違和感 作:自給自足
深夜11時。
この時間帯に客が来ることにもう、俺はほとんど違和感を覚えなくなっていた。
数週間、同じ夜勤を繰り返していれば、何もかもが「そういうもの」になっていく。同じ時間、同じ照明、同じ機械の唸り。そして、同じ客。
自動ドアが開く音に、反射的に顔を上げた。
彼女は、もうそこに立っていた。
最初からレジの前にいたかのように、自然に。制服の上に薄いカーディガン。手に缶コーヒーと小さな菓子パン。表情も姿勢も、変わらない。
「これ、お願いします」
声も、いつもと同じだった。抑揚が少なく、静かな響き。
「はい」
俺は商品を受け取り、バーコードをスキャンした。ピッ、という電子音が、今夜は妙にくっきりと耳に残る。
袋を一枚取り、持ち手を揃える。折り目を指で丁寧に整え、形を整える。迷いは前より少なかった。手が、勝手に覚え始めている。
結び終え、袋を差し出す。
彼女はそれを受け取った。ほんの一瞬、指先が触れ合う。
やっぱり軽い。
会計を終え、顔を上げたとき、彼女はもういなかった。
もう驚きはしなかった。
どこかで、納得している自分がいる。入ってきたところも、出ていったところも見ていない。それでも、確かにいた。それで十分だと思えるようになっていた。
俺はレジの下にある小さなモニターに視線を落とした。
防犯カメラの映像。暇なときに流し見する癖がついていた。
なんとなく再生を少し巻き戻す。
数分前。
店内は静かで、棚も冷蔵ケースも雑誌コーナーも、いつも通りだ。
誰もいない。
「……え?」
もう一度巻き戻す。
同じだった。
自動ドアが開く様子もない。レジの前に誰かが立つ姿もない。店内を歩く人影は一切映っていない。
ただ、俺だけが一人で動いている。
商品を手に取り、スキャンし、袋に入れ、結び、差し出す動作をしている。
相手がいないのに。
「……なんだよ、これ」
独り言が、静かな店内に小さく響いた。
レジの履歴画面を開く。
最新の取引記録。時刻は今。
金額は、表示されていない。
更新ボタンを何度か押しても、同じだった。履歴は一つ前に戻り、その前も、その前も。彼女に関する取引はどこにも残っていない。
しかし、商品は確かに減っていた。
棚に戻って確認する。ブラックコーヒーの列が一つ空いている。メロンパンの定位置も、ぽっかりと欠けていた。喉の奥が、少しだけ乾いた。
再びカメラ映像に戻る。
何度見返しても、結果は同じ。店内には俺しか映っていない。彼女の姿は、完全に欠落していた。
レジの前の空間を見つめる。
何もない。ただの空気。
だが、そこに確かに「いた」感触だけが、指先に薄く残っている。
手のひらをじっと見下ろした。触れたはずの軽い感触が、まだ消えていない。
遠くで、再びサイレンが鳴り始めた。
またか、と思った。
テレビに視線をやる。
『――未確認巨大生物、再出現。○○地区上空にて確認されました。現在、自衛隊が対応中です』
画面の向こうで黒煙が上がっている。もう珍しくもない光景になりつつあった。
俺はポケットからスマホを取り出し、配信アプリを開いた。
複数の視点が同時に並ぶ。上空、地上、遠距離。バラバラのカメラ映像。
揃ってない。そう感じた。
砲撃が始まる。
発射のタイミングは微妙にずれ、弾道もバラバラだ。当たるはずがない。
だが、指が無意識に画面を操作していた。一つの視点を拡大し、別の映像に切り替え、タイミングを合わせるように視線を動かす。
「……ここ」
口が勝手に動いた。何に対して言っているのか、自分でもよく分からない。
ただ、分かる。
――今だ。
発射。次の瞬間。複数の弾道が、ぴたりと一本の線のように重なった。
同時に着弾。爆発が連鎖し、怪物の巨体が大きくのけぞる。
配信のコメント欄が一瞬で埋め尽くされた。
『今の何!?』
『タイミングやばすぎだろ』
『全部同時に当たったぞ!?』
しかし、別の角度の映像に切り替えると、発射のタイミングは依然としてバラバラのままだった。
なのに、結果だけが揃っている。
指が止まる。
さっきまで見ていた映像とは明らかに矛盾している。
「……なんで、揃ってる?」
誰にともなく呟いた。
誰も答えない。
『――同時攻撃により、有効打を確認。怪物の動きが鈍っています』
テレビの報道の同時という言葉が、やけに耳に引っかかった。
スマホを伏せ、レジに視線を戻す。
レジの横に置かれた袋の束。枚数が合わない。
一枚、多い。
さっき確かに一枚使ったはずだ。結んで、彼女に渡したはずだ。
しかし、その袋はきちんと束に戻され、結び目もほどけていない。使われた形跡がまったくない。
指先でそっと触れる。
確かに結んだ記憶がある。渡した感触もある。なのに、袋はここにある。
「……誰に」
言いかけて、言葉が止まった。
誰に渡したのか。思い出そうとする。顔。声。姿勢。カーディガンの色。すべてが曖昧だった。さっきまで目の前に確かにいたはずの少女の輪郭が、ぼやけ始めている。
「……は」
乾いた笑いが、喉の奥から漏れそうになった。
おかしい。全部おかしい。カメラには映らない。レジの履歴には残らない。戦闘の映像はズレている。使ったはずの袋が、増えている。
どれか一つなら、まだ機械の不具合で片付けられたかもしれない。だが、全部が同時に、少しずつズレている。
レジの前の空間をもう一度見つめた。
何もない。
ただ、そこに「何かがあった」気配だけが、静かに漂っている。
目を逸らし、再び戻す。
変わらない。
最初から、何もなかったように見える。
言葉にできない違和感が、胸の奥に重く沈んでいった。
理解はまだできていない。ただ、はっきりとした確信だけがあった。
これは、気のせいじゃない。
遠くではサイレンがまだ鳴り続け、戦闘は続いている。
しかし店内は静かで、整然としていて、何事も起きていないように見えた。
俺はレジの上に、新しい袋を一枚置いた。
無意識に持ち手を揃え、丁寧に結ぶ。
誰も受け取らない袋が、そこに残る。
カメラのモニターには、俺一人が映っているだけだ。
それが「正しい記録」だと、機械は主張している。
視線をゆっくりと戻す。
現実も、同じように何もない空間を見せている。
それでも。ほんの一瞬だけ。
誰かが、そこに立っている気がした。