普段はゲーム作成に使ってますけど、プロンプトでは小説も変えられるんですね。
凄えや!
今回はお気に入りの話です。
降りしきる雨が夜の街を灰色に濡らし、その片隅では、古びたバーが世間から忘れられたように、ひっそりと灯りをともしていた。
店先に掲げられた看板は長い年月に色を奪われ、くたびれたネオンは雨粒の向こうで輪郭を滲ませている。重い扉を押し開けるたび、頭上の小さな鈴がかすれた音を立てたが、その音に振り向く客さえ、今ではそう多くなかった。
店内には流行りの音楽も、若者受けする色鮮やかなカクテルも、写真に撮りたくなるような洒落た内装もない。使い込まれて艶の出た木製のカウンターと、年代も産地もばらばらな酒瓶が並ぶ棚、それに店の奥へ据えられた一台のビリヤード台だけが、外の街とは異なる速度で流れる時間を静かに支えていた。
そのビリヤード台の前には、夜ごと決まって一人の男が立っていた。
名を、渋杉という。
年老いた男で、髪には白いものが目立ち、普段の背は年齢相応にわずかに丸まっている。目元には深い皺が刻まれ、身なりにも人目を引くところはなく、街ですれ違えばそのまま記憶から消えてしまいそうな、ごく物静かな老人だった。
ところが、ひとたびキューを手にしてビリヤード台へ向かうと、渋杉の姿勢は不思議なほど真っ直ぐになった。まるで、とうに過ぎ去った若い日の時間が、球を撞くわずかな間だけ、彼の背骨へ戻ってくるかのようであった。
定年を迎えてからというもの、渋杉はほとんど毎晩そのバーへ通い、いつもの位置で一人きりのゲームを続けていた。相手も観客もなく、勝敗を記録する者もいないため、店の暗がりには、キューの先が手球を捉える乾いた音だけが規則正しく響いていた。
店主にとって、そんな渋杉の姿は、古いカウンターや酒棚と同じくらい見慣れた店の一部だった。何杯目かの安いウイスキーを差し出しながら、店主はその晩も、いつもの調子で声をかけた。
「渋杉さん、今日も一人勝負ですか」
「一人なら、負けても言い訳を考える相手が自分だけで済むからな」
渋杉はそう答えて笑ったが、その笑い声には、冗談だけでは覆いきれない薄い寂しさが混じっていた。
こう見えて、と表現すれば失礼かもしれないが、渋杉はかつてビリヤードの選手として名を連ねたことがある。
若い頃の渋杉は、本気でビリヤードの世界を志していた。地方大会では何度も優勝し、仲間内では天才と呼ばれ、プロになれると持ち上げられた時期さえあったから、本人もまた、いずれは大きな舞台へ立てるものだと信じていた。
しかし、現実は名前の通り、ひどく渋かった。
才能だけを懐へ入れて食べていけるほど、勝負の世界は甘くない。遠征には金がかかり、強い相手と練習するには人脈が要り、大会で勝ち続けるには実力だけでなく、後ろ盾と巡り合わせまで必要になる。渋杉には腕こそあったものの、それ以外の何もかもが足りなかった。
芽を出せぬまま足踏みをしているうち、家庭の事情から働かねばならなくなり、仕事を優先すれば練習時間は削られ、試合から遠ざかれば勘も鈍った。その悪循環を断ち切れないまま年月だけが積み重なり、かつて胸の内で燃えていた夢は、飲み残したグラスの底に沈む氷のように、少しずつ小さくなっていった。
それでも渋杉は、ビリヤードから完全に離れることができなかった。家庭を持ち、子を育て、やがて孫の顔を見る年齢になり、ときには何年ものあいだキューへ触れない時期があっても、仕事の手がふと止まった瞬間や眠れぬ夜には、頭の片隅に緑色のラシャと白い手球が浮かんだ。
定年を迎え、長く連れ添った妻にも先立たれたあと、気づけば彼はまたキューを握っていた。もっとも、若い頃の夢を取り戻そうとしたわけではなく、街の片隅にある古いバーで、失くした時間の手触りを確かめるように、一人静かに球を撞いていただけであった。
ある夜のことである。夕方から降り続いていた雨は細くなっていたものの、路地にはまだ濡れた冷気が漂い、バーの窓を小さな雨粒が絶え間なく叩いていた。
