最初の場面は、夏の終わりの、マウンドの上。
走り出す前に、ひとつだけ思い出させてください。
彼は、もう一度、ここに立つために、三年前に目を覚ましました。
試合の音が、急に遠くなった。
スパイクが土を蹴る音、打球の鈍い響き、観客の声、ベンチからの叫び。すべてが水の中に沈んだみたいに歪んで聞こえる。
ああ、これは見覚えがある。何度か倒れたことのある身体の感覚だ。
脳震盪、肉離れ、肋骨骨折、肩の腱の損傷——プロで十年以上やっていると、痛みの種類で次に何が起こるかが分かるようになる。痛みは身体に履歴を作る。その履歴を身体は覚えている。
でも今のこれは違った。
痛みより先に温度が引いていった。指先から首筋から、頭の芯から、順番に灯が落ちていく。夏の真ん中なのに足先から血の温度がなくなっていく。
ヘッドライトの光がまぶたの裏で潰れる。
風の音。誰かが俺の肩を強く揺すっている気がしたが、その手の感触はなぜか妙に遠い。
(——あ、これ、駄目なやつだ)
そう思った瞬間に視界が暗くなった。
誰かが俺の名前を呼んだ気がする。たぶんチームメイト。答えようとしたが、口の中の空気が動かない。
⸻
気づくと中三の俺の身体だった。三年が経っていた。詳しい説明はいま要らない。
とにかく俺はもう一度、十五歳の身体で目を覚ました。朝、自分の部屋の天井を見上げる。二回まばたきをしてから、笑い損ねた。
夢じゃない。そして夢でなくていい。
鏡の前で手のひらを開いて、握る。関節の鳴り方が記憶よりずっと若かった。皮膚の張りも違った。爪の白い部分の薄さに、時間が巻き戻った実感だけが妙にはっきり乗ってくる。
そこから三年。身体は前世の経験を頼りに仕上げてきた。走り込み、フォーム、可動域、休養の取り方、食事の量。全部、覚えている範囲を全部、十五歳の器に詰め直してきた。
今日はその三年の最後の日だ。
⸻
マウンドの土が、白かった。
全国大会・決勝の最終回。1点差リード、2アウト満塁。打席の四番が、バットを構え直した。
——前世で何度も投げた、この場面だ。
夏の終わりの空がやけに高い。
陽は傾いている。
スタンドからの声援が二つの校歌に分かれて重なって、ひとつの白い壁になって球場へ落ちてくる。応援団のラッパが裏返り気味に鳴って、それでも止まる気配がない。両校の生徒の声がもうほとんど叫び声だ。
本塁側の最前列に背広姿が並んでいる。片手にスピードガン、もう片手に手帳。こちらをじっと見つめてくる人間が、何人もいた。
帝京三中のベンチからは応援歌の合間に「橘」「橘」とコールが上がる。試合よりも先に俺の名前だけが球場の空気を一往復してから、また帰ってくる。
「橘——抑えろ!」
捕手のサインを覗き込む前に、俺は一度だけ目を閉じた。
(——息を、半分だけ)
吐ききらない。吸いきらない。前世のコーチに何度も叩き込まれた呼吸を、十五歳の肺でやれている。不思議だが、悪くない。
サインが返ってくる。外角低めストレート。捕手のミットがわずかに沈む。
四番の構えは綺麗だ。脇が締まり、軸足の踏ん張りに迷いがない。中学レベルでこれは相当だ。腕の振りも素直で、内角に詰まらされた経験が少なそうな立ち方をしている。
——スカウトが見に来てるって聞いたな。
そう思いながら、俺は左足を上げた。
⸻
一球目、外角低め。
腕を振った瞬間、指の腹がボールの縫い目を撫でる。リリースの角度は、最も球が走る位置。
走った。
ミットが鳴る。
「ストライク!」
四番は動かなかった。
ぴくり、ともしない。
(——見送ったな。狙い球じゃなかった)
球速表示は151。電光掲示板の光が一瞬遅れて点く。スタンドの一部から、息を呑むような短い声が上がった。
中学の決勝で151が出ること自体は、もうこの大会では珍しくない。珍しいのは九回二死満塁の場面で、あっさり同じ精度で出てきたことの方だ。
本塁側のスタンドの最前列でスーツの男が手帳を握り直した気配がした。背広の肩に汗の染み。スピードガンを手にした人差し指が二度ほど画面を叩いている。
——あの色は、見覚えがある背広だ。
身体に染みついたものは思考より先に動く。中学の決勝の最終回で観客席を読みに行く必要は、本当はない。けれど止まらなかった。
