机の上の三十一通を、夜の蛍光灯の下で並べます。
そのうちの一通だけが、まだ封の切られないまま、机の右の端に置かれています。
走り出す前に、彼は一度、誰かと握手をします。
握手の温度を、彼が前世で覚えていた誰かと、比べてしまうほどの、二秒。
夏の終わりの夜の机は、紙で埋まっていた。
三十一通。スカウトの推薦書類が、一枚も手をつけられないまま、机の上で重ねられている。
——どれを、選べばいい。
蛍光灯の下で封筒の白さが微妙にずれて見える。校章の刻印。手書きの宛名。印字のフォント。差出人の癖が紙の表面にうっすらと残っている。俺は椅子を引いて座った。背もたれが軋む。窓は半分だけ開けてあり、網戸の向こうで虫の声が薄く鳴っていた。夏の終わりの音だ。机の角に置いた目覚まし時計の秒針だけが、紙の山に向かって規則的に進んでいた。針の進む先で、紙が動かない。
封筒を一つ取った。帝京。中の便箋を抜いて、机の上で広げる。
『投手として、一本に絞って育てる。打撃は趣味の範囲で構わない。本校は、彼を日本最速の右腕にする責任を負う』
——一本に絞る、か。
文字の角が立っている。プロ志望の投手として、これ以上にわかりやすい誘いはない。育成方針も具体的で、ブルペン施設の写真まで同封されていた。俺は便箋を畳んだ。封筒に戻す。机の左側に置く。
次。大阪桐蔭。
『現有戦力を超える即戦力として、一年生からベンチ入りを想定。投打の両立は本校の方針と合致しないため、入学後の面談で進路を確定させる』
——両立は、合致しない。
正直な人たちだな。嘘を書かない。だからこそ、選んだ後の道が真っ直ぐすぎる。封筒を戻す。机の左側、帝京の上に重ねた。
横浜。
『打者としての可能性も含めて、長く見たい。投手起用は本人の希望に応じて柔軟に対応する』
——長く、見たい。
これは、いい言葉だ。柔軟、という二文字が、紙の上で浮いて見える。けれど、柔軟は覚悟の裏返しでもある。最初から決め切っていない、ということでもある。
残り二十八通。机の右側で重なっている。履正社、仙台育英、智弁、広陵、明徳、東海大相模——どれも本気度が文字の選び方で透けて見える。打者で、と書く高校。投手で、と書く高校。両方を、と書きながら、文末の一行だけが少し弱い高校。同じ「育てたい」でも誰の手でどこまでと書き分けてある。指先で封筒の角をなぞった。紙の白さが指の腹で少しだけ温まる。
——どれも悪くない。
そう思ってしまうのが、一番怖かった。机の右の隅に、青道の封筒が一つだけ残っている。表に手書きで一行。『橘颯太様 青道学園野球部』。中身は、まだ開けていない。
⸻
階下から、ニュースキャスターの声が漏れてきた。野球の話題ではなかった。台風の進路の話だ。俺はドアを開けて、階段を下りた。木の階段が一段ごとに小さく鳴る。リビングで、父が缶ビールを片手にテレビを見ていた。仕事帰りのワイシャツのまま、ネクタイだけ外している。母は台所で、麦茶のポットを冷蔵庫から出している。湯のみに氷が落ちる、小さな音。
「颯太」
父が、画面を見たまま言った。
「決めたか」
「まだ」
俺は冷蔵庫の前に立った。母が、麦茶の入った湯のみを差し出してくる。
「ありがとう」
「無理は、しないで」
母の声は、いつもより少しだけ低かった。麦茶を一口飲んだ。冷たさが、喉の奥を落ちていく。
「お前が決めろ」
父が、缶を傾けながら短く言った。
「ああ」
「俺は何も言わない」
「うん」
母が、こちらを向きかけた。何か言おうとしている。続きを聞けば、たぶん俺は決められなくなる。母の言葉は、いつも俺の覚悟より一段やわらかい。やわらかいものは、後で効く。
「考えます」
俺は湯のみを返した。母の目を見ない。階段を上がる。三段目で、後ろから母の声が追ってきた気がしたけれど、振り返らなかった。部屋に戻る。机の上の紙の山が、出ていったときと同じ場所で待っていた。
⸻
椅子に座った。蛍光灯のかすかな唸りが、耳の奥に残っている。
——前にも、こうやって紙を並べた夜があった。
前世。中学三年の終わり。同じように机の上に推薦書類を並べて、同じように迷っていた。あの時の俺は最終的に「もったいない」と言われた高校を選んだ。強豪じゃない。練習設備も普通。ただ監督の手紙の最後に一行だけ「お前のために走り方から変える」と書いてあった。
——走り方から、変える。
その一行で決めた。三年目の夏に甲子園で優勝した。最後の打者を打ち取った瞬間の、爪先で蹴った土の固さ。鳴り止まないサイレン。チームメイトの叫び声。スタンドの誰かが俺の名を呼んでいた声。その全部が、紙一枚から始まっていた。一行で人生を動かす書き手は、世の中にそう多くない。
(——あの時の俺なら、選ばなかった選択肢を、今度は選べるか)
