は、キングボンビーの理不尽な悪行により、ノリノリでコツコツ買い集めた優良物件を次々と叩き売られ、瞬く間に資産がマイナスへと転落していく。

 

 頭を抱え、絶望の表情でモニターを睨みつける堀北。

 

(えっぐ!! 堀北さんに貧乏神をなすりつけた直後に、『キングに!カード』で強制進化させて完全に心を折りに来るとか、どんな鬼畜コンボだよ!!) 

 

 すっかり意気消沈してしまった彼女を見て、私はふと、少しだけ慰めてやろうと思ったのだ。 

 

(いくらゲームとはいえ、あんなにノリノリで楽しんでいたところにキングボンビーは可哀想だな。よし、ここは俺が一つ、励ましの言葉をかけてやろう)

 

「――天は決して、絶対的な平等を配剤しない。君に空を舞う翼がないのなら、地を這ってでも進むしかないのだ。それが、盤上に立つ者の宿命だからね」

 

 私が鷹揚に頷きながら励ましのポエムを紡ぐと、隣のひよりがスッと居住まいを正し、少しだけ気の毒そうな、しかし澄んだ声で翻訳を入れた。

 

「『どれだけ理不尽に全てを奪われても、それが持たざる者の運命ですから、潔く諦めて地道に借金を返済してくださいね』と、惣右介くんも心から応援していますよ。……ふふっ、マイナスからの再出発、一緒に頑張りましょうね、堀北さん!」

 

(ちょっと待ってひより!? 確かに励ましの意図は汲み取ってくれてるし、君が善意で言ってるのも分かるんだけど! その純粋さが逆に絶妙な煽りになっちゃってるよ!? しかも総資産トップ独走中のひよりが『一緒に頑張りましょう』って、今一番言っちゃダメなやつ!!)

 

 その瞬間、堀北の中で何かがブチッと切れる音がした。

 

 だが、ひよりのあまりにも純粋な笑顔には流石の彼女も怒りをぶつけられなかったのか。堀北はゆっくりと首をこちらに向け、般若のような凄まじい形相で『私だけ』を睨みつけた。

 

「っ! 藍染惣右介ぇぇぇ!!よくも……よくも言ってくれたわね!! この借金、絶対にあなたになすりつけてやるわ!!」

 

 堀北の瞳に、明確な『殺意』が灯っていた。

 

(いや俺じゃない!! 俺じゃないんだ堀北さん!! 貧乏神を押し付けたのも、キングボンビーに進化させたのも、全部ひよりなんだよ!! なんで俺一人にヘイトが全集中してんの!?)

 

 内心で冷や汗を滝のように流しながらも、私はオサレな外面を崩すことができず、「……フッ。来るがいい」と、自ら進んでヘイトを買うような発言で応じてしまった。

 

 だが、盤上を支配する慈悲なき天使のターンは、まだ終わっていなかった。

 

「あ、それから惣右介くん。私、この『牛歩カード』というのも使ってみますね」

 

「なん……だと……?」

 

 ひよりが満面の笑みでカードを発動させた瞬間。

 画面の中で大量の牛の群れが私の列車を取り囲み、重苦しいエフェクトと共に恐るべき呪いが発動した。それは、しばらくの間、一マスしか進めなくなるという極悪非道な遅延カードだった。

 

「これで惣右介くんも、しばらくはゆっくり景色を楽しめますね!」

 

(ひよりぃぃぃ! 無慈悲すぎるって!! 目的地めちゃくちゃ遠いのにぃぃぃ!?)

 

 絶望のどん底で殺意を放つ堀北、開始早々に見放されて遠い目をしている清隆、そして1マスしか進めなくなった私。

 

 凄惨な地獄絵図と化した盤上を、天使の微笑みを浮かべたひよりがただ一人、悠々と独走していくのだった。

 

 そんな修羅場が繰り広げられる中、ゲームも終盤の四年目に差し掛かった頃。これまでずっと地を這っていた清隆に、突如として奇跡が舞い降りた。 

 

「……これは」 

 

 清隆が黄マスで引き当てたのは、なんと『一頭地を抜くカード』。現在一番持ち金が多いプレイヤーの所持金に、さらに数億円を上乗せした現金がもらえるという、一発逆転の超強力なカードだ。 

 

「使わせてもらうぞ」

 

 清隆が淡々とカードを発動させると、圧倒的トップで莫大な現金を抱えていたひよりの所持金を一気に抜き去り、なんと清隆が第一位へと躍り出たのだ。

 

「……ようやく、オレにも運が向いてきたようだな」 

 

 さすがの清隆も、これまでの理不尽すぎる不運から解放された安堵からか、小さく息を吐いてホッとしたような表情を見せた。

 

(おおっ! さすが清隆、ここぞという時の引きが違う! これで勝負は一気に分からなくなってきたぞ!)

 

 私も白熱する展開に内心で盛り上がっていた。 

 

 そんな私たちの視線に気づいたのか、清隆は画面を見据えたまま、その底知れぬ瞳で淡々と言い放った。

 

「――過程は関係ない。最後にオレが勝っていればそれでいい」 

 

(おおおっ! なんかめちゃくちゃカッコいい決め台詞キタ!! さすがは清隆だ!ここから一気に無双して勝ち切る気だな!) 

