綾小路清隆が育ったのがホワイトルームじゃなくて白木屋だったら 作:東頭鎖国
船上特別試験は白木屋で言えば、席順だけ決められて会計方法を伏せられた宴会だった。
同じテーブルに座っているからといって、同じ目的を持っているとは限らない。
同じ料理を食べているからといって、同じ額を払うとも限らない。
誰かが多く支払うかもしれない。
誰かが逃げるかもしれない。
誰かが、最後まで自分の伝票を隠し続けるかもしれない。
学校は、それを思考力の試験として扱っている。
オレからすれば、かなり性格の悪い会計だった。
船の上という閉じた環境も悪かった。
逃げ場が少ない。
部屋はある。
廊下もある。
食堂もある。
だが、どこへ行っても誰かの視線がある。
白木屋でも、狭い座敷で席替えができない宴会は揉めやすい。
嫌な相手が隣にいても、会計が終わるまでは席を立てない。
この試験では、各グループに優待者がいる。
誰がそれなのかを見抜けば得をする。
隠し通せば得をする。
裏切れば、別の得もある。
全員が同じ席に座っていながら、全員が同じ伝票を持っているわけではない。
そういう仕組みだった。
堀北は、正面からルールを読んでいた。
彼女らしい。
ルールの穴、情報の整理、クラス全体の損得。
それらを一つずつ拾い上げていく。
だが、この試験で見るべきものはルールだけではない。
人間だ。
誰が焦っているか。
誰が黙りすぎているか。
誰が普段より喋るか。
誰が周囲の顔色を見るか。
誰が、会計票を握られた客の顔をしているか。
そういうものは、文章には書かれない。
だが、最後の支払いには必ず出る。
船上試験の途中、龍園翔と初めてまともに言葉を交わしたのは、食堂の隅だった。
昼食時を少し外した時間で、人は多くない。
だが、完全に少ないわけでもなかった。
人の声。
食器の音。
椅子を引く音。
それらが混ざり、誰が誰を見ているのかが少しだけわかりにくくなる。
白木屋で言えば、ちょうど混雑が一段落した後の時間帯に近かった。
油断した客は声が大きくなる。
疲れた店員は確認を飛ばす。
そして、余裕のある客は周囲を観察する。
龍園は、その余裕のある客に近かった。
彼は数人の取り巻きと一緒にいた。
石崎大地。
伊吹澪。
少し離れた位置に、アルベルト。
龍園は椅子に深く座り、テーブルに肘をつきながら、こちらを見ていた。
「よう」
龍園が声をかけてきた。
「お前、堀北のとこの綾小路だよな」
「ああ」
「随分と静かな顔してやがるな」
「騒ぐ理由がない」
「船の上で妙な試験やらされてんだぞ。普通はもうちょい慌てるもんだろ」
「慌てると会計を間違える」
龍園の目が細くなった。
「会計?」
「この試験は、誰が得をして、誰が損を引き受けるかを見る試験だ。慌てると、自分の伝票を他人に渡す」
龍園は一瞬黙った。
それから、喉の奥で笑った。
「ククッ。何だそりゃ。お前、変なこと言うな」
「よく言われる」
「だろうな」
龍園は、こちらを値踏みするように見た。
その視線には、まだ警戒というほどの強さはない。
だが、単なるDクラスの背景として見る目でもなかった。
「お前、試験のルールを会計に例えてんのか」
「例えというより、似ている」
「似てねえだろ」
「似ている。誰かが秘密を持っていて、誰かがそれを見抜こうとしている。裏切れば得をする。黙っていれば損を避けられるかもしれない。最後に点数として請求が来る」
石崎が横から顔をしかめた。
「何言ってんだこいつ?」
伊吹も呆れたように言う。
「さあ。意味わかんない」
だが、龍園は笑っていた。
意味がわからないから笑っているのではない。
意味がわかりかけているから笑っている。
龍園は、荒い。
だが、馬鹿ではない。
むしろ、人間がどこで損得を考えるかをよく見ている。
