綾小路清隆が育ったのがホワイトルームじゃなくて白木屋だったら 作:東頭鎖国
投票当日。
教室は静かだった。
山内は普段よりも口数が少ない。
何度か軽口を叩こうとして、失敗していた。
「なあ、綾小路」
「何だ」
「俺、やばい?」
「やばいな」
「そこは嘘でも大丈夫って言えよ……」
「嘘をついても票は減らない」
「白木屋って、そういう時もうちょい優しくしてくれねえの?」
「会計前は優しさより財布だ」
「嫌すぎるだろ……」
山内は乾いた笑いを漏らした。
そして、小さな声で言った。
「俺、何かできる?」
「今からできることは少ない」
「だよなぁ……」
「だが、覚えておけ」
「何を?」
「お前が残ったら、誰かが払う」
山内は黙った。
その言葉は、彼にとって重すぎたかもしれない。
だが、軽いまま残れば、また同じことをする。
だから言った。
山内は机の上を見た。
「……わかった」
本当にわかったかどうかは知らない。
だが、その時の山内は、少なくとも逃げてはいなかった。
結果は、佐倉愛里の退学だった。
教室に告げられた瞬間、空気が止まった。
佐倉は、最初は理解できないような顔をしていた。
それから、ゆっくりと周囲を見た。
平田が立ち上がりかけた。
須藤は歯を食いしばっている。
堀北は目を伏せない。
軽井沢は唇を噛んだ。
山内は真っ青になっていた。
自分が残ったことと、佐倉が消えること。
その二つが、彼の中でようやくつながったのだろう。
「佐倉」
須藤が声を出した。
だが、続く言葉が出なかった。
佐倉は小さく首を振った。
「大丈夫、です」
大丈夫ではない。
だが、彼女はそう言った。
白木屋で、多く払わされる客が「いいよ」と言う時の声だった。
本当によくはない。
だが、そう言わなければ場が壊れると思っている。
その優しさが、また痛かった。
平田は耐えられないように言った。
「佐倉さんが退学なんて、間違ってる」
「間違っているかもしれない」
オレは言った。
平田がこちらを見る。
「でも、これが結果だ」
「そんな言い方!」
「会計票は、優しい順には並ばない」
「……ッ」
平田は拳を握った。
怒りがある。
それでいい。
怒りがなければ、この支払いは忘れられる。
忘れられる方が危険だ。
佐倉は、最後に須藤へ小さく頭を下げた。
「須藤くん、頑張ってください」
須藤は何も言えなかった。
彼女は堀北にも、平田にも、軽井沢にも、櫛田にも、それぞれ小さく別れを告げた。
山内の前で足を止めた時、山内は完全に固まっていた。
「佐倉、俺……」
言葉が出ない。
佐倉は少しだけ笑った。
「山内くんも、頑張ってください」
その一言は、山内にとって罰に近かった。
責めない。
怒らない。
だからこそ逃げ場がない。
佐倉は教室を出ていった。
席が一つ空いた。
ただの空席ではない。
Dクラスが誰か一人に会計を押し付けた痕跡だった。
その日、山内はほとんど喋らなかった。
池が声をかけても、須藤が乱暴に肩を叩いても、軽い返事しかできなかった。
◇
放課後、山内はオレに言った。
「俺が残ったから、佐倉がいなくなったのか?」
「一つの見方としては、そうだ」
「……そこは否定してくれよ」
「否定しても事実は変わらない」
「きっつ」
山内は笑おうとして失敗した。
「俺、別に佐倉とめちゃくちゃ仲良かったわけじゃないけどさ」
「ああ」
「でも、あいつ須藤の時、頑張ったじゃん」
「ああ」
「それでも、ダメなんだな」
「この学校ではな」
「じゃあ俺、何で残ったんだよ」
「まだ使い道があると判断された」
「……使い道って、何だよ」
「これから作れ」
山内は黙った。
普段なら文句を言うところだ。
だが、その日は言われなかった。
「綾小路」
「何だ」
「俺、次は何か言えるかな?」
「何に」
「また、誰かがこうなりそうな時」
「言えるかどうかは知らない」
「そこも厳しいな」
「だが、言おうと思っているなら、前よりはましだ」
「少し?」
「少しだ」
「……そっか」
山内は小さく笑った。
その日から、山内はほんの少しだけ変わった。
劇的ではない。
すぐに立派になるわけでもない。
相変わらず軽口を叩くし、余計なことも言う。
だが、何かを言う前に、一瞬だけ止まることが増えた。
唐揚げにレモンをかける前に、周囲を見るような小さな変化。
それが、佐倉愛里が残した会計だった。
◇
選抜種目試験。
一年生編最後の大きな会計。
坂柳との対決が、そこで本格化した。
彼女は、こちらのクラスの成長を見ていた。
堀北の変化。
山内の不安定な進歩。
軽井沢の裏方としての役割。
須藤の成長。
平田の回復。
そして、オレの介入。
坂柳は、それらを一つずつ盤面に並べてきた。
彼女の戦い方は美しい。
無駄が少ない。
相手の弱点を突き、動きを制限し、選択肢を狭めていく。
白木屋で言えば、場全体の注文権をいつの間にか握っている客だ。
誰も気づかないうちに、全員が彼女の選んだコースを食べている。
だが、白木屋にはコース通りに進まない客がいる。
山内。
池。
須藤。
そして、堀北。
人間は予定通りには動かない。
だから面倒で、だから利用できる。
試験の最中、坂柳は言った。
「綾小路くん。あなたなら、最後の一皿をどう扱いますか?」
