湖にぷかりと浮かんだクィーリアは、体を動かさずに空を仰ぎ見ていた。全身を脱力しきらせ、上がった息を整える。
一方の熊の魔物は岸に上がろうともがき、そのたびに余計に深く体を底へ底へと沈めていく。
熊の巨体と体重では、もはや岸に上がることは困難だろう。炎の能力も水中では効果が半減する。
もはや熊の魔物は、なす術なく水底に沈むのを待つばかりとなった。
二人の作戦は成功した。ゼノンはしっかりと役割を全うし、クィーリアは自分の能力を活かしきれた。
――術式は、できないことをできるようにするためにあるものだろう?
ふとクィーリアの脳裏に、ゼノンの言葉が蘇る。
今なら、彼の言ったことが理解できるかもしれない。そう思って、ふと笑みをこぼした。
そしてその一方で、クィーリアは自身が犯した致命的なミスを悔やんでいた。
森の中ならば、木々に行く手を阻まれる熊は全速力を出すことができない。だからこそクィーリアは森の中であれば熊の魔物からなんとか逃げおおせることができた。
だが、湖周辺は草原地帯になっており、熊の巨体を遮るものは何もない。
踏みしめるものが落ち葉から草地に変わり、足音が変化した。
飛び移る枝が無くなり、突然クィーリアが単調な動きしかしなくなった。
そうして生まれるであろう違和感を、その他一切合切の音ごと消すために放った叫び声は、きっと効果はあったのだと思いたい。
それでも、脚の速さだけはどうにもならなかった。最終的にクィーリアは熊に追いつかれ、飛び掛かられた結果、一緒に底なしの湖に突き飛ばされた。
その時の衝撃で背中が軋み、火傷も数か所負ってしまった。とてもではないが、岸まで這い上がる体力は残されていない。そもそも、もがけばもがくほどに体は沈んでいくのだから、無闇に体を動かすわけにもいかない。
どうやら、ここが自分の最期の場所らしい。水底に沈んでしまえば、もう誰にも発見されることはないだろう。
はあとため息を吐いて、クィーリアは瞼を閉じ、今までのことを思い返す。
戦いに役立てられない能力を生まれ持った。
そんな自分にできることを必死になって探し続けた。
人間領の諜報活動員に、迷うことなく志願した。
過去の調査員の報告書は、すべて暗唱できるほどに読みこんだ。
だめな自分なりに、精一杯の努力はやってきたつもりだった。
そうして、今、何も残すことなく水底に沈んていく。
ぷかんと水面に浮かんだまま、ふと周りが静かになったことに気が付いて、クィーリアは横目でちらと一緒に湖に飛び込んだ熊の魔物を見た。
暴れるほどに早く沈んでいく湖の中で必死にもがき続けた魔物の姿は、いつの間にか消えてなくなっていた。
(……あれに、勝てたんだよね)
自分一人ではきっと敵わない魔物を打ち倒した。それも、役立たないと思っていた自分の能力で、敵だと思い続けていた人間と協力して、だ。
思えば、人間領にやってきてから――
――ゼノンと出会ってから、毎日が驚きの連続だった。
他の誰にも、どんな世間にも染まろうとしない、意固地なまでの信念を持っていた。
自分達の能力とは違う、術式と呼ばれる力を使っていた。
その力をただ振るうだけではなく、工夫と作戦でさらに使い方の幅を広げていた。
……そして何より、彼はこれまでずっと、クィーリアに信頼感を置き続けていた。
「……今まで、ごめんね……」
口を吐いて出た言葉は、誰の耳にも届くことなく消えていく。
今更かもしれないが、出会った当初に感じていた彼への敵意や不信感は、もうほとんど消えていた。
まだほんの少しだけ残った疑念も気にならないほど、それ以上の大きな感情が塗り潰している。
目尻に感じる冷たい水が湖のものか、はたまた別の場所から流れ落ちたものなのか、分からないまま湖に吸い込まれていく。
悔しさ、誇らしさ、それら様々な感情が綯い交ぜになっていっぱいになった胸に手を置き、そっとクィーリアは目を閉じる。
真っ暗な視界の中、ちゃぷん、ちゃぷんと、水音だけが鼓膜を叩く――。