だから、白木屋式の会計という言葉にも、妙な引っかかりを覚えたのだろう。
「つまり、お前はこの試験を、誰がどの伝票を持ってるか当てる遊びだと思ってるわけだ」
「かなり近い」
「ククッ。悪くねえな」
龍園は椅子の背にもたれた。
「堀北は知ってんのか? お前がそんな気色悪い見方してるって」
「知らない部分もある」
「だろうな。あの女は、もっと正面からルールを読むタイプだ」
「そうだな」
「お前は違う」
龍園は、そこで初めて少しだけ声を低くした。
「お前は、ルールより人を見てる」
「人を見るのもルールの一部だ」
「そういう返しが気に入らねえ」
「そうか」
「褒めてんだよ」
「わかりにくいな」
龍園は笑った。
石崎は会話についていけず、伊吹は退屈そうにこちらを見ている。
アルベルトは黙っていた。
だが、龍園だけは明らかに、こちらへの認識を少し変えていた。
「お前、ホントにDクラスか?」
「そうだ」
「堀北の後ろに隠れてるだけの男に見えたがな」
「隠れているつもりはない」
「じゃあ何だ」
「注文を取りに行く前に、客席を見ているだけだ」
「またそれかよ」
龍園は面白そうに笑った。
「お前、どこ育ちだ?」
その問いに、石崎と伊吹もわずかに反応した。
「白木屋だ」
龍園の笑みが止まった。
石崎が素で聞き返す。
「白木屋?」
伊吹も眉をひそめた。
「居酒屋の?」
「ああ」
数秒、変な沈黙が落ちた。
その後、龍園が盛大に笑った。
「クハハハハッ! 白木屋ぁ? 何だそれ。冗談にしては意味わかんねえな」
「冗談ではない」
「マジかよ。お前、居酒屋で何習ってこの学校来てんだ?」
「注文と会計と客の見方だ」
「最高だな」
龍園は心底面白そうに言った。
「気に入ったぜ、白木屋」
「名前ではない」
「知るか。今日からお前は白木屋だ」
「やめろ」
「嫌だね」
龍園は立ち上がった。
石崎も慌てて立つ。
伊吹は面倒くさそうに続いた。
アルベルトは最後まで黙ったままだった。
「綾小路」
「何だ」
「この試験、どこまで見えてる?」
「全部ではない」
「どこまでだ」
「誰が焦っているかは見える」
龍園は口の端を上げた。
「なら、俺のことは?」
「焦ってはいない」
「そうか」
「楽しんでいる」
龍園の笑みが深くなった。
「正解だ」
そう言って、彼は食堂を出ていった。
その背中を見ながら、オレは思った。
龍園翔は、会計を荒らす客だ。
だが、会計を見ていない客ではない。
むしろ、誰に払わせるかを誰よりもよく見ている。
だから厄介なのだろう。
◇
その後、軽井沢恵の様子がおかしいことに気づいた。
最初は小さな違和感だった。
女子の集まりから離れるのが早い。
廊下で誰かとすれ違った後、表情を戻すまでが一瞬遅い。
いつもの軽さが、少しだけ硬い。
そして、彼女の周囲にいる女子の数人が、見えないところで彼女を値踏みしていた。
表では笑う。
だが、笑った後に目を合わせる。
何かを確認する。
軽井沢が気づかないふりをする。
それは、白木屋の宴会でもよく見る動きだった。
誰かを冗談の的にして、どこまで許されるか試す。
一度笑って済ませたら、次は少し強くする。
周囲が止めなければ、さらに強くする。
やがて、それはその席の役割になる。
軽井沢は、その役割を一度与えられた人間の動きをしていた。
後からわかったことだが、彼女は過去にいじめを受けていた。
それ自体をオレはその時点で詳しく知っていたわけではない。
ただ、見ればわかった。
彼女は、場に馴染むために笑っているのではない。
場から落とされないために笑っていた。
宴会の中心にいるようで、実際には会計票を握られている客だった。
船上試験の構造上、軽井沢は利用できる位置にいた。
女子の情報を拾える。
表の空気を読める。
そして何より、弱みを隠している。
隠している弱みは、他人に握られれば武器になる。
