俺は、ただ最強になりたかっただけなのに…   作:ポップ

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第三話 リュセルの門

 リュセルの門の前には、思っていたより多くの人が並んでいた。荷車を引く商人、布袋を背負った旅人、子供の手を引く女、腰に剣を下げた男。門番らしき兵士たちは、通る者に短く声をかけ、時々荷物を確認している。

 

 私は荷台の端に座ったまま、できるだけ目立たないようにしていた。だが、正直無理があった。髪は薄い金色に銀が混ざったような色で、腰のあたりまである。服も旅人風ではあるが、汚れが少ない。おまけに顔は自分では見えないが、周囲の反応からして目立つほど整っているらしい。

 

 門番の一人が、ちらりとこちらを見た。その視線は、まず荷車の荷物へ向かい、次に足を痛めた老人へ、そして子供へ移った。最後に私のところで止まる。

 

 胸の奥が少しだけざわついた。敵意ではない。ただの視線だ。分かっている。それでも、見られているだけで落ち着かない。

 

「ゴルドさん」

 

「なんだい?」

 

「門では、何を聞かれるんですか?」

 

「名前と目的くらいだな。商人は荷物も少し見られる。リオさんは旅人ってことでいいだろう。通行料を払えば、普通は入れる」

 

「身分証みたいなものは?」

 

「持ってる奴は見せるが、ない奴もいる。リュセルは街道沿いの町だからな。旅人が来るのは珍しくない」

 

 それを聞いて、少しだけ安心した。身分証が絶対に必要なら、そこでかなり困っていたかもしれない。いや、たぶん本当にどうにもならない状況にはならないのだろう。私は女神のような存在に、最強で無双できる力を望んだ。だから、単なる通行手続き程度で詰むようなことはないはずだ。

 

 そう思うと、体の奥にある力が少しだけ頼もしく感じられた。風邪もひかない。病気にもならない。理不尽な暴力や、どうしようもない危険も、きっとほとんど自動的に防げる。そういう力を望んだのだから。

 

 けれど、力でどうにかできるからといって、何をしてもいいわけではない。

 

 そこを間違えたら、私は本当にただの怪物になる。

 

「リオさん、大丈夫?」

 

 ミナが振り返って聞いてきた。

 

「はい。少し緊張しているだけです」

 

「リュセルはそんなに怖い町じゃないよ。門番も、変なことしなければ普通だし」

 

「普通……」

 

 その普通が、今の私には難しい。

 

 列が少しずつ進む。前の商人が通行料を払い、荷物を軽く確認されて門を通っていった。次は私たちの荷車だった。

 

 門番の一人が、ゴルドに声をかけた。

 

「ゴルドか。今日は少し遅かったな」

 

「途中で怪我人を拾ってな。こっちの爺さんだ。森の手前で足を痛めたらしい」

 

 門番は荷台を覗き込み、老人を見た。

 

「爺さん、大丈夫か?」

 

「すまんのう。足を滑らせてしもうてな」

 

「医者に見せろよ。最近、森の近くで牙狼を見たって話もある。薬草採りも無茶するな」

 

「分かっとる、分かっとる」

 

 老人は苦笑した。門番は軽くため息をつき、今度は子供を見る。

 

「お前も爺さんをちゃんと見てろよ」

 

「はい……」

 

 子供が小さく頷く。

 

 そこまでは普通だった。だが、門番の視線が私に向いた瞬間、少し空気が変わった。

 

「そっちの娘は?」

 

 来た。

 

 私は姿勢を正した。声が震えないように、ゆっくり息を吸う。

 

「リオと申します。リュセルには初めて来ました」

 

「旅人か?」

 

「はい。宿と仕事を探したくて」

 

 嘘ではない。宿を探すのも、仕事を探すのも本当だ。どこから来たのかを聞かれたら困るが、今はまだ聞かれていない。

 