「何の話だ」
「比喩です。全員が欲しがるものが一つだけ残った時、あなたはどうしますか」
「状況による」
「白木屋式の答えを聞きたいのです」
白木屋式。
そんな言葉があるのかは知らない。
だが、答えはある。
「最初に、誰が欲しがっているかを確認する」
「それから?」
「本当に欲しがっている者と、欲しがっているように見せている者を分ける」
「なるほど」
「次に、その一皿を渡すことで場が収まる相手と、荒れる相手を見極める」
「公平性は?」
「公平であることより、公平に見えることの方が重要な場合もある」
坂柳は満足そうに微笑んだ。
「実に人間臭いですね」
「人間の話だからな」
「白い部屋では、そういう曖昧さは嫌われるでしょう」
「知らない場所の話をされても困る」
「そうでしたね」
坂柳は杖を軽く鳴らした。
「では、私はあなたのその曖昧さを崩してみましょう」
彼女の仕掛けによって、こちらは一度不利になった。
堀北の正攻法を読み、平田の善意を利用し、クラス内の不満の流れを少しずつ歪めてくる。
上手い。
白木屋で言えば、直接文句は言わず、周囲の客に少しずつ不満を伝染させるタイプだ。
最も処理が難しい。
だが、坂柳には一つ弱点があった。
彼女は、人間を読む。
その読みは高精度であるがゆえに、想定外の低レベルな動きに一瞬遅れる。
山内だ。
山内は予測しづらい。
合理性が低いからだ。
坂柳が用意した盤面に、山内をあえて投入する。
もちろん、放置すれば崩壊する。
だから、役割は限定する。
「山内」
「何だよ」
「お前にしかできない仕事がある」
「マジか?」
「ああ」
実際には、山内にしかできないわけではない。
だが、山内にはそう言った方が動く。
「相手にこちらの意図を少しだけ誤解させてほしい」
「え、スパイみたいなこと?」
「そうだ」
「うおぁ……マジかよ! 任せろ!」
「ただし、余計なことは言うな」
「わかってるって!」
わかっていない。
だが、そこも含めて使う。
山内の中途半端な自信と雑な伝達は、坂柳の精密な読みを一瞬乱す。
その一瞬で、堀北が修正案を通す。
平田が場を整える。
軽井沢が女子側の反発を抑える。
須藤が実働で埋める。
完全勝利ではない。
だが、坂柳の想定をずらすことには成功した。
試験後、坂柳は楽しそうに笑った。
「山内くんを使うとは思いませんでした」
「使えるものは使う」
「彼を高く評価しているのですか?」
「適材適所だ」
「彼の不確定性を、あえて盤面に入れた」
「そうとも言える」
「白木屋では、あのような方も教育対象なのですか?」
「山内のような客は多かった」
「客」
「最後まで自分が場を動かしていると思い込むが、実際には場に動かされているタイプだ」
「辛辣ですね」
「観察結果だ」
坂柳はくすくすと笑った。
「やはり面白いです、綾小路くん。あなたは人間の弱さを切り捨てるのではなく、弱いまま配置する」
「強くする時間がない場合はな」
「では、時間があれば?」
「少しずつ変える」
「山内くんも?」
「可能なら」
「できると思いますか?」
オレは少し考えた。
山内は軽薄で、調子に乗りやすく、視野が狭い。
だが、完全に使えないわけではない。
褒めれば動く。
逃げ道を示せば走る。
恥をかかせすぎなければ、次も使える。
「多少は」
「ふふっ。では、それも見てみたいですね」
「見世物じゃない」
「私にとっては、かなり興味深い見世物です」
坂柳はそう言って去っていった。
◇
一年目の終わり。
オレは寮の部屋で、一人で窓の外を見ていた。
この一年で、Dクラスは変わった。
須藤は勉強し、堀北は他人を見始め、軽井沢は裏で役割を持ち、平田は傷つきながらも立ち直り、山内は自分の危うさを少しだけ見た。
櫛田という爆弾は残っている。
龍園は潰れても折れていない。
坂柳は、オレの知らない何かを見ている。
それでも、この一年の会計は少しだけ見えた。
全員が得をしたわけではない。
誰も傷つかなかったわけでもない。
だが、席を立たずに残った者はいる。
それだけで、次の注文は可能になる。
白木屋では、宴会の途中で結論を出す者は未熟とされた。
最後の会計まで見届けて初めて、場の全体像がわかる。
一年目の会計は終わった。
だが、この学校という宴会はまだ続く。
Dクラスは、まだDクラスだ。
堀北は、まだ本当の意味でクラスを率いてはいない。
山内は、まだ山内だ。
軽井沢も、須藤も、平田も、櫛田も、それぞれ問題を抱えたまま席に座っている。
坂柳との勝負も、龍園との関係も、終わっていない。
オレは白い部屋を知らない。
篤臣という男も知らない。
オレを作ったのは、白い部屋ではない。
白木屋だ。
木目調の壁。
掘りごたつ。
呼び出しボタン。
飲み放題ラストオーダー十分前の焦燥。
そして、唐揚げにレモンをかけるかどうかで揺れる人間関係。
そのすべてが、オレの原点だった。
それが良いことなのか、悪いことなのかはわからない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
この宴会は、まだ終わっていない。
だからオレは、席を立たない。
一年目の皿は下げられた。
次の料理が運ばれてくる音が、もう廊下の向こうから聞こえている。