だが、自分で見える場所に置けば、取引材料にもなる。
その判断は、たぶん非情だった。
だが、必要でもあった。
軽井沢と最初に直接話したのは、人の少ない廊下だった。
船内の照明は白く、窓の外は暗い。
廊下には、微かなエンジン音が響いていた。
軽井沢は、こちらに気づくといつもの顔を作った。
「何? 綾小路くん」
「少し話がある」
「えー、何それ。怖いんだけど」
声は軽い。
だが、目は警戒している。
軽井沢は、相手の目的がわからない時ほど笑う。
笑えば、場が柔らかくなる。
相手も踏み込みにくくなる。
それを知っている笑い方だった。
「お前は、今の立ち位置を守りたいんだろう」
「は?」
「女子の中で孤立したくない。中心に近い場所にいたい。少なくとも、下に落とされたくない」
軽井沢の笑顔が、ほんの少しだけ固まった。
「急に何言ってるの? 意味わかんないんだけど」
「わからないなら、それでいい」
「感じ悪」
「ただ、今のままだと危ない」
「何が?」
「お前は、誰かに会計票を握られている」
軽井沢は眉をひそめた。
「また白木屋の話?」
「似たようなものだ」
「知らないし。ていうか、何で私にそんなこと言うわけ?」
「必要だからだ」
「何に?」
「この試験に」
軽井沢は黙った。
その沈黙で十分だった。
彼女は馬鹿ではない。
こちらの言葉が単なる雑談ではないことを理解している。
だが、認めるわけにはいかない。
認めれば、自分が守っているものが崩れる。
「私、別に困ってないし」
「そう見せるのが上手いだけだ」
「何それ。ムカつくんだけど」
「ムカつくなら、まだ余裕がある」
「は?」
「本当に余裕がなければ、怒ることもできない」
軽井沢は、こちらを睨んだ。
だが、その目の奥には怒りだけではないものがあった。
恐怖。
疑い。
そして、ほんの少しの期待。
誰かが自分の会計票に気づいたことへの期待だ。
それを本人が認めるかどうかは別として。
「オレと組め」
オレは言った。
「はあ?」
「お前の立場は守る。その代わり、必要な情報を渡せ」
「何それ。取引?」
「そうだ」
「私に何の得があるの」
「お前が今まで一人で払っていた分を、少し減らせる」
軽井沢は口を閉じた。
その言い方は、たぶん彼女に刺さった。
誰かに守られる。
助けられる。
そういう言葉なら、彼女は拒絶したかもしれない。
だが、一人で払っていた分を減らす。
それは、彼女が隠してきた疲労に近かった。
「綾小路くんって、ほんと何なの」
「ただの同じクラスの生徒だ」
「嘘くさ」
「事実だ」
「白木屋育ちって、みんなそうなの?」
「たぶん違う」
「たぶんなんだ」
軽井沢は、少しだけ笑った。
さっきまでの作った笑いとは違う。
不安は消えていない。
だが、会話の余地はできた。
「私が断ったら?」
「それでもいい」
「脅さないんだ」
「脅せば、後で会計が重くなる」
「また会計」
「大事だ」
「……変な人」
軽井沢はそう言って、廊下の壁に背を預けた。
「でも、もし組むなら条件がある」
「何だ」
「私のこと、変に言いふらさないで」
「ああ」
「女子の前で、私に変に話しかけないで」
「ああ」
「あと、私が助けてって言わなくても、やばそうなら気づいて」
「難しい条件だな」
「無理?」
「いや。見る」
軽井沢は一瞬、驚いたような顔をした。
それから、少し視線を逸らした。
「じゃあ……考えてもいい」
「それでいい」
「即答しないの?」
「無理に即答させると、後で逃げる」
「何か、本当に店員みたい」
「よく言われる」
「言われるんだ」
その時点で、軽井沢との関係は決まった。
恋愛ではない。
友情とも違う。
保護でもない。
取引だった。
だが、取引だからこそ彼女は受け入れられた。
誰かの善意にすがる形ではなく、自分にも役割がある形だったからだ。