綾小路清隆が育ったのがホワイトルームじゃなくて白木屋だったら 作:東頭鎖国
教室を出た後、堀北と廊下で会った。
彼女の周囲には須藤や平田、軽井沢、櫛田たちがいたが、少し距離が空いた瞬間に声をかけてきた。
「綾小路くん」
「何だ」
「勝ったわ」
「ああ」
「あなたがいなくても」
「そうだな」
「あなたがいたからではなく、あなたがいなくなったから勝てた部分もあると思う」
「それは良かった」
「でも」
堀北は少しだけ視線を落とした。
「あなたが置いていったものも、確かにあった」
「忘れ物か」
「ええ。忘れ物よ」
「処理できたか」
「まだ全部ではないわ。でも、これからも処理する」
「そうか」
堀北は小さく笑った。
「あなたは、一之瀬さんのクラスで何かを残せた?」
「たぶんな」
「曖昧ね」
「会計は卒業後にわかることもある」
「最後までそれなのね」
「ああ」
堀北は手を差し出した。
オレはその手を握った。
「卒業おめでとう、綾小路くん」
「堀北も」
それだけだった。
それだけで、十分だった。
◇
堀北と別れた後、廊下の角で軽井沢に呼び止められた。
「綾小路」
「何だ」
軽井沢は、少しだけ周囲を確認してから近づいてきた。
いつもの癖だ。
人前で必要以上に距離を詰めない。
けれど、完全に他人のふりもしない。
その中間の距離を、彼女は三年間で覚えた。
「卒業だね」
「ああ」
「何か、あっさりしてるね」
「そうか」
「そうだよ。普通もうちょっと感慨あるでしょ」
「あるにはある」
「絶対うそ」
「多少はある」
「その多少ってやつ、最後まで信用できないんだけど」
軽井沢は呆れたように笑った。
その笑い方も、もう以前とは少し違っていた。
一年生の頃の軽さは、周囲に溶け込むための鎧だった。
二年生の頃の距離感は、自分を守るための取引だった。
三年生になってからは、彼女は堀北クラスの中で、自分の立つ場所を持っていた。
女子側の空気を見て、必要な時に動く。
誰かに頼りきるのではなく、自分の足で立つ。
軽井沢恵は、そういう人間になっていた。
「堀北さん、勝ったよ」
「ああ」
「大変だったんだから。あんたがいなくなってから」
「そうだろうな」
「でも、何とかなった」
「そうだな」
「そこは、もうちょっと褒めなさいよ」
「よくやった」
「軽い」
「本気だ」
軽井沢は一瞬だけ黙った。
それから、視線を少し逸らした。
「……ならいいけど」
彼女は鞄の持ち手を握り直した。
「最初はさ、あんたがクラス移るって聞いた時、正直ちょっと腹立った」
「そうか」
「取引相手が勝手に席替えするとか、普通に困るでしょ」
「事前に話した」
「そういう問題じゃないの」
「難しいな」
「そういうとこ」
軽井沢は小さく息を吐いた。
「でも、今は少しわかる。あんたがいなくなったから、堀北さんも、私たちも、自分でやるしかなくなった」
「ああ」
「それが良かったかどうかは、まだわかんないけど」
「勝った」
「そう。勝った」
軽井沢は少しだけ笑った。
「だから、まあ……ありがと」
「礼を言われることではない」
「言わせなさいよ」
「わかった」
「あと」
軽井沢は、こちらを見た。
その目は、以前よりずっとまっすぐだった。
「あんた、一之瀬さんのクラスでも同じことしてたんでしょ」
「同じではない」
「似たようなことはしてたんでしょ」
「たぶんな」
「……でしょうね」
軽井沢は呆れたように笑う。
「誰か一人に背負わせないとか、会計がどうとか、そういうやつ」
「よくわかったな」
「三年も見てればわかるわよ」
軽井沢は少しだけ沈黙した。
「でもさ」
「ああ」
「あんた自身の会計は、誰が見るの?」
その言葉に、すぐには答えられなかった。
軽井沢は、オレの顔を見ていた。
誤魔化しを許さないというより、少しだけ心配しているような目だった。
「……自分で見る」
「それが一番信用できないんだけど」
「そうか」
「そう」
軽井沢は、鞄から小さな袋を取り出して、こちらへ押しつけた。
「これ」
「何だ」
「絆創膏とか。あと、ハンカチ。前みたいに怪我しても、どうせ自分でちゃんと処置しないでしょ」
「もうナイフを出される予定はない」
「予定の問題じゃない」
「そうか」
「そう」
受け取ると、軽井沢は少しだけ満足そうにした。
「取引終了の記念品ってことで」
「取引は終了か」
「高校の分はね」
「そうか」
「でも、何かあったら連絡くらいしなさいよ」
軽井沢は背を向けかけて、少しだけ止まった。
「綾小路」
「何だ」
「卒業、おめでとう」
「ああ。軽井沢も」
「うん」
彼女は、今度こそ歩き出した。
