俺は、ただ最強になりたかっただけなのに…   作:ポップ

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第一話 聞かなかった代償

 死ぬ瞬間というものは、もっと劇的なのだと思っていた。走馬灯が見えるとか、大切な誰かの顔が浮かぶとか、最後に何か言葉を残すとか。そういうものを、どこかで勝手に想像していた。けれど、実際にはそんなものはなかった。ただ、苦しかった。息がしづらくて、喉の奥が焼けるように痛くて、胸の中に重い石でも詰め込まれたようだった。布団の中にいるはずなのに寒気がして、体は熱いのに背中には冷たい汗が流れていた。

 

 スマホを取ろうとした記憶がある。誰かに連絡しようとしたのだと思う。救急車でも、家族でも、友人でも、誰でもよかった。助けてほしかった。でも、腕が上がらなかった。指が動かなかった。画面に触れることすらできなかった。頭の中がぼんやりしていく。音が遠くなる。天井の模様も、部屋の暗さも、自分の呼吸音も、少しずつ遠ざかっていった。最後に何を思ったのか、それすらもう覚えていない。

 

 ただ一つだけ、感覚として残っている。怖かった。何もできずに終わるのが、怖かった。

 

 目を開けると、白い場所にいた。壁があるのか、床があるのか、天井があるのかも分からない。けれど、不思議と自分は立っていた。足の裏に何かを踏んでいる感覚はあるのに、そこには床らしいものが見えない。どこまでも白い。音もない。匂いもない。自分の呼吸だけが、妙にはっきりと聞こえた。

 

「目が覚めましたか」

 

 やわらかい女の声がした。振り向くと、そこに一人の女性が立っていた。長い銀色の髪。白く淡く光る衣。整いすぎて、逆に人間味の薄い顔。美しい、という言葉では足りない。怖いほど整っている。目の前にいるのは、たぶん人間ではない。そんなことを、なぜかすぐに理解してしまった。

 

「あなたは亡くなりました」

 

 その女性は、静かにそう言った。悲しそうでもなく、嬉しそうでもなく、ただ決まった事実を伝えるような声だった。

 

「……俺、死んだんですか」

 

 自分の声は、思ったよりも弱かった。怒るでもなく、泣くでもなく、ただ確認するような声だった。

 

「はい」

 

「……そう、ですか」

 

 変な返事だったと思う。でも、それ以外に言葉が出てこなかった。死んだ。そう言われれば、何となく納得はできた。苦しかった記憶がある。熱が出ていた記憶がある。息ができなくなっていく感覚も、まだ体の奥に残っている気がした。

 

 でも、不思議なことに、自分のことはひどく曖昧だった。名前。年齢。住んでいた場所。仕事。家族。そういうものが、霧に包まれたように思い出せない。ただ、日本にいたこと。男だったこと。そして、流行していた病で死んだらしいこと。それだけは、ぼんやりと分かった。

 

「あなたの死因は、あなたの世界で広がっていた病です」

 

「……コロナ、ですか」

 

「そのように呼ばれていました」

 

 女性は、ゆっくりと頷いた。やっぱり、そうなのか。悔しい、という気持ちはすぐには出てこなかった。それよりも、現実味がなかった。自分が死んだということを、どこか遠くの出来事のように感じていた。

 

「あなたには、次の生があります」

 

「次の、生……ですか?」

 

「はい。異なる世界への転生です」

 

「異なる世界……」

 

 俺は、その言葉を小さく繰り返した。異世界。そう言い換えることもできるのかもしれない。ただ、その世界がどんな場所なのかは分からない。剣や魔法があるのかもしれないし、まったく違う文明の世界かもしれない。元の世界より進んでいる可能性だってある。人間がいるのかどうかすら、まだ分からない。

 

 何も分からない。ただ、少なくとも今の俺には、元の世界へ戻る選択肢はなさそうだった。

 

「転生にあたり、あなたには一つ、能力を選ぶ権利があります」

 

「能力、ですか」

 

 俺は少しだけ眉をひそめた。

 

「でも、どうして俺にそんな権利があるんですか?正直、何か特別なことをした覚えはないんですけど」

 

 そう聞くと、女性は少しだけ目を細めた。

 

「覚えていませんか?」

 

「え?」

 

「あなたが小学生だった頃です。雨の日の通学途中、小さなお地蔵様が濡れていたことがありましたよね?」

 

「お地蔵様……?」

 

 言われても、すぐには思い出せなかった。お地蔵様。雨。通学路。その言葉を頭の中で並べた瞬間、ぼんやりとした景色が浮かんできた。古い住宅街。学校へ向かう道。道路の端に立っていた、小さな石のお地蔵様。朝から降り続く雨。そして、自分の手に握られていた黄色い傘。

