綾小路清隆が育ったのがホワイトルームじゃなくて白木屋だったら   作:東頭鎖国

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二年生編⑤

 移籍の可能性を最初に感じ取ったのは、軽井沢だった。

 

 放課後、彼女は人の少ない廊下で声をかけてきた。

 

「ねえ」

 

「何だ」

 

「あんた、何か隠してるでしょ」

 

「いつも多少は隠している」

 

「そういうのじゃなくて」

 

 軽井沢は、周囲を軽く確認した。

 

「堀北さんのクラス、出ていくつもり?」

 

 思ったより早かった。

 

「なぜそう思う」

 

「最近、見方が違うから」

 

「見方?」

 

「前は、何かあったら裏で皿を動かしてる感じだった。今は、皿を動かすというより、皿から手を離すタイミングを見てる」

 

「白木屋式が移ったな」

 

「やめて。最悪」

 

 軽井沢は顔をしかめた。

 

 だが、視線は真剣だった。

 

「本当に行くの?」

 

「まだ決まっていない」

 

「決めてる顔じゃん」

 

「そう見えるか」

 

「見える」

 

 軽井沢はため息をついた。

 

「一之瀬さんのところ?」

 

「可能性は高い」

 

「やっぱり」

 

「反対か」

 

「反対とか、そういう立場じゃないし」

 

 軽井沢は少しだけ視線を逸らした。

 

「でも、堀北さんにはちゃんと言いなよ」

 

「言う」

 

「山内にも」

 

「山内に?」

 

「あいつ、変な方向でショック受けると思うから」

 

「そうか」

 

「あと、私にも」

 

「今言っている」

 

「そうだけど」

 

 軽井沢は少しだけ言葉に詰まった。

 

 それから、いつもの調子を戻すように言った。

 

「取引相手が急に席替えするなら、事前連絡くらい必要でしょ」

 

「悪かった」

 

「別に」

 

 軽井沢は腕を組んだ。

 

「一之瀬さんと恋人になるとか、そういうのじゃないんでしょ」

 

「違う」

 

「ならいいけど」

 

「何がいいんだ」

 

「面倒が増えなさそうってだけ」

 

 彼女の声は軽かった。

 

 だが、その軽さは完全な無関心ではなかった。

 

 軽井沢との関係は、恋人ではない。

 

 だが、単なるクラスメイトでもない。

 

 船上試験で始まった取引は、二年生になっても形を変えながら続いていた。

 

 彼女は女子側の空気を拾う。

 

 オレは彼女の立場を必要以上に晒さない。

 

 それは白木屋で言えば、常連客と店員の間にある暗黙の了解に近かった。

 

 踏み込みすぎない。

 

 だが、必要な時には声をかける。

 

 その距離だからこそ、壊れずに済んでいた。

 

 ◇

 

 山内に移籍の話をしたのは、その少し後だった。

 

 山内は食堂でポテトを食べていた。

 

 池と須藤もいたが、途中で席を外した。

 

 山内はポテトを口に入れながら言った。

 

「で、何だよ。改まって」

 

「クラスを移るかもしれない」

 

 山内の手が止まった。

 

「は?」

 

「三年になる前に、一之瀬のクラスへ移る可能性がある」

 

 山内はしばらく固まっていた。

 

 それから、なぜかポテトを一本落とした。

 

「え、綾小路が?」

 

「ああ」

 

「何で?」

 

「堀北のクラスは、もう自分たちで回り始めている」

 

「いやいやいや、回ってねえだろ。俺いるし」

 

「山内がいることと、回らないことは別だ」

 

「いや別じゃねえよ。俺だぞ」

 

「少しは変わった」

 

「少しって言うな」

 

 山内は混乱したように頭をかいた。

 

「一之瀬のとこって、あの一之瀬?」

 

「他にいない」

 

「何でだよ。あっち良い人多いじゃん。お前みたいな会計会計言うやつ行ったら、空気変になるだろ」

 

「だから行く」

 

「意味わかんねえ」

 

「良い人が多い卓ほど、誰か一人に支払いが寄る」

 

 山内はポテトを見た。

 

「一之瀬が払ってるってことか?」

 

「今はな」

 

「そっか」

 

