森を左に見ながら進めば、道に出る。逃がした男はそう言っていた。信用できる相手ではないが、今のところ他に手がかりはない。私は森の位置を確認しながら、草原を歩いていた。
歩きながら、何度も自分の手を見る。白くて細い指。傷一つない肌。さっき人間の骨を折り、人を殺したかもしれない手には見えない。力を込めれば、どれほどのことができるのか。考えるだけで怖いのに、胸の奥ではまだ妙な熱がくすぶっていた。
「落ち着いて。普通に歩く。普通に話す。普通に人に接する」
口に出して確認する。今の声は、やはり柔らかい女の声だった。自分の声なのに、どこか他人の声を聞いているような違和感がある。それでも、町に着くまでには少しでも慣れなければならない。女の姿で「俺」と言い続けるのが、この世界で普通なのかどうかは分からない。分からない以上、目立たない方に寄せるべきだ。
「私は、リオ。リュセルへ向かっている。お金は銅貨二十枚くらいと、銀貨三枚くらい。町に入るには銅貨二枚。安宿は銀貨一枚くらい」
情報を声に出して整理する。銅貨一枚で安い黒パン一つ。銅貨十枚で銀貨一枚。銀貨十枚で金貨一枚。日本円に無理やり置き換えるなら、銅貨一枚が百円くらいの感覚かもしれない。ただし、これはあくまで感覚だ。この世界の物価は、この世界の基準で考えた方がいい。
安宿が銀貨一枚なら、今の手持ちだけで数日は生きられる。食べ物も最低限は買えるだろう。けれど、それ以上は分からない。服を買うには足りるのか。仕事を探せるのか。身分証のようなものが必要なのか。そもそも、私のような身元不明の女が、町に入れてもらえるのか。
考えることが多すぎた。
それでも、足は自然に進んでいた。森を左に見ながら歩く。草原の先に広がる森は、遠目には静かに見えるが、近づくとどこか不気味だった。木々の背が高く、奥が暗い。葉の擦れる音に混じって、時々、獣のような低い声が聞こえる。
「森の中は、入らない方がよさそうですね」
そう呟いた時だった。足元の草が、少しずつ薄くなっていることに気づいた。土が見える。人や荷車が何度も通ったような跡が、草原の中に細く続いていた。私はその跡を辿るように歩いた。
しばらく進むと、踏み固められた土の道が見えてきた。舗装はされていない。けれど、自然にできた獣道とは違う。車輪の跡のような筋が残っていて、草も低く刈られている。誰かが日常的に使っている道だ。
「本当に道がありましたね」
そう言った瞬間、自分でも少し驚くほど、口元が緩んだ。逃がした男は嘘をついていなかった。あの状況で適当なことを言われた可能性もあっただけに、素直に安心する。
それと同時に、また嫌な感情が胸の奥から湧いた。
今度会ったら、ご褒美くらいあげてもいいかもしれない。そう思って、私は無意識に唇を舐めていた。怯えながら道を教え、震えながらお金の価値まで教えてくれた男。あの情けない姿を思い出すと、また胸の奥が甘く疼いた。
「……駄目」
私は足を止めた。今のは危ない。完全に危ない。感謝ではない。優しさでもない。あの男の怯えた顔をもう一度見たいと思っただけだ。ご褒美という言葉でごまかしただけで、内側にあるものはもっと歪んでいる。
「本当に、油断したら駄目ですね」
深く息を吸う。草の匂いが肺に入る。少しだけ冷静になった。今は町へ向かうことだけ考える。余計なことは考えない。
道に出たはいいが、問題はここからだった。男は南に行けばリュセルだと言っていた。けれど、そもそも南がどちらか分からない。太陽の位置で考えればいいのかもしれないが、今が何時頃なのかも分からない。元の世界では、スマホの地図に頼りきりだった。方角を自分で判断する経験などほとんどない。
「もうちょっと分かりやすく教えておいてくださいよ……」
私は小さく文句を言った。だが、その直後、不思議な感覚が頭の奥に浮かんだ。言葉ではなく、感覚として、こちらが南だと分かる。体の中に方位磁石があるような感じだった。
「これも、生きるために必要な感覚、ですか」
あの女神のような存在の女性が言っていた言葉を思い出す。転生後に、最低限のことは理解できるようになる。一般的な身体の動かし方、生きるために必要な感覚、言葉と文字。方角が分かることも、その中に入るのかもしれない。