店内には渋杉のほかに客らしい客もおらず、店主はカウンターの隅で、急ぐ必要などないとでもいうように、ゆっくりとグラスを磨いていた。普段と何一つ変わらぬ光景の中で、渋杉はいつものように球を並べ、狙いを定めながら静かにキューを引いた。
その先端が手球へ触れようとした瞬間、入口の鈴が不意に鳴った。
「ホーッホッホッホ……」
低く太い笑い声が、淀んでいた店の空気をわずかに震わせる。渋杉が顔を上げると、黒い帽子に黒いスーツをまとった、丸々とした体格の男が扉の前に立っていた。
外は雨だというのに、男の帽子にも肩にも濡れた跡は見当たらない。大きく裂けたような口元には満面の笑みが浮かび、その表情は愛想がよいはずなのに、見ている者の心の奥まで勝手に覗き込むような気味の悪さがあった。
「突然に失礼いたします。渋杉さんでございますね」
男は慇懃に一礼したが、その目は最初から、渋杉以外の何者も見ていないようであった。
「そうだが、あんたはこの辺りじゃ見ない顔だな」
「私、こういう者でございます」
男が差し出した名刺は、飾り気のない簡素なものだった。そこには肩書きらしい肩書きも会社名もなく、ただ、
心のスキマ、お埋めします。
喪黒福造
とだけ記されていた。
「喪黒……福造さんね」
「人呼んで、笑ゥせぇるすまん。私が取り扱っておりますのは、品物ではございません。人間の心、その奥にぽっかりと開いた隙間でございます」
「へえ。じゃあ、こんなしなびた爺の中にも、まだ埋めるほどの隙間が残っているってわけかい」
渋杉は笑いながら手球を軽く撞いた。白い球は緩やかに転がり、的球へ触れたあと、どのポケットにも届かぬまま力なく止まった。
喪黒はビリヤード台へ近づくと、散らばった球の配置を興味深そうに眺め、それから渋杉の顔へ視線を戻した。
「ええ、ええ、そうですとも。そうでなければ、私はあなたの前へ現れたりいたしません」
「それなら、何が空いているのか、こっちが教えてもらいたいもんだ」
「勿論ですとも。渋杉さん。あなたの心には、長いこと燻り続けているものがございますね」
「燻っているもの?」
あまりに無遠慮な言葉だったため、渋杉はわずかに目を細めた。しかし喪黒は意に介した様子もなく、球の表面を撫でるように指先を滑らせながら、話を続けていく。
「長い年月をかけて燃え尽きたつもりでいながら、灰の下には、まだ小さな火が残っている。忘れたと口にするたび、かえって消えていないことを確かめてしまうような、そんな火でございます」
「大げさだねえ。俺みたいな枯れ木に、今さら火なんて残っちゃいないよ」
「ホッホッホ、ご謙遜を。本当に、そうでございますかな」
喪黒の声は柔らかかったが、笑って受け流すための逃げ道を、少しずつ塞いでいくような圧があった。渋杉はしばらく黙り込み、ビリヤード台の縁へ腰を預けると、カウンターの薄暗い照明の下で、手にしたキューの木目を眺めた。
どれほど時間が経ったのか、やがて彼は降参の印に軽く肩をすくめた。
「……まあ、そうだな。一度でいいから、これで栄光ってやつを見てみたかった」
渋杉はキューの先で台の縁を軽く叩き、照れ隠しのような笑みを浮かべた。
「世界大会なんかでさ。だだっ広い会場に大勢の観客がいて、眩しいライトが台を照らしている。最後の一球を沈めた途端、耳が痛くなるほど拍手が鳴る――若い頃は、そんな景色を本気で夢見てたよ」
そこで言葉を切ると、渋杉は自嘲するように鼻を鳴らした。
「もっとも、夢ってのは大抵、目が覚めりゃ終わるもんだ。ああいう光を掴めるのは一握りの人間だけで、若い頃ならともかく、この歳になってまで追いかけるのは、さすがにみっともないだろう」
口調こそおどけていたが、それは、おどけなければ他人へ聞かせることのできない本音だった。喪黒はその言葉を聞き終えると、待っていた答えをようやく得たとでもいうように、にんまりと笑った。