 山内は意外にも、すぐには茶化さなかった。

 

 ポテトを一本取り、しばらく見てから口に入れた。

 

「堀北は知ってんの?」

 

「まだだ」

 

「言えよ」

 

「ああ」

 

「軽井沢は?」

 

「話した」

 

「俺より先に?」

 

「必要だったからな」

 

「何か腹立つな」

 

 山内はそう言ってから、少し黙った。

 

「でも、まあ」

 

「ああ」

 

「綾小路がいなくなったら、俺らだけでレモン別にしなきゃいけないってことだろ」

 

「そうなる」

 

「きついな」

 

「そこまで難しくはない」

 

「いや、俺らには難しいんだよ」

 

 山内は苦笑した。

 

「でも、やるしかねえのか」

 

「ああ」

 

「じゃあ、行くならちゃんと行けよ」

 

「どういう意味だ」

 

「中途半端にこっち見ながら行くなってこと。俺らの皿に手ぇ伸ばしながら一之瀬のとこ座るの、変だろ」

 

 山内がそんなことを言うとは思わなかった。

 

 本人も、自分で言ってから少し驚いた顔をした。

 

「今の俺、いいこと言った?」

 

「かなり」

 

「マジか」

 

「少し驚いた」

 

「そこは素直に褒めろよ」

 

「褒めている」

 

「褒め方が白木屋なんだよな」

 

 山内は笑った。

 

 だが、その笑いは軽すぎなかった。

 

 佐倉の退学を経て、満場一致試験を経て、山内はようやく少しだけ自分の席を見始めている。

 

 それで十分だった。

 

 ◇

 

 堀北に移籍の話をした時、彼女はしばらく黙っていた。

 

 放課後の教室。

 

 他の生徒はほとんど帰っていた。

 

 夕方の光が机に伸びている。

 

 堀北は窓際に立ち、こちらを見ていた。

 

「一之瀬さんのクラスへ?」

 

「ああ」

 

「理由は?」

 

「このクラスは、もう自分たちで回れる」

 

「ずいぶん高く評価してくれるのね」

 

「完全ではない」

 

「でしょうね」

 

「だが、オレが残り続けるより、離れた方がいい」

 

 堀北は目を細めた。

 

「私があなたを見るから?」

 

「それもある」

 

「否定しないのね」

 

「事実だからな」

 

 堀北は小さく息を吐いた。

 

「腹が立つわ」

 

「そうだろうな」

 

「でも、理解はできる」

 

「早いな」

 

「この一年で、嫌でも学んだもの。誰か一人に頼り続けるクラスは、最後にその人間へ会計を押し付ける」

 

「そうだ」

 

「あなたは、私たちにそれをさせないために出ていく」

 

「一部はな」

 

「一之瀬さんのクラスのためでもあるのでしょう?」

 

「ああ」

 

 堀北は窓の外を見た。

 

「私は、あなたなしでAクラスを目指すことになる」

 

「そうなる」

 

「あなたが敵になるかもしれない」

 

「ああ」

 

「本当に面倒な人ね」

 

「よく言われる」

 

「でしょうね」

 

 堀北はしばらく黙った。

 

 それから、静かに言った。

 

「行きなさい」

 

「いいのか」

 

「止めたところで、あなたは行くのでしょう」

 

「ああ」

 

「なら、止める意味はないわ。ただし」

 

 堀北は、こちら真っ直ぐ見据えた。

 

「私は勝つわ」

 

「期待している」

 

「その言い方、腹が立つ」

 

「すまない」

 

「謝る気が薄いわ」

 

「多少はある」

 

「最後までそれなのね」

 

 堀北は少しだけ笑った。

 

 その笑いは、悔しさと納得の混ざったものだった。

 

 ◇

 

 坂柳有栖と話したのは、二年生の終わりが近づいた頃だった。

 

 校内のカフェ。

 

 人の少ない時間帯。

 

 坂柳は、杖を椅子の横に置いていた。

 

 彼女のそばには、橋本がいない。

 

 鬼頭もいない。

 

 森の姿もなかった。

 

 一人だった。

 

 だが、完全に一人という感じではなかった。

 

 神室真澄の不在が、まだ彼女の横に座っているように見えた。

 

