矢利 杉雄という男がいた。
どこにでもいるサラリーマンである。朝は満員電車に押し込まれ、昼は上司の顔色をうかがい、夜は疲れた体を引きずって安い定食屋に入る。履歴書に書けるような大きな功績もなければ、誰かに語れるような華やかな人生もない。何処にでもいるような、唯の凡人であった。
ただ、彼には子どもの頃から変わらないものが一つだけあった。
正義感である。
杉雄は、悪いことが嫌いだった。
弱い者いじめを見ると胸が焼けるように熱くなり、嘘をついて得をする人間を見ると拳を握りしめた。ニュースで凶悪事件が報じられるたび、彼は画面の向こうに向かって怒りをぶつけた。
「どうして、こんな奴がのうのうと生きているんだ」
悪に怒りを覚える日々。けれど、杉雄には力がなかった。
学生時代、いじめられている同級生を助けようとして、逆に殴られた。会社では不正を見つけても、証拠が足りず、上司に揉み消された。街で怒鳴られている老人を助けようとしても、相手の男に睨まれただけで足がすくんだ。
正義はある。
怒りもある。
だが、それを実行する力だけが、杉雄にはなかった。
ある夜、残業帰りの杉雄は、駅前の路地で酔った男が若い店員に絡んでいるのを見た。男は大声で罵り、店員の胸ぐらを掴んでいた。周りの人々は見て見ぬふりをして通り過ぎていく。
杉雄は足を止めた。助けなければならない。そう思ったのだ。
しかし、向かおうとした足は途中ですくんでしまった。相手は大柄で、太刀打ちできそうにもない。それどころか、こちらを睨めばそれだけで杉雄は逃げ出してしまいそうだった。結局、警察官が来るまで、彼は何もできなかった。
男が連れて行かれたあと、杉雄は路地の壁にもたれかかった。
「畜生……」
無力感に苛まれる。罪悪感が奥底からこみ上げてくる。
「俺に力があれば……」
その言葉が漏れた時だった。
「ホーッホッホッホ……」
闇の中から、太く低い笑い声が聞こえた。
杉雄が顔を上げると、黒い帽子に黒いスーツ、丸々とした体を揺らしながら、一人の男が近づいてきた。大きな口は笑っているのに、その目だけは底のない穴のように暗かった。
「矢利 杉雄さんでございますね」
「あなたは……?」
「私、こういう者でございます」
男は名刺を差し出した。
そこには、ただ一言だけが書かれていた。
心のスキマ…
お埋めします
喪黒福造
「私、人間の心の隙間をお埋めする仕事をしております。杉雄さん、あなたの心の隙間は、なかなか大きく、そして熱いもののようですな」
杉雄は警戒したが、目の前の男から視線を外すことができなかった。正しくは、男の言葉か。
「俺の心の隙間?」
「ええ。あなたは正義を愛しておられる。ですが、その正義を行う力がない。そのために、何度も悔しい思いをなさってきた。違いますかな?」
まさしくそのとおりだ。杉雄は黙った。
喪黒は、にんまりと笑った。
「そこで、私があなたに力を差し上げましょう。どんな相手にも負けない、絶対的な力でございます」
「絶対的な力……?」
杉雄の喉がゴクリと鳴った。
「それがあれば、俺は悪を裁けるんですか」
「もちろんでございます。強盗も、殺人犯も、悪徳政治家も、あなたの前では赤子同然。あなたは誰にも負けない。誰にも止められない。まさに、スーパーマンでございます」
「どれ、少しばかり体験してみましょうか」と喪黒が指を鳴らした瞬間、杉雄の体の奥で何かが爆ぜた。
血が熱くなった。
骨が軋み、筋肉が膨れ、視界が鋭く澄み渡る。ビルの屋上に落ちる小さな雨粒の音まで聞こえ、遠くの道路を走る車のナンバーまで見えた。試しに拳を握ると、空気が小さく破裂した。
杉雄は震えた。恐怖ではない。それは歓喜だった。
「すごい……これなら、俺は……!」
「喜んでもらえたようで、結構です」
コレほどの力があれば、自分は願いを叶えることができる。見て見ぬふりをする日々からはおさらばできる。憧れの存在に手を伸ばすことができる、いや、もうなっている。
有頂天になる、杉雄に対して。
「ただし」
喪黒の声が、夜気を冷やした。
「力というものは、どこまで行っても結局は暴力にすぎません。そこに結果が出て初めて、人はそれを良いことだった、悪いことだったと判断するのでございます」
虚を突かれたように、杉雄は顔を上げた。
「それは、どういう意味ですか」
