綾小路清隆が育ったのがホワイトルームじゃなくて白木屋だったら   作:東頭鎖国

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一年生編⑤

 ある日の放課後。

 

 人通りの少ない渡り廊下で、坂柳はオレの前に立った。

 

「綾小路くん。少し、お時間よろしいでしょうか」

 

「断ったら?」

 

「それはそれで興味深い反応です」

 

 断っても無駄らしい。

 

 坂柳は微笑んだまま、ゆっくりと歩き出す。

 

 オレはその隣を歩いた。

 

 窓の外から差し込む光が、床に細長い影を作っていた。

 

 坂柳の歩幅は小さい。

 

 急ぐ気はないらしい。

 

 彼女は、時間を自分のものとして扱う。

 

 白木屋で言えば、会計票が来ても慌てず、全員の表情を見てから財布を出す客だ。

 

 厄介な部類に入る。

 

「あなたには、ずっと興味がありました」

 

「そうか」

 

「ええ。初めて見た時から」

 

「オレは目立つようなことはしていないと思うが」

 

「目立たないようにしている、という点が目立つのです」

 

 厄介なことを言う。

 

「あなたの成績、身体能力、対人関係への介入の仕方。どれも不自然です。凡庸を装いながら、必要な場面では正確に最適解を選ぶ」

 

「偶然だ」

 

「偶然が何度も続けば、それは性質と呼ばれます」

 

 坂柳は立ち止まった。

 

「綾小路くん。あなたは、白い部屋で育ったのですか?」

 

 白い部屋。

 

 一瞬、意味がわからなかった。

 

 白い部屋と言われて思い浮かぶのは、病院の個室か、安いカラオケ店の壁紙くらいだ。

 

「白い部屋?」

 

「ええ」

 

 坂柳は、わずかに声を落とした。

 

「管理され、選別され、才能を人工的に磨かれる場所。人間を人間としてではなく、成果物として作り上げる場所です」

 

 かなり重大なことを言っているのはわかった。

 

 だが、心当たりはない。

 

 オレが育った場所は、少なくとも白い部屋ではなかった。

 

 むしろ木目調だった。

 

「違う」

 

 オレは短く答えた。

 

 坂柳の目が、わずかに細まる。

 

「では、どこで?」

 

 少し迷った。

 

 白木屋の話をするべきか。

 

 だが、坂柳のような相手には、曖昧な嘘よりも理解しづらい真実をぶつけた方がいい場合がある。

 

 白木屋式対人対応術。

 

 想定外の皿を出して、相手の箸を止める。

 

「白木屋だ」

 

「……はい?」

 

 坂柳有栖が、初めて明確に聞き返した。

 

「白木屋」

 

「しらき……や?」

 

「ああ」

 

「居酒屋の、ですか?」

 

「そうだ」

 

 坂柳は沈黙した。

 

 数秒。

 

 いや、体感ではもっと長い。

 

 彼女の表情から微笑は消えていない。

 

 だが、その微笑の奥で何かが高速で組み替えられているのがわかった。

 

「綾小路くん」

 

「何だ」

 

「今のは、私をからかっているのでしょうか」

 

「違う」

 

「本当に?」

 

「ああ」

 

「あなたは、白い部屋ではなく、白木屋で育ったと」

 

「そう言っている」

 

 坂柳はさらに沈黙した。

 

 杖を握る指が、ほんの少しだけ動く。

 

 処理に困っているらしい。

 

 Aクラスの坂柳有栖をここまで困惑させるとは、白木屋も侮れない。

 

「……なるほど」

 

 やがて、坂柳は小さく息を吐いた。

 

「白い部屋ではなく、白木屋」

 

「似ているようで、かなり違う」

 

「ええ。かなり違いますね」

 

 彼女はゆっくりと微笑を取り戻した。

 

 ただし、いつもの余裕だけの笑みではない。

 

 そこには、明らかな興味が混じっていた。

 

「では、あなたは居酒屋で教育を受けたということですか?」

 

「そうなる」

 

