違和感 作:自給自足
深夜11時。
コンビニのレジカウンターに座る俺の前に、液晶画面の青白い光だけが浮かんでいた。
店内は静かだった。蛍光灯の冷たい光が、タイルの床を均一に照らし、棚の商品はどれも同じように無表情に並んでいる。唯一の音は、冷蔵ケースが低い唸りを上げ続ける機械音と、時折、自動ドアが勝手に震える風の気配だけだ。
俺は無意識に、レジ袋を一枚引き抜いた。
袋を軽く振って空気を入れ、口を広げる。持ち手を揃え、折り目を指で丁寧に整え、最後に軽く引く。いつもと同じ動作。誰に見せるわけでもない。ただ、そうしておくと、少しだけ「ちゃんとやった」という感覚が得られる。
向いてないな、と思う。
昼間、温めを忘れただけで客に凄まれて、頭を下げたばかりだった。謝罪の言葉を並べ、深く腰を折り、同じミスを繰り返さないよう心に刻む。でも結局、何も残らない。ただ疲れだけが、胸の奥に澱のように溜まっていく。
レジの上の空間は、何もない。ただの空白だった。
そのとき、自動ドアが音もなく開いた。
夜の冷たい風が、店内を一瞬だけ撫でる。
顔を上げると、そこに彼女が立っていた。
いつもの客だ。
制服の上に薄手のベージュのカーディガンを羽織った、俺と歳の変わらないくらいの少女。名前は知らない。向こうも、俺の名前など知らないはずだ。
ただ、週に三、四回、決まった時間に必ず来る。それだけの関係。
彼女は迷いなく棚へ向かい、いつもと同じ商品を取った。ブラックの缶コーヒーと、小さなメロンパン。カゴは使わず、手に持ったままレジへやってくる。体重を少し左に預ける立ち方も、いつも通りだった。
「これ、お願いします」
声も、いつもと同じ。
少し低めで、感情の起伏が少ない。
俺は商品を受け取り、バーコードをスキャンした。
ピッ、という電子音。数字が画面に並ぶ。
何の変哲もない、毎夜繰り返される儀式のようなもの。
袋を開き、さっき整えた形を崩さないよう慎重に商品を入れる。持ち手を揃え、丁寧に結ぶ。いつもより、少しだけ時間をかけた。
「……その結び方、きれい」
不意に、彼女が言った。
手が止まった。
「そうですか?」
「うん」
それだけだった。
彼女はそれ以上何も言わず、俺も返す言葉を持たなかった。
袋を差し出す。受け取る彼女の指先が、ほんの一瞬、俺の手に触れた気がした。
軽い感触。それだけが、指に残った。
会計を終え、顔を上げたとき、彼女はもういなかった。
店内を見回す。
棚の間、冷蔵ケースの前、雑誌コーナー。どこにも姿がない。
さっきまで確かに目の前に立っていたはずなのに。
「……早いな」
自分でも何を言っているのか分からなかった。
レシートを見下ろす。発行した記憶はあるのに、手元にはない。渡したのか?そもそもレシートを切ったのか?指先に残る感触が、妙に曖昧だ。
首を振って、考えるのをやめた。
客が帰るのは当たり前だ。見逃したって不思議じゃない。そういうことにしておけばいい。
レジの前の空間は、再び何もない状態に戻っていた。
静寂。
遠くで、サイレンが鳴り始めた。
最初は気のせいかと思った。しかし音は確実に近づいてくる。低く、断続的に、夜の街を切り裂くように。店内のテレビが、突然音を落とした。
バラエティ番組の笑い声が途切れ、画面が切り替わる。
『――緊急速報です。現在、○○地区上空にて未確認巨大生物の出現が確認されました。付近の住民は直ちに避難してください。繰り返します――』
映像が激しく揺れていた。
ビルの谷間から、巨大な影がゆっくりと動いている。煙と埃にまみれ、その輪郭ははっきりしない。店内にいた数人の客が、スマホを取り出して画面を覗き込み始めた。空気が、わずかにざわつく。
俺はレジの内側から、その様子をぼんやりと眺めていた。
なんだ、あれ。
現実感が薄い。まるでテレビの中の出来事が、店の外に漏れ出してきたかのようだった。画面の中で、自衛隊の車両が展開し、砲台が夜空に向けられる。発射の音が、少し遅れて響いた。弾道はバラバラだった。それぞれが違うタイミングで、空を裂いていく。
当たるわけないだろ。
ぼんやりと思ったその瞬間。
なぜか、全部が同時に見えた。
発射の閃光も、弾道の軌跡も、着弾の瞬間も。時間軸が一瞬だけ重なり、ぴたりと揃う。口が勝手に動いた。
「……今だ」
次の瞬間。
爆発。
複数の弾頭が、ほぼ同時に怪物の体表に叩き込まれた。
画面が白く飛び、遅れて衝撃音が響いた。
店内の客がどよめく。
「当たった……?」
「今の、すごくなかった?」
誰かが興奮気味に言う。
しかし、その“同時に見えた瞬間”について、誰も触れようとはしなかった。
俺はただ、画面を見つめていた。
たまたまだ。
偶然、タイミングが重なっただけだ。それ以上の意味などない。
そう自分に言い聞かせ、レジに戻る。
いつもの位置。いつもの高さ。
だが、何かがわずかにズレている気がした。
レジ袋の束が、一枚分だけ横にずれていた。
手を伸ばし、一枚取る。結ぼうとして、指がほんの一瞬だけ止まった。
手順は頭の中にあるはずなのに、動きがスムーズに繋がらない。
「……あれ」
すぐに思い出し、結び直す。形は整った。でも、どこか違う。さっきまで自然にできていた動作が、わずかにぎこちない。
気のせいだ。自分にそう言い聞かせ、店内を見渡した。
あの少女の姿は、やはりどこにもなかった。
入ってきたところも、出ていったところも、記憶にない。
考えるのをやめた。意味のないことだ。ただの思い違い。
外ではまだサイレンが鳴り続け、テレビでは戦闘の続きが流れている。レジの前には、誰もいない。
それが、いつもの状態だ。
問題はない。
そう思った、まさにそのとき。
ほんの一瞬だけ。誰かが、そこに立っていた気がした。
視線を向ける。
何もない。
ただ、冷たい空間だけがそこにあった。
「……いつ帰った?」
誰に向けた言葉でもない。答えは返ってこない。
ただ、レジカウンターの上に、小さな違和感だけが静かに残っていた。