 

「……もしかして、あの時のことですか?」

 

「はい。その時、あなたは雨に濡れていたお地蔵様をハンカチで拭いてあげました。そして、自分の傘をそのお地蔵様に差しかけたまま、濡れて学校へ向かいましたよね?」

 

「……そんなこと、ありましたっけ」

 

「ありました」

 

 女性は静かに頷いた。

 

「あなたにとっては、ただの思いつきだったのかもしれません。次の日には忘れてしまうような、小さな行いだったのかもしれません」

 

「……正直、今言われるまで忘れてました」

 

「それでも、その行いは届いていました」

 

「届いていた……?」

 

「はい。誰かに褒められるためでもなく、何か得をするためでもなく、ただ放っておけなかった。その一度の行いに対するお礼です」

 

「お礼……」

 

「はい。あなたが次の生へ向かう時、一つだけ望むものを持っていけるように。それが、あの時のお礼として与えられたものです」

 

 俺は、しばらく何も言えなかった。まさか、そんな昔のことが理由になるとは思わなかった。誰かに見られていた覚えもない。褒められた覚えもない。そもそも、自分でも忘れていた。それなのに。あの雨の日の小さな行いが、死んだ後の俺をここへ繋いでいる。

 

 女性は、そこで改めて言った。

 

「ですから、あなたには一つ、能力を選ぶ権利があります」

 

「……分かりました」

 

 そう答えながらも、まだ少し不思議な気分だった。けれど、理由は分かった。それなら、次は選ばなければならない。何を持っていくのか。何を望むのか。次の世界で、自分がどう生きたいのか。

 

 女性が片手を上げると、空中に光の文字がいくつも浮かび上がった。身体強化。治癒。知識補助。危機察知。収納。攻撃適性。防御適性。生存補助。どれも便利そうだった。知らない世界に行くなら、知識補助は必要そうだ。治癒もいい。死ぬ時の苦しさを思い出すと、病や怪我に強い力は魅力的だった。危機察知も悪くない。収納も、あれば絶対に便利だろう。

 

 けれど、そこでふと、死ぬ前のことを思い出した。息ができなかった。助けを呼べなかった。スマホに手を伸ばすことすらできなかった。俺は、ただ弱かった。病気相手にどうこうできるものではないと分かっている。力があればコロナで死ななかった、なんて単純な話ではない。それでも、何もできないまま終わったことが、心のどこかに刺さっていた。もう嫌だった。弱くて、何もできずに、ただ終わるのは嫌だった。

 

「……すみません。できるなら、その……とにかく強い力がほしいです。簡単に負けないくらいの。理不尽な目に遭っても、押し返せるくらいの力がほしいです」

 

 そこまで言って、一度言葉を止めた。少し恥ずかしかった。欲望をそのまま口にしている気がしたからだ。けれど、死んだ後にまで遠慮しても仕方がない。どうせもう、元の人生は終わっている。次があると言うのなら、今度はせめて自分を守れる力がほしかった。

 

「できれば……最強で、無双できるくらいの力がほしいです」

 

 言った後で、少しだけ後悔した。さすがに都合がよすぎる。そんな願いが通るなら、誰だってそうする。けれど、女性は笑わなかった。怒りもしなかった。ただ少しだけ、困ったように目を伏せた。

 

「可能ではあります。ただし、それほど強大な能力には、相応のデメリットが必要になります」

 

「デメリット……ですか」

 

「はい。力の均衡を取るためです。あまりにも一方的な祝福は、転生先の世界と、あなた自身に歪みを生みます。ですから、あなたの望む力を与えるなら、その力に釣り合う代償が必要になります」

 

 代償。その言葉が、白い空間の中で妙に重く響いた。

 

「そのデメリットって、どんなものなんですか?」

 

「確認することはできます」

 

「確認しないこともできるんですか?」

 

「はい。デメリットの内容を確認した場合、あなたに与えられる力は少し弱まります。逆に、内容を確認せずに受け入れるならば、特典として能力はさらに強化されます」

 

「……なるほど」

 

 普通に考えれば、聞くべきだった。絶対に聞いた方がいい。どんな代償かも分からずに受け入れるなんて、危険すぎる。寿命が短くなるのかもしれない。痛みを感じ続けるのかもしれない。誰かに狙われ続けるのかもしれない。まともな人間なら、ここで確認する。それは分かっていた。

 

