綾小路清隆が育ったのがホワイトルームじゃなくて白木屋だったら   作:東頭鎖国

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卒業後
卒業後①


 卒業式から三日後、オレは白木屋にいた。

 

 客席ではない。

 

 厨房でもない。

 

 ホールの端で、伝票を整理していた。

 

 久しぶりに戻ってきた白木屋は、記憶より少し狭く感じた。

 

 高校に入る前は、この店が世界のほとんどだった。

 

 油の匂い。

 

 焼き鳥の煙。

 

 ビールジョッキの重さ。

 

 呼び出しボタンの音。

 

 酔った客の笑い声。

 

 店長の怒鳴り声。

 

 割れた皿の音。

 

 テーブルに置かれた会計票。

 

 それらを見ながら、オレは人間の動きを覚えた。

 

 誰が多く食べるのか。

 

 誰が払わないのか。

 

 誰が笑ってごまかすのか。

 

 誰が最後に財布を出すのか。

 

 誰が、自分の分だけではなく、隣の分まで払ってしまうのか。

 

 高度育成高校で見ていたものと、白木屋で見ていたものは、思ったほど違わなかった。

 

 違っていたのは、制服とポイントと、試験という名前がついているかどうかくらいだった。

 

「清隆」

 

 カウンターの奥から声がした。

 

 父だった。

 

 父と話すのは、三年ぶりだった。

 

 父はオレの同級生のことを知らない。

 

 堀北も、一之瀬も、龍園も、坂柳も、軽井沢も、山内も知らない。

 

 だから、オレは学校で誰がどうしたという話を細かくするつもりはなかった。

 

 父に話して意味があるのは、名前ではなく、三年間で何を見たかだけだ。

 

「何だ」

 

「手、止まってるぞ」

 

「考えていた」

 

「客が来る前に考えろ。来たら動け」

 

「ああ」

 

 父はそれ以上、何も聞かなかった。

 

 白木屋では、事情を長く聞く前に皿を下げる。

 

 泣いている客がいても、まず水を置く。

 

 怒っている客がいても、まず割れそうなグラスを遠ざける。

 

 話を聞くのは、その後でいい。

 

 父はそういう人間だった。

 

 オレは伝票を束ね直した。

 

 懐かしい作業だった。

 

 会計票の紙は軽い。

 

 だが、そこに載っているものは軽くない。

 

 高校での三年間も、結局はそれだった。

 

 誰の会計を誰が見るのか。

 

 誰が多く払っているのか。

 

 誰が払ったつもりで逃げているのか。

 

 誰が、最後まで席に残るのか。

 

 卒業したからといって、それが終わるわけではなかった。

 

 ◇

 

 最初に連絡してきたのは、山内だった。

 

 卒業式の日にもらったポテト無料券を、まだ使っていなかった。

 

 別に大事に取っておいたわけではない。

 

 使う機会がなかっただけだ。

 

 だが、山内はそれを許さなかった。

 

 スマホに短いメッセージが届いた。

 

『おい綾小路、ポテト使ったか?』

 

 しばらく考えてから、返す。

 

『まだだ』

 

 すぐ返事が来た。

 

『使えよ! 期限あるんだぞ!』

 

『無料券にも期限はあるな』

 

『そうだよ! 分かってるなら使えよ!』

 

 結局、数日後に会うことになった。

 

 場所は駅前のファストフード店。

 

 白木屋ではない。

 

 山内が言うには、「白木屋だとお前のホームすぎて負ける」らしい。

 

 何に負けるのかはわからない。

 

 店に入ると、山内はすでに席を取っていた。

 

 トレーの上にはポテトが二つあった。

 

「無料券は一枚だったはずだ」

 

「俺も買ったんだよ」

 

「なぜ」

 

「卒業式で言っただろ。一人で食うなって」

 

「そうだったな」

 

 向かいに座ると、山内はポテトを一本つまんだ。

 

「卒業しても、何か変な感じだな」

 

「何が」

 

「お前と普通に外で飯食ってること」

 

「ファストフードだが」

 

「そういう細かいとこ突っ込むなよ」

 