ありがたい。ありがたいが、少し気味が悪い。自分の頭の中に、自分ではない何かが差し込まれているような感覚がある。それでも、使えるものは使うしかない。私は感覚に従って、南へ向かって歩き出した。
道を歩くと、草原を進んでいた時より少し気持ちが楽になった。少なくとも、この道を使う人間がいる。なら、先には町か村があるはずだ。遠くまで続く土の道を見ていると、ようやくこの世界にも人の営みがあるのだと実感できた。
しばらく歩いたところで、前方から音が聞こえてきた。車輪が土を踏む音。馬の足音。人の話し声。私は反射的に道の端へ寄った。
やがて、一台の荷車が見えてきた。二頭の馬がそれを引いている。荷台には木箱や布袋が積まれていて、御者台には年配の男と、若い女が座っていた。服装は質素だが、盗賊たちのように汚れてはいない。腰に短い刃物はあるが、こちらに敵意を向けている様子はなかった。
(普通の人、でしょうか)
そう思った瞬間、少し緊張した。盗賊と違って、彼らに危害を加える理由はない。だからこそ怖い。もし何かの拍子に力を出してしまったら。もし、怪しまれて追及されたら。もし、この体の中の衝動がまた変な方向へ反応したら。
荷車が近づいてくる。年配の男がこちらを見た。少し驚いたような顔をしたが、すぐに馬の速度を落とした。
「お嬢さん、一人かい?」
言葉は分かった。盗賊たちと話した時点で分かってはいたが、やはり不思議だ。聞いたことのない響きのはずなのに、意味が自然に頭へ入ってくる。私はできるだけ落ち着いて答えた。
「はい。リュセルへ向かっているのですが、道が合っているか不安で……」
「リュセルなら、この道をまっすぐだ。だが歩きだとまだかかるぞ。日が傾く前には着くだろうが、女一人で歩くには少し物騒だな」
年配の男はそう言って、私の姿を上から下まで見た。嫌な視線ではなかった。心配と、少しの警戒。そのくらいだ。隣に座っている若い女も、こちらをじっと見ている。
「ありがとうございます。道が合っているなら安心しました」
「乗っていくか?俺たちもリュセルへ行く。荷台でよければ空いている」
ありがたい申し出だった。けれど、私はすぐに返事ができなかった。知らない相手の荷車に乗るのは危険かもしれない。だが、歩き続けるより、人から情報を得られる機会でもある。それに、彼らに悪意があったとしても、たぶん私の方が危険だ。
そう考えた瞬間、自分で少し嫌になった。普通の人相手に、まず力でどうにかできるかを考えている。
「ご迷惑でなければ、お願いします」
「迷惑じゃないさ。荷台の端に座るといい」
「ありがとうございます」
私は荷車の後ろに回り、荷台に手をかけた。壊さないように、という意識はあったが、普通に乗るだけなら問題はなかった。さっきまでの戦闘がおかしかっただけで、普段の動作まで全部が危険というわけではないらしい。私は少しだけ安心して、荷台の端に腰を下ろした。
荷車が再び動き出す。車輪が土の道を踏み、ゆっくりと揺れる。荷台に座っていると、ようやく旅をしているような気分になった。いや、旅と言うには状況がひどすぎるが、それでも草原を一人で歩いている時よりはずっとましだった。
「私はミナ。こっちは父さんのゴルド」
御者台の若い女が振り返って言った。年齢は十代後半くらいだろうか。茶色の髪を後ろで束ねていて、明るそうな顔をしている。
「リオです。よろしくお願いします」
「リオさんか。綺麗な名前だね」
「ありがとうございます」
名前を名乗った瞬間、少しだけ胸が落ち着いた。作ったばかりの名前なのに、誰かに呼ばれると、自分の中に輪郭ができる。今の私はリオ。この世界では、そう名乗る。
「リオさんは旅の人?」
「そうですね。そんな感じです」
「そんな感じ?」
ミナが首を傾げた。しまった。曖昧すぎたかもしれない。私はすぐに言葉を足した。
「色々あって、少し遠いところから来ました。この辺りには詳しくないんです」
「へえ。だから道に迷ってたんだ」
「はい。助かりました」
嘘ではない。遠いどころではない場所から来たし、この辺りに詳しくないのも本当だ。こういう、嘘ではないが本当でもない言い方を覚えていかなければならないのだろう。
ゴルドが前を向いたまま言った。
