綾小路清隆が育ったのがホワイトルームじゃなくて白木屋だったら 作:東頭鎖国
三年生編①
三年生になって最初に座った席は、去年までとは違う教室の中にあった。
一之瀬帆波のクラス。
かつて外から眺めていた卓に、今は自分が座っている。
机の高さも、椅子の硬さも、黒板の位置も、堀北のクラスと大きく違うわけではない。
だが、空気は明らかに違っていた。
堀北のクラスは、傷を抱えた卓だった。
割れた皿の破片を見ながら、それでも料理を続けるような場所だ。
佐倉愛里の退学。
櫛田桔梗の本性。
須藤健の成長。
平田洋介の理想。
軽井沢恵の距離感。
山内春樹の小さすぎる変化。
それらが、机の上に置かれていた。
隠しきれない伝票を、全員が嫌でも見るようになっていた。
一方、一之瀬クラスは違う。
明るい。
柔らかい。
人の声が刺々しくない。
誰かが困っていれば、自然と手が伸びる。
それは強みだ。
だが、白木屋で育ったオレには、その明るさの裏にある危うさも見えた。
いい客が多い卓ほど、会計が偏る。
誰かが余分に払っても、周囲は悪意なく笑う。
助かったね。
ありがとう。
すごいね。
そう言って、次の皿を頼む。
そして、財布が軽くなっている人間には気づかない。
このクラスで、その財布を持っていたのが一之瀬帆波だった。
文化祭で一度、その伝票は机の上に出た。
神崎隆二が気づき、姫野ユキが刺し、柴田颯が動き、浜口哲也が調整し、網倉麻子と小橋夢が場を支えた。
あの時、一之瀬は一人で抱えずに済んだ。
だが、それは一度の成功だ。
一度ポテトを頼めたからといって、次の宴会で会計が荒れないとは限らない。
だから、オレはこの卓に来た。
最初のホームルームが終わった後、一之瀬はすぐに声をかけてきた。
「綾小路くん」
「何だ」
「今日から本当に同じクラスなんだね」
「ああ」
「何か、まだ変な感じ」
「オレもだ」
「綾小路くんでも?」
「席が違えば、見えるものも変わる」
一之瀬は少し笑った。
「白木屋式?」
「半分は」
「半分なんだ」
その笑顔は、二年生の終わりに見たものより少し軽かった。
だが、油断はできない。
彼女は笑うのが上手い。
場を柔らかくするために笑う。
自分が負担を抱えていないように見せるためにも笑う。
その二つが混ざると、周囲は見分けにくい。
神崎が近づいてきた。
「綾小路」
「ああ」
「改めて、よろしく頼む」
「こちらこそ」
神崎の表情は硬い。
歓迎していないわけではない。
むしろ、強い期待がある。
だが、同時に警戒もある。
外から来た人間がクラスを変える。
それは良いことばかりではない。
「一つ確認しておきたい」
「何だ」
「君は、このクラスを壊すつもりで来たのか」
一之瀬が驚いたように神崎を見た。
「神崎くん」
「必要な確認だ」
神崎の言う通りだった。
善意の多いクラスほど、こういう質問を避ける。
だが、避けたまま進めば、後で必ず揉める。
「壊すつもりはない」
「なら、何をする」
「伝票を見える場所に置く」
神崎はしばらく黙った。
それから、小さく息を吐いた。
「予想通りの答えだな」
「悪い意味か」
「半分は」
「半分なんだ」
一之瀬が少し笑った。
姫野は少し離れた席からこちらを見ていた。
彼女は近づいてこない。
だが、聞いていないふりもしていない。
腕を組み、机に寄りかかりながら、こちらを観察している。
「面倒な人が増えた」
姫野が言った。
「聞こえているぞ」
「聞こえるように言ったから」
「そうか」
「一之瀬さんが少し楽になるならいいけど、クラス全体が説教臭くなるなら嫌」
「説教は得意ではない」
「会計の話ばっかりするくせに?」
「会計は説教ではない」
「十分説教っぽい」
姫野はそう言って、視線を外した。
彼女は冷めている。
だが、見ている。
見ているのに中心には立たない。
一之瀬クラスにとって、姫野はかなり重要な位置にいる。
熱すぎる善意の中で、温度を測れる人間だ。
柴田は明るく声をかけてきた。
「綾小路、よろしくな。いやー、まさか本当にうちに来るとは思わなかった」
「よろしく」
「一之瀬から聞いてたけどさ。何か、文化祭から妙にうちの方見てたもんな」
「見ていたか」
「見てた見てた。姫野には偶然って言ってたらしいけど、あれ無理あるだろ」
「そうか」
「まあ、来たなら働いてもらうからな。うち、いい人多いけど、その分たまにふわっとするし」
「自覚はあるのか」
「ちょっとはな」
柴田は笑った。
彼のような人間は貴重だ。
明るさを持ち、体も動く。
ただし、細かい会計には向かない。
使い方を間違えなければ、卓の空気を大きく支えられる。
浜口は、柴田の後ろから穏やかに言った。
「何かあれば相談してほしい。綾小路くんの見方は、うちには足りない部分だと思う」
「浜口は調整役か」
「そう見える?」
「ああ」
「自分では、間に入っているつもりが、たまに曖昧にしているだけかもしれないと思うことがある」
「曖昧さも必要だ」
「でも、それだけでは会計できない?」
「そうだな」
浜口は苦笑した。
「耳が痛いね」
網倉と小橋も寄ってきた。
「綾小路くん、何か最初から空気が店長みたい」
網倉が言った。
「店長ではない」
「じゃあ何?」