「いえいえ、みっともないことなどございませんよ、渋杉さん。人間というものは、どれほど歳を重ねようと、心の底で欲しがる景色までは変えられないものです」
「そうは言うがね」
渋杉が困ったように視線を逸らすと、喪黒は待ちかねたように身を乗り出した。
「でしたら、その夢を、もう一度だけ見てみませんか」
思いも寄らない言葉に、渋杉は眉をわずかに動かした。
「……何だって?」
喪黒はいつの間に取り出したのか、一本のキューを両手で捧げるように差し出した。黒く深い光沢を帯びた美しいキューで、派手な装飾はないものの、握りの部分に浮かぶ木目は吸い込まれるように濃く、手に取る前からただならぬ存在感を放っていた。
渋杉が恐る恐る受け取ると、確かな重量があるはずなのに、重いとも軽いとも感じられなかった。掌へ吸いつくように馴染み、初めて触れた品でありながら、何十年も使い込んできた相棒のように指の位置まで自然に定まる。
「これは……」
渋杉が掠れた声を漏らすと、喪黒は何でもないことのように答えた。
「魔法のキューでございます」
その口調には、冗談を口にした気配など微塵もなかった。
「このキューをお使いになれば、あなたは球を自在に操ることができます。曲げたいと念じれば曲がり、止めたい場所を思えばそこで止まり、沈めたいと望めば、どれほど難しい配置からでも球はポケットへ落ちるでしょう」
渋杉は思わず吹き出したが、手の中にあるキューを返そうとはしなかった。
「球を自在に操るだって? おいおい、ずいぶん景気のいい話じゃないか。そんなものが本当にあるなら、世界中のプロが泣いて欲しがるぜ」
「ホーッホッホッホ。もちろん、これは誰にでもお渡しできる品ではございません。渋杉さん、長いあいだ夢を諦めきれず、それでも腐らずに球を撞き続けた、あなたにだけお貸しするものです」
「貸し出し期間は、いつまでだい」
「あなたが望んだ栄光を掴むまででございます」
荒唐無稽な話であり、普段の渋杉なら鼻で笑って終わらせていただろう。しかし喪黒という男の前では、冗談と本気の境目が奇妙に溶け合い、どちらか一方へ決めつけることができなかった。
ものは試しだと、渋杉は手球を所定の位置へ置き、さほど集中もせずに一つの的球を狙った。いつも通りの感覚でキューを引き、ほんの少しだけ、「あの角を回って奥のポケットへ入れば面白い」と考えながら撞き出す。
カツン、と澄んだ音が響いた。
白い球は初めこそ真っ直ぐに走ったが、途中で意思を持ったようにわずかに軌道を曲げ、別の球へ触れてからクッションで反射し、最後には、渋杉が思い描いた通りに奥のポケットへ吸い込まれた。
渋杉の顔から笑みが消え、カウンターの向こうで成り行きを見守っていた店主も、磨いていたグラスを危うく取り落としかけた。
「……今のは」
掠れた声で呟く渋杉に、喪黒は嬉しそうな笑みを向けた。
「ご覧の通り、魔法でございます。これをお使いになれば、世界大会も、そこで浴びる拍手も、もはや夢物語ではありません。ただし、一つだけお約束いただきたいことがございます」
「出たな。こういううまい話には、大抵、小さな字の但し書きがつくもんだ」
「このキューによって掴み取った栄光を、私利私欲のために食いつぶしてはなりません」
それまで笑っていた喪黒の目が、店の照明を吸い込んだように暗く光った。
「名声も、賞金も、拍手も、あなたが長年追い求めてきた夢に付いてくるものでございます。しかし、その栄光に溺れ、欲望を満たすことだけに使い始めれば、その瞬間、あなたはもっと大切なものを失うでしょう」
渋杉は手の中のキューを眺めたあと、それを肩へ軽く担いだ。
「なるほどね。それで、約束を破ったらどうなる?」
喪黒は右手をゆっくりと持ち上げ、人差し指を渋杉の胸元へ向けた。
「そのときは、相応のペナルティを受けていただきます」
一瞬だけ、渋杉の表情が強張った。それでも彼は、怖さをごまかすように渋い笑みを浮かべると、黒いキューをケースへ収めた。
