「《花》の術式―
一つ目の術印を消費し、宣言と同時に展開された茨が、魔物の顔面にまっすぐに伸びていく。
目元に絡みつかんとする茨を、魔物は燃え盛る両腕で掴みかかり、邪魔だといわんばかりに無理やり引きちぎった。
だが、茨では魔物の動きを止められないことは百も承知。
「《花》の術式―
術式を展開したと同時に、ゼノンの手に一本の巨大な笹の葉が握られる。それをゼノンは両腕を開いてがら空きになった魔物の鼻先目掛けて横一線に振りぬいた。
笹の葉に切り裂かれ、熊の鼻から血が噴き出る。さらにダメ押しでゼノンは笹の葉で熊の眉間を切りひらく。開いた眉間から血が噴き出し、熊の目に入り一時的に視界を塞ぐ。
だが、葉隠笹の切れ味はそう鋭いものではない。できるものはせいぜい軽い切り傷程度なもので、当然それだけでは到底熊を戦闘不能にはできない。
そして、いくら視界を奪われたといえども、目の前にいる相手ならば勘でも攻撃を当てられる。空中で身動きの取れないゼノンに、熊は燃え盛る腕を叩きつけた。
渾身の力で振りぬかれた一撃にゼノンの体は大きく吹き飛ばされ、遠く離れた木にぶち当てられる。そこで意識が途絶えたのか、ゼノンの体はそのままずりずりと地面にずり落ちていく。
「ゼノン!」
思わず叫んだクィーリアの声に反応し、熊の魔物はクィーリアの方を振り向いた。そのまま標的を彼女に変え突撃していく。
それを素早く察知したクィーリアが背中を向けて逃げ始める。
「嘘でしょ!?」
ちらと背後の熊を見たクィーリアが血相を変える。魔物はわずか数秒ほどでクィーリアに追いつき、彼女に襲い掛からんとすでに燃える右腕を振り上げていた。
クィーリアが咄嗟に斜め前に転がり込んで、熊の攻撃をすんでのところで躱す。外した腕が地面に叩きつけられ、衝撃で揺れた拍子に近くの木から葉が落ちる。
クィーリアが素早く立ち上がって魔物の方を見る。血で目を潰されたにも関わらず、しっかりとクィーリアの方に顔を向け再び走り出したことから、視覚以外の何かで彼女の居場所を把握しているのは明らかだ。
もう一度飛び掛かってくる熊の攻撃を避けるため、クィーリアは距離を空けつつ木の上に飛び移る。
脚の速さで劣る相手に、ただ走るだけでは逃げ切れない。クィーリアは木々を飛び移り、木々の隙間を蛇行しひた走る。
幸い熊の目ははっきりと見えていない。傷をつけられた怒りが収まらないのも相まってか、何度も森の木にぶつかり、クィーリアの動きについていけていない。
「今だっ!」
背後を取ったクィーリアが、枝から飛び降り熊の脳天目掛けて鉈を振るう。熊が反応するも間に合わず、飛び掛かる勢いと重量を一緒に乗せたクィーリアの刃が叩き込まれた。
だが、それでもなお、魔物を仕留め切るのは足りなかった。
あまりにも固すぎる頭蓋にクィーリアの鉈はいともたやすく弾かれ、強すぎた手ごたえが痺れとなってクィーリアの握力を奪う。
そして、熊の魔物が振り向きざまにぶん回した腕がクィーリアを襲う。空中で体をひねってなんとか直撃こそ免れたものの、かすった肌が熊の炎に焦がされ、唯一の武器だった鉈も取り落とした。
クィーリアが着地と同時に鉈を拾い上げようと身をかがめるも、ぱちっと火が爆ぜる音に反応し真後ろに飛び退いたと同時に、その真上から彼女を叩き潰そうとする熊の両腕が大地を揺らす。
叩きつけられた手の先にあった鉈がどうなったかは、よく見えなかった。
判断を間違っていたら、無事で済まなかったのは自分の方だ。だが、この先攻撃手段を失った自分が、無事で居続けられる保証はない。
後はもう、無我夢中で逃げ回ることしかできなかった。
枝の上を飛び移り、木々の隙間を縫って走り、ただひたすら魔物を翻弄しながら駆け抜ける。
だが、いくら逃げ続けても、熊の魔物は的確にクィーリアを追い続けた。それこそ、本当は目が見えているのではないかと思えるほど正確に。
そして、走り続けた視界の先を目にして、クィーリアの血の気が引いた。
いつの間にか彼女は、森を抜けてしまっていた。
魔物との間を遮る木も、上下や空間を使った逃げ道となる枝も、この先には何もない。
直線をただ走るだけならば、熊の魔物の方が速い。
振り返る余裕はなかった。もう、ただ我武者羅に走るしかない。
それでも魔物との距離は縮まっていく。目で見ずとも、足音が近づいてくるのが分かる。背中に感じる熱が少しずつ近づいてくるのが分かる。
「……わぁぁぁぁぁぁああああああああああ!!!」
クィーリアが叫び声を上げた。それで劇的に何かが変わるわけではない。クィーリアと熊の距離は縮まっていくばかり。
そして、ついに熊の魔物がクィーリアの背中を捉えた。
熊の魔物が、クィーリア目掛けて飛び掛かる。
それに合わせるように、クィーリアもまた地面を蹴る。
そうして、クィーリアと熊の魔物は、ほとんど同時に底なしの湖に勢いよく飛び込んだ。