 でも、分かっていたのに、俺はすぐに答えられなかった。もし聞いたら、力が弱くなる。最強ではなくなるかもしれない。無双できるほどではなくなるかもしれない。その考えが、胸の奥に引っかかった。また中途半端になるのは嫌だった。死ぬ前の自分のように、何もできないまま終わるのは嫌だった。

 

「……聞かないでおきます」

 

 女性が、ほんの少しだけ目を見開いた。

 

「よろしいのですか?後悔するかもしれませんよ」

 

「……怖いですけど。でも、中途半端にして後悔する方が、俺は嫌です。だから……お願いします。デメリットは確認しません」

 

「取り消せません」

 

「はい」

 

 女性はしばらく黙っていた。その沈黙が、少し怖かった。まるで、自分がとんでもない選択をしてしまったのだと、相手の態度が教えているようだった。それでも、もう口にしてしまった。引き返す気もなかった。

 

「分かりました。では、あなたの魂に、最大値の祝福を付与します」

 

 女性が両手を広げた。白い空間に浮かんでいた光の文字が砕ける。その破片が、無数の光となって俺に降り注いだ。熱い。体が焼けるようだった。いや、体だけではない。魂そのものに、熱い鉄を流し込まれているような感覚だった。

 

 骨がきしむ。血が騒ぐ。心臓が暴れる。けれど、不思議と痛みだけではなかった。力が入ってくる。底のない何かが、自分の中に積み上がっていく。怖いほどの力だった。受け止めきれないほどの力だった。

 

 俺は膝をつきそうになった。だが、倒れなかった。光が収まる頃には、息が上がっていた。

 

「もう一つ、転生時の開始年齢を選べます。幼少期からやり直す形と、十八歳の肉体で始める形です」

 

「子供からだと、どうなるんですか?」

 

「転生先の環境に組み込まれます。保護者や生活の場が用意されるため、その世界へ自然に馴染むことができるでしょう」

 

「十八歳だと?」

 

「保護者も身分もありません。異なる世界のどこかへ、直接出現する形になります。ただし、すぐに自由に動けます」

 

 俺は少し考えた。子供からやり直す。それはそれで、悪くないのかもしれない。生活の場があり、誰かに守られ、世界の常識を少しずつ学べる。安全ではあるのだろう。でも、また子供から始めるのは面倒だった。親に従い、周囲に合わせ、何年も待たなければならない。

 

 それに、今の俺には強すぎる力がある。子供の体でそんな力を持つ方が、むしろ危険かもしれない。

 

「十八歳でお願いします。また子供からやるのは、ちょっと……しんどいです」

 

「分かりました。では、あなたを異なる世界へ送ります」

 

「その世界のことは、事前に教えてもらえないんですか?」

 

「最低限のことだけは、転生後にあなた自身で理解できるようになります。一般的な身体の動かし方、生きるために必要な感覚。そして、言葉と文字です」

 

「文化とか、国とか、危険なものとかは……」

 

「それは、あなた自身で知ってください」

 

「……分かりました」

 

 そう答えながら、俺は改めて、自分がずいぶん大きな選択をしていることを実感していた。よく分からない世界へ行く。しかも、デメリットの内容を聞かずに、強すぎる力を受け取る。冷静に考えると、かなり無茶をしている。けれど、もう決めてしまった。

 

「覚えておいてください。力は、あなたを幸せにするとは限りません」

 

「……それは、どういう意味ですか?」

 

「いずれ分かります」

 

 女性は、それ以上は答えなかった。最後まで、はっきりとは言わない。でも、それを聞かなかったのは俺だ。デメリットを確認しないと決めたのも俺だ。だから、文句は言えない。言えないはずだった。

 

「最後に確認します。デメリットの内容は、本当に確認しなくてよいのですね?」

 

 女性が、もう一度だけ聞いた。俺は息を吸った。少しだけ迷った。本当に少しだけ。でも、その迷いを押し込めた。

 

「はい。確認しません」

 

「分かりました」

 

 女性が手をかざす。足元が消えた。白い空間が崩れていく。体が、どこかへ引きずり込まれるような感覚に包まれた。

 

「あなたの新たな生に、祝福を」

 

 女性の声が遠ざかる。

 

「あの、できればもう少し説明を――」

 

 言い終わる前に、視界が光に塗り潰された。

 

 風の音が聞こえた。頬に、何かが触れている。草だ。草の匂いがした。土の匂いもする。鳥の鳴き声が、遠くから聞こえた。

 

 俺はゆっくりと目を開けた。青い空が広がっていた。雲がゆっくり流れている。見たことがないほど広い空だった。

 