廊下の先では、佐藤や松下たちが軽井沢を呼んでいた。
軽井沢は振り返らずに手を振り、その輪の中へ戻っていく。
もう、誰かの後ろに隠れるためではない。
自分の場所へ戻るために。
手の中には、小さな袋が残った。
絆創膏とハンカチ。
白木屋の会計票には載らない、ずいぶん軽い品物だった。
だが、不思議と重さがあった。
その重さには、暖かかさがあった。
◇
軽井沢と別れて少し歩いたところで、今度は山内に呼び止められた。
「綾小路!」
振り返ると、山内が息を切らして走ってきた。
その後ろには池がいたが、途中で足を止めて「先行ってるぞ」とだけ言い、クラスメイトたちの方へ戻っていった。
「何だ」
「いや、何だじゃねえよ。卒業だぞ、卒業」
「ああ」
「反応薄いな、お前」
「実感はある」
「絶対ないだろ」
「多少はある」
「多少って何だよ!」
山内はそう言って笑った。
以前と同じ軽さだった。
だが、完全に同じではない。
笑い方の奥に、少しだけ言葉を選ぶ間がある。
「お前さ」
「ああ」
「結局、最後まで白木屋だったな」
「どういう意味だ」
「いや、何か、会計だの皿だのポテトだの、ずっと言ってたじゃん」
「必要だったからな」
「必要だったか?」
「必要だった」
「まあ……そうかもな」
山内は少しだけ視線を落とした。
「俺、最初は全然わかんなかったけどさ。最近、ちょっとだけわかるようになったんだよ」
「何が」
「自分の分くらいは、自分で払えってこと」
山内らしくない言葉だった。
本人もそれをわかっているのか、少し照れたように頭をかいた。
「いや、まだ全然できてねえけどな。堀北に怒られるし、池にも呆れられるし、須藤には普通に怒鳴られるし」
「想像できる」
「だろ?」
山内は笑った。
その笑顔が、少しだけ弱くなる。
「佐倉のこと、たまに思い出すんだよ」
その名前が出た。
山内は、すぐにこちらを見なかった。
廊下の窓の方へ視線を向けたまま、続けた。
「俺が残って、佐倉がいなくなったこと。ずっと考えてるわけじゃねえけど、たまにさ、変なタイミングで思い出す」
「ああ」
「唐揚げにレモンかける時とか」
「それは、かなり変なタイミングだな」
「だろ? でも、思い出すんだよ。勝手にかけるなって。自分が良いと思ってることが、相手にも良いとは限らねえって」
山内は苦笑した。
「俺、今さらすぎるよな」
「遅くても、覚えているならいい」
「そうか?」
「ああ」
「お前、たまに優しいこと言うよな」
「たまにか」
「だいたいは白木屋だけど」
「そうか」
山内は少し笑った。
それから財布を出し、小さな紙を取り出した。
「これ」
「何だ」
「ポテト無料券」
「なぜ」
「いや、卒業祝いって何渡せばいいかわかんなくてさ。白木屋っぽいもの探したんだけど、白木屋の券なかったから、ファストフードのポテトで妥協した」
「かなり雑だな」
「うるせえな。俺なりに考えたんだよ!」
「そうか」
受け取ると、山内は満足そうに頷いた。
「それ、ちゃんと使えよ」
「わかった」
「誰かと食えよ。一人で食うなよ」
「なぜ」
「何か、そういうの大事だろ。ポテトって分けるもんだし」
「そうとは限らない」
「限るんだよ。俺の中では」
山内は少しだけ胸を張った。
「俺も、ちゃんとやるわ。卒業してからも。たぶん、すぐ調子乗るけど」
「そのたびに思い出せばいい」
「何を」
「レモンを別にすること」
山内は一瞬ぽかんとして、それから吹き出した。
「最後にそれかよ」
「大事なことだ」
「まあな」
山内は笑いながらも、どこか納得したようだった。
「……俺、ちょっとはマシになったよな」
「ああ」
「そっか」
山内は短くそう言って、照れ隠しのように鼻をこすった。
「なら、まあ……それでいいわ」
少しの沈黙があった。
廊下の向こうでは、卒業生たちの声が重なっている。
山内はそれを聞きながら、急にいつもの調子に戻った。
「綾小路」
「何だ」
「卒業、おめでとう」
「ああ。山内も」
「おう」
山内は一歩下がって、照れ隠しのように手を振った。
「じゃあな、白木屋」
「その呼び方は龍園だけで十分だ」
「え、龍園も呼んでんの?」
「ああ」
「じゃあ俺はやめとくわ。龍園とかぶるの嫌だし」
「そうしてくれ」
「じゃあな、綾小路」
「ああ」
山内は今度こそ背を向けた。
廊下の向こうで池に何か言われ、すぐに言い返している。
相変わらず騒がしい。
相変わらず軽い。
だがその背中は、一年前より少しだけ自分の荷物を持っているように見えた。
◇
龍園とは校門近くで会った。
「白木屋」
「卒業までその呼び方だったな」
「卒業しても呼ぶぞ」
「迷惑だ」
