綾小路清隆が育ったのがホワイトルームじゃなくて白木屋だったら 作:東頭鎖国
満場一致特別試験が訪れたのは、その後だった。
あの試験は、白木屋式に見ても最悪の設計だった。
全員一致。
言葉だけなら美しい。
だが、実際には暴力に近い。
一人でも反対すれば進めない。
匿名で票を投じられる。
時間は限られる。
話し合いは焦りに飲まれる。
それは、会計票を全員の前に置き、誰か一人が支払いを拒めば店から出られない状況に似ていた。
人間は追い詰められる。
正論は薄くなる。
本音が出る。
そして、誰もが「自分だけは悪くない」と思い始める。
教室の隅には、もう佐倉愛里の席はない。
一年生の終わり。
クラス内投票で消えた席だ。
須藤の暴力事件で勇気を出して証言し、クラスを救った彼女は、それでも最後の会計票を押し付けられた。
その事実は、このクラスの中に薄く残っている。
普段は誰も口にしない。
だが、誰か一人を選ぶという形式が現れた瞬間、佐倉の空席は急に輪郭を取り戻す。
特に山内は、そこを見ないふりができなかった。
山内春樹は、一年生のクラス内投票で残った側の人間だ。
自分が残り、佐倉がいなくなった。
その事実を、本人がどこまで理解しているかはわからない。
だが、まったく感じていないわけではなかった。
今回の試験で、誰か一人を切れば進めるという空気が教室に流れた時、山内は真っ先に黙った。
いつものような軽口は出ない。
池が何か言いかけても、山内はそれに乗らなかった。
机の上を見て、唇を噛んでいた。
白木屋で、会計票の数字を見て初めて自分の財布を確認する客の顔に似ていた。
もっと早く見ておくべきだった。
だが、見なかった。
だから今、焦っている。
そして、櫛田桔梗の本性が暴かれた。
彼女が集めていた秘密。
笑顔の裏で抱えていた悪意。
堀北への執着。
クラス全体へ向けられた不信と憎悪。
それらが、机の上へ一気に並べられた。
空気は凍った。
櫛田はもう、いつもの笑顔を維持していなかった。
その目には怒りと屈辱があり、同時に、ここまで来た以上もう隠す必要はないという開き直りもあった。
平田は顔を歪めた。
須藤は拳を握りしめた。
軽井沢は、女子側の空気が完全に割れかけていることを察していた。
池は何も言えない。
堀北は、櫛田を見ていた。
切れば楽になる。
誰もが一瞬、そう思った。
櫛田を退学にすれば、目の前の毒は消える。
秘密を握られ続ける危険も減る。
堀北への敵意も、クラスを壊しかねない火種も、この場で処理できる。
白木屋で言えば、割れた皿をそのまま捨てるようなものだ。
だが、それはまた、誰か一人に会計票を押し付けることでもある。
一年前、佐倉にそうしたように。
堀北は、櫛田を切るべきかどうか迷っていた。
平田は誰も切りたくない。
須藤は櫛田への怒りを隠せていない。
軽井沢は、ここで櫛田を残すことが女子側にどれほどの波紋を広げるかを理解している。
それでも、誰も決定打を出せない。
その沈黙の中で、山内が小さく呟いた。
「……またかよ」
声は小さかった。
だが、教室には妙にはっきり聞こえた。
視線が山内へ集まる。
山内は顔を上げなかった。
机の一点を見たまま、震えるように息を吸った。
「また、誰か一人に払わせんのかよ」
山内がそんなことを言うとは、誰も思っていなかったのだろう。
池は目を丸くした。
須藤も驚いた顔をしていた。
平田は、痛みをこらえるように山内を見た。
山内は続けた。
「俺が言えることじゃねえのはわかってる。俺、前に助かった側だし。佐倉がいなくなった時、何も言えなかったし」
山内の声は整っていなかった。
理屈にもなっていない。
