綾小路清隆が育ったのがホワイトルームじゃなくて白木屋だったら   作:東頭鎖国

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三年生編⑤

 教室を出た後、堀北と廊下で会った。

 

 彼女の周囲には須藤や平田、軽井沢、櫛田たちがいたが、少し距離が空いた瞬間に声をかけてきた。

 

「綾小路くん」

 

「何だ」

 

「勝ったわ」

 

「ああ」

 

「あなたがいなくても」

 

「そうだな」

 

「あなたがいたからではなく、あなたがいなくなったから勝てた部分もあると思う」

 

「それは良かった」

 

「でも」

 

 堀北は少しだけ視線を落とした。

 

「あなたが置いていったものも、確かにあった」

 

「忘れ物か」

 

「ええ。忘れ物よ」

 

「処理できたか」

 

「まだ全部ではないわ。でも、これからも処理する」

 

「そうか」

 

 堀北は小さく笑った。

 

「あなたは、一之瀬さんのクラスで何かを残せた?」

 

「たぶんな」

 

「曖昧ね」

 

「会計は卒業後にわかることもある」

 

「最後までそれなのね」

 

「ああ」

 

 堀北は手を差し出した。

 

 オレはその手を握った。

 

「卒業おめでとう、綾小路くん」

 

「堀北も」

 

 それだけだった。

 

 それだけで、十分だった。

 

 

 堀北と別れた後、廊下の角で軽井沢に呼び止められた。

 

「綾小路」

 

「何だ」

 

 軽井沢は、少しだけ周囲を確認してから近づいてきた。

 

 いつもの癖だ。

 

 人前で必要以上に距離を詰めない。

 

 けれど、完全に他人のふりもしない。

 

 その中間の距離を、彼女は三年間で覚えた。

 

「卒業だね」

 

「ああ」

 

「何か、あっさりしてるね」

 

「そうか」

 

「そうだよ。普通もうちょっと感慨あるでしょ」

 

「あるにはある」

 

「絶対うそ」

 

「多少はある」

 

「その多少ってやつ、最後まで信用できないんだけど」

 

 軽井沢は呆れたように笑った。

 

 その笑い方も、もう以前とは少し違っていた。

 

 一年生の頃の軽さは、周囲に溶け込むための鎧だった。

 

 二年生の頃の距離感は、自分を守るための取引だった。

 

 三年生になってからは、彼女は堀北クラスの中で、自分の立つ場所を持っていた。

 

 女子側の空気を見て、必要な時に動く。

 

 誰かに頼りきるのではなく、自分の足で立つ。

 

 軽井沢恵は、そういう人間になっていた。

 

「堀北さん、勝ったよ」

 

「ああ」

 

「大変だったんだから。あんたがいなくなってから」

 

「そうだろうな」

 

「でも、何とかなった」

 

「そうだな」

 

「そこは、もうちょっと褒めなさいよ」

 

「よくやった」

 

「軽い」

 

「本気だ」

 

 軽井沢は一瞬だけ黙った。

 

 それから、視線を少し逸らした。

 

「……ならいいけど」

 

 彼女は鞄の持ち手を握り直した。

 

「最初はさ、あんたがクラス移るって聞いた時、正直ちょっと腹立った」

 

「そうか」

 

「取引相手が勝手に席替えするとか、普通に困るでしょ」

 

「事前に話した」

 

「そういう問題じゃないの」

 

「難しいな」

 

「そういうとこ」

 

 軽井沢は小さく息を吐いた。

 

「でも、今は少しわかる。あんたがいなくなったから、堀北さんも、私たちも、自分でやるしかなくなった」

 

「ああ」

 

「それが良かったかどうかは、まだわかんないけど」

 

「勝った」

 

「そう。勝った」

 

 軽井沢は少しだけ笑った。

 

「だから、まあ……ありがと」

 

「礼を言われることではない」

 

「言わせなさいよ」

 

「わかった」

 

「あと」

 

 軽井沢は、こちらを見た。

 

 その目は、以前よりずっとまっすぐだった。

 

「あんた、一之瀬さんのクラスでも同じことしてたんでしょ」

 

「同じではない」

 

「似たようなことはしてたんでしょ」

 

「たぶんな」

 

「……でしょうね」

 

 軽井沢は呆れたように笑う。

 

「誰か一人に背負わせないとか、会計がどうとか、そういうやつ」

 