「褒めてんだよ」
「わかりにくい」
龍園は笑った。
「最後の会計、踏み倒し損ねたな」
「出禁にならずに済んだな」
「クハハッ。お前と話すと、本当に気色悪い」
「よく言われる」
「だろうな」
龍園は少しだけ真顔になった。
「またどこかで会ったら、その時は別の店で勝負だ」
「白木屋ではなく?」
「知るか。お前がいる場所が店になるんだろ」
「変なことを言うな」
「お前にだけは言われたくねえ」
龍園は背を向けた。
石崎が大きく手を振り、伊吹は面倒そうに顔だけ向け、アルベルトは静かに頷いた。
◇
坂柳とは、最後に中庭で会った。
桜が少しだけ散っていた。
坂柳は杖をつきながら、ゆっくり歩いてきた。
「綾小路くん」
「坂柳」
「卒業ですね」
「ああ」
「結局、あなたは最後まで白木屋の人でした」
「何だそれは」
「褒めています」
「坂柳までそれか」
坂柳は微笑んだ。
「ホワイトルームという言葉に、あなたは最後まで巻き込まれなかった。少なくとも、あなた自身の物語としては」
「坂柳の中では違ったのか」
「ええ。最初は、あなたを別のものとして見ていました」
「白い部屋の子か」
「そうです」
「今は?」
「白木屋育ちの、面倒な会計係」
「格下げされた気がする」
「いいえ。ずっと厄介になりました」
坂柳は少しだけ空を見た。
「篤臣という名前について、いつか知ることがあるかもしれません」
「そうか」
「ですが、それは今でなくてもいい」
「珍しく引くんだな」
「私も少しは学びましたので」
「神室の分か」
「ええ。真澄さんの分も」
坂柳は静かに言った。
「卒業おめでとうございます、綾小路くん」
「坂柳も」
「また、どこかの卓で」
「ああ」
◇
一之瀬とは、最後に校門の手前で話した。
彼女は泣いた後の顔をしていたが、笑っていた。
「綾小路くん」
「何だ」
「うちのクラスに来てくれて、ありがとう」
「礼を言われることではない」
「言わせてよ」
「わかった」
一之瀬は少しだけ笑った。
「私は、まだすぐ抱えようとすると思う」
「そうだろうな」
「そこは否定してほしかったかも」
「嘘は後で会計が重くなる」
「うん。もう覚えた」
一之瀬は校舎を振り返った。
「でも、前よりは言えると思う。これは私一人の会計じゃないって」
「それなら十分だ」
「十分?」
「ああ」
「綾小路くんは、これからどうするの?」
「まだ決めていない」
「白木屋に戻るの?」
そういえば、在学中に戻る場所を考えることはほとんどなかった。
白木屋。
父。
店のざわめき。
油の匂い。
注文の声。
そして、会計票。
それらが、ようやく少し現実味を持って戻ってくる。
「一度は戻るかもしれない」
「そっか」
一之瀬は頷いた。
「似合うね」
「白木屋がか」
「うん。でも、もうそれだけじゃないと思う」
「どういう意味だ」
「綾小路くんは、どこにいても会計票を見ちゃうんでしょ」
「たぶんな」
「じゃあ、どこでもやっていけるよ」
「そうか」
「うん」
一之瀬は手を差し出した。
「卒業おめでとう、綾小路くん」
「ああ。一之瀬も」
握手をした。
彼女の手は、以前より少しだけ強かった。
◇
卒業式の日の空は、よく晴れていた。
校門を出る時、背後からいくつもの声が聞こえた。
笑い声。
泣き声。
名前を呼ぶ声。
写真を撮る音。
それらは、白木屋の閉店後に似ていた。
長い宴会が終わった後。
机には皿が残り、グラスには少しだけ氷が残り、会計票は処理されている。
楽しかった者もいる。
悔しかった者もいる。
多く払った者もいる。
払わずに済んだと思っていたが、別の何かを失った者もいる。
だが、最後に席を立つ時、その卓が何だったのかは少しだけわかる。
高度育成高校での三年間は、長い宴会だった。
白木屋で育ったオレは、そこで多くの伝票を見た。
堀北の伝票。
一之瀬の伝票。
龍園の伝票。
坂柳の伝票。
軽井沢、平田、須藤、櫛田、山内、神崎、姫野、柴田、浜口、網倉、小橋。
それぞれの皿。
それぞれの支払い。
そして、自分自身の会計。
ポテトだけでは宴会は終わらない。
唐揚げのレモンを別にするだけでも、人は救われない。
だが、最初の一皿を間違えず、伝票を隠さず、誰が何を払っているのかを見ることはできる。
それだけで、場は少しだけ壊れにくくなる。
オレは校門を出た。
最後の会計は終わった。
次の卓がどこにあるのかは、まだわからない。
だが、どこへ行っても、たぶん同じことをするのだろう。
注文を聞く。
皿を見る。
客を見る。
そして、誰か一人に会計票が寄りすぎていないかを見る。
それが、白木屋で育った綾小路清隆の、三年間の結論だった。