「あなたが悪人を殴れば、人々は正義と呼ぶかもしれません。しかし、あなたが怒りに任せて誰かを殴れば、それはただの暴力です。たとえ相手が悪人であっても、あなたの心が濁っていれば、その力は毒になります」
「俺は間違えません」
杉雄は即答した。
「俺は悪を裁くために使います」
「ホーッホッホッホ。そうでございましょう、そうでございましょう。ただし、念を入れておきますが、くれぐれもお気をつけください。正義の拳も、振るいすぎれば凶器でございますよ」
◆
その夜から、矢利 杉雄は変わった。
最初の事件は、コンビニ強盗だった。
包丁を持った男が店員を脅しているところに、杉雄は壁を突き破って現れた。男が振り返るより早く、杉雄の拳が男の腹にめり込み、強盗は陳列棚ごと吹き飛んだ。
包丁を突きつけられていた店員は、恐怖から解放されて泣きながら礼を言った。
まわりの客は拍手した。
杉雄は、その拍手を浴びながら、胸の奥が満たされていくのを感じた。
次に、彼は通り魔を捕まえた。
その次は、逃走中の凶悪犯を車ごと持ち上げて警察署の前に叩きつけた。暴力団の事務所に踏み込み、武器を持った男たちを一人残らず倒した。夜の街で女性に絡む男を見つければ、言い訳を聞く前に地面へ沈めた。
人々は、最初こそ歓声を上げた。
「謎のヒーロー現る!」
「現代の救世主!」
「法律が裁けない悪を裁く男!」
テレビは杉雄を追い、ネットは杉雄を称賛した。警察も内心では困りながら、表立って批判することはできなかった。なにしろ、彼が倒す相手はたいてい悪人だったからである。
最初は良かった。杉雄は喪黒の忠告通り、悪を裁くことだけに力を使っていた。そして力を必要以上に使わないようにと心がけていた。
だが、そんな日々が続くと、少しずつ彼は変わっていった。
杉雄の拳は、速くなった。重くなった。そして、粗くなった。
悪徳議員の家に不正献金の疑惑があると知ると、杉雄は証拠を待たずに屋敷へ飛び込んだ。塀を砕き、玄関を吹き飛ばし、議員を寝室から引きずり出して庭に投げた。家族が泣き叫んでも、秘書が止めても、杉雄は聞かなかった。
「悪いことをした奴が、被害者みたいな顔をするな!」
議員は確かに悪党だった。それは事実だ。
しかし、その家に偶然いただけの使用人も、何も知らない彼の子どもも、吹き飛ばされた建築物の破片に巻き込まれた近所の住民も、杉雄の破壊に巻き込まれた。誰かがそれを指摘すると、杉雄は怒鳴った。
「悪を放っておくよりマシだ!」
ある日、ニュースで「犯人らしい男」と報じられた人物がいた。逮捕はまだされておらず、警察も慎重に捜査している段階だった。だが杉雄は待てなかった。
彼はその男の住むアパートへ飛んでいき、ドアを壊して中へ踏み込んだ。怯える男を壁に叩きつけ、何度も問い詰めた。男は泣きながら否定したが、杉雄は信じなかった。
「ニュースに出ていた。お前が怪しいとみんな言っている」
後日、その男は無関係だったと判明した。だが杉雄は謝らなかった。
「紛らわしいことをした方も悪い」
自信満々に語る杉雄の姿がテレビで報じられると、世間の空気は変わった。
杉雄を称賛していた人々は、不安を覚え始めた。彼が現れれば悪人は倒されるが、同時に周囲の街も壊れ、人も傷つく。誰が悪人かを決めるのは、法律でも裁判でもなく、杉雄の怒りと直感になっていた。
それでも杉雄は止まらなかった。彼は自分を疑わなかった。
ある会社員が電車内で女性と口論しているのを見れば、事情も聞かずに男を殴った。飲食店で店員に強く文句を言う客を見れば、店の外まで蹴り飛ばした。子どもを叱る母親の声が強すぎると感じれば、母親を睨みつけて謝罪させた。
悪は裁かれなければならない。
そう思うたび、杉雄の拳は誰かに向かった。
かつて彼が嫌っていた暴力と、今の彼が振るう力の違いは、だんだん誰にもわからなくなっていった。
やがて、世界は杉雄を恐れるようになった。
警察も、自衛隊も、政府も、彼を止めることはできなかった。彼が空を飛べば街はざわめき、人々は窓を閉めた。悪人だけでなく、普通の人々までが、彼の影に怯えた。
◆
そして、ある日。杉雄は突然、姿を消した。
なんの前触れもなく消えた彼を、世界中が探す。
政府は衛星を使い、テレビ局は特番を組み、ネットでは目撃情報が飛び交った。杉雄がいなくなったことを喜ぶ者もいれば、次の災厄が始まるのかと恐れる者もいた。