「まったく、あんたが言うと冗談に聞こえないね。まあ、できるところまで頑張ってみるよ」
その夜を境に、渋杉は少しずつ変わっていった。
もっとも、周囲から見れば、人柄まで別人になったわけではない。彼は相変わらず古いバーへ通い、安い酒を飲み、店主へ軽口を叩きながら一人で球を並べていたが、台へ向かう時間だけは以前より長くなり、キューを構える目には、忘れていたはずの熱が戻っていた。
そして何より、球の動きが違っていた。
渋杉の撞く手球は、生き物のようにラシャの上を滑り、わずかな隙間をすり抜け、ときには信じがたい角度から的球をポケットへ運んだ。それでも力任せの派手さはなく、長い年月で身につけた穏やかなフォームのまま、球だけが彼の意思を先回りしているように正確な軌道を描いた。
たまたま居合わせた客が目を丸くして尋ねても、渋杉は得意げな顔を見せなかった。
「渋杉さん、今の、どうやったんですか」
「年寄りの冷や水ってやつだ」
「冷や水で、あんなふうに球が曲がりますかね」
「水だって長く置けば癖がつく。人間も似たようなもんさ」
冗談を返す声は軽かったが、台を見つめる目だけは真剣であった。あの夜、喪黒の話と奇跡の一撞きを目の当たりにしていた店主は、渋杉の手にある黒いキューを見るたび複雑そうな顔をしたものの、本人が何も説明しないため、黙って酒を出し続けた。
やがて、昔の知人に勧められた渋杉は、小さな地方大会へ出場することになった。長く公式戦から離れていた老人に注目する者などおらず、若い選手たちの中には、思い出作りに来た老人を見るような、気の毒そうな笑みを向ける者さえいた。
しかし、試合が始まると、会場の空気は一変した。
渋杉は、対戦相手へ流れを渡さぬまま勝ち進んだ。単にミスが少ないのではなく、一手ごとに次の配置まで読み切り、絶望的に見える局面からでも、細い糸を手繰るように最善の道筋を見つけていくため、相手は追い詰められていることに気づいた頃には、すでに打つ手を失っていた。
球の軌道には、若い選手の勢いだけでは生み出せない美しさがあった。長い年月のあいだに積み上げた間合いと、寸分の狂いもない精密さが一つになり、観客は息を呑み、敗れた選手たちは最後には呆れたように笑うしかなかった。
地方大会を制した渋杉は、その勢いのまま国内の大きな大会へ進み、そこでも勝利を重ねた。名も知られていなかった老人が、若い有力選手を次々と退ける光景に世間は色めき立ち、記者たちは「奇跡の遅咲き」と書き立てながら、試合後の彼を取り囲んだ。
「渋杉選手、優勝おめでとうございます」
「ああ、ありがとうさん」
「失礼ですが、なぜ今になって、これほどの実力を発揮できたのでしょうか。公式大会へ出場されていたのは、ずいぶん昔のことだと伺っています」
「遅咲きにもほどがある、という声もありますが、ご自身ではどうお考えですか」
いくつものマイクを向けられた渋杉は、眩しい照明に目を細め、少し照れたように白髪を掻いた。
「花ってのは、咲く時期を自分で選べないんじゃないですかね。俺の場合は、たぶん土が悪くて、芽を出すのに時間がかかったんでしょう」
その飄々とした受け答えも相まって、渋杉の名はたちまち広まっていった。そして国内大会を勝ち抜いた彼は、ついに若い頃から夢見続けていた世界大会への出場権を手にした。
世界大会の会場は、彼の記憶にあるどの競技場よりも眩しかった。強いライトに照らされたビリヤード台は、古いバーの片隅にある台とは別世界の祭壇のようであり、観客席には各国から集まったファンが並び、何台ものカメラが渋杉の一挙手一投足を追っていた。
それは確かに、若い頃から夢見ていた景色だった。けれども、頭の中で何度も思い描いたものより広く、明るく、圧倒的で、実際にその場へ立ってみれば、夢と現実は似ているようで、まるで違っていた。
渋杉はキューを握り、掌へ伝わる感触を確かめた。その瞬間、胸の奥で、とうに錆びついたと思っていた何かが、静かに音を立てて動き始める。