「よくわかったな」

 

「三年も見てればわかるわよ」

 

 軽井沢は少しだけ沈黙した。

 

「でもさ」

 

「ああ」

 

「あんた自身の会計は、誰が見るの?」

 

 その言葉に、すぐには答えられなかった。

 

 軽井沢は、オレの顔を見ていた。

 

 誤魔化しを許さないというより、少しだけ心配しているような目だった。

 

「……自分で見る」

 

「それが一番信用できないんだけど」

 

「そうか」

 

「そう」

 

 軽井沢は、鞄から小さな袋を取り出して、こちらへ押しつけた。

 

「これ」

 

「何だ」

 

「絆創膏とか。あと、ハンカチ。前みたいに怪我しても、どうせ自分でちゃんと処置しないでしょ」

 

「もうナイフを出される予定はない」

 

「予定の問題じゃない」

 

「そうか」

 

「そう」

 

 受け取ると、軽井沢は少しだけ満足そうにした。

 

「取引終了の記念品ってことで」

 

「取引は終了か」

 

「高校の分はね」

 

「そうか」

 

「でも、何かあったら連絡くらいしなさいよ」

 

 軽井沢は背を向けかけて、少しだけ止まった。

 

「綾小路」

 

「何だ」

 

「卒業、おめでとう」

 

「ああ。軽井沢も」

 

「うん」

 

 彼女は、今度こそ歩き出した。

 

 廊下の先では、佐藤や松下たちが軽井沢を呼んでいた。

 

 軽井沢は振り返らずに手を振り、その輪の中へ戻っていく。

 

 もう、誰かの後ろに隠れるためではない。

 

 自分の場所へ戻るために。

 

 手の中には、小さな袋が残った。

 

 絆創膏とハンカチ。

 

 白木屋の会計票には載らない、ずいぶん軽い品物だった。

 

 だが、不思議と重さがあった。

 

 その重さには、暖かかさがあった。

 

 

 軽井沢と別れて少し歩いたところで、今度は山内に呼び止められた。

 

「綾小路!」

 

 振り返ると、山内が息を切らして走ってきた。

 

 その後ろには池がいたが、途中で足を止めて「先行ってるぞ」とだけ言い、クラスメイトたちの方へ戻っていった。

 

「何だ」

 

「いや、何だじゃねえよ。卒業だぞ、卒業」

 

「ああ」

 

「反応薄いな、お前」

 

「実感はある」

 

「絶対ないだろ」

 

「多少はある」

 

「多少って何だよ!」

 

 山内はそう言って笑った。

 

 以前と同じ軽さだった。

 

 だが、完全に同じではない。

 

 笑い方の奥に、少しだけ言葉を選ぶ間がある。

 

「お前さ」

 

「ああ」

 

「結局、最後まで白木屋だったな」

 

「どういう意味だ」

 

「いや、何か、会計だの皿だのポテトだの、ずっと言ってたじゃん」

 

「必要だったからな」

 

「必要だったか?」

 

「必要だった」

 

「まあ……そうかもな」

 

 山内は少しだけ視線を落とした。

 

「俺、最初は全然わかんなかったけどさ。最近、ちょっとだけわかるようになったんだよ」

 

「何が」

 

「自分の分くらいは、自分で払えってこと」

 

 山内らしくない言葉だった。

 

 本人もそれをわかっているのか、少し照れたように頭をかいた。

 

「いや、まだ全然できてねえけどな。堀北に怒られるし、池にも呆れられるし、須藤には普通に怒鳴られるし」

 

「想像できる」

 

「だろ?」

 

 山内は笑った。

 

 その笑顔が、少しだけ弱くなる。

 

「佐倉のこと、たまに思い出すんだよ」

 

 その名前が出た。

 

 山内は、すぐにこちらを見なかった。

 

 廊下の窓の方へ視線を向けたまま、続けた。

 

「俺が残って、佐倉がいなくなったこと。ずっと考えてるわけじゃねえけど、たまにさ、変なタイミングで思い出す」

 

「ああ」

 

「唐揚げにレモンかける時とか」

 

「それは、かなり変なタイミングだな」

 

「だろ? でも、思い出すんだよ。勝手にかけるなって。自分が良いと思ってることが、相手にも良いとは限らねえって」

 

 山内は苦笑した。

 

「俺、今さらすぎるよな」

 

「遅くても、覚えているならいい」

 