 山内は笑った。

 

 高校を卒業しても、山内は山内だった。

 

 声が大きい。

 

 話が飛ぶ。

 

 ポテトを食べる速度が早い。

 

 だが、以前より少しだけ、こちらの皿を見ていた。

 

「お前、ちゃんと食えよ」

 

「ああ」

 

「何かさ、俺ばっか食ってると、また俺が勝手に全部食った感じになるじゃん」

 

「ポテトは追加で買える」

 

「そういう問題じゃねえんだよなあ」

 

 山内はそう言って、少し照れたように笑った。

 

 しばらくすると、隣の席で高校生らしい二人組が揉め始めた。

 

 片方が、相手のポテトを勝手につまんだらしい。

 

 食べた側は笑ってごまかそうとし、食べられた側は本気で不機嫌になっている。

 

 大した揉め事ではない。

 

 だが、白木屋でもよく見る種類の小さな会計だった。

 

 山内はそれを横目で見て、少しだけ眉を寄せた。

 

「……ああいうの、前の俺なら絶対やってたな」

 

「そうか」

 

「いや、やってたわ。で、相手が嫌がってるのに、冗談じゃんとか言ってた」

 

「あり得るな」

 

「否定しろよ」

 

「嘘になる」

 

「くそ、そうなんだよな」

 

 山内はしばらく黙った。

 

 そして、自分のトレーからポテトの紙袋を少し持ち上げると、隣の席へ軽く声をかけた。

 

「あのさ。余計なお世話かもしれねえけど、俺、ポテト二つあるから。ちょっと分ける?」

 

 二人組は、少し驚いたように山内を見た。

 

 山内は慌てて手を振る。

 

「あ、いや、変な意味じゃなくて。勝手に食われたら普通に嫌だよなって思っただけ。俺も昔そういうのやってたから」

 

 不機嫌だった方が、少しだけ表情を緩めた。

 

「……いいんですか?」

 

「いいって。俺、一個多く買ってるし」

 

 山内は、相手が頷いたのを見てから、紙ナプキンを一枚広げた。

 

 そこにポテトをいくつか移して、隣の席へ差し出す。

 

「ほら。これなら勝手に取ったことになんねえだろ」

 

「ありがとうございます」

 

「いや、いいって」

 

 山内はすぐこちらへ戻ってきた。

 

 少しだけ顔が赤い。

 

「何してんだ俺」

 

「悪くない」

 

「マジで?」

 

「ああ」

 

「いや、めちゃくちゃ恥ずかったんだけど」

 

「なら、よくやった」

 

「お前にそう言われると余計恥ずいな」

 

 山内はポテトを乱暴につまみ、口に入れた。

 

 それから、少しだけ落ち着いた声で言った。

 

「俺さ、別に立派になったわけじゃねえけど」

 

「ああ」

 

「前より、他人の顔見るようにはなったかもしれない」

 

「それは大きい」

 

「そうか?」

 

「ああ」

 

 山内は短く息を吐いた。

 

「そっか」

 

 そして、照れ隠しのように鼻をこすった。

 

「なら、まあ……それでいいわ」

 

 会計は割り勘だった。

 

 山内は、きっちり自分の分を出した。

 

 それだけのことだった。

 

 だが、今日はそれだけではなかった。

 

 山内は、自分の皿だけでなく、隣の卓の小さなズレにも気づいた。

 

 余計なお世話かもしれない。

 

 実際、少し不格好だった。

 

 だが、誰かの皿に勝手に乗せたものではない。

 

 自分で見て、自分で選んで、相手に聞いてから、自分の分を少し出した。

 

 ポテト一本分よりは、少しだけ大きな変化だった。

 

 ◇

 

 軽井沢から連絡が来たのは、山内と会った翌週だった。

 

『ちゃんと生きてる?』

 

 第一声がそれだった。

 

『生きている』

 

『雑』

 

『どう答えればいい』

 

『普通に近況とか』

 

『白木屋にいる』

 

『でしょうね』

 

 それから少し間が空いた。

 

『絆創膏、使った?』

 

『まだだ』

 

『使わないのが一番だけど、持ってなさいよ』

 

