綾小路清隆が育ったのがホワイトルームじゃなくて白木屋だったら   作:東頭鎖国

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二年生編
二年生編①


 二年生になって最初に感じたのは、教室の空気が少しだけ変わったということだった。

 

 机も椅子も黒板も、去年と大きく違うわけではない。

 

 だが、そこに座る人間たちの視線と沈黙は、一年前とは違っていた。

 

 一年前のDクラスは、白木屋で言えば、初めて飲み放題の席に座った大学生の集まりだった。

 

 メニューを見てはしゃぎ、値段を見ずに注文し、会計票が来てからようやく顔色を変える。

 

 だが、二年生になった今のクラスは、少なくとも一度は会計票を見ている。

 

 ポイントを失った。

 

 退学の危機も見た。

 

 無人島で不満を吐き、船上で裏切りを知り、体育祭で敗北し、ペーパーシャッフルで内側の毒を見た。

 

 そして、クラス内投票で佐倉愛里を失った。

 

 それでも席を立たずに残った。

 

 その経験が、全員の姿勢をほんの少しだけ変えていた。

 

 須藤は以前よりも机に向かう時間が増えた。

 

 山内は相変わらず軽薄だが、何かを言う前に一瞬だけ周囲を見るようになった。

 

 池は、流される先を以前より少しだけ選ぶようになった。

 

 平田は、自分の理想だけで場が整わないことを知り、笑顔の奥に疲労を隠すようになった。

 

 軽井沢は、表向きの軽さを維持しながら、女子の空気の歪みを誰より早く拾うようになった。

 

 堀北は、他人を切り捨てるためではなく、使うために見るようになった。

 

 それは大きな変化だった。

 

 白木屋でも、二度目の来店で人間は少し変わる。

 

 最初の失敗を覚えている客は、呼び出しボタンを押す前に店員の動線を見る。

 

 会計で揉めた客は、次から自分の飲んだ杯数を数える。

 

 大声を出して周囲に睨まれた客は、少しだけ声を落とす。

 

 そして、自分の代わりに誰かが払ったことを覚えている客は、次の会計でほんの少しだけ財布に手を伸ばす。

 

 その程度の変化でも、場は違って見える。

 

 山内は、その変化が特にわかりにくい人間だった。

 

 相変わらず声は大きい。

 

 相変わらず女子を見て浮つく。

 

 相変わらず調子に乗る。

 

 だが、時々、何かを言いかけて止まる。

 

 それは小さすぎる変化だった。

 

 だが、佐倉の席が空いたままの教室では、その小ささにも意味があった。

 

 佐倉愛里の席は、もうない。

 

 誰かがそこに座るわけではない。

 

 空席のまま残されるわけでもない。

 

 学校は淡々と机を整え、教室は前へ進む。

 

 だが、一度会計票を押し付けた記憶は、完全には消えない。

 

 山内は、佐倉と特別に親しかったわけではない。

 

 それでも、自分が残った側であることは理解している。

 

 理解が深いわけではない。

 

 整理できているわけでもない。

 

 だが、何かを言う前に一瞬止まるくらいには、彼の中に残っていた。

 

 ◇

 

 二年生最初の大きな試験は、新一年生とのパートナー試験だった。

 

 年下と組み、学力を測られる。

 

 相性の悪い相手を引けば、こちらにも下級生にも損が出る。

 

 白木屋で言えば、ベテラン客と新人店員を同じテーブルに置き、注文も配膳も会計も同時にこなさせるようなものだった。

 

 新人は緊張する。

 

 ベテランは値踏みする。

 

 周囲は失敗を期待する。

 

 そして失敗した時、誰の責任にするかを、全員が最初から考えている。

 

 新入生たちは、一年前のオレたちよりも警戒心が強かった。

 

 学校の仕組みをある程度理解している者もいる。

 

 上級生を利用しようとする者もいる。

 

 単純に怖がっている者もいる。

 

 自分を高く売り込もうとする者もいる。

 

 その中でも、宝泉和臣はわかりやすく異質だった。

 

 宝泉は、白木屋で言えば入店した瞬間から店内の空気を自分のものにしようとする客だった。

 

 声が大きいだけではない。

 

 暴力の匂いを隠さない。

 

 注文を取る前に、まず店員を睨む。

 

 周囲の客に、自分が危険であることを理解させる。

 

 龍園に似ている部分もあるが、龍園ほど場全体を見るわけではない。

 

 宝泉は、より直接的だった。

 