「そうか?」

 

「ああ」

 

「お前、たまに優しいこと言うよな」

 

「たまにか」

 

「だいたいは白木屋だけど」

 

「そうか」

 

 山内は少し笑った。

 

 それから財布を出し、小さな紙を取り出した。

 

「これ」

 

「何だ」

 

「ポテト無料券」

 

「なぜ」

 

「いや、卒業祝いって何渡せばいいかわかんなくてさ。白木屋っぽいもの探したんだけど、白木屋の券なかったから、ファストフードのポテトで妥協した」

 

「かなり雑だな」

 

「うるせえな。俺なりに考えたんだよ!」

 

「そうか」

 

 受け取ると、山内は満足そうに頷いた。

 

「それ、ちゃんと使えよ」

 

「わかった」

 

「誰かと食えよ。一人で食うなよ」

 

「なぜ」

 

「何か、そういうの大事だろ。ポテトって分けるもんだし」

 

「そうとは限らない」

 

「限るんだよ。俺の中では」

 

 山内は少しだけ胸を張った。

 

「俺も、ちゃんとやるわ。卒業してからも。たぶん、すぐ調子乗るけど」

 

「そのたびに思い出せばいい」

 

「何を」

 

「レモンを別にすること」

 

 山内は一瞬ぽかんとして、それから吹き出した。

 

「最後にそれかよ」

 

「大事なことだ」

 

「まあな」

 

 山内は笑いながらも、どこか納得したようだった。

 

「……俺、ちょっとはマシになったよな」

 

「ああ」

 

「そっか」

 

 山内は短くそう言って、照れ隠しのように鼻をこすった。

 

「なら、まあ……それでいいわ」

 

 少しの沈黙があった。

 

 廊下の向こうでは、卒業生たちの声が重なっている。

 

 山内はそれを聞きながら、急にいつもの調子に戻った。

 

「綾小路」

 

「何だ」

 

「卒業、おめでとう」

 

「ああ。山内も」

 

「おう」

 

 山内は一歩下がって、照れ隠しのように手を振った。

 

「じゃあな、白木屋」

 

「その呼び方は龍園だけで十分だ」

 

「え、龍園も呼んでんの?」

 

「ああ」

 

「じゃあ俺はやめとくわ。龍園とかぶるの嫌だし」

 

「そうしてくれ」

 

「じゃあな、綾小路」

 

「ああ」

 

 山内は今度こそ背を向けた。

 

 廊下の向こうで池に何か言われ、すぐに言い返している。

 

 相変わらず騒がしい。

 

 相変わらず軽い。

 

 だがその背中は、一年前より少しだけ自分の荷物を持っているように見えた。

 

 

 龍園とは校門近くで会った。

 

「白木屋」

 

「卒業までその呼び方だったな」

 

「卒業しても呼ぶぞ」

 

「迷惑だ」

 

「褒めてんだよ」

 

「わかりにくい」

 

 龍園は笑った。

 

「最後の会計、踏み倒し損ねたな」

 

「出禁にならずに済んだな」

 

「クハハッ。お前と話すと、本当に気色悪い」

 

「よく言われる」

 

「だろうな」

 

 龍園は少しだけ真顔になった。

 

「またどこかで会ったら、その時は別の店で勝負だ」

 

「白木屋ではなく?」

 

「知るか。お前がいる場所が店になるんだろ」

 

「変なことを言うな」

 

「お前にだけは言われたくねえ」

 

 龍園は背を向けた。

 

 石崎が大きく手を振り、伊吹は面倒そうに顔だけ向け、アルベルトは静かに頷いた。

 

 

 坂柳とは、最後に中庭で会った。

 

 桜が少しだけ散っていた。

 

 坂柳は杖をつきながら、ゆっくり歩いてきた。

 

「綾小路くん」

 

「坂柳」

 

「卒業ですね」

 

「ああ」

 

「結局、あなたは最後まで白木屋の人でした」

 

「何だそれは」

 

「褒めています」

 

「坂柳までそれか」

 

 坂柳は微笑んだ。

 

「ホワイトルームという言葉に、あなたは最後まで巻き込まれなかった。少なくとも、あなた自身の物語としては」

 

「坂柳の中では違ったのか」

 

「ええ。最初は、あなたを別のものとして見ていました」

 

「白い部屋の子か」

 

「そうです」

 

「今は?」

 