見たい、立ちたい、世界の強者と競い合いたい――若い頃に抱き、果たせぬまま忘れようとしてきた願いが、長い年月を越え、ようやく現実の輪郭を得て目の前にあった。
試合は熾烈を極めた。決勝の相手は若く、鋭く、迷いのない大会の現王者であり、観客の多くは渋杉の健闘を讃えながらも、最後には王者が勝つものと思っていた。
ところが渋杉は、どれほど追い詰められても崩れなかった。安全策へ逃げるべき場面では焦らず守り、攻めるべき瞬間にはためらわず細いコースへ球を通し、絶望的な配置からでも、台の上に一本だけ残された道を見つけ出した。
手球は柔らかく曲がり、必要な場所で静かに止まり、的球は吸い込まれるようにポケットへ落ちていく。やがて会場には、ビリヤード台そのものが渋杉へ味方しているかのような錯覚さえ広がっていった。
互いに一歩も譲らぬまま最終ラックを迎え、台の上に残された勝負球は、ついに最後の一つとなった。観客席を満たしていたざわめきは潮が引くように消え、広い会場には、渋杉が呼吸を整えるかすかな音まで聞こえそうな静寂が訪れた。
渋杉は腰を落として構え、細く息を吐きながら目を据えると、ゆっくりとキューを引いた。
カツン、と、乾いた音が響いた。
白球は緑のラシャを滑り、狙い澄ました角度で的球へ触れた。勝負球はポケットの縁をかすめ、一度だけ小さく跳ねたため、会場中の呼吸が止まったが、次の瞬間には、そのまま吸い込まれるように暗い穴の中へ消えていった。
わずかな沈黙のあと、会場は爆発したような歓声に包まれた。拍手と叫び声が天井を震わせ、無数のフラッシュが白く明滅する中、渋杉は世界大会の優勝者として、ただ静かに台の前へ立ち尽くしていた。
表彰台でトロフィーを手渡されたときも、彼は大げさに泣いたり、両腕を突き上げたりはしなかった。長い年月の果てにようやく届いた栄光を、両手で確かめるように持ち、ほんの少し目を伏せてから、口元だけを渋く曲げた。
「長生きは、してみるもんだな」
それから数日後、街の片隅にある古いバーには、世界王者となった渋杉の姿があった。
彼は以前と同じ席へ腰を下ろし、以前と同じ安いウイスキーをちびちびと飲んでいる。違っているのは、カウンターへ広げられた新聞に彼の写真が大きく載り、店の外に見慣れぬ記者らしい人影が、時折うろついていることくらいだった。
店主は落ち着かない様子で何度も入口を見やり、とうとう我慢できずに口を開いた。
「渋杉さん、本当にここで飲んでいていいんですか。あなたは今や世界王者ですよ。もっと立派な店へ招かれたり、テレビへ出たり、祝賀会へ呼ばれたりしているんでしょう」
「いいんだよ。高い酒は、味より先に値段が舌へ乗ってくるからな。俺には、ここの酒くらいがちょうどいい」
「でも、優勝賞金だって相当な額でしょう」
「だから、こうして使ってるじゃないか。まずは酒代からだ」
渋杉が冗談めかしてグラスを掲げたとき、入口の鈴が、あの夜と同じかすれた音を立てた。
「ホーッホッホッホ……」
黒い帽子と黒いスーツをまとった喪黒福造が、満面の笑みを浮かべて店内へ入ってくる。渋杉は振り返ると、まるで来訪を予想していたように片手を上げた。
「よう。来ると思ってたよ」
喪黒は帽子のつばへ指を添え、世界王者へ対するものとは思えないほど大仰に頭を下げた。
「これはこれは、世界王者の渋杉さん。まことにお見事でございました」
「面と向かって褒められると、どうにもむず痒いね」
喪黒は渋杉の隣へ腰を下ろし、カウンターの上に置かれた新聞と、足元のキューケースを順番に眺めた。
「ついに、長年お望みだった栄光を掴まれましたなあ」
「ああ。どういうわけか、掴んじまったねえ」
渋杉はグラスの中で揺れる氷を眺め、口の端を少しだけ上げた。
「それで、優勝賞金を酒に使った俺は、もう約束破りになるのかい」
店主がぎょっとして二人を見比べたが、喪黒は怯えさせるような笑みを浮かべる代わりに、大きな口を開けて愉快そうに笑った。