『持っている』

 

『ならよし』

 

 軽井沢とは、その後カフェで会った。

 

 白木屋でもファストフードでもない。

 

 彼女は卒業後、以前より少しだけ雰囲気が柔らかくなっていた。

 

 だが、周囲を見る癖は残っている。

 

 席に着く前に、出口と人の流れを確認する。

 

 そういうところは変わらない。

 

「本当に白木屋に戻ったんだ」

 

「一時的にな」

 

「似合いすぎて笑う」

 

「笑うほどか」

 

「笑うでしょ。あんた、三年間ずっと白木屋だったし」

 

 軽井沢はストローを指で回した。

 

「でも、ちょっと安心した」

 

「何が」

 

「あんたが、ちゃんとどこかに戻ってること」

 

「戻る場所はあったからな」

 

「そういうの、自分で思ってるより大事だから」

 

「そうか」

 

「そう」

 

 軽井沢は少しだけ視線を落とした。

 

「私もさ、卒業してから何か変な感じだったんだよね。学校ではクラスのこと見て、女子のこと見て、堀北さんの空気見て、必要なら動いて……それが急になくなったから」

 

「ああ」

 

「でも、なくなっても私は私なんだなって、最近ちょっと思う」

 

「いいことだ」

 

「軽い」

 

「本気だ」

 

「それ、卒業式にも言ってた」

 

「そうだったか」

 

「言ってた」

 

 軽井沢は少し笑った。

 

「堀北さん、たまに連絡来るよ」

 

「そうか」

 

「相変わらず堀北さんって感じ。用件だけ送ってくる」

 

「想像できる」

 

「でも、前よりちょっと柔らかいかな。たぶん、あのクラスでちゃんと会計見たからだと思う」

 

「白木屋式が広がっているな」

 

「やめて。嫌すぎる」

 

 軽井沢は笑い、それからこちらを見た。

 

「あんたさ」

 

「何だ」

 

「一之瀬さんとは連絡取ってるの?」

 

「少しは」

 

「ふうん」

 

「何だ」

 

「別に」

 

 軽井沢はストローをくるりと回した。

 

「一之瀬さん、あんたにかなり影響受けてたでしょ」

 

「オレだけではない」

 

「わかってる。神崎くんとか、姫野さんとか、あのクラスの人たちが変わったんでしょ」

 

「ああ」

 

「でも、きっかけの一つではあったんじゃない?」

 

「そうかもしれない」

 

「珍しく認めるんだ」

 

「事実だからな」

 

 軽井沢は少しだけ目を細めた。

 

「なら、あんた自身も誰かに影響受けたって認めなさいよ」

 

「受けた」

 

「即答かい」

 

「事実だからな」

 

「誰に?」

 

 少し考えた。

 

 堀北。

 

 一之瀬。

 

 坂柳。

 

 龍園。

 

 山内。

 

 平田。

 

 須藤。

 

 櫛田。

 

 神崎。

 

 姫野。

 

 柴田。

 

 浜口。

 

 網倉。

 

 小橋。

 

 軽井沢。

 

 名前を挙げればきりがない。

 

「全員だな」

 

 そう答えると、軽井沢は一瞬黙った。

 

 それから、少しだけ笑った。

 

「そういうとこ、ずるい」

 

「ずるいのか」

 

「うん。まあ、いいけど」

 

 彼女は鞄から小さなポーチを取り出した。

 

「卒業式の時のハンカチ、使った?」

 

「まだだ」

 

「本当に何も使わないじゃん」

 

「使わない方がいいものだろう」

 

「まあ、そうだけど」

 

 軽井沢は呆れたように息を吐いた。

 

「でも、持ってて」

 

「持っている」

 

「ならいい」

 

 それは取引ではなかった。

 

 だが、完全な好意と呼ぶには、少し距離があった。

 

 軽井沢らしい距離だった。

 

 踏み込みすぎない。

 

 でも、完全には離れない。

 

 必要なら手を伸ばす。

 

 その距離を、彼女は自分で選んでいる。

 

「また何かあったら連絡しなさいよ」

 