「……ここが、異なる世界ですか」

 

 声を出した瞬間、俺は固まった。声が違う。高い。やわらかい。明らかに、女の声だった。

 

「え?」

 

 思わず喉に手を当てた。首が細い。指も細い。手の形も違う。俺は勢いよく体を起こした。

 

 そこは草原だった。見渡す限りの草原。遠くには森が見える。さらにその向こうには、青くかすんだ山脈があった。人の姿はない。建物も見えない。道らしい道もない。空は青く、風は冷たすぎず、遠くでは鳥のようなものが鳴いている。ただ、その鳥が本当に俺の知っている鳥なのかは分からなかった。

 

 雲の流れも、草の匂いも、土の感触も、元の世界と似ている。けれど、どこか違う。違うはずだ。ここは、俺が生きていた世界ではないのだから。この世界がどんな場所なのか。人間がいるのか。町があるのか。文明がどれくらい進んでいるのか。何も分からない。分からないのに、俺はたった一人でここにいた。

 

 だが、今は景色よりも、自分の体の方が問題だった。俺は自分の体を見下ろした。まず、胸があった。それも、かなりはっきりと。服は着ている。白いシャツに、黒っぽい外套。腰には革のベルト。下は動きやすそうなズボン。旅人のような格好だった。

 

 だが、服の上からでも分かる。体つきが違う。腰が細い。脚が長い。胸が大きい。全体的に、明らかに女の体だった。

 

「ちょっと待ってください。これは聞いてないんですけど」

 

 誰に言っているのか、自分でも分からなかった。返事はない。空は青いまま。風は草を揺らしている。

 

 俺は立ち上がり、長く垂れた髪を指でつまんだ。薄い金色に銀が混ざったような、さらさらした髪だった。腰のあたりまである。

 

「……いや、本当に誰ですか、これ」

 

 近くに水場がないので、顔は分からない。けれど、体だけで分かる。この肉体は、おそらくかなりの美女だ。少なくとも、元の俺とは何もかも違う。

 

 女になった。十八歳の肉体で転生するとは聞いた。でも、女になるとは聞いていない。これがデメリットなのか。そう思った。だが、すぐに違うと分かった。

 

 女になったことだけではない。体の奥に、妙な熱がある。胸の奥。腹の底。血の流れの中。どこにあるのか分からない。けれど、確かに何かがある。力。それだけではない。もっと危ない何か。

 

 確かに、これは最強で無双できる力なのかもしれない。けれど、こんな形だとは思っていなかった。

 

 誰かを押さえつけたい。自分の前に跪かせたい。逆らう相手を、完全に屈服させたい。そんな考えが、ふいに頭の中を横切った。

 

「……今のは、何ですか」

 

 俺は自分の胸に手を当てた。心臓は静かに動いている。でも、体の奥だけが熱い。気味が悪かった。自分のものではない感情が、体の中に混ざっているようだった。

 

「これが、デメリット……?」

 

 聞かなかった。自分で聞かないと決めた。だから、今さら怒るのは違うのかもしれない。でも、せめて性別が変わるくらいは説明してほしかった。そう思ってしまう。

 

 俺は気を取り直すために、周囲を見回した。草原。森。山。人里らしきものは見えない。

 

「とりあえず、人がいる場所を探さないと……」

 

 そう言って、歩き出した。体は驚くほど軽かった。けれど、普通に歩けないほどではない。少し感覚が鋭すぎるだけで、落ち着いて動けば問題はなさそうだった。ただ、力は確かにある。手を握ると、体の奥に強い圧が生まれる。多分本気で殴れば、大きな岩でも砕けるのではないか。そんな根拠のない予感があった。

 

 怖い。でも、それと同時に、胸の奥で別の感情も湧いていた。すごい。これなら、何にも負けない。誰かに理不尽に踏みつけられることはない。もう、何もできずに終わるだけの存在ではない。そう思うと、少しだけ笑いそうになった。けれど、その笑いを飲み込んだ。今笑ったら、何か大事なものがずれる気がした。

 

 どれくらい歩いただろう。太陽の位置はあまり変わっていない。けれど、体感ではかなり歩いた気がする。それでも疲れはまったくなかった。喉も渇かない。空腹も感じない。この体は、本当に人間なのだろうか。そんなことを考えていると、耳が音を拾った。草を踏む音。複数。三人。

 

 俺は足を止めた。少し緊張した。この世界で初めて会う相手かもしれない。できれば、普通に話ができる相手であってほしい。しかし、草むらの向こうから現れた三人を見て、その期待はすぐに小さくなった。

 