 拳で皿を割り、それを見て誰が怯えるかを確認するタイプだ。

 

 暴力はわかりやすい。

 

 だからこそ、対処もしやすい。

 

 暴力を振るう人間は、自分が主導権を握っていると思っている。

 

 だが、暴力は場を支配する手段であると同時に、場に縛られる手段でもある。

 

 相手が手を出すことを前提にしていれば、その行動は読みやすい。

 

 白木屋の深夜帯で、酔った客が拳を振り上げる前には必ず予兆がある。

 

 肩の動き。

 

 呼吸。

 

 視線。

 

 足の置き方。

 

 怒りを言葉にする前に、体が先に語る。

 

 宝泉がこちらに近づいてきた時も、同じだった。

 

 宝泉は、最初から交渉をするつもりではなかった。

 

 少なくとも、対等な交渉ではない。

 

 彼は二年生側に対して、自分たち一年生が主導権を握る形を作りたがっていた。

 

 パートナー試験では、学力だけでなく、誰と誰が組むかが重要になる。

 

 相手を選べる立場にいる者は強い。

 

 逆に、相手を選べない立場に追い込まれた者は弱い。

 

 宝泉はそこを理解していた。

 

 自分の暴力性を前に出し、相手に「下手に逆らうと面倒になる」と思わせる。

 

 その上で、こちらからポイントや条件を引き出そうとする。

 

 白木屋で言えば、会計前に大声を出して、周囲に「こいつを怒らせるくらいなら少し多く払った方が楽だ」と思わせる客だ。

 

 堀北は、宝泉と向き合った時も冷静でいようとしていた。

 

 だが、宝泉のような相手は、正論で抑えるには向いていない。

 

 正論を聞く前に、相手がどこまで怯むかを見てくるからだ。

 

 須藤が同席していれば、火種はさらに増える。

 

 須藤は去年より成長したが、挑発に完全に耐えられるほど大人ではない。

 

 宝泉はそこも見ていた。

 

 白木屋で、揉め事を起こしたがる客は、もっとも反応しやすい相手を探す。

 

 店員ではなく、隣席の客。

 

 幹事ではなく、酔いやすい新人。

 

 須藤は、宝泉にとってちょうどいい火種だった。

 

 だから、火種をそのまま置いておくわけにはいかなかった。

 

 宝泉との接触は、最初から荒れる前提で組み立てる必要があった。

 

 ただし、ここで宝泉が狙っているのは、オレ個人ではなかった。

 

 彼の目的は、二年Dクラスを屈服させることだ。

 

 堀北に交渉の主導権を握らせない。

 

 須藤を挑発して先に手を出させる。

 

 二年生側に「一年生相手でも逆らうと面倒だ」と思わせる。

 

 その上で、パートナー試験における条件やポイントを引き出す。

 

 それが宝泉の目的だった。

 

 だから、宝泉にとって暴力は交渉の一部だった。

 

 拳を見せる。

 

 声を落とす。

 

 距離を詰める。

 

 相手が一歩引けば、そこから条件を押し込む。

 

 白木屋で言えば、会計前に大声を出して、周囲に「この客を怒らせるくらいなら、少し多く払った方が楽だ」と思わせるやり方だ。

 

 宝泉は、堀北へわざと雑な言葉を投げた。

 

 堀北の視線が鋭くなる。

 

 次に、宝泉は須藤へ視線を向ける。

 

 須藤の拳が握られる。

 

 呼吸が荒くなる。

 

 肩がわずかに前へ出る。

 

 白木屋の深夜帯で、酔った客が立ち上がる直前と同じだった。

 

「須藤」

 

 オレは短く言った。

 

 須藤の動きが止まる。

 

 だが、宝泉は笑った。

 

「何だよ。二年の先輩は、後ろから止めてもらわねえと何もできねえのか?」

 

 須藤の目が変わる。

 

 宝泉はさらに一歩詰めた。

 

 その手が、制服の内側へ入る。

 

 宝泉の手の中で光るそれは、小型のナイフだった。

 

 刃物を本気で使うつもりがあったのかはわからない。

 

 だが、少なくとも見せるつもりはあった。

 

 堀北の息が止まる。

 

 須藤が動く。

 

 それより先に、オレは宝泉の手首を押さえた。

 

 宝泉の目がわずかに開く。

 

「おいおい」

 

 宝泉が笑った。

 

「普通、そこまで入ってくるかよ」

 

「普通はナイフを出さない」

 