「ああ」

 

「別に、何もなくてもいいけど」

 

「どっちだ」

 

「どっちでも」

 

 軽井沢はそう言って笑った。

 

 会計はそれぞれで払った。

 

 店を出る時、軽井沢は振り返らずに手を振った。

 

 その背中は、もう誰かの陰に隠れていなかった。

 

 それだけで、彼女の三年間が無駄ではなかったとわかる。

 

 ◇

 

 一之瀬と会ったのは、もう少し後だった。

 

 彼女から連絡が来た。

 

『少し相談したいことがあるんだけど、時間あるかな?』

 

 相談。

 

 それは一之瀬らしい言葉だった。

 

 だが、以前とは少し違う。

 

 相談したい。

 

 つまり、一人で決めないということだ。

 

 駅近くの小さな喫茶店で会った。

 

 一之瀬は先に来ていた。

 

 テーブルの上には、ノートとペンが置かれている。

 

「綾小路くん」

 

「待たせたか」

 

「ううん。私が早く来ただけ」

 

 彼女は笑った。

 

 卒業式の時より落ち着いていた。

 

 だが、少しだけ緊張しているようにも見えた。

 

「相談って何だ」

 

「うん」

 

 一之瀬はノートを開いた。

 

 そこには、いくつかの名前と矢印が書かれていた。

 

 神崎。

 

 姫野。

 

 柴田。

 

 浜口。

 

 網倉。

 

 小橋。

 

 他のクラスメイトたち。

 

「卒業してからも、みんなでたまに集まろうって話になってるんだ」

 

「いいことだな」

 

「うん。でも、私が全部予定決めようとしてたら、姫野さんに怒られた」

 

「想像できる」

 

「『卒業してまで一之瀬さん幹事固定なの、怖い』って」

 

「姫野らしい」

 

 一之瀬は少し困ったように笑った。

 

「それで、持ち回りにしようってなったんだけど、どういうふうにしたら続くかなって」

 

「オレに聞くのか」

 

「うん。白木屋式で」

 

「嫌な言葉だな」

 

「便利だから」

 

 一之瀬はそう言ってから、少しだけ目を伏せた。

 

「それと、綾小路くんにも来てほしいなって思ってる」

 

「オレもか」

 

「うん。だって、綾小路くんも私たちのクラスだったでしょ」

 

「途中からだ」

 

「途中からでも、同じクラスだったよ」

 

 一之瀬は、当たり前のことのように言った。

 

「神崎くんも、柴田くんも、浜口くんも、網倉さんも、小橋さんも、姫野さんも、綾小路くんが来るなら来ればいいって言ってた」

 

「姫野もか」

 

「姫野さんは『来てもいいんじゃない。会計が偏ったらすぐ気づきそうだし』って」

 

「らしいな」

 

「でしょ?」

 

 一之瀬は少し笑った。

 

「だから、相談相手としてじゃなくて、ちゃんと参加者として来てほしい」

 

「オレがいると落ち着かない生徒もいるだろう」

 

「いるかもしれない。でも、それも含めて決めたい。来るかどうかは綾小路くんが決めていいけど、誘わないのは違うと思った」

 

「そうか」

 

「うん。誘わせて」

 

 その言い方は、以前の一之瀬とは少し違っていた。

 

 誰かに遠慮して、最初から自分の希望を引っ込めるのではない。

 

 相手に選ばせるために、まず自分の希望を言う。

 

 それも、この一年で彼女が覚えた会計の一つなのだろう。

 

「わかった。行けるなら行く」

 

 一之瀬の表情が明るくなった。

 

「本当?」

 

「ああ」

 

「よかった」

 

「まだ確定ではない」

 

「それでも、よかった」

 

 一之瀬はノートを見直した。

 

 月ごとに幹事を変える案。

 

 参加できる人だけにする案。

 

 会費を先に決める案。

 

 誰か一人が立て替えないようにする案。

 

 思ったより整理されていた。

 

「もう答えは出ている」

 

「え?」

 

「一之瀬が全部やらない仕組みになっている。あとは続けるだけだ」

 

「でも、誰かが忙しかったら」

 

