綾小路清隆が育ったのがホワイトルームじゃなくて白木屋だったら 作:東頭鎖国
ある日の放課後。
人通りの少ない渡り廊下で、坂柳はオレの前に立った。
「綾小路くん。少し、お時間よろしいでしょうか」
「断ったら?」
「それはそれで興味深い反応です」
断っても無駄らしい。
坂柳は微笑んだまま、ゆっくりと歩き出す。
オレはその隣を歩いた。
窓の外から差し込む光が、床に細長い影を作っていた。
坂柳の歩幅は小さい。
急ぐ気はないらしい。
彼女は、時間を自分のものとして扱う。
白木屋で言えば、会計票が来ても慌てず、全員の表情を見てから財布を出す客だ。
厄介な部類に入る。
「あなたには、ずっと興味がありました」
「そうか」
「ええ。初めて見た時から」
「オレは目立つようなことはしていないと思うが」
「目立たないようにしている、という点が目立つのです」
厄介なことを言う。
「あなたの成績、身体能力、対人関係への介入の仕方。どれも不自然です。凡庸を装いながら、必要な場面では正確に最適解を選ぶ」
「偶然だ」
「偶然が何度も続けば、それは性質と呼ばれます」
坂柳は立ち止まった。
「綾小路くん。あなたは、白い部屋で育ったのですか?」
白い部屋。
一瞬、意味がわからなかった。
白い部屋と言われて思い浮かぶのは、病院の個室か、安いカラオケ店の壁紙くらいだ。
「白い部屋?」
「ええ」
坂柳は、わずかに声を落とした。
「管理され、選別され、才能を人工的に磨かれる場所。人間を人間としてではなく、成果物として作り上げる場所です」
かなり重大なことを言っているのはわかった。
だが、心当たりはない。
オレが育った場所は、少なくとも白い部屋ではなかった。
むしろ木目調だった。
「違う」
オレは短く答えた。
坂柳の目が、わずかに細まる。
「では、どこで?」
少し迷った。
白木屋の話をするべきか。
だが、坂柳のような相手には、曖昧な嘘よりも理解しづらい真実をぶつけた方がいい場合がある。
白木屋式対人対応術。
想定外の皿を出して、相手の箸を止める。
「白木屋だ」
「……はい?」
坂柳有栖が、初めて明確に聞き返した。
「白木屋」
「しらき……や?」
「ああ」
「居酒屋の、ですか?」
「そうだ」
坂柳は沈黙した。
数秒。
いや、体感ではもっと長い。
彼女の表情から微笑は消えていない。
だが、その微笑の奥で何かが高速で組み替えられているのがわかった。
「綾小路くん」
「何だ」
「今のは、私をからかっているのでしょうか」
「違う」
「本当に?」
「ああ」
「あなたは、白い部屋ではなく、白木屋で育ったと」
「そう言っている」
坂柳はさらに沈黙した。
杖を握る指が、ほんの少しだけ動く。
処理に困っているらしい。
Aクラスの坂柳有栖をここまで困惑させるとは、白木屋も侮れない。
「……なるほど」
やがて、坂柳は小さく息を吐いた。
「白い部屋ではなく、白木屋」
「似ているようで、かなり違う」
「ええ。かなり違いますね」
彼女はゆっくりと微笑を取り戻した。
ただし、いつもの余裕だけの笑みではない。
そこには、明らかな興味が混じっていた。
「では、あなたは居酒屋で教育を受けたということですか?」
「そうなる」
「どのような教育を?」
「メニュー暗記。接客動線の把握。酔客の心理分析。注文傾向からの人格推定。飲み放題ラストオーダー前に発生する集団焦燥への対応。会計時の責任転嫁の観察。唐揚げにレモンをかけるべきか否かの危機管理」
「最後だけ、妙に具体的ですね」
「重要だからな」
坂柳は口元に手を添えた。
「つまりあなたの異常な観察力は、管理された環境ではなく、混沌とした宴会場で培われたものだと」
「異常かどうかは知らない」
「異常です」
即答だった。
「少なくとも、普通の方は酔客の心理分析を幼少期から行いません」
「そうなのか」
「そうです」
彼女は楽しげだった。
危険な反応だ。
未知のものを前にした時、坂柳は退かない。
むしろ近づく。
「綾小路くん」
「何だ」
「唐揚げにレモンは、かけるべきなのでしょうか」
坂柳の目は真剣だった。
冗談ではない。
おそらく、この問いからオレの教育思想を測ろうとしている。
「全体にかけるのは悪手だ」
「理由は?」
「選択権を奪うからだ。人間は些細な自由を奪われると、必要以上に反発する。だが、個別の皿に添え、必要なら使える状態にしておけば不満は出にくい」
「なるほど」
