違和感 作:自給自足
それは、いつも遅れてやってくる。
最初にそう感じたのは、ニュースの映像を見た瞬間だった。
画面の中のビルは、何事もなかったように静かに立っている。煙も炎も、破壊の痕跡すらない。ただの夜の街並みだ。
次の瞬間。ビルが、音もなく崩れた。
遅れて、轟音が追いつく。画面が激しく揺れ、人々の叫び声が少し遅れて重なった。
『――先ほどの衝撃により、複数の建物に倒壊が確認されました』
アナウンサーの声が慌ただしく流れる。
しかし、俺には「先ほど」が分からなかった。
どの瞬間だ?
いつ、壊れた?
俺はレジの上に手を置き、ぼんやりとテレビを見つめていた。
深夜11時。いつもの時間。
客はいない。ただ、映像だけが騒がしく、店内を満たしていた。
『本日出現した未確認巨大生物は、これまでのものとは異なる挙動を示しています。攻撃を回避するだけでなく、周囲の破壊にも不可解な特徴が見られます――』
画面には黒い影が映っていた。
輪郭がぼやけ、はっきりしない。まるで現実と映像の間に薄い膜があるかのようだ。
その影の周囲で、建物が次々と壊れていく。
いや、違う。
壊れてから、「壊れたこと」になっている。
そんな不自然な感覚があった。
スマホを取り出し、ライブ配信アプリを開いた。
別の視点。上空からの映像。
整然と並ぶビル群。
その一つが、何も起きていない状態で次のフレームに移った瞬間。忽然と、半分以上が崩れ落ちていた。
「……は?」
指を止めて、動画を巻き戻す。
同じだった。壊れる瞬間というものが存在しない。
原因の動きも、衝撃の瞬間も、何もない。
ただ、結果だけが唐突にそこにある。
コメント欄が荒れ始めていた。
『今のいつ壊れた?』
『ラグ?』
『映像飛んでね?』
違う。ラグなんかじゃない。
最初から、そこに“なかった”んだ。
そのとき、自動ドアが静かに開いた。
冷たい夜風が店内を撫でる。
顔を上げると、彼女が立っていた。
レジの前に、いつものように。制服に薄いカーディガン。手に缶コーヒーと菓子パン。立ち位置も視線も、すべてが同じ。
「これ、お願いします」
「…はい」
俺は商品を受け取り、バーコードを通した。
ピッ。
電子音が、いつもより遅れて聞こえた気がした。
袋を一枚取り、持ち手を揃える。折り目を整え、結ぶ。いつもより少し強く、力を込めた。崩れないように。
何を守ろうとしているのか、自分でもよく分からなかった。
袋を差し出す。
彼女が受け取る。
指先が触れ合う。軽い感触が、はっきりと伝わってきた。
その現実的な重みが、妙に胸に刺さる。
「……さっきの、見てました?」
口から、勝手に出ていた。
自分でも、なぜそんなことを聞いたのか分からない。
少女は小さく首をかしげた。
「何が?」
「テレビ……。ビルが崩れた映像」
「なかったけど」
即答だった。迷いも、動揺も一切ない。
「……いや、あったんです」
「見てない」
彼女の声は静かで、ただ事実を述べるだけだった。
視線が合う。
そこに嘘は感じられなかった。
本当に見ていない。ただそれだけ。
背筋に冷たいものが滑り落ちる。
スマホの画面をもう一度見る。配信では、今も建物が次々と崩れ落ちている。
テレビでも、同じ惨状が繰り返し流されている。
だが、目の前の少女は、それを見ていない。
言葉が出てこなかった。
何かが、根本的に噛み合っていない。いや、もしかすると最初から、噛み合っていなかったのかもしれない。
会計を終え、顔を上げたとき、彼女はもういなかった。
もう慣れたはずなのに、今夜は少しだけ息が詰まった。
レジの前の空間は、再び何もない空白に戻っている。
ただ、そこにいたはずの軽い感触だけが、指先に薄く残っていた。