「白木屋育ちの、面倒な会計係」

 

「格下げされた気がする」

 

「いいえ。ずっと厄介になりました」

 

 坂柳は少しだけ空を見た。

 

「篤臣という名前について、いつか知ることがあるかもしれません」

 

「そうか」

 

「ですが、それは今でなくてもいい」

 

「珍しく引くんだな」

 

「私も少しは学びましたので」

 

「神室の分か」

 

「ええ。真澄さんの分も」

 

 坂柳は静かに言った。

 

「卒業おめでとうございます、綾小路くん」

 

「坂柳も」

 

「また、どこかの卓で」

 

「ああ」

 

 

 一之瀬とは、最後に校門の手前で話した。

 

 彼女は泣いた後の顔をしていたが、笑っていた。

 

「綾小路くん」

 

「何だ」

 

「うちのクラスに来てくれて、ありがとう」

 

「礼を言われることではない」

 

「言わせてよ」

 

「わかった」

 

 一之瀬は少しだけ笑った。

 

「私は、まだすぐ抱えようとすると思う」

 

「そうだろうな」

 

「そこは否定してほしかったかも」

 

「嘘は後で会計が重くなる」

 

「うん。もう覚えた」

 

 一之瀬は校舎を振り返った。

 

「でも、前よりは言えると思う。これは私一人の会計じゃないって」

 

「それなら十分だ」

 

「十分?」

 

「ああ」

 

「綾小路くんは、これからどうするの?」

 

「まだ決めていない」

 

「白木屋に戻るの?」

 

そういえば、在学中に戻る場所を考えることはほとんどなかった。

 

 白木屋。

 

 父。

 

 店のざわめき。

 

 油の匂い。

 

 注文の声。

 

 そして、会計票。

 

 それらが、ようやく少し現実味を持って戻ってくる。

 

「一度は戻るかもしれない」

 

「そっか」

 

 一之瀬は頷いた。

 

「似合うね」

 

「白木屋がか」

 

「うん。でも、もうそれだけじゃないと思う」

 

「どういう意味だ」

 

「綾小路くんは、どこにいても会計票を見ちゃうんでしょ」

 

「たぶんな」

 

「じゃあ、どこでもやっていけるよ」

 

「そうか」

 

「うん」

 

 一之瀬は手を差し出した。

 

「卒業おめでとう、綾小路くん」

 

「ああ。一之瀬も」

 

 握手をした。

 

 彼女の手は、以前より少しだけ強かった。

 

 

 卒業式の日の空は、よく晴れていた。

 

 校門を出る時、背後からいくつもの声が聞こえた。

 

 笑い声。

 

 泣き声。

 

 名前を呼ぶ声。

 

 写真を撮る音。

 

 それらは、白木屋の閉店後に似ていた。

 

 長い宴会が終わった後。

 

 机には皿が残り、グラスには少しだけ氷が残り、会計票は処理されている。

 

 楽しかった者もいる。

 

 悔しかった者もいる。

 

 多く払った者もいる。

 

 払わずに済んだと思っていたが、別の何かを失った者もいる。

 

 だが、最後に席を立つ時、その卓が何だったのかは少しだけわかる。

 

 高度育成高校での三年間は、長い宴会だった。

 

 白木屋で育ったオレは、そこで多くの伝票を見た。

 

 堀北の伝票。

 

 一之瀬の伝票。

 

 龍園の伝票。

 

 坂柳の伝票。

 

 軽井沢、平田、須藤、櫛田、山内、神崎、姫野、柴田、浜口、網倉、小橋。

 

 それぞれの皿。

 

 それぞれの支払い。

 

 そして、自分自身の会計。

 

 ポテトだけでは宴会は終わらない。

 

 唐揚げのレモンを別にするだけでも、人は救われない。

 

 だが、最初の一皿を間違えず、伝票を隠さず、誰が何を払っているのかを見ることはできる。

 

 それだけで、場は少しだけ壊れにくくなる。

 

 オレは校門を出た。

 

 最後の会計は終わった。

 

 次の卓がどこにあるのかは、まだわからない。

 

 だが、どこへ行っても、たぶん同じことをするのだろう。

 

 注文を聞く。

 

 皿を見る。

 

 客を見る。

 

 そして、誰か一人に会計票が寄りすぎていないかを見る。

 

 それが、白木屋で育った綾小路清隆の、三年間の結論だった。

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