 三人は、人間に見えた。少なくとも、耳が長いとか、角があるとか、肌の色が大きく違うとか、そういう分かりやすい違いはない。ただ、服装は明らかに現代日本のものではなかった。粗い布の服。革の胸当て。腰に下げた刃物。一人は、木の柄に鉄の刃をつけた大きな斧を持っていた。一人は短剣らしいものを腰に差している。もう一人は弓を持っていた。

 

 俺はそれを見て、ようやく少しだけ理解した。少なくともここは、スマホや車が当たり前にある場所ではなさそうだ。そして、目の前の三人は、まともな通行人にも見えなかった。三人は俺を見るなり足を止め、それから、にやりと笑った。

 

「おいおい、なんだあ?こんな草原に女が一人かよ。しかも、とんでもねえ上玉じゃねえか」

 

 下品な笑い声が響いた。俺は反射的に一歩下がった。怖い。そう思った。女の体になって、知らない世界の草原で、武器を持った男三人に囲まれている。普通なら、怖くて当然だ。

 

 でも、不思議だった。頭では怖いと思っているのに、体はまったく震えていない。心臓も落ち着いている。目の前の三人が、あまりにも弱く見える。いや、弱いと分かってしまう。斧を持つ男の肩の動き。短剣の男の重心。弓の男の指先。全部が見える。どう動くのか、何となく分かる。

 

「……こんにちは」

 

 とりあえず、そう言ってみた。場違いな挨拶だとは思った。けれど、いきなり敵意を向けるよりはましだと思ったし、相手が何をするつもりなのかを見極める時間もほしかった。

 

「おいおい、こんな状況で普通に挨拶してきたぞ。こいつ本当に頭おかしいんじゃねえか?まあいいだろ。顔と体がよけりゃ問題ねえ。こんなところで一人歩きしてる方が悪いんだよ」

 

 その言葉で、だいたい分かった。この三人は、友好的な相手ではない。道案内を頼めるような人たちでもない。俺は小さく息を吐いた。

 

「……近づかないでください。本当に、近づかない方がいいです。俺も、まだこの体に慣れていないので」

 

 三人が一瞬だけ黙り、それから同時に笑った。

 

「この体に慣れてない、だとよ。変な女だぜ」

 

 斧の男が前に出た。俺はさらに一歩下がろうとした。けれど、そこで足を止めた。下がる必要があるのか。そう思ってしまった。相手は武器を持っている。三人いる。普通なら危険だ。でも、この体は普通ではない。目の前の男が持つ斧など、ひどく軽いものに見えた。

 

「大人しくしてろ」

 

 男が手を伸ばしてきた。俺はその手首を、反射的につかんだ。軽く。本当に、軽く握っただけだった。ごきり。嫌な音がした。

 

「ぎゃああああああああっ!」

 

 斧の男が絶叫した。手首が、ありえない方向に曲がっていた。俺は慌てて手を離した。

 

「あ……」

 

 やってしまった。そう思った。でも、体はやはり震えていなかった。むしろ、胸の奥が熱くなった。もっとできる。そんな考えが、頭の中に浮かんだ。俺はそれを振り払おうとした。だが、その前に弓の男が叫んだ。

 

「こっ、コイツ!」

 

 弓がこちらに向けられる。矢が放たれる。その動きは見えていた。飛んでくる矢も、はっきり見えた。俺は右手を上げ、飛んできた矢を片手で掴んだ。手のひらに衝撃はあった。けれど、痛みはほとんどない。矢は俺の手の中で止まっていた。弓の男が目を見開く。

 

「嘘だろ……」

 

 俺自身も、同じことを思った。嘘だろ。こんなことができるのか。木でできた矢。鉄の鏃。殺意を持って放たれたもの。それを、片手で掴んで止めた。怖い。でも。悪くない。そう思ってしまった。

 

 その瞬間、斧の男が怒りに任せて突っ込んできた。折れていない方の手で、落とした斧を拾っていたらしい。

 

「死ねええええっ!」

 

「やめてください!」

 

 俺は本気で言った。けれど、男は止まらなかった。斧が振り下ろされる。遅い。俺は半歩だけ横に避け、男の腹を拳で打った。加減したつもりだった。だが、男の体はくの字に折れ、そのまま数歩後ろへ吹き飛んだ。草の上を転がり、動かなくなる。

 

「……え」

 

 死んだ。たぶん、死んだ。俺は自分の手を見た。細い女の手。こんな手で、人を殺してしまった。吐き気がするかと思った。膝が震えるかと思った。でも、そうはならなかった。ただ、胸の奥の熱が少し強くなった。