 門番は私の顔と髪を見て、わずかに眉を上げた。

 

「ずいぶん目立つ旅人だな。護衛は?」

 

「いません」

 

「女一人でか?」

 

「……はい」

 

 門番が怪しむのも無理はない。自分でも怪しいと思う。身元不明。女一人。荷物は少ない。見た目だけは妙に整っている。普通に考えれば、何か事情があると思われるだろう。

 

 私は少し迷ったが、先に言ってしまうことにした。

 

「道中で、少し厄介な人たちに絡まれました。荷物はほとんど失いました」

 

 これも嘘ではない。荷物を失ったのではなく、そもそも持っていなかっただけだが、盗賊に絡まれたのは事実だ。

 

 門番の目が少し鋭くなる。

 

「盗賊か?」

 

「たぶん、そうだと思います」

 

「数は?」

 

「三人です」

 

「逃げてきたのか?」

 

 返答に困った。逃げてきたわけではない。むしろ、二人を倒し、一人を逃がした。けれど、それをそのまま話す必要があるかは分からない。

 

 盗賊との戦闘自体は、きっと問題にはならない。あれは正当防衛だ。向こうが先に襲ってきた。しかも、この体は女神のような存在から与えられた最強の力を持っている。理不尽な罪や、明らかにおかしな不利益くらいは、防げるようになっている気もする。

 

 それでも、ここで余計な説明をして目立つのはよくない。

 

 私が答えに詰まった時、ゴルドが横から口を挟んだ。

 

「門番さんよ。詳しい事情は後でいいだろう。こっちは怪我人もいる。リオさんは道中で俺たちと一緒になっただけだが、別に怪しいことはしていない」

 

 門番はゴルドを見た。

 

「お前がそう言うなら、まあいいが」

 

「俺が見た限りじゃ、礼儀もあるし、妙な荷物もない。むしろ、途中で爺さんを荷台に乗せるのを手伝ってくれたくらいだ」

 

 ゴルドの言葉に、少し救われた気がした。まだ会って間もないのに、そこまで言ってくれるとは思っていなかった。

 

 門番はもう一度私を見た。

 

「通行料は銅貨二枚だ。滞在するなら、問題を起こすな。揉め事を起こしたら衛兵詰所に来てもらう」

 

「分かりました」

 

 私は腰袋から銅貨を二枚取り出した。盗賊から得たものだと思うと少し複雑だったが、今は使うしかない。門番に渡すと、彼は硬貨を確認して頷いた。

 

「通っていい。宿を探すなら東門近くが安い。仕事を探すなら中央通りの掲示板か、冒険者ギルドだ」

 

「ありがとうございます」

 

 頭を下げると、門番は少しだけ意外そうな顔をした。もしかすると、旅人でここまで丁寧に礼を言う者は少ないのかもしれない。丁寧すぎるのも目立つのだろうか。難しい。

 

 荷車が門をくぐる。

 

 リュセルの町に入った瞬間、私は思わず息を止めた。

 

 そこには、人の生活があった。土の道の両側に木造や石造りの建物が並び、軒先には野菜や果物、布や道具が置かれている。遠くから鍛冶場の金属音が聞こえ、どこかの店から焼いた肉の匂いが漂ってくる。人々の声、馬の足音、荷車の軋む音。草原とはまったく違う密度の音と匂いが、一気に押し寄せてきた。

 

 正直、少し圧倒された。

 

「ここが、リュセル……」

 

 思わず呟く。ミナが嬉しそうに笑った。

 

「初めてだと賑やかに見えるでしょ?王都とかに比べたら小さい町らしいけど、私は好きだよ」

 

「十分大きく見えます」

 

 元の世界の街とはまるで違う。ビルも車も信号もない。けれど、人の流れがある。店がある。暮らしがある。その事実だけで、少し安心した。

 

 同時に、怖さもあった。人が多い。もしこの中で衝動が暴れたら。もし力加減を誤ったら。それだけで、取り返しのつかないことになるかもしれない。

 