「その時は別の人間が代わる。だが、代わったことを記録する」

 

「記録?」

 

「誰が何回やったか見えるようにする。見えない負担は偏る」

 

 一之瀬はペンを取った。

 

「なるほど。じゃあ、幹事表を作る」

 

「ああ」

 

「あと、会費も先に決める」

 

「そうだな」

 

「誰かが多く払ったら、次に調整する」

 

「いい」

 

 一之瀬は書き込みながら、少し笑った。

 

「私、卒業してからも会計票見てるね」

 

「そうだな」

 

「でも、嫌じゃない」

 

「ならいい」

 

 一之瀬はペンを置いた。

 

「綾小路くん」

 

「何だ」

 

「私、あの最後の試験、まだ悔しい」

 

「ああ」

 

「堀北さんに負けたことも悔しいし、Aクラスに届かなかったことも悔しい。でも、前みたいに自分を責める感じじゃない」

 

「そうか」

 

「みんなでやって、みんなで負けたから、悔しいんだと思う」

 

「いい負け方だった」

 

「負けたのに?」

 

「負け方にも種類がある」

 

 一之瀬は少しだけ黙った。

 

 それから、ゆっくり頷いた。

 

「うん。そう思う」

 

 彼女は窓の外を見た。

 

「私、将来どうするか、まだはっきり決まってないんだ」

 

「そうか」

 

「でも、人をまとめることから逃げないようにしたい。まとめるって、全部背負うことじゃないって、やっとわかったから」

 

「ああ」

 

「みんなの会計を見るって、そういうことだよね」

 

「近い」

 

「近いんだ」

 

「完璧ではない」

 

「厳しいなあ」

 

 一之瀬は笑った。

 

 その笑顔は、以前より軽かった。

 

 誰かを安心させるためだけの笑顔ではない。

 

 自分自身もそこにいる笑顔だった。

 

「綾小路くんは?」

 

「何が」

 

「これからどうするの?」

 

「まだ決めていない」

 

「白木屋に戻ったまま?」

 

「一時的にはな」

 

「似合うけど、それだけじゃもったいない気もする」

 

「軽井沢にも似たようなことを言われた」

 

「軽井沢さんと会ったんだ」

 

「ああ」

 

 一之瀬は少しだけ楽しそうに笑った。

 

「そっか」

 

「何だ」

 

「ううん。綾小路くんが、卒業後もちゃんと人に会ってるの、いいなと思って」

 

「そんなに珍しいか」

 

「少し」

 

「そうか」

 

 一之瀬はノートを閉じた。

 

「また相談してもいい?」

 

「ああ」

 

「でも、相談しすぎたら怒って」

 

「怒るのは得意ではない」

 

「じゃあ、会計が偏ってるって言って」

 

「わかった」

 

 一之瀬は満足そうに頷いた。

 

 店を出る時、彼女は自分の分を払った。

 

 それから、レシートを見て言った。

 

「割り勘って、ちゃんと見ると気持ちいいね」

 

「そうだな」

 

「昔は、私が多く払っても別にいいって思ってた」

 

「ああ」

 

「今は、みんなが自分の分を出してくれる方が嬉しい」

 

「それは成長だ」

 

 一之瀬は少し照れたように笑った。

 

「ありがとう」

 

「礼を言われることではない」

 

「でも、言わせて」

 

「わかった」

 

 彼女は駅の方へ歩いていった。

 

 その背中は、高校の廊下で見た時より少しだけ軽く見えた。

 

 ◇

 

 次に来たのは、堀北からの連絡だった。

 

『時間があるなら、少し話せるかしら』

 

 用件が短い。

 

 軽井沢の言った通りだった。

 

 待ち合わせ場所は図書館の近くのカフェだった。

 

 堀北は時間通りに来た。

 

 卒業しても、堀北鈴音は堀北鈴音だった。

 

 姿勢が良い。

 

 言葉を選ぶ。

 

 無駄が少ない。

 

「久しぶりね」

 

「ああ」

 

「白木屋に戻ったそうね」

 

「誰から聞いた」

 

「軽井沢さん」

 

