綾小路清隆が育ったのがホワイトルームじゃなくて白木屋だったら 作:東頭鎖国
移籍の可能性を最初に感じ取ったのは、軽井沢だった。
放課後、彼女は人の少ない廊下で声をかけてきた。
「ねえ」
「何だ」
「あんた、何か隠してるでしょ」
「いつも多少は隠している」
「そういうのじゃなくて」
軽井沢は、周囲を軽く確認した。
「堀北さんのクラス、出ていくつもり?」
思ったより早かった。
「なぜそう思う」
「最近、見方が違うから」
「見方?」
「前は、何かあったら裏で皿を動かしてる感じだった。今は、皿を動かすというより、皿から手を離すタイミングを見てる」
「白木屋式が移ったな」
「やめて。最悪」
軽井沢は顔をしかめた。
だが、視線は真剣だった。
「本当に行くの?」
「まだ決まっていない」
「決めてる顔じゃん」
「そう見えるか」
「見える」
軽井沢はため息をついた。
「一之瀬さんのところ?」
「可能性は高い」
「やっぱり」
「反対か」
「反対とか、そういう立場じゃないし」
軽井沢は少しだけ視線を逸らした。
「でも、堀北さんにはちゃんと言いなよ」
「言う」
「山内にも」
「山内に?」
「あいつ、変な方向でショック受けると思うから」
「そうか」
「あと、私にも」
「今言っている」
「そうだけど」
軽井沢は少しだけ言葉に詰まった。
それから、いつもの調子を戻すように言った。
「取引相手が急に席替えするなら、事前連絡くらい必要でしょ」
「悪かった」
「別に」
軽井沢は腕を組んだ。
「一之瀬さんと恋人になるとか、そういうのじゃないんでしょ」
「違う」
「ならいいけど」
「何がいいんだ」
「面倒が増えなさそうってだけ」
彼女の声は軽かった。
だが、その軽さは完全な無関心ではなかった。
軽井沢との関係は、恋人ではない。
だが、単なるクラスメイトでもない。
船上試験で始まった取引は、二年生になっても形を変えながら続いていた。
彼女は女子側の空気を拾う。
オレは彼女の立場を必要以上に晒さない。
それは白木屋で言えば、常連客と店員の間にある暗黙の了解に近かった。
踏み込みすぎない。
だが、必要な時には声をかける。
その距離だからこそ、壊れずに済んでいた。
◇
山内に移籍の話をしたのは、その少し後だった。
山内は食堂でポテトを食べていた。
池と須藤もいたが、途中で席を外した。
山内はポテトを口に入れながら言った。
「で、何だよ。改まって」
「クラスを移るかもしれない」
山内の手が止まった。
「は?」
「三年になる前に、一之瀬のクラスへ移る可能性がある」
山内はしばらく固まっていた。
それから、なぜかポテトを一本落とした。
「え、綾小路が?」
「ああ」
「何で?」
「堀北のクラスは、もう自分たちで回り始めている」
「いやいやいや、回ってねえだろ。俺いるし」
「山内がいることと、回らないことは別だ」
「いや別じゃねえよ。俺だぞ」
「少しは変わった」
「少しって言うな」
山内は混乱したように頭をかいた。
「一之瀬のとこって、あの一之瀬?」
「他にいない」
「何でだよ。あっち良い人多いじゃん。お前みたいな会計会計言うやつ行ったら、空気変になるだろ」
「だから行く」
「意味わかんねえ」
「良い人が多い卓ほど、誰か一人に支払いが寄る」
山内はポテトを見た。
「一之瀬が払ってるってことか?」
「今はな」
「そっか」
山内は意外にも、すぐには茶化さなかった。
ポテトを一本取り、しばらく見てから口に入れた。
「堀北は知ってんの?」
「まだだ」
「言えよ」
「ああ」
「軽井沢は?」
「話した」
「俺より先に?」
「必要だったからな」
「何か腹立つな」
山内はそう言ってから、少し黙った。
「でも、まあ」
「ああ」
「綾小路がいなくなったら、俺らだけでレモン別にしなきゃいけないってことだろ」
「そうなる」
「きついな」
「そこまで難しくはない」
「いや、俺らには難しいんだよ」
山内は苦笑した。
「でも、やるしかねえのか」
「ああ」
「じゃあ、行くならちゃんと行けよ」
「どういう意味だ」
「中途半端にこっち見ながら行くなってこと。俺らの皿に手ぇ伸ばしながら一之瀬のとこ座るの、変だろ」
山内がそんなことを言うとは思わなかった。
本人も、自分で言ってから少し驚いた顔をした。
「今の俺、いいこと言った?」
「かなり」
「マジか」
「少し驚いた」
「そこは素直に褒めろよ」
「褒めている」
「褒め方が白木屋なんだよな」
山内は笑った。
だが、その笑いは軽すぎなかった。
佐倉の退学を経て、満場一致試験を経て、山内はようやく少しだけ自分の席を見始めている。
それで十分だった。
◇
堀北に移籍の話をした時、彼女はしばらく黙っていた。
放課後の教室。
他の生徒はほとんど帰っていた。
夕方の光が机に伸びている。
堀北は窓際に立ち、こちらを見ていた。
「一之瀬さんのクラスへ?」
「ああ」
「理由は?」
「このクラスは、もう自分たちで回れる」
「ずいぶん高く評価してくれるのね」
「完全ではない」
「でしょうね」
「だが、オレが残り続けるより、離れた方がいい」
堀北は目を細めた。