 私は両手を軽く握り、すぐに開いた。

 

「普通に。普通に……」

 

 小さく呟いたのが聞こえたのか、ミナが首を傾げた。

 

「リオさん?」

 

「いえ、少し人が多くて驚いただけです」

 

「そっか。遠いところから来たんだもんね」

 

 そういうことにしておく。ミナは疑っていないようだった。

 

 荷車は門から少し進み、道端で止まった。ゴルドが老人と子供の方を振り返る。

 

「爺さん、医者まで運ぶぞ。リオさん、ここまでで大丈夫か?」

 

「私も手伝います」

 

「助かるが、宿を探すんだろう?」

 

「急ぎではありません。それに、ここまで乗せてもらいましたから」

 

 そう言うと、ゴルドは少しだけ目を細めた。

 

「律儀だな」

 

「そうでしょうか」

 

「最近の旅人にしちゃ珍しい」

 

 また目立つ要素が増えた気がした。けれど、ここで老人を放って宿探しを優先するのも違う。私が怪物なのか人間なのか、自分でも分からない。だからこそ、できるだけ人間らしい選択をしたかった。

 

 老人を荷台から降ろす時、私はまた力加減に気をつけた。ゴルドとミナが支え、私は横から補助するだけにする。老人は申し訳なさそうに何度も頭を下げた。

 

「すまんのう。若い娘さんにまで世話をかけて」

 

「気にしないでください。足、痛みますか?」

 

「ああ、少しな。でも町に着けただけでありがたい」

 

 子供が老人の服を握りしめている。私はその子に目線を合わせようとして、少しかがんだ。

 

「お爺さんは、きっと大丈夫です。医者に見てもらいましょう」

 

「うん……」

 

 子供は小さく頷いた。それから、私の髪をじっと見た。

 

「お姉ちゃん、天使様みたい」

 

「天使……」

 

 困った。どう返せばいいのか分からない。ミナが横で笑いをこらえている。

 

「リオさん、やっぱり目立つね」

 

「そのようですね……」

 

 ここまで言われると、もう早急に頭巾が必要だ。顔まで隠すのは難しくても、髪だけでも隠せば多少はましになるはずだ。

 

 医者の家は、門からそれほど遠くなかった。表に薬草の束が吊るされている小さな建物で、中から薬の匂いが漂ってくる。ゴルドが扉を叩くと、中年の女性が出てきた。

 

「怪我人だ。足を痛めてる」

 

「中へ」

 

 女性は慣れた様子で老人を中へ案内した。子供も一緒に入っていく。私は入口の外で立ち止まった。ここまで来れば、もう私ができることはないだろう。

 

 すると、老人が振り返った。

 

「リオさんと言ったかの。本当に助かった。礼はすぐにはできんが、この恩は忘れん」

 

「いえ。私は少し手伝っただけです」

 

「それでもじゃ。困ったことがあれば、南通りの薬草屋を訪ねなさい。儂の息子夫婦がやっとる」

 

「薬草屋……分かりました」

 

 これも、情報だ。町に知り合いが一人できた、と言えるほどではないが、困った時に訪ねられる場所があるのはありがたい。

 

 老人と子供が医者の家に入っていくと、ミナがこちらを見た。

 

「リオさん、この後どうするの?」

 

「まずは頭巾か外套を買いたいです。それから安い宿を探そうかと」

 

「じゃあ、布屋を教えるよ。安い頭巾なら銅貨数枚で買えると思う」

 

「助かります」

 

「その後、東門近くの宿も案内できるよ」

 

「そこまでしてもらっていいんですか?」

 

「いいよ。リオさん、爺ちゃん達を運ぶのも手伝ってくれたし」

 

 ミナは明るく言った。こういう素直な親切を向けられると、少し戸惑う。盗賊たちの怯えた顔より、よほどまぶしく感じる。

 