だが、逃げてはいなかった。
「でもさ。また誰か一人に押し付けて終わりにすんのかって思ったら……何か、それ、無理だろ」
教室に沈黙が落ちた。
白木屋で、いつも会計時に逃げていた客が、初めて財布を出そうとする瞬間に似ていた。
手つきは悪い。
金額も足りないかもしれない。
だが、少なくとも逃げてはいない。
堀北は山内を見た。
そして、櫛田へ視線を戻した。
「私は、櫛田さんを残すわ」
教室がざわついた。
櫛田本人も、わずかに目を見開いた。
堀北は声を揺らさず続けた。
「ただし、誰か一人にすべてを払わせる形にはしない。櫛田さんを残すなら、その危険も、損も、クラス全員で背負う」
「何それ……」
櫛田の声には、怒りと屈辱が混じっていた。
「私を許すってこと?」
「違うわ」
堀北は即答した。
「許すわけではない。あなたを信用するわけでもない。でも、あなたを切って終わらせることもしない」
堀北の視線は鋭かった。
「あなたにも払ってもらう。秘密を握っていることを武器にするのではなく、情報を管理する役として。裏切れば、その時は全員があなたを切る。けれど今は、切って終わらせない」
櫛田は顔を歪めた。
笑顔の仮面はもうない。
だからこそ、初めて本当の表情が見えている。
平田は苦しそうに息を吐いた。
須藤は納得しきれない顔だった。
「マジかよ、堀北」
「ええ。本気よ」
「櫛田を残すってことは、また何かやられるかもしれねえってことだろ」
「そうよ」
「それでもかよ」
「それでもよ」
堀北はまっすぐ言った。
「誰か一人を切れば楽になる。けれど、それで私たちはまた同じ会計を誰かに押し付けることになる。櫛田さんを残すなら、私も払う。あなたたちにも払ってもらう。そして、櫛田さんにも払ってもらう」
それは、堀北らしい答えだった。
綺麗事ではない。
優しさだけでもない。
櫛田を信じるのではなく、使う。
ただし、使う以上は監視し、責任も分担する。
白木屋で言えば、割れやすい皿を捨てるのではなく、使う場所を限定して、全員が扱い方を把握するようなものだった。
面倒だ。
危険だ。
だが、皿を捨てるだけが会計ではない。
最終的に、クラスは櫛田を残した。
もちろん、全員が納得したわけではない。
軽井沢は不満を隠さなかった。
「これ、女子側かなり荒れるよ」
「わかっている」
堀北は答えた。
「なら、ちゃんと説明してよ。堀北さんが決めたから従え、じゃ無理だから」
「ええ。あなたにも手伝ってもらうわ」
「うわ、来ると思った」
「女子側の空気を見るのは、あなたが一番得意でしょう」
「褒めても面倒なのは変わらないから」
「褒めているわけではないわ。必要だから頼んでいるの」
軽井沢は舌打ちしそうな顔をしたが、結局頷いた。
「わかった。でも、櫛田さんがまた変なことしたら、今度は容赦しないから」
「それでいいわ」
櫛田は、そのやりとりを苦々しく見ていた。
彼女にとって、これは許されたのではない。
席に縛りつけられたに近い。
秘密を握って支配する側から、秘密を管理する役へ。
それは屈辱だろう。
だが、屈辱も会計の一部だった。
試験が終わった後、山内はしばらく黙っていた。
いつものように騒ぐこともできたはずだ。
だが、その日はできなかった。
◇
放課後、廊下で山内に声をかけられた。
「なあ、綾小路」
「何だ」
「俺、変なこと言ったか?」
「どれだ」
「また誰かに払わせるのかってやつ」
「変ではない」
「そうか」
山内は少し安心したように息を吐いた。
「俺さ、佐倉のこと、忘れてたわけじゃねえんだよ」
「ああ」
「でも、ずっと考えてたわけでもねえ。何か、たまに思い出して、でもどうしようもねえから、またバカやってごまかしてた」