「そうか」

 

「山内くんからも聞いたわ。ポテト無料券を渡したと誇らしげに言っていた」

 

「誇ることか」

 

「彼なりには、そうなのでしょう」

 

 堀北は少しだけ口元を緩めた。

 

「山内くん、少し変わったわね」

 

「ああ」

 

「もちろん、まだ騒がしいし、調子にも乗るけれど」

 

「それは変わらないだろうな」

 

「ええ。でも、自分が何をしているかを、少しは見るようになった」

 

「佐倉のこともある」

 

 堀北は目を伏せた。

 

「そうね」

 

 佐倉愛里。

 

 その名前は、堀北クラスの伝票に最後まで残っていた。

 

 消えるものではない。

 

 消してはいけないものでもある。

 

「私たちは、Aクラスで卒業した」

 

「ああ」

 

「でも、それは全員が傷を負わなかったという意味ではないわ」

 

「そうだな」

 

「勝った後で、それを考えるようになった。勝つ前より、むしろ今の方が」

 

「それが会計だ」

 

「便利な言葉ね」

 

「よく言われる」

 

 堀北はブラックコーヒーを頼んでいた。

 

 手元のカップから、湯気が細く上がっている。

 

 高校にいた頃と同じように、彼女の所作には無駄が少なかった。

 

「一之瀬さんとは会ったの?」

 

「会った」

 

「そう」

 

「気になるのか」

 

「気にならないと言えば嘘になるわ。最後に戦った相手だもの」

 

「悔しがっていた」

 

「でしょうね」

 

「だが、謝ってはいなかった」

 

 堀北は少しだけ目を細めた。

 

「それは良かった」

 

「ああ」

 

「彼女は強くなったわ」

 

「そうだな」

 

「あなたが移った意味はあったのでしょうね」

 

「オレだけの影響ではない」

 

「わかっているわ。神崎くん、姫野さん、柴田くん、浜口くん、網倉さん、小橋さん。彼らがいたからでしょう」

 

「よく見ているな」

 

「最後に戦った相手だから」

 

 堀北は静かに言った。

 

「私のクラスも、あなたがいなくなったことで変わった」

 

「ああ」

 

「最初は腹が立ったわ。置いていかれたような気もした」

 

「そうか」

 

「でも、今は少し違う。あなたがいなくなった後の空席を、私たちがどう埋めるか。それも試験だったのだと思う」

 

「白木屋式だな」

 

「そう言われると腹が立つけれど、否定はできないわね」

 

 堀北はカップを置いた。

 

「綾小路くん」

 

「何だ」

 

「あなたはこれから、どこの卓を見るつもり?」

 

「まだわからない」

 

「そう」

 

「だが、たぶん見ることはやめない」

 

「でしょうね」

 

 堀北は少しだけ笑った。

 

「あなたは、そういう人だもの」

 

 その言い方には、以前のような苛立ちだけではなかった。

 

 認めている。

 

 そして、少しだけ呆れている。

 

 堀北らしい距離だった。

 

「また会うことはあるかしら」

 

「あるだろうな」

 

「その時は、白木屋以外でお願いしたいわ」

 

「なぜ」

 

「あなたの土俵すぎるから」

 

「山内にも言われた」

 

「でしょうね」

 

 堀北は立ち上がった。

 

 会計は別々に済ませた。

 

 店の外で、堀北は一度だけ振り返った。

 

「卒業後も、忘れ物を増やしすぎないように」

 

「努力する」

 

「あなたの努力は信用しにくいわ」

 

「そうか」

 

「ええ」

 

 堀北はそう言って、歩いていった。

 

 その背中は、高校の頃より少しだけ大きく見えた。

 

 Aクラスで卒業したからではない。

 

 自分の卓を、最後まで見た人間の背中だった。

 

 ◇

 

 龍園と会ったのは、偶然だった。

 

 駅前の路地。

 

 白木屋の納品を手伝った帰り道。

 

 向こうから、龍園が歩いてきた。

 

 隣には石崎がいた。

 

 少し離れて伊吹とアルベルトもいる。

 

 卒業しても、妙にまとまりがある。

 