「ただし、場の空気によっては、あえて誰かが全体にかけることで議論を発生させ、停滞した会話を動かすこともできる」
「……そこまで?」
「唐揚げは場を動かす」
坂柳は小さく笑った。
嘲笑ではない。
本当に面白がっている笑いだった。
「素晴らしいです、綾小路くん。あなたは私が思っていたより、ずっと興味深い」
「オレとしては、あまり興味を持たれたくない」
「それは難しいでしょうね」
坂柳は一歩近づいた。
「管理された白い部屋で磨かれた才能なら、私は理解できるつもりでした。けれど、白木屋で磨かれた才能は未知です」
「その白い部屋というのは何なんだ」
「こちらの話です」
それ以上は答えない。
坂柳は情報を出す時と出さない時を分けている。
白木屋で言えば、会計票を見ているのに、最後まで総額を言わないタイプだ。
◇
混合合宿では、他学年と他クラスが混ざった。
七泊八日。
共同生活。
最終試験。
退学の可能性。
白木屋で言えば、知らない客同士を大部屋に押し込み、同じ鍋を囲ませるようなものだった。
相性の悪さは隠せない。
上級生は圧をかける。
同級生同士でも牽制が起きる。
下級生は空気を読む。
個人の能力よりも、場に馴染む力が問われた。
高円寺のように、馴染む気がないのに成立してしまう例外もいる。
龍園のように、馴染むのではなく場を奪う者もいる。
坂柳は遠くから盤面を眺めている。
堀北は、他者と組む難しさを知る。
オレは、白木屋で見た大人数宴会の感覚を思い出していた。
大人数になるほど、全員を管理することはできない。
必要なのは、全員を動かすことではなく、動くべき点を見つけることだ。
誰か一人を少し動かせば、隣が動く。
隣が動けば、列が動く。
列が動けば、場が変わる。
混合合宿は、そういう試験だった。
◇
そして、クラス内投票。
会計票が一気に目の前へ来た。
誰かを選ぶ。
誰かを落とす。
匿名の投票は、人間を残酷にする。
白木屋でも、会計時に「誰が一番飲んだか」を匿名で指差せる仕組みがあれば、場はすぐに崩れるだろう。
人間は、自分の顔が見えない時ほど強くなる。
そして、卑怯にもなる。
この時、山内は自分が危ない側にいることを本能で悟っていた。
普段の軽薄さが薄れ、目が泳いでいた。
白木屋で見たことがある。
会計票を前にして、ようやく自分の財布の中身を確認する客の顔だ。
もっと早く見ておくべきだった。
だが、見なかった。
だから今、焦っている。
「綾小路……俺、大丈夫だよな?」
廊下の隅で、山内はそう聞いてきた。
「何がだ」
「いや、その……俺、退学とかないよな?」
「状況による」
「そういうのやめろよ!」
声が震えていた。
虚勢を張る余裕もない。
ただの弱い高校生が、そこにいた。
「山内」
「何だよ」
「残りたいなら、残るために動け」
「動けって、何すりゃいいんだよ」
「自分が必要だと示せ。騒ぐだけじゃなく、何かを引き受けろ」
「俺にできることなんか……」
「ある」
山内は顔を上げた。
「本当か?」
「お前は、人に話しかけることへの抵抗が少ない。軽い情報収集ならできる」
「それ、役に立つのか?」
「使い方次第だ」
「使い方……」
「ただし、余計なことは言うな」
「それ一番難しいんだけど」
「知ってる」
山内は黙った。
自分が軽い人間だと、ようやく自覚しかけている顔だった。
ただ自覚したからといって、そこで完全には変わらない。
人間は、一度の会計で別人にはならない。
だが、財布の中身を初めて見ることはできる。
山内はギリギリで、自分の危うさを見た。
それでも、山内を切ることが最善かどうかは別だった。
山内は軽率だ。
女子への距離感も危うい。
授業態度も良いとは言えない。
成績も高くない。
特別試験で大きな成果を出したわけでもない。
クラス内で誰かに批判票を集めるなら、名前が挙がりやすい。
実際、空気は山内へ流れかけていた。
池や須藤は表立っては庇おうとした。
だが、庇う言葉には弱さがあった。
山内を残すべき理由を、誰も強く言えない。
平田は誰も退学させたくないという理想を崩せずにいる。
軽井沢は女子側の空気を拾いながら、山内への不満が少なくないことを察していた。
堀北は、冷静に候補を見ていた。
山内を切る。
それは、わかりやすい選択だった。
だが、わかりやすい選択が必ずしも最善とは限らない。
山内は、確かに問題を起こす。