「リュセルには知り合いがいるのか?」
「いません。まずは宿を探そうと思っています」
「なら、東門近くの安宿がいい。銀貨一枚で泊まれる。ただし飯は期待するな」
「銀貨一枚……」
盗賊の男が言っていた通りだ。少しだけ情報の信頼度が上がった。
「まともな宿なら中央通りだな。飯付きで銀貨二枚から三枚。商人が泊まるようなところはもっとする」
「ありがとうございます。お金の価値がまだ少し分からなくて」
「遠いところから来たって言ってたもんね。リオさんのところは違うお金だったの?」
ミナが不思議そうに聞いてくる。
「はい。少し違っていました」
「そうなんだ。リュセルなら、銅貨、銀貨、金貨があれば困らないよ。小さい買い物は銅貨。宿とか道具は銀貨。金貨は普通の人だとあんまり使わないかな」
なるほど。金貨は高額紙幣のようなものだろうか。少なくとも、今の私には縁がなさそうだ。
「リュセルでは、仕事を探す人はどこへ行くんですか?」
「仕事?うーん、普通なら紹介所か、商会に聞くかな。でも、旅の人なら冒険者ギルドじゃない?」
「冒険者ギルド」
その言葉に、私は思わず反応した。ここで初めて、それらしい単語が出てきた。だが、すぐに決めつけるのはよくない。私が知っている物語の冒険者と、この世界の冒険者が同じとは限らない。
「冒険者というのは、外で危険な仕事をする人たちですか?」
「うん。魔獣を狩ったり、薬草を採ったり、護衛をしたり。リュセルは森が近いから、薬草採りや魔獣退治の依頼が多いって聞くよ」
魔獣。薬草。護衛。冒険者ギルド。少しずつ、この世界の形が見えてくる。剣と魔法の世界だと決めつけるにはまだ早い。けれど、少なくとも現代日本のような世界ではない。
「登録は簡単なんですか?」
「私は詳しくないけど、犯罪者じゃなければできるって聞いたことあるよ。登録石に触って、問題がなければ登録できるとか」
「登録石……」
私は内心で少し身構えた。罪に反応するようなものだろうか。もしそうなら、さっきの盗賊との戦いはどう扱われるのか。正当防衛なのか。それとも、人を殺した事実だけが問題になるのか。
考え込んだ私を見て、ミナが心配そうにした。
「リオさん、冒険者になりたいの?」
「まだ分かりません。ただ、お金を稼ぐ手段は必要なので」
「リオさん、綺麗だから、冒険者よりお店の仕事とかの方がよさそうだけど」
「綺麗……ですか」
「うん。すごく」
そうはっきり言われて、返事に困った。自分の顔をまだ見ていないので、実感がない。ただ、盗賊たちの反応や、ミナの言い方からして、この体はかなり目立つらしい。
目立つのは困る。力も分からない。衝動もある。身分もない。常識も知らない。そのうえ容姿まで目立つとなると、面倒事が向こうから寄ってくる気しかしない。
「髪を隠した方がいいでしょうか」
「うーん、そうだね。リオさんの髪、すごく目立つし。リュセルに着いたら頭巾かフード付きの外套を買うといいよ」
「そうします」
買うものが一つ増えた。宿。食事。頭巾か外套。仕事の情報。冒険者ギルドについても調べる必要がある。やることを整理していると、荷車の前方でゴルドが急に手綱を引いた。
馬が小さくいななき、荷車がゆっくり止まる。
「父さん?」
ミナが不安そうに前を見る。私も荷台から身を乗り出した。
道の先に、人が倒れていた。二人。いや、倒れているというより、道端に座り込んでいるようにも見える。片方は老人で、もう片方は小さな子供だった。老人は足を押さえていて、子供は泣きそうな顔でその隣に立っている。
私は一瞬、警戒した。倒れている人を装った罠かもしれない。さっき盗賊に襲われたばかりだ。善意で近づいて、また面倒に巻き込まれる可能性はある。
だが、ゴルドはすぐに荷車から降りた。
「爺さん、大丈夫か!」
ゴルドが駆け寄る。ミナも慌てて降りようとしたので、私は先に荷台から降りた。
「私も見ます」
「リオさん、気をつけて」
「はい」
近づいてみると、老人の顔は苦痛に歪んでいた。足首が腫れている。荷物らしき籠が横に倒れていて、中から薬草のようなものが散らばっていた。子供は十歳くらいだろうか。泣くのを必死にこらえている。
「森の方で薬草を採っていたら、足を滑らせてな……。すまん、道を塞ぐつもりはなかったんじゃ」