 宝泉は手首に力を込めた。

 

 力は強い。

 

 単純な腕力なら、正面から受け続ける必要はない。

 

 問題は、刃先の向きだった。

 

 須藤へ向けば、須藤が反応する。

 

 堀北へ向けば、堀北が動く。

 

 だから、刃先を外へ逃がす。

 

 その瞬間、刃がオレの手のひらをかすめた。

 

 熱い痛みが走る。

 

 血がにじむ。

 

 だが、深くはない。

 

 刃は止まった。

 

 須藤は動きかけた姿勢のまま固まっている。

 

 堀北も、手を出していない。

 

 それで十分だった。

 

「手前ぇ……」

 

 宝泉の声が低くなった。

 

 ここで彼がさらに踏み込めば、ただの脅しでは済まなくなる。

 

 周囲に誰もいないわけではない。

 

 刃物を出した事実は、宝泉自身の会計にも乗る。

 

 宝泉はそれを理解していた。

 

 だから、そこで止まった。

 

「雑な脅しだな」

 

「何?」

 

「須藤を動かすなら、もう少し丁寧にやるべきだった」

 

 宝泉の笑みが消えかけ、すぐに戻った。

 

「てめえ、マジで気に入らねえな」

 

「それは困ったな」

 

「困ってねえ顔してんじゃねえよ」

 

 宝泉は、手首を引いた。

 

 オレも無理には追わない。

 

 ここで奪い取れば、動きが増える。

 

 揉め事の当事者が増えれば、後で誰が何をしたかが曖昧になる。

 

 白木屋でも、暴れる客から無理にグラスを奪おうとすると、割れた瞬間にこちらの責任が混ざる。

 

 止めるべきところで止める。

 

 離すべきところで離す。

 

 宝泉は舌打ちした。

 

「つまんねえな」

 

「そうか」

 

「二年Dクラス、思ったより面倒じゃねえか」

 

「面倒な客は多い」

 

「客じゃねえよ」

 

 宝泉は最後に須藤を見た。

 

「次は飛びかかってこいよ、先輩」

 

 須藤は歯を食いしばったまま、何も言わなかった。

 

 それが正解だった。

 

 宝泉は笑って、その場を離れた。

 

 結局、彼は大きな譲歩を引き出せなかった。

 

 須藤を暴発させることもできなかった。

 

 堀北に主導権を渡させることもできなかった。

 

 そして、綾小路清隆という、妙なタイミングで会計票を押さえる相手がいることを知った。

 

 宝泉の目的は失敗した。

 

 だが、彼が完全に負けたわけではない。

 

 彼は、こちらを覚えた。

 

 それが、後の面倒に繋がる。

 

 堀北は、すぐに状況を整理した。

 

 彼女は宝泉の暴力性に動揺しながらも、冷静さを失わなかった。

 

 須藤は最後まで怒りを噛み殺していた。

 

 それは成長だった。

 

 一年前の須藤なら、確実に飛び出していた。

 

 飛び出していれば、宝泉の作った皿に自分から乗っていた。

 

 その意味で、この事件は須藤にとっても試験だった。

 

 後処理は慎重に行った。

 

 宝泉を大々的に処分へ追い込むことだけが最善ではない。

 

 彼が刃物を見せた事実を学校側へ通せば、宝泉は痛手を負う。

 

 だが、こちらにも説明の負担が生まれる。

 

 なぜその場にいたのか。

 

 誰がどう動いたのか。

 

 須藤が挑発されていたこと。

 

 堀北が交渉の場にいたこと。

 

 それをすべて表に出せば、宝泉だけでなくこちらの動きも検証される。

 

 白木屋でも、警察を呼べば揉め事は終わる。

 

 だが、その場の営業も止まる。

 

 周囲の客も離れる。

 

 店全体の空気が壊れる。

 

 呼ぶべき時は呼ぶ。

 

 だが、呼ばずに済ませられるなら、材料を持ったまま相手を下がらせる方が得な場合もある。

 

 今回は、宝泉に「これ以上やれば自分も危ない」と理解させるだけで十分だった。

 

 堀北はその判断に不満そうだった。

 

「あなた、これで終わらせるつもり?」

 

「完全には終わっていない」

 

「どういう意味?」

 

「宝泉は、自分のやり方が通じない相手がいると知った。次に動く時は慎重になる」

 

「それだけで十分だと?」

 

「今はな」

 

 堀北はオレの手を見た。

 

 傷は深くない。

 