「店員みたいなものだ」
「白木屋の?」
「ああ」
「本当に白木屋なんだ……」
小橋が不思議そうに呟いた。
「でも、文化祭の時は助かったよね。あれから一之瀬ちゃん、ちょっとだけ休むようになったし」
「ちょっとだけだけどね」
網倉が一之瀬を見た。
一之瀬は苦笑した。
「努力はしてるよ」
「努力しないと休めない時点で危ないんだけど」
姫野が遠くから刺した。
一之瀬は肩をすくめた。
このクラスは、やはり悪くない。
少なくとも、誰も一之瀬を壊したいと思っていない。
だが、壊すつもりがなくても、人は誰かを使いすぎる。
優しい客ほど、幹事の財布を見ない。
三年生最初の大きな課題は、クラス内の役割再編だった。
特別試験の前に、まず通常運営を変える必要がある。
堀北のクラスであれば、誰かに役割を押しつけても反発が起きる。
だから、負担が見える。
一之瀬クラスでは違う。
誰かが「やるよ」と言えば、周囲は感謝する。
感謝されると、その人間はまた引き受ける。
その繰り返しで、負担は見えにくくなる。
最初にしたのは、係の棚卸しだった。
クラスの中で誰が何をしているのか。
誰が何となく引き受けているのか。
誰の作業が表に出ていないのか。
それを一枚の表にした。
神崎はすぐに乗った。
「必要だと思う」
浜口も頷いた。
「曖昧なまま続けている仕事は多いね」
一之瀬は少し戸惑った。
「でも、みんなに細かく聞くと、負担に感じないかな」
「今の方が負担だ」
オレは言った。
「誰の負担?」
「一之瀬と、気づいている少数の人間だ」
姫野が軽く手を上げた。
「私、それに入ってる?」
「入っている」
「最悪」
「見えているのに動かない負担もある」
「もっと最悪」
姫野はそう言いながらも、表作りには協力した。
彼女は口では面倒がるが、見えていることを完全には放置できない。
神崎が全体管理。
浜口が調整。
柴田が男子側の実働。
網倉が女子側の連絡。
小橋が雰囲気作りと来客対応のような対外的な役割。
姫野が漏れの確認。
一之瀬は全体の顔ではあるが、すべてを拾わない。
そう定義した。
一之瀬は、表を見ながら困ったように笑った。
「私、何もしなくなってない?」
「一之瀬は顔だ」
神崎が言った。
「顔?」
「君が前に立つ意味はある。だが、顔が厨房も会計も掃除も全部やる必要はない」
「神崎くんまで白木屋式になってる」
「影響を受けたかもしれない」
神崎は真面目な顔で言った。
柴田が笑った。
「いいじゃん。神崎、前よりわかりやすいぞ」
「それは褒めているのか」
「たぶん」
こうして、一之瀬クラスは少しずつ変わり始めた。
ただし、変化は簡単ではない。
善意の習慣は、強い。
一之瀬は、誰かが困っているとすぐ手を出そうとする。
小橋は場を和らげすぎて、問題の輪郭をぼかすことがある。
浜口は相手の意見を拾いすぎて、決断を遅らせることがある。
柴田は勢いで動けるが、後で細かい確認を忘れる。
神崎は正しすぎて、空気に弾かれそうになる。
姫野は見えすぎて、逆に面倒になって黙る。
網倉は気づくが、全体へ出す前に女子側だけで処理しようとする。
そして一之瀬は、やはり笑う。
大丈夫と言う。
そのたびに、オレは言った。
「大丈夫かどうかではなく、誰が払っているかを見ろ」
一之瀬は最初、苦い顔をした。
だが、少しずつ頷くようになった。
◇
最初の特別試験は、三年生全体での「模擬店舗運営試験」だった。
学校側が用意した複数の仮想店舗を、各クラスが一定期間運営する。
店舗と言っても、実際に校外の客を相手にするわけではない。
校内に作られた区画で、在庫管理、注文処理、宣伝、交渉、売上計算、クレーム対応を行う。
さらに途中で、他クラスとの仕入れ交渉や共同販売の課題が入る。
売上だけでは勝てない。
利益率だけでも勝てない。
客満足度、作業効率、トラブル対応、他クラスとの契約内容。
それらすべてが点数になる。
白木屋で育ったオレにとっては、あまりにもわかりやすい試験だった。
だが、わかりやすいからこそ危険でもある。
自分が動けば、簡単に形は作れる。
だが、それでは意味がない。
ここで変わるべきなのは、一之瀬クラスだ。
オレが全部の皿を運ぶのではなく、全員が自分の皿と伝票を見る必要がある。
一之瀬クラスが担当することになったのは、軽食と飲み物を扱う模擬店舗だった。
メニューは簡単だ。
ポテト。
唐揚げ。
焼きそば。
ソフトドリンク。
文化祭に近い。
だが、違うのは、売上と在庫が細かく採点されることだった。
売れればいいわけではない。
仕入れすぎれば在庫ロスになる。
仕入れを抑えすぎれば販売機会を逃す。
客を呼びすぎれば待ち時間が伸びる。
待ち時間が伸びれば満足度が下がる。
白木屋では毎日見る構図だ。
まず、役割を決めた。
神崎は会計と在庫。
浜口は他クラスとの交渉。
柴田はホールと実働班。
網倉は女子側のシフトと接客導線。
小橋は案内と客対応。
姫野は全体の漏れ確認。
一之瀬は店の顔。
オレは補助。
この「補助」という言葉に、柴田が笑った。
「綾小路の補助って、絶対補助じゃないだろ」
「補助だ」
「店長じゃなくて?」
「補助だ」
あくまでも、オレは補助だ。
それ以上でも以下でもない。