だが、彼はどこにもいなかった。彼を称賛する者は、もういなかった。彼の名を呼ぶ者も、ほとんどいなかった。
そんなある夕暮れ、喪黒福造だけが、ひとり街を歩いていた。
ビルの谷間を抜ける風が、黒いスーツの裾を揺らす。喪黒はふと足を止め、空を見上げた。そこには、いつもと変わらない青黒い夕空が広がっている。
けれど喪黒は知っていた。
その空のはるか彼方に、地球へ向かう巨大な隕石があったことを。
そのコースは地球に衝突するコースを描いていて。少し先の未来、人類が観測衛星でその存在に気づいた時には、もう何をしても手遅れの距離であったことを。
そして、その事実を誰よりも早く知った男が、一人だけいたことを。
矢利 杉雄である。
杉雄は、それを公表しなかった。
誰かに称賛されるためでもなく、英雄として迎えられるためでもなく、彼はただ一人で空へ飛んだ。誰にも見送られず、誰にも祈られず、誰にも許されないまま、ただ地球から遠ざかっていった。
宇宙空間を凄まじいスピードで移動する隕石は、山をも超える巨大な死だった。
喪黒に力を与えられた杉雄の拳ですら、砕けるようなものではなかった。宇宙が長い時間を生み出した大質量の兵器は、押し返すことも、軌道を変えることもできなかった。
だが杉雄は諦めなかった。己の体に残るすべての力を一点に集め、隕石の中心へ突っ込んだ。
残された最後の手段、杉雄はそれを躊躇無く行使した。
その瞬間、宇宙の闇に、誰にも見えない光が咲いた。誰にも知られることなく、その光はまたたき、消える。
杉雄は隕石もろとも己を構成するエネルギーを、解放したのである。
己のパワーも、命も、何もかもを破壊力として変換して、彼はそれを解き放った。
数年が過ぎた。隕石が衝突するはずだった時は過ぎ、地上の人々は、そのことを知らなかった。
今日もいつも通り電車に乗り、会社へ向かい、夕飯の献立を考え、誰かの悪口を言い、誰かに謝りそびれ、何も知らずに眠った。自分たちの明日が、一人の男の最後の選択によって守られたことなど、誰も知らなかった。
その群衆の中、喪黒は空を見上げたまま、静かに笑った。
「杉雄さん。あなたが今までなさったことが、これで帳消しになるわけではございません」
その声にいつものようなおどける表現は見当たらない。
「あなたは、確かに力に溺れました。正義の名を借りて、ただの暴力を振るったこともございました。傷つけなくてよかった人まで傷つけた。壊さなくてよかったものまで壊した。それは、決して消えるものではございません」
喪黒は、ゆっくりと帽子を取った。まるで誰かに対する経緯を示すように。
「ですが、最後の最後に、あなたは誰かの称賛のためではなく、誰かを屈服させるためでもなく、誰かの命と平穏のために戦いました。誰にも知られず、誰にも褒められず、何も返ってくることはない。それでも迷わず命を差し出した」
夕暮れの空に、一番星が光った。それはあの時の光ではない。誰にも見つけられることのない光ではない。
しかし。
「その瞬間のあなたは、まさしくスーパーヒーローでございましたよ」
喪黒は帽子をかぶり直し、再び歩き出した。
街はいつも通りだった。
人々は杉雄を忘れていく。乱暴な男だった、危険な男だった、消えてよかったのかもしれないと語る者もいるだろう。彼が最後に何をしたのかなど、誰も知らないまま、世界は続いていく。
それでも、喪黒福造だけは知っている。
正義を欲し、力に溺れ、暴力に染まり、それでも最後に、たった一度だけ本物の正義へ辿り着いた男がいたことを
彼が何故、隕石の到来を、己の結末を誰にも伝えなかったか。喪黒ですら知る由もない。
だが、今この世界の情景こそが、彼が、杉雄が己の命をも賭けて選択した結末だった。
「ホーッホッホッホ……」
黒い影は雑踏の中へ消えていった。
「力とは、使う者の心を映す鏡でございます。人を救うこともできれば、人を壊すこともできる。けれど最後に何を選ぶかで、その人間の本当の姿が見えるのかもしれませんなあ」
喪黒の笑い声は、夜の街に薄く伸びていった。
そして地球は、その夜も何事もなかったかのように回り続けた。
よくよく力に溺れる主人公はありますけど、今回みたいに絶対的な破滅が向かってきたらどうするんだと思う。
力に溺れた正義の味方が、最後の最後に本当に正義を成すって物語が好き。