二球目、内角高め。
見せ球のストレートを少しだけ抜く。四番の腰が初めて反応した。バットの出だしが内側に巻き込まれる。
——巻き込んできた。コースを絞り始めてる。
捕手はインコースをもう一度要求してきた。俺は首を横に振る。ベンチが少しざわついた。中学のバッテリーで首を振るピッチャーは多くない。捕手も一瞬眉を寄せたが、すぐにサインを切り替えてくる。三年間組んできた相手だ。意図はすぐ伝わる。
(——悪いな。ここは、譲れない)
外角ボール球のスライダー。落差を作るだけの、振らせるための球。
⸻
三球目、ファウル。
四番の振りは半分だった。スライダーの落差を目の端で追い切れていない。バットの先で空高く打ち上がって、一塁側のファウルゾーンに切れていく。観客の悲鳴のような声が、一拍遅れて球場を覆う。
四球目、見送ってボール。カウントは2-2。
風が背中から吹いた。マウンドの土の砂がつま先の前を一粒、転がっていく。
——前世で最後に投げた一球を、思い出した。
メジャーの夜。客席の照明が高すぎてボールが時々消えるように見えるあの球場。相手の四番に全球力勝負を挑んで、三振で締めくくった。マウンドを降りるとき、肩に夜風が当たって汗が一瞬でひんやりした。あの夜の肩の余韻、客席のざわめき、仲間が駆け寄ってくる足音。
事故は、その帰り道だった。詳細は思い出さなくていい。ただヘッドライトの色と、運転席のハンドルの感触だけはまだ指先に残っている。雨が降っていた。フロントガラスを叩く音が、なぜか今のスタンドの応援と同じリズムに聞こえる。
(——いいよ。もう一回、やらせてくれ)
捕手のサインに、俺は今度は深く頷く。
外角ストレート、フルパワー。
セットから左足を高く上げる。地面を蹴る。腰の回転が、上半身を引きずって鞭になる。十五歳の身体の許す上限ぎりぎりまで、腕が走る。
——指、走れ。
ボールがリリースの瞬間に、見えなくなる。
⸻
「ストライクッ、バッターアウトッ、ゲームセット——!」
球審のコールが空気を裂いた。
四番のバットは空を切った後、止まらずに地面の手前で力なく止まった。空振り。バットの先がほんの少しだけ、地面の砂を撫でた。四番の膝が、ワンテンポ遅れてその場で折れる。
電光掲示板の球速がワンテンポ遅れて点く。
154。
スタンドの片側がわっと崩れる。もう片側が息を呑む。応援団のラッパが急に消えた。
俺はグラブを下ろした。
——抑えた。
それだけだった。声もガッツポーズも出ない。
プロのマウンドでは、一試合の最後の三振くらいで派手に喜んだら次の試合で打たれる。そう刷り込まれていた身体は、抑えた直後ほど肩の張りや指の感覚を確認しに行く。中学生がそれをやっているのが端から見たら異様だということは、自分でも分かっている。
「橘ァ——!」
キャッチャーが先に走り出してくる。マスクを跳ね上げた顔が、汗と泥で真っ黒だ。
内野が続く。外野からも誰かが叫びながら駆けてきた。
——ああ、来るな。
肩を組まれ、背中を叩かれ、グラブの中に汗で湿った手のひらが何度も落ちてくる。誰かが俺のユニフォームの背中を引っ張る。誰かが帽子を取り上げて頭をぐしゃぐしゃに撫でる。三年間一緒に走ってきた連中だ。引退試合でこれだけ騒ぎたいのは、当然だった。
俺は無表情のまま空を見上げた。雲がゆっくり東へ流れていく。
(——もう一度、野球を、本気でやれる)
それだけが、胸の真ん中にぽとりと落ちた。
口の端がほんの少しだけ上がった気がする。それを見ていたのは、たぶん誰もいない。
⸻
表彰式は間延びした時間だった。整列、礼、優勝旗、賞状。司会のアナウンスは妙にゆっくりで、夏の蒸し暑さの中で汗だけが背中を伝っていく。最後の一滴がベルトの上で止まる感覚まで、なぜかはっきり分かった。
胸番号のあたりで陽射しが反射している。グラウンドの土は試合中より乾いて見えた。風が一度だけスタンドの旗の裾を煽って、すぐに止まる。
「大会最優秀選手賞——帝京三中、橘颯太君」
呼ばれて一歩前に出る。監督の方をちらりと見ると、いつも厳しい顔の人が目を細めて頷いた。