「ホーッホッホッホ。いえいえ、そういうわけにはまいりません」
「おや、見逃してくれるのかい」
片方の眉を上げた渋杉に対し、喪黒は笑顔のまま、ゆっくりと首を横へ振った。
「見逃すも何も、そもそも、あなたは約束を破っておりませんからね」
喪黒は、渋杉の足元に置かれた古いキューケースへ目をやった。
「なぜなら、あなたが世界大会でお使いになったキューは、私がお渡しした魔法のキューではございません。地方大会へ出場した最初の日から、あなたが握っていたのは、魔法など一切宿っていない、ごく普通のキューでございました」
店主は目を丸くし、磨いていたグラスを今度こそカウンターへ置いた。
「えっ、じゃあ渋杉さん、あの大会で見せた球は、全部……」
「俺が自分で撞いたってことになるな」
渋杉は他人事のように答え、喉を潤す程度にウイスキーを口へ含んだ。それから喪黒を横目で見て、悪戯を見破られた子どものように笑った。
「大会に出る前、昔から使っていた相棒を、魔法のキューと似た黒へ仕立て直したんだがね。あんたの目まではごまかせなかったか」
「もちろんでございます。私がお渡しした品を、私が見間違えるはずはございませんよ」
喪黒は笑顔のまま言ったものの、その声音には、相手を追い詰めるときとは違う、素直な感心が滲んでいた。
「いやはや、感服いたしました。魔法の力へ頼ることなく、ご自身の腕だけで世界の頂点へ立つとは。渋杉さん、あなたという方は、なかなかどうして大したものでございます」
「買いかぶりだよ」
渋杉は首を振り、グラスをカウンターへ戻した。
「俺はね、喪黒さん。あんたの言葉が怖かっただけなんだ」
意外そうに目を見開いた喪黒が、わずかに首を傾げる。
「私の言葉が、でございますか」
「ああ。栄光を私欲で食いつぶすな、破ればペナルティだと言っただろう。あれを聞いてから、どうにも引っかかってね。もし魔法のキューで勝ってしまったら、酒を一杯飲むたび、うまいものを一つ買うたびに、これは私欲か、栄光の浪費か、約束破りかと怯えなきゃならん」
渋杉はカウンターを指先で軽く叩き、氷が溶けかけたグラスを横目で見た。
「そんな面倒な栄光なら、ない方がましだ。だったら魔法のキューなど使わず、自分の腕で勝てばいい。負けたなら、ただ実力が足りなかっただけで済むし、勝てたなら、誰に遠慮することもなく堂々と安酒が飲めるからな」
喪黒はしばらく言葉を返さず、笑顔を保ったまま渋杉の横顔を見つめていた。渋杉はその視線を気にするでもなく、グラスの氷を小さく鳴らしてから、もう一度口を開く。
「ただ、不思議なものではあったよ。俺には本物の魔法のキューがある、いざとなれば球を自由に操れる――一度そう思い込むと、試合で手が震えなくなった。若い頃から溜め込んできた悔しさも、歳を取ったことへの引け目も、最後の一撞きでは全部どうでもよくなったんだ」
渋杉の脳裏には、眩しい世界大会の台と、あの夜に一度だけ魔法で曲がった白球の軌道が重なっていた。実際の試合で握っていたのは普通のキューでありながら、ケースの中に本物があるという事実だけが、何十年も彼の腕へ絡みついていた迷いをほどいていたのである。
「使わない魔法でも、持っていると思えば背中くらいは押してくれる。こういう呪いが、案外、人間の最後の一手を引き出すものらしい」
喪黒はしばらく渋杉を見つめていたが、やがて肩を小さく震わせ始めた。
「ホ……ホーッホッホッホ……」
その笑い声は、いつものように人を嘲る響きではなく、思い通りにならなかったことを認めながら、それさえ面白がっているような、どこか乾いた愉快さを含んでいた。
「いやはや。普通の方なら、魔法の力を手にしたと思った途端、それへ寄りかかり、溺れ、最後には自分の足で立つことさえ忘れてしまうものです。それをあなたは、恐ろしいから使わず、しかし信じることで得られる勇気だけはきっちり利用なさった。何ともまあ、抜け目がないと申しますか……」
