〈エルダー・テイル〉は、世界最大級のMMORPGである。
緻密な設定を重ねた剣と魔法の世界は、二十年以上にわたり多くのプレイヤーを惹きつけてきた。
舞台となる世界〈セルデシア〉は、半分の大きさで再現した地球である。
運営は世界十三サーバーに分かれ、日本サーバーはゲーム内の疑似日本〈弧状列島ヤマト〉を管理していた。
アキバ、ミナミ、ススキノ、ナカス。
現実の地名を思わせる街々で、今日も多くのプレイヤーたちがログインしていた。
巨大なギルド会館、露店の並ぶ通り。
材料を売り買いする市場や、初心者を誘うパーティ募集。
世界各地に通じる転移門。
モンスターを倒し、装備を集め、レイドに挑む。
そして、ギルドの仲間と騒ぐ。
それが多くの冒険者にとっての〈エルダー・テイル〉の遊び方だった。
だが、普通でない者たちは、どこにでもいる。
アキバの街にも、そういう連中がいた。
ギルド名は〈サイレン〉
ギリシャ神話の海の魔物、セイレーンの英語読みである。
規模は中堅、所属人数は五十名前後。
攻略系大手ギルドのような知名度はなく、生産系大手のように市場を動かすわけでもない。
ただ、アキバの冒険者なら、大抵一度はその名を聞いたことがあった。
「…ああ、あの船の連中ね」
それが、世間一般の評価だった。
〈サイレン〉は探検ギルドだった。
好き好んで割に合わないクエストに繰り出す、物好きの集団である。
採算の合わない沿岸クエスト。
報酬の渋い島嶼探検。
誰も気にしない岩礁の当たり判定の検証。
クエストなのか、開発者の気まぐれなのか分からないような場所に、嬉々として出掛ける。
ギルドの船はスループ船―小型帆船だった。
帆柱は一本。甲板は狭く、倉庫も小さい。
武装もなく、装飾もなかった。
だが、船名だけは妙に詩的だった。
探検船〈コルデーリア号〉
名付けたのは、ギルド創設者にして団長、江田島波平である。
その由来を本人は語らなかった。
ただ、誰かがが「ムゥ…リア王であるな」と余計なことを言って黙殺されていた。
*
その日も、江田島は港に立っていた。
腕を組み、胸を張り、なぜか出港前から勝ったような顔をしていた。
鍛えた身体に、いかにも暑苦しい立ち姿。
寂しくなった頭頂部に、誇らしく立つ一本の髪。
見た目だけで言えば、どこかの戦場から間違えてやって来た男だ。
江田島の声が、港に響いた。
「本日の作戦は、南方小島群の第三岩礁攻略である!」
周囲にいた一般プレイヤーたちが、ちらりと江田島を見た。
また始まった、という顔である。
「目的は、未確認洞窟入口の再確認! および、前回逃した巨大発光蟹の捕獲である!」
「団長」
操舵員の松尾が手を上げた。
「なんだ、松尾」
「第三岩礁、今日は潮回りが悪いです。あそこは時間帯で浅瀬判定が変わります。行くなら遠回りです」
「うむ…」
江田島は一秒だけ黙った。
「任せた」
「はい、任されました」
松尾はもう慣れていた。
団長は海のことを知らない。
だが、知らないということを知っている。
面倒だが、そこが案外信頼できるところでもあった。
「ムゥ…聞いたことがある」
横から、丸メガネの大男が一歩前に出た。
中島雷電。
副長、砲雷長、航海長。
肩書きだけはやたらと凄いが、現実では雑学マニアの会社員である。
「第三岩礁は、潮汐変化によって進入可能角度が限定される地形ギミックであり、ここで無理に直進すれば、座礁判定もしくは強制戦闘イベントを引く可能性がある」
「知ってるのですか、雷電さん?」
松尾が答えた。
「知らんけど!」
「知らないなら言い切らないでください!」
松尾の声は疲れていた。
その後ろで物資を確認するのは、細身で無口な、スキンヘッドの男。
表情をほとんど変えず、手だけを正確に動かしていた。
花澤月光、現実では給食センター職員。
五十人分の食料と水。
回復アイテムや資材。
よく判らないクエストアイテム。
そして、誰かが勝手に積み込んだ木刀三本。
月光は、それらを無言で仕分けていた。
「月光」
江田島が呼んだ。
「物資はどうだ?」