 

 

 ――だが、桃鉄の神は、どこまでも清隆に対して冷酷だった。

 

 

 清隆がトップに立ち、名言を放った直後の次のターン。

 

 青マスに止まり、さらなる資産を増やそうとした彼の画面に、軽快な三味線のBGMと共に、あの憎きキャラクターがカットインしてきたのだ。

 

『へっへっへ! 社長さんがそんなにお金を持ち歩いちゃあいけねぇよ!』

 

「なっ……」

 

 清隆の目が、わずかに見開かれる。

 スリの銀次による『全額スリ捨て』。

 

 一頭地を抜くカードで得た数十億という莫大な現金が、わずか一ターンにして、文字通り『ゼロ』になった瞬間だった。

 

(ちょっと待って嘘だろ!? カッコいいこと言った直後のターンに全額スられた!? 清隆ぁぁぁぁぁぁッ!!!)

 

 私は内心で血の涙を流して絶叫した。

 

(せっかくどん底から最強のカードでトップに躍り出て決め台詞まで吐いたのに、直後に銀次に全額持っていかれるってどんな星の下に生まれてんだよ!! もう見てるこっちの胃が痛くなってくるから!!)

 

「…………」

 

 モニターを見つめる清隆は、もはや言葉を発することすらなく、ただ静かに、完全に魂が抜けた『虚無』の瞳になっていた。

 

 そして迎えた最後の一年。そこから先は、ひよりによる無慈悲な蹂躙劇だった。

 

「ふふっ、皆さんも一緒に楽しみましょうね」

 

 天使のような微笑みを浮かべながら、彼女は怒涛の勢いで高額物件を次々と独占し、容赦のない攻撃カードで私たち三人を借金の泥沼へと引きずり込んでいった。

 

 私のオサレな発言も、堀北の怒りの猛追も、全財産を失い虚無のサイコロを振り続ける清隆も、すべては彼女の圧倒的な暴力の前では無力だった。

 

 気づけば、窓の外はすっかり暗くなり、夜の帳が下りていた。

 

「はーい、五年経過です。結果発表ですね」

 

 ひよりの楽しそうな声と共に、最終結果がモニターに表示される。

 

 一位:椎名ひより(圧倒的な総資産でぶっちぎり)

 二位:藍染惣右介(借金)

 三位:堀北鈴音(多額の借金)

 四位:綾小路清隆(さらに多額の借金)

 

「ふふっ、とっても楽しかったですね!」

 

 一人だけ文字通り桁違いの資産を築き上げたひよりが、心底満足そうに微笑む。

 

「……ええ。本当に、色々な意味で有意義な時間だったわ。椎名さんはもちろんだけど……藍染くん、次やるときは絶対に貴方を叩き潰すから覚悟しておきなさい」

 

 堀北は疲れ切った顔ながらも、どこかスッキリしたような、闘志に満ちた目で私を睨んできた。あんなにボコボコにされて借金まみれに沈んだというのに、どうやら本気でこのゲームを楽しんでくれたらしい。

 

「……オレはもう、しばらくサイコロは見たくない」

 

 かつての莫大な資産を奪われ尽くし、借金地獄から浮上できなかった清隆は、未だに魂が抜けたような顔でソファーに深く沈み込んでいた。

 

「――見事な盤面の支配だったよ、ひより。まさかこの私が、君という圧倒的な輝きの前に再び屈する日が来ようとはね。……ふっ、たまには敗北の味を思い出すのも、悪くはないものだ」

 

 私は敗者でありながらもあくまで余裕ありげに、オサレな笑みを浮かべて締めくくった。

 

(ひより以外全員借金地獄じゃねーか!!やっぱりひよりのサイコロ運と容赦ないカードさばきはエグすぎる!! もう絶対にこのメンツで桃鉄はやらない!! 俺の胃が持たない!!)

 

 内心では血の涙を流しながらそう固く誓っていた私だったが――ふと、心底嬉しそうに笑うひよりの無邪気な顔が目に入ると、すっと自然に毒気が抜けていくのを感じた。

 

「惣右介くん? どうかしましたか?」

 

 私がじっと見つめていたことに気づいたのか、ひよりが不思議そうに小首を傾げて覗き込んでくる。

 

「いや……君が楽しそうで何よりだと思ってね」

 

「ふふっ、はい! 皆さんと遊べて、とっても楽しかったです! また絶対やりましょうね!」

 

(っ……!? またやるの!? 絶対やらないって三秒前に誓ったばっかりなのに!?)

 

 再び訪れるであろう借金地獄の恐怖に一瞬だけ背筋が凍ったが――私の服の袖をきゅっと掴み、期待に満ちた上目遣いで見上げてくる彼女があまりにも可愛すぎた。

 

(……まあ、ひよりがこれだけ楽しんでくれるならいいか)

 

「……ああ。君が望むなら、いつでも付き合おう」

 

「本当ですか? えへへ、嬉しいです。約束ですよ」

 

 花が綻ぶようなその笑顔を前にしては、天に座す強者としての威厳も、敗北の悔しさも、全てがいとも容易く瓦解していく。

 

 結局のところ、私はこの愛らしい彼女の存在に――どこまでも甘いのだった。

 

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