そこで喪黒は、ついに満面の笑みを少し崩し、本当に困ったような顔で渋杉を見た。
「さすがに、渋すぎますよ」
渋杉は声を上げて笑い、目尻の皺をさらに深くした。
「名前負けしなくて済んだなら、何よりだ」
喪黒も今度ばかりは心から楽しそうに笑った。店内には古いジャズが低く流れ、カウンターの上では安いウイスキーが琥珀色に光り、奥のビリヤード台は、二人のやり取りを黙って見守っているようだった。
しばらくして、渋杉は思い出したようにキューケースへ目を向けた。
「ところで、喪黒さん。あの魔法のキューは、返した方がいいのかい」
「いえいえ。あなたにはもう必要ないでしょうが、記念としてお持ちください」
渋杉は答えを聞いても安心せず、探るように目を細めた。
「もし今後、気が変わって使ったらどうなる?」
「さて、それはどうなりますかな」
喪黒が意味ありげに笑うと、渋杉はキューケースを一度だけちらりと見て、すぐに顔を背けた。
「やめておくよ。年寄りは、刺激物を控えた方が長生きできる」
「ホーッホッホッホ。その判断もまた、実に渋い」
渋杉はグラスを持ち上げ、喪黒へ向けて軽く傾けた。
「それじゃあ、世界一渋い安酒に乾杯だ」
「ええ。渋杉さんの、渋すぎる栄光に」
二人はグラスを打ち合わせることもなく、同じカウンターに並んで座り、それぞれ異なる笑みを浮かべながら、静かに夜の酒を味わった。
世界王者となってからも、渋杉の暮らしは驚くほど変わらなかった。取材には求められるまま応じたものの、派手な祝賀会を好まず、記者から勝因を尋ねられたときも、しばらく考えたあとで、気負いのない声で答えた。
「長く負け続けたことですかね」
意外な返答に記者が首を傾げると、渋杉は少しだけ笑って言葉を継いだ。
「負けた時間が長いほど、勝ったときに余計なことをしなくなるんです。はしゃぐにも体力がいるし、威張るにも勢いがいる。歳を取ると、その辺りが面倒になるから、結局、球だけを見るようになるんですよ」
その言葉はまた世間で少しばかり話題になったが、渋杉自身は、記事の切り抜きを集めることも、自分の名を利用して偉ぶることもなかった。街の片隅にある古いバーへ通い、サインを求められれば断らず、勝負を挑まれれば相手の腕に合わせてほどほどに付き合い、勝っても負けても同じ顔で安い酒を飲んだ。
店の棚の奥には、一本の黒いキューがしまわれていた。球を自在に操れるという本物の魔法のキューであり、使おうと思えば、渋杉はいつでも奇跡を起こすことができたはずだった。
それでも彼は、二度とそのキューへ手を伸ばさなかった。すでに必要がなくなっていたからである。
ある雨上がりの夜、喪黒福造は店へ入らず、濡れた路地から窓越しに、ビリヤード台へ向かう渋杉の姿を眺めていた。
渋杉は背筋を伸ばして構え、ゆっくりと息を吐くと、迷いのない動作で手球を撞いた。白球は美しい角度で的球へ触れ、狙われた球はポケットの手前で力を失いかけたものの、渋杉は身じろぎもせず、その行方を静かに見守っている。
球は止まりそうになりながらも、ラシャの上をわずかに、ほんのわずかに進み続け、最後には小さな音を立ててポケットへ落ちた。
喪黒は満足そうに目を細め、黒い帽子のつばを指先でわずかに持ち上げた。
「人間というものは、不思議なものでございます。魔法そのものを欲しがりながら、本当に必要としているのは、魔法があると信じるための、ほんの少しの勇気だったりする。もっとも、その勇気を得たあとでなお、魔法へ溺れずにいられる方は、そう多くありませんがね」
窓の向こうで渋杉が次の球を並べ始めるのを眺めながら、喪黒は愉快そうに肩を揺らした。
「いやはや、渋杉さん。あなたは本当に、渋すぎる」
「ホーッホッホッホ……」
その笑い声は雨上がりの路地へ静かに溶け、バーの奥からは、それに応えるように、もう一つ球の落ちる音が聞こえた。
魔法の力を手に入れた凡人が、使わずに実力で栄光を掴む……って話。
ベタかも知れないけど……大好きです。