どこか遠くでサイレンがなっている。今夜は、いつもよりずっと大きく、はっきり聞こえた。
スマホの配信はさらに増えていた。
地上からの現地映像。
人々が必死に走り、叫んでいる。
その中で、突然、誰かが倒れる。
何も当たっていないのに。立っていた人間が、次の瞬間には地面に崩れ落ちている。
『いつやられた!?』
『分かんねえよ!』
混乱した声が重なる。
当然だ。誰も「瞬間」を見ていない。
倒れた理由がない。原因が存在しない。
ただ、結果だけがある。
別の映像では、瓦礫の山の前で救助隊が右往左往していた。
『どこから崩れた!?』
『支点が特定できない!』
『この壊れ方、見たことない……』
彼らは助けられない。
崩れ方が分からないから。
どこを支えればいいのか、判断がつかないから。
見ていないから。
ふと、そう思った。
見ていない。だから分からない。分からないから、助けられない。
喉がひどく乾いた。
スマホを握る手に、知らず知らずのうちに力が入る。
画面の中で、再び戦闘が始まった。
砲撃。発射音が響く。しかしタイミングはバラバラで、弾道も揃わない。
当たらない。
分かる。
だが、指が勝手に動いていた。
視点を変え、別のカメラに切り替え、タイミングの重なりを探す。
「……今じゃない」
小さく呟く。誰にも聞こえない声。それでも、自分には分かった。
全部、少しずつズレている。
その瞬間。遅れて、爆発が起きた。
また、建物が崩れる。
誰も見ていない。
だから、また何が起きたのか分からない。
被害だけが、確実に増えていく。
コメント欄がざわついていた。
『また外れた』
『なんで当たらんの』
『さっきは当たってたのに』
そうだ。さっきは、当たっていた。
俺が見ていたときだけ。
「……見てないからか」
自然に、口から言葉が零れた。自分でも驚くほど、すんなりと。
見ていないから、揃わない。
揃わないから、当たらない。
当たらないから、被害が出る。
だとしたら、
「……見れば」
そこまで言って、思考が止まった。
何を見る?
どうやって見ればいい?
考えがまとまらない。
ただ一つだけ、強く引っかかるものがあった。
少女の言葉。
--見てない
あのとき、彼女は何も見ていなかった。
だから、あの爆発はなかったことになっていた。
頭が重い。
考えたくない方向へ、思考が勝手に流れていく。
ニュースに切り替える。
『本日の被害者数は現在……』
表示された数字は、明らかに少なすぎた。
あの規模の倒壊に対して、あまりにも現実離れしている。
テロップが続いていた。
『なお、一部被害については発生時刻が不明瞭であり、正確な把握が困難となっています――』
不明瞭。曖昧。分からない。
全部、同じだ。
スマホをゆっくりと下ろした。
レジに視線を戻す。
袋の束から一枚を取り、持ち手を揃える。結ぼうとする。しかし、指がわずかに震え、形が歪んだ。
手が止まる。
さっきまで普通にできていたはずなのに。
もう一度結び直す。形を整える。それでも、どこか不自然だった。
レジの上に、誰も受け取らない袋を置く。
それを見つめていると、妙な感覚が胸の奥から湧き上がってきた。
ここに、誰かいたはずだ。
思い出そうとする。
顔。声。カーディガンの感触。軽い指先。
だが、輪郭がぼやけていく。
掴もうとすればするほど、記憶が砂のようにこぼれ落ちる。
「……誰だ」
自分の声が、やけに遠くから聞こえた。
答えは、出ない。
出るはずがない。
最初から、存在しなかったみたいに。
外ではサイレンがまだ鳴り続け、テレビでは崩壊の映像が繰り返し流れている。しかし、その決定的な“瞬間”は、どこにも映っていない。
レジの前。空間。何もない。
それでも。
ほんの一瞬だけ。
誰かが、そこに立っていた気がした。