(——この人にだけは、ちゃんと礼をしておかないと)
俺はトロフィーを受け取った後、審判団と相手チームのベンチに深く頭を下げた。一拍おいて、自分のベンチにも。スタンドの記者席で、ペンが何本か止まったのが視界の隅に映る。
——中学生が礼をしすぎる、って顔だな。
仕方ない。中三の身体に三十路の所作が乗っかっている。プロは礼の角度ひとつで翌日の記事の見出しが変わる世界で、それを十年以上やっていれば、頭より先に背筋が動く。
整列の戻り際、ベンチの脇に並んだ大人たちの姿が見えた。スーツ姿、手帳、ストップウォッチ、スピードガン。胸ポケットから半分覗いた名刺ケース、首から下げたパス、肩からかけたカバン——その装備の組み合わせを、俺は何度も見てきた。
——スカウトか。
数えるのを途中でやめた。視界に入っただけで二桁、後ろの通路にも何人か。明らかに「ついで」じゃない構え方をしていた。狙い撃ちに来ている人間の目つきだった。中には、名のある強豪校の人間が何人も混じっている。
関西、東北、九州——関東の高校とは思えないような、はるか地方の名前を入れたバインダーを抱えた男もいた。
帝京三中の副部長が小走りに近寄ってきて、俺の肩を叩く。
「橘。ざっと数えて三十校超えてるぞ。覚悟しとけ」
副部長は普段あまり数字を口にしない人だった。試合の結果を選手に伝えるときも、勝った負けただけを短く言って終わる。その人がわざわざ三十という数字を口にしたということは、たぶん本当に超えていた。
「……はい」
声が少し低くなった気がする。緊張する場面で声のトーンが落ちるのは前世からの癖で、中学生の声帯ではどうにも違和感がある。
「お前、夜から自宅にも電話来るからな。代わりに俺が出ときゃいいか」
「いや、自分で出ます。すんません」
副部長は一瞬、目を細めた。それ以上は何も言わずに、軽く頷いて離れていった。
(——多いな)
それだけ内心で呟いた。驚きというより、計算に使う材料が増えたという感覚に近かった。
⸻
球場を出たのは、陽が完全に落ちた後だった。
最寄り駅のホームは人がまばらだ。試合帰りのユニフォーム姿は俺一人で、ベンチには見慣れたショートカットの女子が一人座っていた。彼女は俺に気づくと片手をひざの上に置いたまま、もう片方を小さく上げた。
「お疲れ」という形に口が動いた気がする。声には、出さなかった。
「颯太」
吉川春乃。幼馴染で帝京三中の同級生で——三年間、俺の試合を一番後ろの席から見続けていた女の子だ。
「悪い。待たせた」
「全然」
春乃はベンチから立ち上がりながら、首を横に振った。ホームの蛍光灯が彼女の頬を白く照らしている。手には自分用の冷えたペットボトル。もう一本、まだ汗をかいているスポーツドリンク。
「はい」
差し出されたボトルを、俺は受け取った。
「悪い」
「それさっきから三回目」
「……ああ」
ペットボトルの表面の水滴が、握った指の隙間に落ちる。冷えた感覚が、まだ熱を持っている右手の付け根に染みていく。
春乃は少し笑った。呆れ半分、慣れ半分。そういう顔だ。
——昔から、こいつだけは俺の短い返事を怒らない。
電車が一本通過していく。風が彼女の前髪を持ち上げて、また下ろす。アナウンスが流れて、また消える。
「優勝、おめでと」
「ああ」
しばらく、間。
「MVP、おめでとう」
「ああ」
また、間。
「もうちょっと喜びなよ」
「喜んでる」
「絶対嘘」
春乃は呆れた顔で笑って、それから少しだけ口元を引き締めた。
「ねえ」
「うん」
「私さ、青道のマネージャー試験、受けるから」
——え。
一瞬、思考が止まった。
俺は視線だけを彼女に向けた。春乃はこちらを見ていない。線路の向こうの、少し赤みの残った西の空をまっすぐ見ていた。
「一次は、もう通った」
「……そっか」
それしか言えなかった。
(——お前は、もう動いてたんだな)
胸の奥が少しだけ熱くなる。俺がマウンドで満塁を抑えていた頃に、彼女はもう自分の進路を一歩踏み出していた。三年間後ろの席で見ていた女の子が、いつの間にか自分の選択肢を持っていた。当たり前といえば当たり前なのに、なぜか今日まで気づかなかった。