「どのような教育を?」

 

「メニュー暗記。接客動線の把握。酔客の心理分析。注文傾向からの人格推定。飲み放題ラストオーダー前に発生する集団焦燥への対応。会計時の責任転嫁の観察。唐揚げにレモンをかけるべきか否かの危機管理」

 

「最後だけ、妙に具体的ですね」

 

「重要だからな」

 

 坂柳は口元に手を添えた。

 

「つまりあなたの異常な観察力は、管理された環境ではなく、混沌とした宴会場で培われたものだと」

 

「異常かどうかは知らない」

 

「異常です」

 

 即答だった。

 

「少なくとも、普通の方は酔客の心理分析を幼少期から行いません」

 

「そうなのか」

 

「そうです」

 

 彼女は楽しげだった。

 

 危険な反応だ。

 

 未知のものを前にした時、坂柳は退かない。

 

 むしろ近づく。

 

「綾小路くん」

 

「何だ」

 

「唐揚げにレモンは、かけるべきなのでしょうか」

 

 坂柳の目は真剣だった。

 

 冗談ではない。

 

 おそらく、この問いからオレの教育思想を測ろうとしている。

 

「全体にかけるのは悪手だ」

 

「理由は?」

 

「選択権を奪うからだ。人間は些細な自由を奪われると、必要以上に反発する。だが、個別の皿に添え、必要なら使える状態にしておけば不満は出にくい」

 

「なるほど」

 

「ただし、場の空気によっては、あえて誰かが全体にかけることで議論を発生させ、停滞した会話を動かすこともできる」

 

「……そこまで?」

 

「唐揚げは場を動かす」

 

 坂柳は小さく笑った。

 

 嘲笑ではない。

 

 本当に面白がっている笑いだった。

 

「素晴らしいです、綾小路くん。あなたは私が思っていたより、ずっと興味深い」

 

「オレとしては、あまり興味を持たれたくない」

 

「それは難しいでしょうね」

 

 坂柳は一歩近づいた。

 

「管理された白い部屋で磨かれた才能なら、私は理解できるつもりでした。けれど、白木屋で磨かれた才能は未知です」

 

「その白い部屋というのは何なんだ」

 

「こちらの話です」

 

 それ以上は答えない。

 

 坂柳は情報を出す時と出さない時を分けている。

 

 白木屋で言えば、会計票を見ているのに、最後まで総額を言わないタイプだ。

 

 ◇

 

 混合合宿では、他学年と他クラスが混ざった。

 

 七泊八日。

 

 共同生活。

 

 最終試験。

 

 退学の可能性。

 

 白木屋で言えば、知らない客同士を大部屋に押し込み、同じ鍋を囲ませるようなものだった。

 

 相性の悪さは隠せない。

 

 上級生は圧をかける。

 

 同級生同士でも牽制が起きる。

 

 下級生は空気を読む。

 

 個人の能力よりも、場に馴染む力が問われた。

 

 高円寺のように、馴染む気がないのに成立してしまう例外もいる。

 

 龍園のように、馴染むのではなく場を奪う者もいる。

 

 坂柳は遠くから盤面を眺めている。

 

 堀北は、他者と組む難しさを知る。

 

 オレは、白木屋で見た大人数宴会の感覚を思い出していた。

 

 大人数になるほど、全員を管理することはできない。

 

 必要なのは、全員を動かすことではなく、動くべき点を見つけることだ。

 

 誰か一人を少し動かせば、隣が動く。

 

 隣が動けば、列が動く。

 

 列が動けば、場が変わる。

 

 混合合宿は、そういう試験だった。

 

 ◇

 

 そして、クラス内投票。

 

 会計票が一気に目の前へ来た。

 

 誰かを選ぶ。

 

 誰かを落とす。

 

 匿名の投票は、人間を残酷にする。

 

 白木屋でも、会計時に「誰が一番飲んだか」を匿名で指差せる仕組みがあれば、場はすぐに崩れるだろう。

 

 人間は、自分の顔が見えない時ほど強くなる。

 