 だが、ゴルドは少し慎重な顔をしていた。

 

「ミナ、店の納品が先だ。遅れると母さんに怒られる」

 

「あ、そうだった」

 

 ミナがしまったという顔をする。ゴルドは私に向き直った。

 

「すまんな、リオさん。俺たちは先に荷物を届けに行く。布屋なら、この道をまっすぐ行って、井戸のある広場を右だ。青い布を吊るしている店がある。宿はその先の東門側に何軒か並んでいる」

 

「ありがとうございます。十分助かりました」

 

「冒険者ギルドへ行くなら中央通りだ。でかい剣の看板があるから分かりやすい。ただ、登録するなら気をつけろ」

 

「気をつける、ですか?」

 

「ギルドは便利だが、荒っぽい連中も多い。リオさんみたいな見た目だと、絡まれるかもしれん」

 

 もう盗賊に絡まれました、とは言えなかった。

 

「気をつけます」

 

「あと、力があるなら隠しすぎるな」

 

 その言葉に、私は少しだけ反応してしまった。

 

「力、ですか?」

 

 ゴルドは私をじっと見た。さっき、老人を支える時に何か気づかれたのだろうか。いや、直接見せたつもりはない。だが、ゴルドは商人だ。人を見る目があるのかもしれない。

 

「いや、何となくだ。リオさんはただの迷子の旅人には見えん。でも、隠しごとを抱えたまま町にいると、かえって面倒になることもある。冒険者って肩書きは、そういう奴には便利な時もある」

 

「……覚えておきます」

 

 ゴルドはそれ以上追及しなかった。ミナは少し名残惜しそうに手を振った。

 

「また会えたら話そうね、リオさん」

 

「はい。ありがとうございました、ミナさん。ゴルドさんも」

 

「ああ。気をつけな」

 

 荷車がゆっくりと離れていく。私はその背中を見送った。

 

 町に入ってすぐ、二人と別れた。少し心細くなる。けれど、いつまでも頼るわけにはいかない。私はこの世界で一人で生きなければならないのだ。

 

 まずは布屋。頭巾を買う。次に宿。その後、余裕があれば冒険者ギルドを見に行く。

 

 そう決めて、私は教えられた道を進んだ。

 

 町の中は、歩くだけで情報が多かった。屋台では焼き串が売られている。値札のような木札には銅貨三枚と書かれていた。文字は読める。これも女神のような存在の女性が言っていた最低限の理解なのだろう。店先には野菜、パン、布、革靴、鍋、短剣、薬草。元の世界とは違うが、生活に必要なものが並んでいる。

 

 そして、視線も多い。

 

 通りすがりの男がちらりと見る。女も見る。子供は遠慮なく見つめてくる。悪意のある視線ばかりではない。ただ珍しいものを見ているだけなのだろう。けれど、その一つ一つが妙に肌に刺さった。

 

 私はなるべく俯かず、早足にもならず、普通に歩くことを意識した。逃げているように見えれば怪しい。堂々としすぎても目立つ。難しい。

 

 やがて、井戸のある小さな広場に出た。そこを右へ曲がると、青い布を吊るした店が見えた。布屋だ。店先には色とりどりの布が畳まれていて、頭巾や簡単な外套も並んでいる。

 

 店主らしき年配の女が、私を見て目を丸くした。

 

「あらまあ、綺麗な髪だこと」

 

 第一声がそれだった。私は内心でため息をつきそうになった。

 

「ありがとうございます。ですが、少し目立つので、髪を隠せる頭巾が欲しいのですが」

 

「もったいないねえ。そんな綺麗な髪、隠すなんて」

 

「旅の途中なので、あまり目立ちたくないんです」

 

「それもそうか。色は?」

 

「地味なものをお願いします。灰色か、茶色で」

 