「それでいい」
「いいのか?」
「ずっと重い顔をしていても、誰も戻らない」
「だよな」
「ただ、同じ会計が来た時に思い出せばいい」
山内は、しばらく黙っていた。
そして、困ったように笑った。
「お前のそういう言い方、わかりやすいのか、わかりにくいのか、よくわかんねえ」
「よく言われる」
「だろうな」
山内は少し歩いてから、急にこちらを見た。
「今度、唐揚げ食う時さ」
「ああ」
「レモン、別にするわ」
「そうしろ」
「それくらいなら、俺でもできるしな」
「ああ」
それは、小さな変化だった。
だが、山内にとっては大きかった。
誰かの皿に勝手にレモンをかけない。
自分が良いと思ったものを、相手も良いと思うとは限らない。
会計だけでなく、皿の上にも他人の領域がある。
山内がそれを覚えただけで、佐倉の退学は完全な無駄にはならない。
もちろん、それで償いになるわけではない。
だが、次の会計を少し変えることはできる。
◇
満場一致特別試験を経て、堀北クラスは別の形になった。
櫛田は残った。
ただし、以前の櫛田ではない。
仮面は割れている。
女子からの信頼も落ちた。
男子からも警戒されている。
平田は苦しんでいる。
須藤は堀北の判断を理解しようとしている。
軽井沢は、櫛田を見張るような立場になった。
山内は、時々黙るようになった。
池はそんな山内を見て、少しだけ茶化すのを控えるようになった。
全員が少しずつ傷を負った。
だが、誰か一人を切って終わらせるよりは、会計の中身が見えていた。
それが良いことなのかどうかは、まだわからない。
ただ、白木屋で見てきた限り、見えない伝票ほど後で揉める。
今回は、少なくとも伝票は机の上に置かれた。
冬が近づく頃、クラス移籍の話が現実味を帯び始めた。
それは突然の思いつきではない。
ずっと考えていたことだった。
堀北のクラスは、変わり始めている。
まだ危うい。
まだ未熟だ。
だが、もう全員が完全な初心者ではない。
堀北は幹事として立ち、平田は支え、須藤は力になり、軽井沢は女子側の空気を拾い、櫛田は爆弾でありながら情報を扱える存在になった。
山内ですら、レモンを別にする程度には変わった。
この卓は、もうオレがずっと横で皿を整える必要はない。
むしろ、オレが残り続ければ、堀北は最後までこちらを見る。
堀北が本当にAクラスを目指すなら、自分で注文を取り、自分で会計を見なければならない。
それには、オレが席を離れる必要がある。
問題は、どの席へ移るかだった。
一之瀬帆波のクラスは、文化祭で見えた通り、善意が多い。
互いを信じる力がある。
それは強みだ。
だが、会計票が見えていない。
一之瀬が笑って引き受ける。
神崎が危機感を持っても、全体の空気を変えきれない。
柴田は頼まれれば動く。
浜口は柔らかく交渉するが、譲りすぎる。
姫野は冷めた目で違和感を拾うが、中心には立たない。
網倉は女子側の空気を感じ取るが、それを構造に変える役ではない。
小橋は場を和らげるが、和らげた後の問題を残しがちだ。
あのクラスは、いい客が多すぎる。
いい客が多い卓ほど、幹事が潰れる。
誰かが多く払っても、周囲は「助かった」と思うだけで、その財布の軽さには気づかない。
一之瀬は、その幹事になりすぎていた。
文化祭で一度、伝票を机に出すことはできた。
だが、あれは一度の成功にすぎない。
構造を変えなければ、次の会計でまた一之瀬へ寄る。
だから、あの卓へ移る意味がある。
堀北クラスを強くするためではない。
一之瀬クラスを救うためだけでもない。
四つのクラスが最後にどういう会計をするのか。
それを見るためには、違う卓に座る必要があった。