 そして、卑怯にもなる。

 

 この時、山内は自分が危ない側にいることを本能で悟っていた。

 

 普段の軽薄さが薄れ、目が泳いでいた。

 

 白木屋で見たことがある。

 

 会計票を前にして、ようやく自分の財布の中身を確認する客の顔だ。

 

 もっと早く見ておくべきだった。

 

 だが、見なかった。

 

 だから今、焦っている。

 

「綾小路……俺、大丈夫だよな?」

 

 廊下の隅で、山内はそう聞いてきた。

 

「何がだ」

 

「いや、その……俺、退学とかないよな?」

 

「状況による」

 

「そういうのやめろよ!」

 

 声が震えていた。

 

 虚勢を張る余裕もない。

 

 ただの弱い高校生が、そこにいた。

 

「山内」

 

「何だよ」

 

「残りたいなら、残るために動け」

 

「動けって、何すりゃいいんだよ」

 

「自分が必要だと示せ。騒ぐだけじゃなく、何かを引き受けろ」

 

「俺にできることなんか……」

 

「ある」

 

 山内は顔を上げた。

 

「本当か?」

 

「お前は、人に話しかけることへの抵抗が少ない。軽い情報収集ならできる」

 

「それ、役に立つのか?」

 

「使い方次第だ」

 

「使い方……」

 

「ただし、余計なことは言うな」

 

「それ一番難しいんだけど」

 

「知ってる」

 

 山内は黙った。

 

 自分が軽い人間だと、ようやく自覚しかけている顔だった。

 

 ただ自覚したからといって、そこで完全には変わらない。

 

 人間は、一度の会計で別人にはならない。

 

 だが、財布の中身を初めて見ることはできる。

 

 山内はギリギリで、自分の危うさを見た。

 

 それでも、山内を切ることが最善かどうかは別だった。

 

 山内は軽率だ。

 

 女子への距離感も危うい。

 

 授業態度も良いとは言えない。

 

 成績も高くない。

 

 特別試験で大きな成果を出したわけでもない。

 

 クラス内で誰かに批判票を集めるなら、名前が挙がりやすい。

 

 実際、空気は山内へ流れかけていた。

 

 池や須藤は表立っては庇おうとした。

 

 だが、庇う言葉には弱さがあった。

 

 山内を残すべき理由を、誰も強く言えない。

 

 平田は誰も退学させたくないという理想を崩せずにいる。

 

 軽井沢は女子側の空気を拾いながら、山内への不満が少なくないことを察していた。

 

 堀北は、冷静に候補を見ていた。

 

 山内を切る。

 

 それは、わかりやすい選択だった。

 

 だが、わかりやすい選択が必ずしも最善とは限らない。

 

 山内は、確かに問題を起こす。

 

 だが、場が沈みすぎた時に軽口で空気を揺らすこともある。

 

 白木屋で言えば、会計前の嫌な沈黙を、くだらない一言で一瞬だけ薄める客だ。

 

 それで会計が消えるわけではない。

 

 だが、全員が黙り込んで席を立てなくなるよりはましな場合がある。

 

 軽さには、軽さの使い道がある。

 

 もちろん、それだけで残れるほど、この学校は甘くない。

 

 だが、山内は怒られれば少しは修正できる。

 

 雑に動かせば失敗するが、役割を絞れば動く。

 

 失敗する可能性があるということは、裏返せば、まだ何かを起こせるということでもある。

 

 堀北と話した時、彼女は静かに言った。

 

「山内くんは危険ね」

 

「ああ」

 

「批判票が集まっても不思議ではないわ」

 

「そうだな」

 

「あなたは、それを避けるべきだと考えているの?」

 

「今切るべきではないとは思っている」

 

 堀北は怪訝そうにこちらを見た。

 

「理由は?」

 

「軽さにも役割がある」

 

「……本気で言っているの?」

 

「ああ」

 

 堀北は小さく息を吐いた。

 

「山内くんの軽率さが、今後も問題を起こす可能性は高いわ」

 