 店主は棚からいくつか頭巾を取り出した。灰色、茶色、深い緑。私は一番目立たなさそうな灰色を手に取った。

 

「これはいくらですか?」

 

「銅貨五枚だよ」

 

 思ったより安い。いや、この世界の感覚では分からないが、手持ちを考えれば十分買える。

 

「これをください」

 

「はいよ。ついでに髪をまとめる紐もいるかい?その長さじゃ、頭巾の中で邪魔になるだろ」

 

「お願いします」

 

「紐は銅貨一枚でいいよ」

 

 私は銅貨六枚を渡した。店主は慣れた手つきで硬貨を受け取り、頭巾と紐を渡してくれる。

 

「奥の鏡を使っていいよ」

 

「鏡があるんですか?」

 

「小さいけどね」

 

 鏡。私は少し緊張した。まだ自分の顔をちゃんと見ていない。水面に映す機会もなかった。見るべきだ。自分の顔を知らないまま町を歩くのは危険だ。けれど、少し怖かった。

 

 店の奥に置かれた小さな鏡の前に立つ。磨かれた金属の鏡なのか、元の世界の鏡ほどはっきりは映らない。それでも、十分だった。

 

 そこには、見知らぬ女がいた。

 

 薄い金色に銀を混ぜたような長い髪。白い肌。細い顎。大きすぎず、けれど妙に印象に残る瞳。整いすぎた顔立ち。自分で言うのもおかしいが、確かに目立つ。ミナが「お姫様みたい」と言われて否定しなかった理由が分かった。

 

「……これは、目立ちますね」

 

 思わず呟いた。美しい。だが、その美しさが自分のものだとは思えない。まるで誰かが作った人形の中に押し込められたようだった。

 

 私は髪をまとめ、灰色の頭巾をかぶった。だいぶ印象は落ち着いた。顔は隠せないが、髪が隠れるだけでかなり違う。

 

「おや、地味な頭巾でも美人は美人だねえ」

 

 店主が笑う。

 

「……できれば、普通に見えるくらいがよかったです」

 

「贅沢な悩みだね」

 

 そうかもしれない。けれど、今の私にはかなり切実だった。

 

 布屋を出ると、通りの視線は少しだけ減った気がした。完全ではないが、髪を隠した効果はある。私は胸を撫で下ろし、次は宿へ向かった。

 

 東門近くの宿は、すぐに見つかった。木の看板に、寝台の絵が描かれている。文字も読めた。『休み鳥の宿』。名前は少し可愛いが、建物はかなり古い。安宿と言われれば納得する外観だった。

 

 中に入ると、木の床が少し軋んだ。食堂を兼ねているのか、数人の客がテーブルについている。奥の帳場には、太った中年の女が座っていた。

 

「泊まりかい?」

 

「はい。一泊お願いします」

 

「飯なしで銀貨一枚。飯付きなら銀貨一枚と銅貨三枚。先払いだよ」

 

 盗賊の男の情報通りだ。私は少し安心しつつ、銀貨一枚と銅貨三枚を出した。

 

「飯付きでお願いします」

 

「はいよ。名前は?」

 

「リオです」

 

「リオね。部屋は二階の奥。鍵はこれ。なくしたら銀貨一枚もらうよ」

 

「分かりました」

 

 鍵を受け取る。小さな鉄の鍵だった。宿の女将は私をじろじろ見ていたが、頭巾のおかげか、布屋の店主ほどは大げさに反応しなかった。

 

「荷物はそれだけかい?」

 

「途中で色々ありまして」

 

「そうかい。まあ、この辺りは盗賊も魔獣も出るからね。命があっただけましだと思いな」

 

「はい」

 

 命があっただけまし。確かにそうだ。私の場合、命を落としかけたのは相手の方だったが。

 

 部屋に向かう前に、私は食堂の隅の席に座った。飯付きにしたのは、空腹があったからではない。むしろ、まだ腹は減っていない。ただ、この世界の普通の食事を知りたかった。

 