「私があなたを見るから?」
「それもある」
「否定しないのね」
「事実だからな」
堀北は小さく息を吐いた。
「腹が立つわ」
「そうだろうな」
「でも、理解はできる」
「早いな」
「この一年で、嫌でも学んだもの。誰か一人に頼り続けるクラスは、最後にその人間へ会計を押し付ける」
「そうだ」
「あなたは、私たちにそれをさせないために出ていく」
「一部はな」
「一之瀬さんのクラスのためでもあるのでしょう?」
「ああ」
堀北は窓の外を見た。
「私は、あなたなしでAクラスを目指すことになる」
「そうなる」
「あなたが敵になるかもしれない」
「ああ」
「本当に面倒な人ね」
「よく言われる」
「でしょうね」
堀北はしばらく黙った。
それから、静かに言った。
「行きなさい」
「いいのか」
「止めたところで、あなたは行くのでしょう」
「ああ」
「なら、止める意味はないわ。ただし」
堀北は、こちら真っ直ぐ見据えた。
「私は勝つわ」
「期待している」
「その言い方、腹が立つ」
「すまない」
「謝る気が薄いわ」
「多少はある」
「最後までそれなのね」
堀北は少しだけ笑った。
その笑いは、悔しさと納得の混ざったものだった。
◇
坂柳有栖と話したのは、二年生の終わりが近づいた頃だった。
校内のカフェ。
人の少ない時間帯。
坂柳は、杖を椅子の横に置いていた。
彼女のそばには、橋本がいない。
鬼頭もいない。
森の姿もなかった。
一人だった。
だが、完全に一人という感じではなかった。
神室真澄の不在が、まだ彼女の横に座っているように見えた。
「綾小路くん」
「何だ」
「一之瀬さんのクラスへ移るそうですね」
「耳が早いな」
「見ると決めましたので」
「誰を」
「自分の卓を。そして、あなたの動きも少し」
坂柳は微笑んだ。
以前なら、その言葉はただの挑発に聞こえただろう。
だが今は、少し違った。
神室を失った後の坂柳は、自分の周囲を前より丁寧に見ている。
その変化が、言葉の端に出ていた。
「あなたは、堀北さんの卓を離れる。彼女が自分で会計を見るために」
「そうだな」
「そして、一之瀬さんの卓へ移る。彼女が一人で払わないように」
「そうなる」
「面白いですね。あなたは、誰かを勝たせたいというより、会計の偏りを見に行く」
「偏りは放置すると場が壊れる」
「白木屋では、そう教えるのですか?」
「教わったというより、見て覚えた」
「やはり、白い部屋とは違う」
「またその話か」
坂柳は、少しだけ目を伏せた。
「あなたは、本当に知らないのですね」
「何を」
「ホワイトルームを」
「ああ」
「綾小路篤臣という名前に心当たりは?」
「誰なんだ」
「あなたのお父上のお名前では?」
「全く違う」
父親どころか親戚筋にも綾小路篤臣なんて名前の人間はいない。
坂柳は俺が全く知らない質問をして、知らないと返すたびに微笑む。
「あなたがそういう答えを返すたび、私は少しだけ面白くなります」
「趣味が悪い」
「ええ」
坂柳は否定しなかった。
「けれど、もうあなたをその場所の出身者と重ねて見るのは違うのでしょう。あなたは白木屋で育った。少なくとも、この学校であなたが見せたものは、その教育の結果です」
坂柳は小さく笑った。
その笑いは、以前より少し柔らかかった。
「……真澄さんが退学しました」
「ああ」
「私は、それを完全に自分の失敗だとは言いません。ですが、完全に無関係だったとも言えません」
坂柳は、テーブルの上に指を置いた。
「私は、自分の盤面を見ているつもりでした。ですが、近くにいる人間の会計票を見落としていたのかもしれません」
「珍しいな」
「何がですか?」
「坂柳が自分の見落としを口にするのは」
「そうですね」
坂柳は微笑んだまま言った。
「ですが、見落としたものを見落としたままにするほど、私は退屈な人間ではありません」
「神室の分も見るのか」
「ええ。彼女の空席も、私の伝票に残っていますので」
その言葉は、白木屋式に近かった。
だが、坂柳はそれを自分の言葉として使っていた。
「私は、美しく散るつもりはありません」
「そうか」
「最後まで席に残ります。橋本くんの逃げ道にも、鬼頭くんの沈黙にも、森さんの視線にも、きちんと値段をつけます」
「面倒な幹事だな」
「ええ。私は面倒な幹事です」
坂柳は楽しそうだった。
だが、以前のように相手を試すだけの笑みではない。
自分の卓を最後まで見ると決めた人間の顔だった。
「綾小路くん」
「何だ」
「一之瀬さんのクラスへ行きなさい。そして、彼女の善意に会計票を置いてあげるといい」
「命令か」
「観客としての希望です」
「性格が悪い」
「ええ」
坂柳は杖を手に取った。
「三年生で、また向かい合いましょう。堀北さんの卓でも、一之瀬さんの卓でも、あなたが座っている席と」
「面倒な常連だな」
「光栄です」
その会話で、坂柳との二年生は終わった。
それ以降、彼女がオレにホワイトルーム出身の綾小路清隆として疑うことはなくなった。
完全に白木屋育ちの綾小路清隆として見ている。
それが良いことなのかどうかはわからない。
だが、少なくとも誤解は一つ減った。