 だが、ただの切り傷と呼ぶには少々大きな傷だった。

 

「手当ては」

 

「する」

 

「すぐに」

 

「わかってる」

 

「あなたは時々、自分の体を道具みたいに扱うわね」

 

「白木屋では、皿を割らないために手を出すこともある」

 

「あなたの例えは、本当に心配する気を削ぐわ」

 

 堀北は呆れたように言った。

 

 だが、その声にはわずかに怒りも混じっていた。

 

 宝泉の一件は、クラス全体には大きく広げなかった。

 

 必要な者だけが知ればいい。

 

 山内は後から噂の断片を聞きつけ、勝手に青ざめていた。

 

「おい綾小路。お前、ナイフ出たってマジ?」

 

「大げさに伝わってるな」

 

「いや、ナイフは大げさじゃねえだろ」

 

「大したことはない」

 

「あるわ。普通にあるわ。白木屋って何教えてんだよ」

 

「刃物の扱いは厨房で習う」

 

「そういう問題じゃねえ!」

 

 山内は珍しくまともな反応をした。

 

 軽井沢も同じように、呆れ半分で言ってきた。

 

「あんたさ、そういうの黙ってると逆に怖いんだけど」

 

「言いふらすことでもない」

 

「いや、ナイフ出たなら言えって」

 

「不安が広がる」

 

「もう広がってるから聞いてるんだけど」

 

 軽井沢はため息をついて、コンビニ袋を机に置いた。

 

 中にはガーゼと包帯、消毒液、それから大きめの防水パッドが入っていた。

 

「いらないなら捨てれば」

 

「捨てるものではないだろう」

 

「じゃあ使いなさいよ。絆創膏一枚でどうにかなる傷じゃないんでしょ」

 

「よくわかったな」

 

「ナイフ出たって聞いて、普通の擦り傷だと思う方がおかしいから」

 

 軽井沢は呆れたように言った。

 

「ていうか、保健室行ったの?」

 

「行くほどではない」

 

「行け」

 

「必要なら行く」

 

「今必要でしょ」

 

 その声は怒っているというより、常識的な反応だった。

 

 彼女は踏み込みすぎない。

 

 だが、明らかにおかしいことを見逃すほど冷たくもない。

 

 白木屋で言えば、騒ぎすぎずに水とおしぼりを置いていく客だ。

 

 余計な説教はしないが、最低限の処置は押しつけてくる。

 

「片手で包帯、巻けるの?」

 

「時間をかければ」

 

「いや、無理しなくていいから。手、出して」

 

「軽井沢がやるのか」

 

「他に誰がやるのよ」

 

「保健室」

 

「だから行けって言ってるでしょ。でも、今ここで血が滲んでるなら先に押さえる」

 

 軽井沢は椅子を引いて、向かい側ではなく隣に座った。

 

 距離が少し近い。

 

 だが、彼女の動きには余計な甘さはなかった。

 

 慣れている、というより、怖がりながらも必要だからやっている動きだった。

 

「痛かったら言いなさいよ」

 

「わかった」

 

「本当に言う?」

 

「必要なら」

 

「その必要ならってやつ、信用できないんだけど」

 

 軽井沢は消毒液をガーゼに含ませ、傷の周りを拭いた。

 

 しみる。

 

 だが、顔には出さなかった。

 

「今、痛かったでしょ」

 

「少しな」

 

「少しじゃないでしょ」

 

「多少だ」

 

「言い方変えただけじゃん」

 

 軽井沢は小さく息を吐きながら、ガーゼを当てた。

 

 包帯を巻く手つきは器用とは言えない。

 

 だが、雑ではなかった。

 

 何度か巻き直し、強すぎないか確認しながら固定していく。

 

「きつい?」

 

「いや」

 

「指、動く?」

 

 オレは指を少し動かした。

 

「動く」

 

「じゃあ、とりあえずこれで。あとでちゃんと見てもらいなさいよ」

 

「助かった」

 

「別に」

 

 軽井沢は視線を逸らした。

 

「使える相手に、勝手に壊れられても困るだけだし」

 

「取引相手としてか」

 

「そう。取引相手として」

 

 彼女はそう言った。

 

 その言葉には、照れ隠しが混ざっていた。

 

 だが、それ以上踏み込む必要はない。

 

 この距離でいい。

 

 軽井沢は恋人ではない。

 

 だが、こちらの会計票に傷が増えた時、それを見ないふりもしない。

 

 それだけで、協力者としては十分だった。

 

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