「青道、選んだ理由は」
俺の声は、思ったより落ち着いていた。
「ん——強いから。あと寮のごはんが美味しいって、見学のとき思った」
「……二つ目の理由が本音か」
「そう」
春乃は悪びれずに笑う。その笑い方は、中一の頃と何も変わっていない。
「颯太は、どこ行くか決めた」
「まだ」
「——だよね」
春乃は少しだけ笑った。
「決まったら、教えて」
「ああ」
電車が来た。俺たちは何も言わずに乗り込んで、別々のドアの近くに立った。
窓ガラスに彼女の横顔が映って、揺れている。車両のアナウンスが次の駅を読み上げる。春乃は鞄の取っ手を両手で握って、視線をつま先の方に落としていた。俺はその姿を、窓越しにだけ見ていた。
ふた駅進んだあたりで、春乃は一度だけこちらを振り向きかけて、結局振り向かなかった。
俺はそれを、見なかったふりをした。たぶんお互いに、今日交わした言葉の続きを、明日にとっておきたかった。
⸻
家の前に着いたのは、夜の九時を回った頃だった。
玄関の前で俺は鍵を出さずに、一度立ち止まった。頭上に月があった。昼間のマウンドの白さとは違う、夜の白さだった。
街灯の下で自分の影を見下ろすと、影だけは少しだけ大人びて見える。中三の身体に、三十年分の重みが乗っているのだから当たり前だ。
郵便受けの蓋が風で小さく鳴っている。隣の家の窓からテレビの笑い声が漏れて、すぐに消えた。家の中の照明の暖かい色が、磨りガラス越しに玄関のタイルまで滲んでいる。
ユニフォームの胸元から土の匂いがする。スパイクのピンに、まだ球場の砂が挟まっている。家に上がる前にスパイクの砂を落とす癖は、前世から続いていた。
——癖は、抜けないな。
俺はしゃがんで、玄関の前でスパイクの裏を軽く叩いた。ぱらぱらと砂が落ちる。立ち上がりながら、もう一度、月を見た。
スタンドの記者席。スカウトの背広。表彰台のトロフィー。春乃の横顔。捕手のミット。空振りした四番のバット。スポーツドリンクの冷たさ。副部長の汗。電車の窓に映った春乃の前髪。
今日一日の景色が、順番じゃなく、まとめて胸の真ん中に落ちてきた。
(——二度目の青春の場所、決めなきゃな)
口に出さずに、そう呟いた。決勝戦のマウンドで漏れたものより、少しだけ静かな熱だった。
一度、自分の選んだ場所で野球をやり切った。やり切れなかった、と言うべきかもしれない。事故で途切れた以上、最後の風景は自分のものじゃなかった。あのマウンドの夜風も、あの三振の余韻も、誰かが新聞の片隅に書いて終わらせた。誰かが俺の代わりに葬式の日付を決めて、誰かが俺の代わりにキャップとグラブを片付けた。
それが悔しかったわけじゃない。ただ最後の一行を、自分の字で書きたかったというだけの話だ。
今度は最初から選び直せる。中学の三年間で身体は仕上げた。実績も最低限作った。スカウトの数も悪くない。
——どこに行く。
候補は頭の中に何枚かのカードとして並んでいた。強豪、系列の進学先、県外、寮のある学校、古豪、新興。
その中の一枚に、ついさっき、春乃の声が一筆書き込まれた。
青道。
寮のごはんが、美味しいらしい。
——それ、選ぶ理由としては悪くないかもな。
俺は声に出さずに笑った。口の端だけがまた、ほんの少しだけ動いた。
家の中から母さんの「お帰り」の声が、少しくぐもって聞こえてくる。テレビの音もする。今日の決勝の中継が、ニュースで流れているのかもしれない。すぐに玄関を開ければ、家族が三人がかりで騒いでくることになる。それは分かっていた。
けれど、もう少しだけここに立っていたかった。
(——ま、いいか。明日、決めよう)
そう、内心で結んだ。
⸻
月の光が白かった。
マウンドの土の白さと、よく似ていた。
二度目の青春の場所を、俺は明日決める。
第1話、ここまで読んでくださってありがとうございました。
二度目の青春の、最初の一歩を書きました。
書きながら、こちらの肩にも夏の終わりの風が当たっていた気がします。
物語は、ここから青道の門までもう少し続きます。
彼が選ぶ場所、選ぶ人たち、選ぶ理由——
★やお気に入り登録、感想欄の一行、本当に次の一話の速度に直結します。