 

 そして、あろうことか私は、楽しい気持ちになってしまったのだ。

 

「……今、私って」

 

 自分の中で浮かんだ言葉に、俺は一瞬だけ戸惑った。俺。私。どちらが正しいのか分からない。いや、そんなことは今どうでもいいはずだった。目の前で人が倒れている。俺が、いや、私が、殺したのかもしれない。それなのに、胸の奥に湧いた感情は、後悔だけではなかった。

 

 怖い。まずい。そう思う自分がいる。けれど同時に、もっと知りたいと思ってしまう自分もいた。この力でどこまでできるのか。目の前の男たちは、どんな声で泣くのか。どれくらい怯えるのか。どこまで追い詰めれば、完全に心が折れるのか。そんな考えが、泡のように浮かんでは消えていく。

 

「違う……違います」

 

 俺は小さく呟いた。これは俺じゃない。そう思いたかった。けれど、胸の奥にある熱は、確かに自分の内側から湧いていた。

 

 小太りの男が、短剣を抜いた。だが、その手は震えていた。

 

「な、なんなんだよ、お前……!」

 

「分かりません。俺にも、まだ分かりません…」

 

「ふざけんな!」

 

 男が短剣を構えて走ってくる。俺は避けようとした。けれど、体が勝手に前へ出た。短剣を持つ腕をつかむ。今度は、少しだけ加減したつもりだった。それでも、骨が折れる音がした。

 

「ぎゃあっ!」

 

 男が短剣を落とす。俺はその短剣を拾おうとして、やめた。必要ない。そう思ってしまった。武器などなくても、俺はこの男たちを壊せる。その考えが浮かんだ瞬間、背筋が冷えた。違う。これは俺の考えなのか。それとも、この体の何かなのか。

 

 弓の男が逃げ出した。俺に背を向けて、必死に走っていく。その背中を見た瞬間、胸の奥の熱が跳ねた。逃がすな。屈服させろ。地面に這いつくばらせろ。そんな声が、頭の奥で囁いた気がした。

 

「……っ」

 

 俺は歯を食いしばった。だが、体は動いていた。地面を蹴る。一瞬で、逃げる男の前に回り込んでいた。弓の男が悲鳴を上げる。

 

「ひっ!」

 

 俺は男の胸ぐらをつかみ、そのまま片手で持ち上げた。軽い。人間一人が、驚くほど軽い。男の足が宙でばたつく。俺の手を引きはがそうとしているが、まったく意味がない。

 

「た、助けてくれ!」

 

 その言葉を聞いた瞬間、体の奥が震えた。ぞくりとした。恐怖ではない。快感に近い何かだった。相手が怯えている。自分に命乞いをしている。それが、甘い蜜のように感じてしまった。

 

「……これが、デメリットですか」

 

 俺は小さく呟いた。女になったことだけではない。力が強すぎることだけでもない。この体には、危険な衝動がある。敵を倒すだけでは足りない。相手の心を折りたい。完全に自分の下に置きたい。そんな欲が、内側から湧いてくる。

 

「助け……助けて……!」

 

 弓の男が泣いていた。さっきまで俺を見て下品に笑っていた男が、今は子供のように震えている。その姿を見て、また体が熱くなる。まずい。本当にまずい。このままだと、俺はこの男をただ殺すだけでは済まない。もっとひどいことをしたくなる。相手を壊して、泣かせて、跪かせて、それでも足りないと思ってしまう。そんな自分が、確かにいる。

 

「黙ってください」

 

 俺は男に言った。けれど、それは男に向けた言葉ではなかった。自分の中にある何かに向けた言葉だった。俺は男を地面に落とした。男は咳き込みながら草の上を転がる。それでもすぐに、這うようにして逃げようとした。

 

 俺は反射的に足を伸ばし、その背中を踏みつけた。強く踏めば潰してしまう。そう分かっていたから、力はかなり抜いたつもりだった。それでも男は地面に押しつけられ、情けない声を漏らした。背中の下で、男の体が小さく震えている。その震えを足裏で感じた瞬間、また胸の奥が熱くなった。

 

「動かないでください。質問に答えたら、離します」

 

「わ、分かった!分かったから!」

 

「人がいる場所はどっちですか。町でも村でもいいです。近くにありますか?」

 

「ある!あるから助けてくれ!」

 

「答えてください」

 

 俺の声は、思ったより冷たかった。男は震えながら、森の方を指差した。

 

「あっちだ!森を左に見ながら進めば、道に出る!そこから南に行けば、リュセルって町がある!」

 

「リュセル」

 

