綾小路清隆が育ったのがホワイトルームじゃなくて白木屋だったら 作:東頭鎖国
数日後、龍園は再び声をかけてきた。
「よう、白木屋」
「その呼び方は定着させるな」
「もう俺の中では定着した」
「迷惑だな」
「お前、軽井沢と何か話してただろ」
龍園は唐突に言った。
表情は笑っている。
だが、目は笑っていない。
伊吹が少し離れた場所で壁にもたれている。
石崎はいない。
アルベルトも見えない。
人目はあるが、聞き耳を立てるほど近い者はいない。
龍園は、そういう場所を選んでいる。
「見ていたのか」
「たまたまな」
「たまたまにしては、よく見ている」
「俺は客席を見るのが好きなんだよ」
「お前も白木屋式か」
「うるせえ」
龍園は笑った。
「軽井沢は、表で笑ってる割に妙な顔をする。ああいう女は、だいたい何か持ってる」
「そうか」
「お前も気づいてんだろ」
「何に」
「とぼけんな。弱みだよ」
龍園は一歩近づいた。
「弱みを持ってるやつは使える。特に、弱みを隠すのに慣れてるやつはな」
「使うのか」
「使えるならな」
「それは会計が荒れる」
「荒らすために使うんだよ」
龍園らしい言い方だった。
彼は軽井沢を見抜いている。
ただし、助けるためではない。
利用するために見ている。
そこがオレとは違う。
いや、完全に違うとも言い切れない。
オレも軽井沢を利用するつもりはあった。
だが、使い捨てるつもりはなかった。
そこに差がある。
「龍園」
「何だ」
「その伝票には手を出すな」
龍園の目が鋭くなった。
「ほう」
「軽井沢の会計は、今はオレが見ている」
「何だそりゃ。彼氏気取りか?」
「違う」
「じゃあ何だよ」
「取引相手だ」
龍園は少し黙った後、また笑った。
「ククッ。取引相手ねえ。白木屋らしいな」
「らしいかどうかは知らない」
「つまり、お前が先に席を取ったってことか」
「席は軽井沢のものだ。オレは伝票を見ているだけだ」
「その言い方、本当に気色悪いな」
「よく言われる」
「だろうな」
龍園は、わざとらしく肩をすくめた。
「だが、覚えとくぜ。あの女に手を出せば、お前が出てくる」
「必要ならな」
「じゃあ、いつか試す」
「やめておけ」
「それを決めるのは俺だ」
龍園は背を向けた。
去り際、彼は振り返らずに言った。
「白木屋」
「何だ」
「お前、堀北より面倒そうだな」
「そうか」
「褒めてんだよ」
「わかりにくい」
「わかりやすく褒める趣味はねえ」
その会話以降、龍園はオレを完全な背景とは見なくなった。
堀北の後ろにいる無害な男。
そういう扱いではなくなった。
白木屋。
奇妙な見方をする男。
軽井沢の伝票を見ている男。
龍園の中で、そういう位置づけになったのだろう。
船上試験の終盤、軽井沢は情報を流した。
女子の間で誰が誰を疑っているか。
誰が場を誘導しようとしているか。
誰が裏で余計なことを言っているか。
小さな情報ばかりだった。
だが、小さな情報ほど、会計票の端に書かれた数字に似ている。
一つだけなら見逃せる。
積み重なれば、最後の支払いを変える。
軽井沢は、その端の数字を拾うのが上手かった。
オレは、その情報を使って試験の盤面を整理した。
誰が優待者なのか。
どこで裏切りが起きるか。
どのグループが焦っているか。
直接動くより、情報の流れを見る方が効いた。
軽井沢は表に出ない。
オレも彼女の名前を出さない。
それでいい。
彼女の価値は、表に出した瞬間に危険になる。
試験の最後、龍園は誰よりも楽しそうだった。
彼は、勝つことだけを考えているわけではない。
どこで誰が焦り、誰が隠し、誰が裏切るか。
それを見ている。
たぶん、オレとは違う言葉で、同じような伝票の端を見ている。
だからこそ、面倒だった。
◇
船上試験の決着がついた後、軽井沢は人の少ないデッキにいた。
夜風が強い。
船の外は暗く、海面はほとんど見えなかった。
「終わったの?」
「ああ」
「そう」
軽井沢は手すりに寄りかかっていた。
髪が風で揺れる。
その横顔は、いつもの教室で見せるものより少し疲れていた。
「私、役に立った?」
「立った」
「そ」
彼女は短く返した。
だが、少しだけ安心したように見えた。
「これからどうなるの?」
「何が」
「私と綾小路くんの関係」
「必要があれば、また頼む」
「こっちの安全は?」
「守る」
軽井沢は、こちらを見た。
「簡単に言うね」
「簡単ではない」
「でも言うんだ」
「ああ」
軽井沢は、しばらく黙っていた。
「私さ」
「ああ」
「誰かに守られるの、嫌いなんだと思ってた」
「そうか」
「でも、たぶん違う。守るって言いながら、こっちから色々奪う人が嫌いだったんだと思う」
その言葉は、彼女の過去を少しだけ覗かせた。
詳しく聞く必要はなかった。
聞かれたくないこともある。
白木屋でも、客が自分から言いかけた愚痴を、無理に掘るのは良くない。
言いたくなった時に言えばいい。
「オレは奪わないとは限らない」
「そこは嘘でも奪わないって言いなさいよ」
「嘘は後で会計が重くなる」
「またそれ」
軽井沢は呆れたように笑った。