老人がかすれた声で言った。ゴルドが足首を見て顔をしかめる。
「折れてはいないかもしれんが、歩くのは無理だな」
「町まで行かないと、薬も買えないのに……」
子供が震える声で言った。私はその子を見た。小さな手。汚れた服。必死に老人を支えようとしていたのだろう。袖には土がついている。
胸の奥の熱は、反応しなかった。少なくとも、盗賊の時のような甘さは湧かない。少し安心した。弱っている相手すべてに反応するわけではないらしい。たぶん、敵意や恐怖や屈服が絡むと危ないのだ。
「荷台に乗せましょう。リュセルまで送ればいい」
私が言うと、ゴルドが頷いた。
「そうするつもりだ。だが、爺さんを持ち上げるぞ。ミナ、手を貸せ」
「あ、はい」
私は反射的に前に出かけて、すぐに止まった。私が持てば簡単だ。たぶん片手でも持ち上げられる。けれど、ここで普通ではない力を見せるのはまずい。さっき荷車に乗る時は大丈夫だったが、人を軽々と持ち上げるところを見られるのは避けたい。
「リオさん?」
ミナがこちらを見る。私は少しだけ笑ってごまかした。
「私も支えます。急に動かすと痛いかもしれませんから、ゆっくりで」
結局、ゴルドとミナが老人の体を支え、私は横から背中に手を添えた。力を入れすぎないように、慎重に。老人の体は軽かった。だが、それを軽いと感じてしまう自分が怖い。普通の力加減が分からないことは、こういう時にも困る。
どうにか老人を荷台に乗せ、子供も隣に座らせる。荷台は少し狭くなったが、リュセルまでなら問題なさそうだった。
「すまんのう。本当に助かる」
老人が頭を下げる。
「いえ、困っている時はお互い様です」
口から自然に出た言葉に、自分で少し驚いた。今のは、元の世界での感覚なのか。それとも、この体の口調に合わせた言葉なのか。分からない。ただ、変ではなかったと思う。
子供がこちらをじっと見ていた。
「お姉ちゃん、すごく綺麗」
「あ、ありがとう」
「お姫様みたい」
私は返事に困った。ミナが隣で小さく笑う。
「ほら、やっぱり目立つよ」
「……そのようですね」
もう認めるしかないらしい。町に着いたら、本当に頭巾を買おう。できれば地味な色のものがいい。
荷車が再び進み始める。老人は足を押さえながらも、少し落ち着いたようだった。子供は荷台の端で祖父の手を握っている。ゴルドは前で馬を操り、ミナは時々こちらを振り返った。
私は荷台の木箱に背を預けながら、空を見上げた。青い空。流れる雲。さっき人を殺したかもしれない草原と、今こうして人を助けている道が、同じ世界の中にある。
自分が何者なのか、ますます分からなくなった。私は善人なのか。怪物なのか。それとも、どちらでもないのか。
ただ一つだけ分かるのは、選ばなければならないということだった。力をどう使うのか。衝動に従うのか、抑えるのか。人を助けるのか、壊すのか。
答えはまだ出ない。けれど、少なくとも今、老人と子供を助けられたことには、少しだけ安心していた。
やがて道の先に、壁のようなものが見えてきた。木と石を組み合わせた外壁。その向こうには、屋根がいくつも並んでいる。煙突から煙が上がり、人の声らしきものもかすかに聞こえる。
「見えてきたよ。あれがリュセル」
ミナが言った。
私は荷台から身を起こした。あれが、この世界で最初に入る町。私がリオとして歩き始める場所。
門の前には、何人かの人が並んでいた。荷車、旅人、荷物を背負った男、頭巾をかぶった女。門番らしき兵士が二人立っていて、入る者を確認している。
心臓が少しだけ速くなった。盗賊と戦った時とは違う緊張だ。ここから先は、人が多い。情報もある。食べ物も宿もある。だが同時に、目立てば面倒も増える。
「普通に。落ち着いて。私はリオ」
小さく呟く。胸の奥の熱は、まだ消えない。けれど、今は静かだった。
荷車はゆっくりと列の最後尾についた。門番の一人がこちらに視線を向ける。老人、子供、ゴルド、ミナ。そして最後に、私を見た。
その視線が、一瞬だけ止まった。
やはり目立つ。そう思った。
私はできるだけ柔らかく、何も知らない旅人のように微笑んだ。
「……どうか、何事もなく入れますように」
小さくそう願いながら、私はリュセルの門を見つめていた。