霧は、海の上に低く垂れ込めていた。
コルデーリア号は帆を半ば畳み、波に揉まれながら北上を続けていた。
千島列島、ウルップ島の近海。
水は冷たく、風は鋭く、重く立ち込めた霧が視界を閉ざす。
船板は軋み、立っているだけで体温が奪われていく。
「団長」
松尾が舵を握ったまま言った。
「これ以上進むと、戻るのも難しくなります」
「うむ」
江田島波平は、霧の奥を見据えていた。
「進め!」
「ですよね…」
松尾はため息をついた。
マスオは船底の軋みに耳を澄ませていた。
「…よくもまあ、こんな小舟でここまで来たもんだ」
「小舟ではない」
江田島が言う。
「コルデーリア号である」
「名前で大きくはならねえんだよ」
「だが、よい船だ」
マスオは黙った。
彼も、よい船であるとは思っていた。
*
数時間後―
見張りが大きな声で告げた。
「船首方向! 海上に影があります!」
全員が顔を上げた。
霧の向こうに、黒い塊が見えた。
半ば岩礁に乗り上げ、苔と貝殻と白い塩に覆われた、古代の船の残骸。
船首は砕け、甲板は抜け、船体は傾いていた。
「…見つけた」
江田島は長い間、その残骸を見つめていた。
「上陸する」
「上陸というか、接舷ですね」
田沢が言った。
「岩礁に気をつけてください。乗り上げたら最期ですよ」
「松尾」
「分かってます」
松尾は舵を切った。
コルデーリア号は慎重に岩礁へ近づいた。
係留場所を探し、東郷がロープを投げた。
カツヲが勢いよく飛び移ろうとして、東郷に襟首を掴まれる。
「まだ早い」
「いけると思ったっす」
「思うな」
狭い渡し板を渡り、彼らは岩礁に移った。
そこから見上げた残骸は、船というよりも廃墟だった。
だが、〈修復師〉たちは表情を変えた。
「…これ、いけますよ」
一人が呟いた。
半ば強引に連れてこられた、〈修復師〉持ちの団員たちである。
三笠を復元した時と同じように、彼らは手際よく残骸を修復していった。
だが―
「船全体の修復は無理です。規模が大きすぎて素材が足りません」
「必要なものは」
江田島が訊く。
「船材です。大量の」
その場にいた全員が黙った。
周囲にあるのは、岩と海だけである。
「近くに使えるものは」
江田島はゆっくり振り返った。
全員の視線が、彼の視線の先にあるものを見た。
霧の中で揺れる、彼らのスループ船。
「…団長」
松尾の声が低くなった。
「まさかとは思いますけど」
「うむ」
「駄目です」
「まだ何も言っておらん」
「顔に書いてあります」
江田島は腕を組んだ。
「コルデーリア号は、よい船である」
「だから駄目です」
「我らをここまで運んだ」
「だったらなおさら駄目です」
「だが、ここより先へ行く船ではない」
誰も言葉を返せなかった。
マスオが荒く息を吐いた。
「…本気かよ」
「本気である」
「帰りはどうすんだ」
「この船で帰る」
江田島は、座礁した船の残骸を見上げた。
「直して、帰る」
「後先考えなさすぎだろ!」
マスオの怒鳴り声が霧に消えた。
だが、誰も反対しきれなかった。
ここまで来たのだ。
彼らは大きな船が欲しかった。
そして今、目の前に、船として復元できる遺構がある。
必要なのは船材。
そして、その船材は目の前にあった。
*
解体は静かに始まった。
ロープを外し、帆を下ろす。
手の空いた者には、温かいものが配られた。
マスオは悪態をつきながら、使える金具と板材を選り分けた。
月光は無言だった。
コルデーリア号のマストが倒された。
甲板板が外される。
船材が抜かれる。
帆布が畳まれ、舵が外された。
江田島は、その様子を黙って見ていた。
修復師が始まった。
解体されたコルデーリア号の船材が、吸い込まれるように収まっていった。
錆びた竜骨が補われる。
抜けた甲板がふさがる。
傾いた煙突がゆっくりと戻る。
復元された船は、帆船ではなかった。
黒く塗られた細長い船体の上に、白い上部構造物が載っていた。
船首と船尾は低く、甲板は木で張られ、中央には太い煙突が一本。
前後の甲板には丸い砲座。
高く伸びた二本のマストには、何本もの索が張られていた。
霧の中に浮かぶ姿は、時代を間違えて現れたかのように見えた。
「小せえな」
マスオが呟いた。
「小さいっすか?」
カツヲが聞き返す。
「形は古い軍艦だ。けど、それを半分くらいに縮めた感じだ」
「砲は」
江田島が訊いた。
マスオは艦首の円形砲座を覗き込んだ。
「空だ。台座はある。旋回部もある。けど、肝心の砲がねえ」
「舷側は?」
「同じだ。砲門だけだな。中身はない」
「つまり」
雷電が眼鏡を押し上げる。
「船体と機関だけが復元されたということか」
「そういうことだ」
マスオは艦橋を見上げた。
江田島波平は、軍船の船首に立っていた。
霧に濡れた甲板を一歩踏む。
それを見て、彼は静かに言った。
「船名、〈オーフェリア〉」
雷電が、丸メガネの奥で目を細めた。
「オフェリア…悲劇の乙女。水に沈んだ花の名前―」
それを無視して、江田島は顔を上げた。
「…そういえば」
珍しく、彼は独り言のように言った。
「団長?」
「ここがウルップ沖なら、さらに北にシュムシュがある」
「シュムシュ…占守島ですか」
東郷の声が少し変わった。
江田島は黙って頷いた。
江田島は、霧の向こうを見つめた。
その目には、別の何かが見えているようだった。
用語
古代の船の残骸。:北千島で座礁した船をモチーフにしたオブジェクト。
オーフェリア号:排水量1,855トン、全長45m、全幅:7mの鋼鉄製の船。この世界では相当な大型船。なお船名は『ハムレット』から。