 しばらくして出てきたのは、黒パン、豆のスープ、薄く切った干し肉だった。質素だが、温かい湯気が立っている。私はスプーンを手に取り、ゆっくり口に運んだ。

 

 味は薄い。けれど、不味くはない。体が食べ物を受け入れる感覚がある。転生しても、食べることはできるらしい。少しだけ安心した。

 

 食事をしていると、近くの席の男たちの会話が耳に入った。

 

「聞いたか?森の浅いところで牙狼が出たってよ」

 

「またか。最近多くねえか?」

 

「ギルドが討伐依頼を出すらしい。駆け出しにはきついが、銀貨になるなら受ける奴はいるだろ」

 

「牙狼三匹で銀貨五枚だっけか?」

 

「素材持ち込みならもう少し上がるんじゃねえの」

 

 牙狼。魔獣。討伐依頼。冒険者ギルド。情報が勝手に流れ込んでくる。やはり、ギルドへ行けば仕事はありそうだ。ただし、荒っぽい連中も多い。ゴルドの忠告を忘れてはいけない。

 

 食事を終えた私は、部屋へ向かった。二階の奥。小さな部屋だった。寝台と机と椅子が一つ。窓もあるが、景色は隣の建物の壁しか見えない。だが、鍵のかかる個室というだけでありがたかった。

 

 扉を閉め、鍵をかける。

 

 そこでようやく、体から力が抜けた。

 

「……疲れました」

 

 実際には、体はほとんど疲れていない。疲れているのは心の方だ。死んで、女神のような存在に会い、最強の力を望み、デメリットを聞かずに転生し、女の体になり、盗賊に襲われ、人を殺し、町に入り、宿を取った。

 

 一日で起こることではない。

 

 私は寝台に腰を下ろし、両手で顔を覆った。頭巾の布が指に触れる。これが今の私。リオ。女の体。強すぎる力。危険な衝動。何も知らない異世界。

 

 明日は、冒険者ギルドへ行くべきだろうか。仕事を探すなら、それが一番早そうだ。登録石があるらしいが、正直、そこはあまり心配していなかった。盗賊との戦闘はどう考えても正当防衛だし、何より私は「最強」を望んだ。病気にならない体であるように、理不尽な事故や不都合も、きっとある程度は防がれているはずだ。

 

 もちろん、だからといって何をしてもいいわけではない。そこを間違えれば、いくら最強でも終わりだ。人として、終わる。

 

 それでも、何もしなければお金は減る。宿代、食費、服、道具。生きるにはお金がいる。強い力があっても、それだけで生活できるわけではない。

 

「最強で無双できる力があっても、宿代は必要ですからね」

 

 思わず苦笑した。少しだけ、自分らしい感覚が戻った気がした。

 

 その時、胸の奥の熱がかすかに動いた。盗賊の怯えた顔。足の裏で感じた背中の震え。命乞いの声。思い出しただけで、ぞくりとする。

 

 私は唇を噛んだ。

 

「駄目。思い出さない」

 

 力を使うなら、制御しなければならない。衝動に呑まれたら終わりだ。人を助けることもできる。老人と子供を助けた時、それは分かった。だから、私は怪物ではない。まだ、そう信じたい。

 

 窓の外では、リュセルの町の音が続いている。人の声。馬の足音。遠くの金属音。どこかで笑う声。

 

 私は寝台に横になり、天井を見つめた。

 

 明日、冒険者ギルドへ行こう。

 

 そう決めた瞬間、少しだけ胸が重くなった。何かが始まる予感がした。いいことか、悪いことかは分からない。

 

 けれど、この世界で生きるためには、進むしかない。

 

「私は、リオ」

 

 小さく呟く。

 

「私は、人として生きる」

 

 その言葉が本当に守れるのか、まだ分からない。それでも、今はそう決めるしかなかった。

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