「本当だ!嘘じゃねえ!」

 

「どれくらいかかりますか?」

 

「普通に歩けば半日くらいだ!あんたなら……あんたなら、もっと早いかもしれねえ!」

 

 俺は頷いた。だが、まだ足はどけなかった。ここで逃がしてしまう前に、聞けることは聞いておいた方がいい。町の場所だけ分かっても、お金の価値が分からなければ困る。宿に泊まれるのか、食べ物が買えるのか、それすら分からないのだ。

 

「お金についても教えてください。この袋の中に入っている硬貨は、どれくらいの価値がありますか?」

 

「か、金か?銅貨と銀貨だ!袋の中なら銅貨が二十枚くらいと、銀貨が三枚入ってるはずだ!」

 

「銅貨と銀貨……。銅貨はどれくらいで使えるんですか?」

 

「銅貨十枚で銀貨一枚!銀貨十枚で金貨一枚だ!そんなの子供でも知ってるだろ!」

 

 男はそこまで言って、すぐに口を閉じた。踏みつけられている状況で、余計なことを言ったと気づいたのだろう。

 

「続けてください。銅貨一枚で、何が買えますか?」

 

「安い黒パンなら一つ買える!屋台のスープなら銅貨二枚か三枚!安宿なら一泊で銀貨一枚くらいだ!まともな宿なら銀貨二、三枚はする!」

 

 銅貨一枚で安いパン一つ。感覚としては百円くらいだろうか。もちろん、現代日本とこの世界では物価も生活も違う。単純に円へ換算して考えるのは危ない。それでも、ざっくりした基準は必要だった。銅貨十枚で銀貨。銀貨十枚で金貨。つまり、今の手持ちは銅貨二十枚と銀貨三枚。安宿に二、三泊できるくらいはあるのかもしれない。

 

「町に入るのに、お金は必要ですか?」

 

「リュセルなら銅貨二枚だ!商人や荷車は別料金だけど、普通に入るだけならそれくらいだ!」

 

「分かりました」

 

 ようやく、少しだけ先が見えた。リュセルに入るだけなら問題ない。安宿にも泊まれる。食事も最低限は何とかなる。もちろん、この男が嘘をついていなければ、だが。

 

「他に、町で気をつけることはありますか?」

 

「し、知らねえ!余所者なら門番に変な目で見られるかもしれねえけど、金を払えば入れる!揉めたくなけりゃ衛兵には逆らうな!あと、夜の裏通りには行くな!それくらいだ!」

 

「そうですか」

 

 俺は足をどけた。男はすぐには動かなかった。俺がまだ何かすると思っているのだろう。実際、俺の中の何かは、まだ何かしたがっていた。このまま逃がすな。恐怖を刻め。二度と逆らえないようにしろ。そんな衝動が、まだ腹の底でうごめいている。

 

 俺はそれを必死に押さえた。

 

「持っているお金と、使えそうな物を置いていってください」

 

「へ……?」

 

「町へ行くのに必要なので」

 

 男は慌てて腰袋を外した。硬貨の入った袋。小さなナイフ。乾いたパンのようなもの。水袋。それらを地面に置く。俺はそれを拾った。

 

「あなたは行っていいです。気が変わらないうちに行ってください」

 

 その言葉は、本音だった。男は何度も頷き、転びそうになりながら逃げていった。

 

 俺はその背中を見送った。追いかけたい。捕まえてあげたい。もっと酷い目に遭わせてあげたい。あの男が、自分のしたことを嘆いて、後悔して、助けてくれと泣き叫ぶまで追い詰めたい。絶望の淵に立たせて、そこから落ちていく顔を、すぐ近くで見ていたい。そんな考えが、ひどく自然に浮かんだ。

 

 恐ろしいことに、それは怒りではなかった。正義感でもなかった。むしろ、優しさに似た形で湧いてきた。可哀想だから、捕まえてあげたい。逃げているから、止めてあげたい。泣いているから、もっと泣かせてあげたい。意味が分からない。自分で自分の感情が分からない。それなのに、その考えは妙に甘く、頭の奥にまとわりついて離れなかった。

 

「……最悪ですね、これ」

 

 草原には、二人の男が倒れていた。一人は動かない。もう一人も、たぶん助からない。俺がやった。最初の戦いで。この世界に来て、まだ一時間も経っていないかもしれないのに。俺は人を殺した。

 

 しかも、恐ろしいことに、罪悪感よりも先に力の実感が来ていた。自分がどれほど強いのか。どれほど簡単に人を壊せるのか。それを理解してしまった。そして、理解したことに興奮している自分がいる。