「よう、白木屋」

 

「卒業しても続くのか」

 

「言っただろ。卒業しても呼ぶって」

 

「迷惑だ」

 

「褒めてんだよ」

 

「わかりにくい」

 

 龍園は笑った。

 

 石崎は苦笑している。

 

「本当に白木屋にいるのかよ」

 

「一時的にな」

 

「似合いすぎて気色悪いな」

 

「よく言われる」

 

「だろうな」

 

 龍園は白木屋の看板を見上げた。

 

「入るか」

 

「客としてか」

 

「他に何があんだよ」

 

「出禁になるなよ」

 

「なる前提で話すな」

 

 結局、四人と一緒に白木屋へ入ることになった。

 

 龍園は席につくなり、雑にメニューを開いた。

 

 石崎が慌てて止める。

 

「龍園さん、頼みすぎると会計が」

 

「うるせえ。白木屋が見てんだろ」

 

「オレは払わない」

 

「使えねえ店員だな」

 

「客の会計は客が見る」

 

 龍園は楽しそうに笑った。

 

「最後までそれか」

 

 伊吹は呆れた顔で枝豆をつまみ、アルベルトは静かに水を飲んでいる。

 

 不思議な卓だった。

 

 荒い。

 

 雑。

 

 だが、会計票は見えている。

 

 龍園はメニューを閉じると、少しだけ声を落とした。

 

「一之瀬はどうしてる」

 

「会った」

 

「まだ甘いか」

 

「甘さは残っている」

 

「だろうな」

 

「だが、背負い方は変わった」

 

 龍園は鼻で笑った。

 

「つまんねえな」

 

「つまらないのか」

 

「昔の一之瀬なら、いくらでも使えた」

 

「今は?」

 

「面倒くせえ。周りが止めるし、本人も条件を見やがる」

 

「いいことだ」

 

「俺にとっては悪いことだ」

 

 龍園は笑った。

 

「堀北も面倒になった。坂柳も穴埋めを覚えた。一之瀬も背負い方を変えた。つまんねえ連中になったな」

 

「楽しそうに見えるが」

 

「楽しいに決まってんだろ」

 

 龍園はテーブルに肘をついた。

 

「次に会う時は、学校の試験じゃねえ。もっと別の勝負だ」

 

「何をするつもりだ」

 

「さあな。金か、仕事か、人か。どこに行っても会計はあるんだろ?」

 

「ああ」

 

「なら、またどっかでぶつかる」

 

「そうか」

 

「その時は踏み倒す」

 

「出禁だな」

 

「クハハッ」

 

 会計の時、龍園は本当に払った。

 

 石崎が少し驚いていた。

 

「何だよ、その顔」

 

「いや、龍園さんが普通に払ってるなって」

 

「払う時は払うんだよ。踏み倒すのは勝負の時だけだ」

 

「何の理屈ですかそれ」

 

「俺の理屈だ」

 

 龍園は会計票を指で弾き、こちらを見た。

 

「白木屋」

 

「何だ」

 

「この店、悪くねえな」

 

「そうか」

 

「ただ、店員が気色悪い」

 

「褒めているのか」

 

「褒めてんだよ」

 

「わかりにくい」

 

 龍園たちは店を出ていった。

 

 その背中は、相変わらず荒かった。

 

 だが、最後まで席に残る力を持っている背中だった。

 

 ◇

 

 坂柳から連絡が来たのは、春が終わる頃だった。

 

『少しお時間をいただけますか』

 

 文面だけで坂柳とわかる。

 

 会う場所は、静かなホテルラウンジだった。

 

 白木屋とは正反対の場所だ。

 

 床は柔らかく、照明は落ち着き、客の声は低い。

 

 皿の音もほとんどしない。

 

 だが、会計票が存在しないわけではない。

 

 むしろ、見えにくい分だけ重い。

 

 坂柳は窓際の席にいた。

 

 杖を椅子の横に置いている。

 

「綾小路くん」

 

「坂柳」

 

「白木屋から来るには、少し場違いでしたか?」

 

「場所でやることは変わらない」

 