「三日分。予備二割。カツヲの間食分は別計上」
「おい、俺だけ別枠か!」
白ハチマキを巻いた若者が声を上げた。
剣カツヲ。
元野球部の一般大学生である。
甲板長にして切り込み隊長。
背には日本刀。
顔には根拠のない自信。
要するに、後先考えず一番先に飛び出す係だった。
「俺、そんな食わないっすよ」
「前回、非常食を半分食った」
「いや、あれは戦闘後の回復行動というか」
「食った」
「…中島、野球しようぜ!」
「カツヲー!」
珍しく月光は怒鳴った。
その隣で工具箱を開けていたのが、富樫マスオである。
上半身裸で腹巻、なぜか学生帽。
現実では整備士。
しかも、あまりよろしくない職場で働いていた。
だから、無茶な要求には慣れていた。
壊れかけのものを無理矢理動かすことが、長年の習いだった。
そして、そういう仕事が大嫌いだった。
「おい、誰だよ。帆綱の留め具、前回のまま放ってたやつ」
マスオが低い声で言った。
甲板上の空気が、少しだけ止まる。
「カツヲ」
月光が言った。
「いや、俺じゃないっすよ」
「カツヲ」
松尾も言った。
「待ってくれよ。証拠は?」
「お前、”これくらい気合いでいけるっしょ”と言ってなかったか?」
東郷が静かに言った。
東郷は現役の海上自衛隊、海士長である。
年齢は三十歳手前、そろそろ退官を考えている男だった。
甲板での作業、艦内の生活、安全確認、そういう現場の匂いを知っていた。
だから彼は、〈サイレン〉の中で一番地味で、一番大事なことを言うのだ。
「団長」
「なんだ、東郷」
「出港前に甲板を片づけてください。ロープ踏んで転んだら、戦う前に終わります」
「うむ。月光、任せた」
「…この月光、生来目が見えん」
「見えてるでしょう、月光さん」
東郷が即座に返した。
月光の裸眼視力は、両目二・〇である。
「よし、片づけろ!」
江田島が大声で言った。
港の片隅で、他のプレイヤーたちが笑っていた。
彼らはいつも騒がしかった。
まとまりがあるのかないのか分からない。
誰かがやらかし、誰かが怒り、誰かがフォローする。
そうやって、今日も海に出るのだ。
「総員、乗船!」
江田島が叫んだ。
「出港準備!」
「係留、外します!」
「甲板、異常なし!」
「機関部…いや、機関なんざねえけど、異常なし!」
「そういえば聞いたことがある。船出とは人類にとって未知への挑戦であり…」
「長い」
月光が遮った。
「うおおおお! 冒険だあ!」
カツヲが叫んだ。
「うるさい。帆を見てろ」
叱られたカツヲが、慌ててロープを掴んだ。
騒ぎの中、江田島波平は甲板に立っていた。
海を知らない男。
だが、海に憧れた男だった。
現実では体験できなかった海の冒険を、ゲームの中でやってみたかった。
ただそれだけで作ったギルドが、いつの間にか五十人の所帯になっていた。
江田島に海の知識はない。
物資は月光に、理屈は雷電に任せきり。
修理はマスオに押しつけ、海戦ではカツヲが勝手に飛び出す。
それでも、最後に決めるのは江田島だ。
「出動!」
スループ船〈コルデーリア号〉は、ゆっくりと桟橋を離れた。
帆が風を受け、波が船縁を叩く。
アキバの港が、少しずつ後ろに遠ざかっていった。
*
彼らはまだ知らなかった。
この世界が、画面の向こうの遊びではなくなることを。
潮の匂いが本物になり、ロープが手を傷つけ、船の軋みが命に関わるようになることを。
小さな探検用スループで遊んでいた日々が、やがて本物の海を渡るための記憶になることを。
今はただのゲームだ。
ドタバタした、採算の合わない、どこか暑苦しい、海洋探索ギルドの日常。
「団長!」
団員が声を上げる。
「なんだ!」
「カツヲがまたロープ踏んでます!」
「カツヲ!」
「すんません!」
「マスオ、異常ないか!?」
「俺の血圧が異常だよ!」
順風を帆に受けて、〈コルデーリア号〉は進む。
青い海へ。
誰も行きたがらない、効率の悪いクエストへ。
彼らの冒険は、いつもそんなふうに始まった。
悪ノリで思いついた二次創作です。
内容濃い目です。
生暖かい目で見てやってください。