「でも、まあ……いいや。嘘っぽい優しさよりはマシ」
「そうか」
「うん」
それから彼女は、少しだけ声を低くした。
「私のこと、変に守りすぎないで」
「どういう意味だ」
「私が弱いだけの人間みたいになるのは嫌」
「わかった」
「でも、本当にやばい時は守って」
「難しいな」
「でしょ」
軽井沢は笑った。
それは、彼女らしい条件だった。
弱者として扱われたくない。
だが、完全に一人で放っておかれるのも怖い。
その矛盾を、彼女は自分でわかっている。
だから、取引が必要だった。
「なら、こうする」
オレは言った。
「お前の立場はお前のものだ。オレは、それを勝手に取り上げない。ただ、誰かが会計票をお前一人に押し付けようとした時は止める」
「何それ」
「白木屋式だ」
「やっぱり変」
軽井沢は笑った。
だが、拒絶はしなかった。
「じゃあ、それで」
「ああ」
「あと、私も使われるだけなのは嫌だから」
「わかっている」
「本当に?」
「使う時は、対価を払う」
「ポイント?」
「情報、安全、立場。必要なものを」
「現実的すぎ」
「取引だからな」
軽井沢は、しばらく海を見ていた。
そして、小さく言った。
「じゃあ、取引成立ってことで」
「ああ」
それが、船上試験における軽井沢の顛末だった。
彼女はただ助けられたわけではない。
ただ利用されたわけでもない。
自分の弱みを完全に明かさないまま、それでも一部を取引材料として出した。
オレはそれを使い、同時に彼女の立場を守ることを引き受けた。
この関係は、後々まで残る。
だが、恋人関係になるわけではない。
この白木屋の会計では、軽井沢は恋愛の相手ではなく、最初に「自分の支払いを見られること」を受け入れた協力者だった。
軽井沢は、最後にデッキを離れる時、振り返らずに言った。
「綾小路くん」
「何だ」
「ポテトってさ」
「ああ」
「本当に場を壊しにくいの?」
「かなり」
「じゃあ、今度頼む」
「誰と」
「知らない。女子とでも、誰とでも」
「そうか」
「でも、唐揚げのレモンは別ね」
「わかっているじゃないか」
「白木屋式、ちょっとだけね」
彼女はそう言って、船内へ戻っていった。
その背中は、まだ危うかった。
だが、完全に誰かの伝票を押し付けられるだけの客ではなくなっていた。
軽井沢恵は、その船の上で、自分の会計票を少しだけ自分の手元に取り戻した。
◇
船内へ戻る途中、食堂の入口近くで龍園とすれ違った。
龍園は壁に背を預け、こちらを待っていたようにも見えた。
「またな、白木屋」
「その呼び方はやめろ」
「嫌だね」
「面倒な客だな」
「俺は客じゃねえ」
「じゃあ何だ」
「会計を踏み倒す側だ」
「出禁になるぞ」
龍園は楽しそうに笑った。
「やれるもんならな」
その笑いは、まだ軽かった。
だが、その奥にあるものは軽くなかった。
龍園は、いつかこちらの伝票を奪いに来る。
そういう目をしていた。
白木屋で育ったオレにとって、それはかなり面倒な相手だった。
◇
体育祭では、クラスの未熟さが露骨に出た。
身体能力の差。
連携の悪さ。
クラス間の情報戦。
龍園翔は、ああいう場で強い。
声が大きく、恐怖を使い、集団の熱を操作する。
白木屋で言えば、乾杯の音頭を奪ってその場を自分の宴会に変える客だ。
迷惑だが、場を動かす力がある。
堀北は兄への意識を引きずっていた。
須藤は感情で走りすぎる。
山内と池は浮つく。
体育祭は、誰が速いかだけの試験ではなかった。
誰が自分の役割を理解しているか。
誰が他人の失敗を許容できるか。
誰が敗北した後も席に残るか。
それを測る試験だった。
須藤は、そこで少し変わった。
堀北も少し変わった。
人間は、勝った時より負けた時に形が出る。
白木屋の会計と同じだ。
気分よく飲んでいる時の人間は、誰でも似たような顔をする。
問題は、損をしたと感じた時だ。
怒鳴るのか。
黙るのか。
笑って払うのか。
そこに本質が出る。
◇
ペーパーシャッフルでは、堀北と櫛田の問題が表に出た。
櫛田桔梗という人間は、白木屋で言えば完璧な笑顔で注文をまとめる客だった。
誰とでも話せる。
誰にでも合わせる。
全員の好き嫌いを把握している。
だが、そういう人間が常に善人とは限らない。
むしろ、全員の情報を持っている人間ほど危険だ。
櫛田は、自分の過去を守るためなら場そのものを壊す覚悟を持っていた。
堀北はそこに踏み込まざるを得なかった。
オレは、二人の間にあるものを見ていた。
嫌悪。
恐怖。
執着。
そして、どちらもまだ席を立てないという事実。
白木屋なら、同じ卓に座らせてはいけない二人だ。
だが学校では、そう簡単に席替えはできない。
ならば、同じ卓に座らせたまま、皿の置き方を変えるしかない。
この頃から、坂柳有栖の視線を強く感じるようになった。
Aクラスの中心にいる生徒。
身体的な不自由を抱えながらも、それを補って余りある観察眼と判断力を持つ。
彼女の視線は、堀北や龍園のものとは違っていた。
オレ個人を見るというより、何か既存の答えに照合しているようだった。