「そう言うと思いました」

 

 坂柳は微笑んだ。

 

 注文を終えると、彼女はすぐ本題に入った。

 

「真澄さんに会いました」

 

「そうか」

 

「ええ。卒業式の少し後です」

 

「会えたのか」

 

「連絡先は残っていましたので。向こうは、少し嫌そうでしたけれど」

 

「神室らしいな」

 

「ええ。とても」

 

 坂柳はカップに触れた。

 

 紅茶だった。

 

 白木屋とは違う、静かな香りがテーブルの上に広がる。

 

「何を話した」

 

「大したことは何も。近況を少しだけ」

 

「謝ったのか」

 

「謝罪らしい謝罪はしていません」

 

「なぜ」

 

「それを彼女に受け取らせるのは、私の自己満足になりそうでしたから」

 

 坂柳は、窓の外へ視線を向けた。

 

「真澄さんには、言われました。『そういうの、こっちに背負わせないでくれる?』と」

 

「言いそうだ」

 

「ええ。実際、もう少し乱暴な言い方でしたけれど」

 

 坂柳はわずかに笑った。

 

「彼女は相変わらずでした。私が自分の中で整理した言葉を持ち出すと、すぐに嫌な顔をする」

 

「それで」

 

「私は、真澄さんがいなくなったことに、意味を与えようとしていたのかもしれません。彼女の不在を、自分の変化の理由にして、綺麗な形に整えようとしていた」

 

「違ったのか」

 

「違いました。彼女の不在は、彼女のものです。私が勝手に飾っていいものではありません」

 

 坂柳は静かに言った。

 

「ただ、そこにあったものとして覚えておく。それで十分なのかもしれません」

 

「神室は何と言った」

 

「『勝手に納得してれば』と」

 

「それも言いそうだ」

 

「ええ」

 

 坂柳は少し楽しそうに目を細めた。

 

「ですが、帰り際に一つだけ言われました」

 

「何を」

 

「『前よりはマシな顔してる』と」

 

 坂柳はそれを、少しだけ大事そうに言った。

 

「褒め言葉か」

 

「彼女にしては、最大級でしょう」

 

「そうか」

 

「ええ」

 

 少しだけ沈黙が落ちた。

 

 皿の音が遠くで鳴る。

 

 ホテルラウンジの静けさの中でも、誰かが何かを運び、誰かが何かを払っている。

 

「あなたは、結局最後までホワイトルームの物語に巻き込まれませんでした」

 

「その言葉は坂柳からしか聞いていない」

 

「そうですね」

 

「篤臣という名前も、まだ意味は知らない」

 

「知りたいですか?」

 

 坂柳は、こちらを見た。

 

 その目は試すようでもあり、もう試すことに飽きたようでもあった。

 

「今は必要ない」

 

「でしょうね」

 

「必要になれば調べる」

 

「その時、私は少しだけ手を貸せるかもしれません」

 

「なぜ」

 

「あなたに借りがあるからです」

 

「借り?」

 

「私の卓を見る視点を、少し変えられました」

 

「それは坂柳自身が変えた」

 

「ええ。ですが、きっかけの一つはあなたです」

 

 坂柳はカップを持ち上げた。

 

「坂柳はこれからどうする」

 

「私もまだ決めきってはいません。ただ、退屈しない場所へ行くでしょう」

 

「坂柳らしい」

 

「ええ。ですが、以前より少しだけ、周囲の会計票も見ることにします」

 

「白木屋式だな」

 

「不本意ですが、そうかもしれません」

 

 坂柳は小さく笑った。

 

「また、どこかの卓で」

 

「ああ」

 

 会計は坂柳が済ませていた。

 

「こちらに呼んだのは私ですから」

 

「そうか」

 

「白木屋なら、あなたに払わせたかもしれません」

 

「なぜ」

 

「あなたのホームですので」

 

「みんなそれを言うな」

 

「事実ですから」

 

 坂柳は杖を手に取り、静かに立った。

 

 その姿は、高校の頃より少しだけ軽かった。

 

 神室の穴を消したからではない。

 

 穴があるまま歩くことを覚えたからだ。

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