だが、場が沈みすぎた時に軽口で空気を揺らすこともある。
白木屋で言えば、会計前の嫌な沈黙を、くだらない一言で一瞬だけ薄める客だ。
それで会計が消えるわけではない。
だが、全員が黙り込んで席を立てなくなるよりはましな場合がある。
軽さには、軽さの使い道がある。
もちろん、それだけで残れるほど、この学校は甘くない。
だが、山内は怒られれば少しは修正できる。
雑に動かせば失敗するが、役割を絞れば動く。
失敗する可能性があるということは、裏返せば、まだ何かを起こせるということでもある。
堀北と話した時、彼女は静かに言った。
「山内くんは危険ね」
「ああ」
「批判票が集まっても不思議ではないわ」
「そうだな」
「あなたは、それを避けるべきだと考えているの?」
「今切るべきではないとは思っている」
堀北は怪訝そうにこちらを見た。
「理由は?」
「軽さにも役割がある」
「……本気で言っているの?」
「ああ」
堀北は小さく息を吐いた。
「山内くんの軽率さが、今後も問題を起こす可能性は高いわ」
「そうだな」
「なら、残す理由としては弱い」
「山内は問題を起こす。だが、何も起こせないわけではない。場を軽くすることもある。怒られれば多少は止まる。使い方を間違えなければ、まだ役に立つ」
「随分と道具のような言い方をするのね」
「この試験は、人を人として扱っていない」
「……っ」
堀北は黙った。
称賛票と批判票。
誰かを数字で押し出す仕組み。
そこに綺麗な言葉を重ねても、構造は変わらない。
「では、誰を切るの?」
堀北の声は冷たかった。
冷たくしなければ、口にできない問いだった。
誰かを残すなら、誰かが支払う。
それがこの試験の会計票だった。
候補として残ったのは、佐倉愛里だった。
その名前は簡単には出せなかった。
佐倉は、須藤の暴力事件でクラスを救った。
あの時、彼女が勇気を出して証言しなければ、須藤が退学になっていた可能性は高い。
Dクラスは大きな損失を負っていた。
佐倉の一歩は、本物だった。
それをなかったことにはできない。
だが、一度大きく支払ったことが、次の会計を免除する理由にはならない。
それがこの学校の残酷さだった。
佐倉はその後、クラスの中で強い立場を築けていなかった。
成績で引っ張るわけでもない。
運動で貢献するわけでもない。
交渉で動けるわけでもない。
人間関係を広く支えるわけでもない。
小さな気遣いはある。
だが、小さな気遣いは、こういう試験では数字になりにくい。
白木屋で、空いた皿を端に寄せてくれる客はありがたい。
だが、最後に高額な伝票を前にした時、その気遣いが会計を大きく減らすわけではない。
堀北は、すぐには受け入れなかった。
「佐倉さんは、須藤くんの件でクラスを助けているわ」
「ああ」
「その功績を無視するの?」
「無視はしない」
「なら」
「だが、功績があることと、今後残すべきかは別だ」
堀北の表情が険しくなる。
「あなたは本当に嫌なことを言うわね」
「そうだな」
「自覚はあるのね」
「ある」
堀北は佐倉の席を見た。
佐倉は静かに座っていた。
自分が候補に上がっていることを、察しているのかもしれない。
その姿は頼りなかった。
だが、頼りないから切っていいという話ではない。
切るという行為は、どんな理由を並べても切ることだ。
平田は強く反発した。
「佐倉さんを退学にするなんて、僕は納得できない」
「納得できる退学者などいないわ」
堀北が言った。
その声には迷いがあった。
しかし、迷いを隠していた。
「でも、佐倉さんはクラスを救ったんだ」
「ええ。それは事実よ」
「だったら」
「でも、それだけで今後も残れるとは限らない」
平田は苦しそうに顔を歪めた。
彼は誰も切りたくない。
それは美徳だ。
だが、この試験は美徳を試していない。
誰を切るかを試している。
軽井沢は、女子側の空気を拾っていた。
「正直、佐倉さんに票が集まりそうな雰囲気はあるよ」
彼女は小声で言った。
「悪く言う子は少ない。でも、残す理由を強く言える子も少ない」
「山内は?」
「嫌われてる。でも、騒がしい分、庇うやつもいる。池とか須藤とか。あと、あいつを切るのはわかりやすすぎるって思ってる人もいる」
軽井沢の見立ては正確だった。
山内は嫌われやすい。
だが、存在感がある。
存在感がある人間は、嫌われる分だけ、誰かに思い出される。
佐倉は、忘れられやすい。
それが危険だった。