 

 それだけではない。信じられないことに、俺は今、倒れている男たちを見て、ほんの一瞬だけ「可愛い」と思ってしまった。泥にまみれ、汗と血に汚れ、さっきまで下品な笑みを浮かべていた不潔な男たち。普通なら、嫌悪するはずだった。むしろ、近づきたくもないと思うはずだった。

 

 それなのに、力を失って倒れている姿を見た瞬間、胸の奥がきゅっと疼いた。壊れかけた玩具を見つけた子供のように。傷ついた小動物を眺めるように。このまま手元に置いて、もっと反応を見てみたい。そんな考えが、頭をよぎった。

 

「……可愛い?今、俺は何を……」

 

 自分の中から出てきた感情に、ぞっとした。この男たちは可愛くない。助けたい相手でもない。むしろ、俺を襲おうとしてきた危険な相手だ。それなのに、弱った姿を見た途端、別の見え方をしてしまった。恐怖。命乞い。後悔。絶望。それらが混ざった顔を、綺麗だと思ってしまった。ぞっとするほど、綺麗だと。

 

「違う……違います。これは、違う」

 

 誰に言い聞かせているのか、自分でも分からなかった。でも、言葉にしなければ、そのまま呑み込まれそうだった。

 

 俺は空を見上げた。青い空。白い雲。どこにもあの女神のような存在の女性はいない。

 

「これは、ちゃんと説明してほしかったです」

 

 返事はない。当たり前だ。聞かなかったのは俺だ。確認しないと決めたのは俺だ。強さを求めたのも俺だ。なら、この結果も俺の責任なのだろう。でも、だからといって、すぐに受け入れられるわけではない。

 

 俺は拾った水袋を腰に下げ、硬貨の袋を外套の内側にしまった。

 

「お金の価値は、少しだけ分かりました。でも、町に入れるかどうかはまだ怪しい。しかも南って言われても、どっちが南なのか分からないんですけど……」

 

 今さらながら、逃がした男に対して少し腹が立ってきた。森を左に見ながら進めば道に出る。そこまではいい。でも、その先で南へ行けと言われても、南が分からなければ意味がない。

 

「もうちょっと分かりやすく教えておいてくださいよ……」

 

 そう呟きながら、男が指差した方向へ向かう。けれど、数歩歩いたところで、不思議な感覚が頭の奥に生まれた。森を左に。その言葉を頼りに進んでいけば、たぶん道に出る。そして、道に出た先でどちらが南かは、何となく分かる気がした。

 

 知識というより、体の感覚に近い。あの女性が言っていた、生きるために必要な感覚。その一部なのかもしれない。私は、いや、俺は、少しだけ息を吐いた。

 

「……喋り方も、気をつけないと駄目ですね」

 

 今の体は女だ。しかも、おそらくかなり目立つ。この世界の常識は分からない。女が「俺」と言っても変ではない文化かもしれない。けれど、少なくとも不用意に目立つ理由を増やす必要はない。街に着いたら、少しずつ女性らしく話した方がいい。柔らかく。丁寧に。怪しまれないように。

 

「私は……リュセルへ向かう。まずは町へ行く。情報を集める。宿を探す」

 

 声に出すと、まだ違和感があった。けれど、今の声にはその方が自然に聞こえた。

 

「私は……」

 

 そこで少し迷った。名前が必要だ。元の名前は思い出せない。なら、この世界で使う名前を決めなければならない。

 

「リオ」

 

 ふと、そんな名前が浮かんだ。なぜかは分からない。けれど、短くて呼びやすい。男でも女でも通りそうで、今の姿にもそれほど不自然ではない気がした。

 

「私は、リオ」

 

 そう呟くと、胸の奥に薄い輪郭ができたような気がした。元の自分が消えたわけではない。でも、この世界で生きるための名前ができた。

 

「……リオ。まずは、落ち着いて町へ行きましょう」

 

 私は森の方へ歩き出した。地面を踏みしめる足は軽い。体は強い。けれど、心はまだ危うい。背後では、風が草を揺らしていた。血の匂いが、かすかに混じっている。それでも、私は振り返らなかった。

 

 まだ、この世界の名前も知らない。剣の世界なのか、魔法の世界なのか、神の世界なのか、あるいはまったく別の何かなのかも分からない。ただ一つだけ分かっている。

 

 私は、強すぎる力を持って生まれ落ちた。そしてその力は、祝福だけではなかった。あの女神のような存在の女性が最後まで説明しなかった代償。それは、私の体と心の奥で、静かに熱を持ち続けていた。

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