「そうだな」

 

「なら、残す理由としては弱い」

 

「山内は問題を起こす。だが、何も起こせないわけではない。場を軽くすることもある。怒られれば多少は止まる。使い方を間違えなければ、まだ役に立つ」

 

「随分と道具のような言い方をするのね」

 

「この試験は、人を人として扱っていない」

 

「……っ」

 

 堀北は黙った。

 

 称賛票と批判票。

 

 誰かを数字で押し出す仕組み。

 

 そこに綺麗な言葉を重ねても、構造は変わらない。

 

「では、誰を切るの?」

 

 堀北の声は冷たかった。

 

 冷たくしなければ、口にできない問いだった。

 

 誰かを残すなら、誰かが支払う。

 

 それがこの試験の会計票だった。

 

 候補として残ったのは、佐倉愛里だった。

 

 その名前は簡単には出せなかった。

 

 佐倉は、須藤の暴力事件でクラスを救った。

 

 あの時、彼女が勇気を出して証言しなければ、須藤が退学になっていた可能性は高い。

 

 Dクラスは大きな損失を負っていた。

 

 佐倉の一歩は、本物だった。

 

 それをなかったことにはできない。

 

 だが、一度大きく支払ったことが、次の会計を免除する理由にはならない。

 

 それがこの学校の残酷さだった。

 

 佐倉はその後、クラスの中で強い立場を築けていなかった。

 

 成績で引っ張るわけでもない。

 

 運動で貢献するわけでもない。

 

 交渉で動けるわけでもない。

 

 人間関係を広く支えるわけでもない。

 

 小さな気遣いはある。

 

 だが、小さな気遣いは、こういう試験では数字になりにくい。

 

 白木屋で、空いた皿を端に寄せてくれる客はありがたい。

 

 だが、最後に高額な伝票を前にした時、その気遣いが会計を大きく減らすわけではない。

 

 堀北は、すぐには受け入れなかった。

 

「佐倉さんは、須藤くんの件でクラスを助けているわ」

 

「ああ」

 

「その功績を無視するの?」

 

「無視はしない」

 

「なら」

 

「だが、功績があることと、今後残すべきかは別だ」

 

 堀北の表情が険しくなる。

 

「あなたは本当に嫌なことを言うわね」

 

「そうだな」

 

「自覚はあるのね」

 

「ある」

 

 堀北は佐倉の席を見た。

 

 佐倉は静かに座っていた。

 

 自分が候補に上がっていることを、察しているのかもしれない。

 

 その姿は頼りなかった。

 

 だが、頼りないから切っていいという話ではない。

 

 切るという行為は、どんな理由を並べても切ることだ。

 

 平田は強く反発した。

 

「佐倉さんを退学にするなんて、僕は納得できない」

 

「納得できる退学者などいないわ」

 

 堀北が言った。

 

 その声には迷いがあった。

 

 しかし、迷いを隠していた。

 

「でも、佐倉さんはクラスを救ったんだ」

 

「ええ。それは事実よ」

 

「だったら」

 

「でも、それだけで今後も残れるとは限らない」

 

 平田は苦しそうに顔を歪めた。

 

 彼は誰も切りたくない。

 

 それは美徳だ。

 

 だが、この試験は美徳を試していない。

 

 誰を切るかを試している。

 

 軽井沢は、女子側の空気を拾っていた。

 

「正直、佐倉さんに票が集まりそうな雰囲気はあるよ」

 

 彼女は小声で言った。

 

「悪く言う子は少ない。でも、残す理由を強く言える子も少ない」

 

「山内は?」

 

「嫌われてる。でも、騒がしい分、庇うやつもいる。池とか須藤とか。あと、あいつを切るのはわかりやすすぎるって思ってる人もいる」

 

 軽井沢の見立ては正確だった。

 

 山内は嫌われやすい。

 

 だが、存在感がある。

 

 存在感がある人間は、嫌われる分だけ、誰かに思い出される。

 

 佐倉は、忘れられやすい。

 

 それが危険だった。

 

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