「綾小路くん」

 

「何だ」

 

「一之瀬さんのクラスへ移るそうですね」

 

「耳が早いな」

 

「見ると決めましたので」

 

「誰を」

 

「自分の卓を。そして、あなたの動きも少し」

 

 坂柳は微笑んだ。

 

 以前なら、その言葉はただの挑発に聞こえただろう。

 

 だが今は、少し違った。

 

 神室を失った後の坂柳は、自分の周囲を前より丁寧に見ている。

 

 その変化が、言葉の端に出ていた。

 

「あなたは、堀北さんの卓を離れる。彼女が自分で会計を見るために」

 

「そうだな」

 

「そして、一之瀬さんの卓へ移る。彼女が一人で払わないように」

 

「そうなる」

 

「面白いですね。あなたは、誰かを勝たせたいというより、会計の偏りを見に行く」

 

「偏りは放置すると場が壊れる」

 

「白木屋では、そう教えるのですか?」

 

「教わったというより、見て覚えた」

 

「やはり、白い部屋とは違う」

 

「またその話か」

 

 坂柳は、少しだけ目を伏せた。

 

「あなたは、本当に知らないのですね」

 

「何を」

 

「ホワイトルームを」

 

「ああ」

 

「綾小路篤臣という名前に心当たりは?」

 

「誰なんだ」

 

「あなたのお父上のお名前では?」

 

「全く違う」

 

 父親どころか親戚筋にも綾小路篤臣なんて名前の人間はいない。

 

 坂柳は俺が全く知らない質問をして、知らないと返すたびに微笑む。

 

「あなたがそういう答えを返すたび、私は少しだけ面白くなります」

 

「趣味が悪い」

 

「ええ」

 

 坂柳は否定しなかった。

 

「けれど、もうあなたをその場所の出身者と重ねて見るのは違うのでしょう。あなたは白木屋で育った。少なくとも、この学校であなたが見せたものは、その教育の結果です」

 

 坂柳は小さく笑った。

 

 その笑いは、以前より少し柔らかかった。

 

「……真澄さんが退学しました」

 

「ああ」

 

「私は、それを完全に自分の失敗だとは言いません。ですが、完全に無関係だったとも言えません」

 

 坂柳は、テーブルの上に指を置いた。

 

「私は、自分の盤面を見ているつもりでした。ですが、近くにいる人間の会計票を見落としていたのかもしれません」

 

「珍しいな」

 

「何がですか?」

 

「坂柳が自分の見落としを口にするのは」

 

「そうですね」

 

 坂柳は微笑んだまま言った。

 

「ですが、見落としたものを見落としたままにするほど、私は退屈な人間ではありません」

 

「神室の分も見るのか」

 

「ええ。彼女の空席も、私の伝票に残っていますので」

 

 その言葉は、白木屋式に近かった。

 

 だが、坂柳はそれを自分の言葉として使っていた。

 

「私は、美しく散るつもりはありません」

 

「そうか」

 

「最後まで席に残ります。橋本くんの逃げ道にも、鬼頭くんの沈黙にも、森さんの視線にも、きちんと値段をつけます」

 

「面倒な幹事だな」

 

「ええ。私は面倒な幹事です」

 

 坂柳は楽しそうだった。

 

 だが、以前のように相手を試すだけの笑みではない。

 

 自分の卓を最後まで見ると決めた人間の顔だった。

 

「綾小路くん」

 

「何だ」

 

「一之瀬さんのクラスへ行きなさい。そして、彼女の善意に会計票を置いてあげるといい」

 

「命令か」

 

「観客としての希望です」

 

「性格が悪い」

 

「ええ」

 

 坂柳は杖を手に取った。

 

「三年生で、また向かい合いましょう。堀北さんの卓でも、一之瀬さんの卓でも、あなたが座っている席と」

 

「面倒な常連だな」

 

「光栄です」

 

 その会話で、坂柳との二年生は終わった。

 

 それ以降、彼女がオレにホワイトルーム出身の綾小路清隆として疑うことはなくなった。

 

 完全に白木屋育ちの綾小路清隆として見ている。

 

 それが良いことなのかどうかはわからない。

 

 だが、少なくとも誤解は一つ減った。

 

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