机の上の紙をもう一度見た。帝京。大阪桐蔭。横浜。どれも前世の俺なら飛びついた看板だ。そして青道。あの夜の俺なら、たぶん最後まで開けなかった封筒。俺は青道の封筒には触れずに椅子の背にもたれた。天井の木目を見上げる。決めるのはもう少しだけ後。
(——明日の練習場、誰が来るんだったか)
副部長から聞いていた。青道のスカウトが直接顔を出す。それだけ聞いて誰がとは聞き返さなかった。明日になればわかる話に今夜の脳を使うのは無駄だ。
⸻
翌日の午後、帝京三中の練習場にいた。全国制覇の翌日でも来た。家にいると紙の山が視界に入る。視界に入ると考えてしまう。考えても答えは出ないと知っているのに、紙の前では止まれない。だからグラブを持って出てきた。空は薄曇りで、グラウンドの土の色が普段より一段暗い。風はほとんどなかった。
後輩の一人とキャッチボールをしていた。距離はそれほど取っていない。肩を温める程度の強さで白球を投げ合う。芝生の脇に水筒を置いて、汗をタオルで拭いた。
「颯太先輩」
後輩が、グラブを下ろして俺の背中の方を見た。
「お客さん、っぽいです」
振り返った。グラウンドの入り口に女性が一人立っていた。白いシャツに紺のスラックス。髪を後ろで結んでいる。眼鏡のフレームは細い。汗をかいていない。日陰に立つ位置の取り方が慣れている人のそれだった。
「橘颯太くん」
声は、低くて、よく通った。
「青道学園からきました。高島礼です」
⸻
グラウンド脇の塗装の剥げたベンチに並んで座った。木の表面が一部だけ手のひらに引っかかる。後輩は気を利かせてグラウンドの反対側で素振りを始めている。バットが空気を切る音が、規則的に二回ずつ響いた。蝉の声が向こうの林からまばらに降ってきていた。
「お時間、いただいてすみません」
高島礼は、膝の上にファイルを置いた。中身を開かない。
「いえ」
「全国優勝の翌日に、押しかける形になりました」
「練習場には、来るつもりだったので」
俺はタオルを首にかけ直した。汗の残りが、襟の内側で冷たい。高島礼は、横顔をこちらに向けないまま、しばらくグラウンドを見ていた。後輩の素振りの音が、二度、三度と聞こえる。それから、彼女が口を開いた。
「単刀直入に言います」
「ええ」
「うちは、あなたを二刀流のまま使います」
蝉の声が、一段低くなった気がした。
「他の高校の話は、もう聞いていますね」
「ある程度は」
「投手で取りたい学校。打者で取りたい学校。両方を期待していると書きながら、内側ではどちらかに寄せたい学校。たぶん、あなたの机の上には、その三種類が並んでいるはずです」
——見えているのか、この人。
口には出さなかった。代わりに、麦茶のペットボトルを膝の横に置いた。
「私たちは、あなたを二つ使い切るつもりです」
高島礼の声は、押し付けがましくなかった。むしろ淡々としていた。営業の声でもなければ、勧誘の声でもない。事実を、そのまま置きにきた声。それが、かえって耳に残った。
「具体的に言います。週単位のローテで管理します。月曜は完全休養。週の前半でブルペンと先発、後半は打撃と外野守備に振る。シーズン中の登板間隔は中六日。打席は登板日も四番で立たせます。降板後はDHに切り替える日もあります。打撃には専属コーチを一人つけます」
ファイルは、まだ開かれない。彼女の頭の中に、すでに全部入っている、ということだった。
——専属で、一人。
それが、どれだけの人手か、前世で知っていた。
「質問しても」
「どうぞ」
「打撃の練習量は、登板週でどれくらい削ります」
「半分まで。完全には落としません。打席感覚は一週間で簡単に消えます」
「外野の守備練習は、肩の負担にならないやり方を」
「それは、こちらでメニューを組みます。スローイングの本数を制限する代わりに、ポジショニングの判断練習を増やします」
短い質疑だった。けれど、答えが、全部、用意されていた。即興で出したものではない。たぶん、俺の名前を書類で見た日から、彼女はこの会話の輪郭を引いてきた。俺はうなずいた。
⸻
「橘くん」
高島礼が、ファイルを膝の上で一度持ち上げて、置き直した。
「失礼を承知で、一つだけ訊いてもいいですか」
「どうぞ」
「あなた、何歳ですか」
蝉の声が、ふっと遠くなった。質問の意味は、すぐに分かった。中学三年生に向けて、こういう聞き方はしない。前世の感覚で動いてしまった瞬間が、たぶん、彼女の目の前のどこかに残ったのだ。返答までの一拍。視線を逸らさずに受けた、答えの軽さ。何かが、薄く透けた。俺はペットボトルのキャップを、指先でゆっくり締め直した。
「中学三年生です」
淡々と返した。高島礼はこちらを見なかった。グラウンドの方を見たまま、口の端だけで小さく笑った。
「そうですよね」
それ以上、彼女は踏み込まなかった。
(——この人なら、本音を出してもいいかもしれない)
頭の隅で、そう思った自分に少しだけ驚いた。理屈で人を見る人。けれど、理屈の奥に温度がある人。あの頃にも、何人かいた。
「橘くん」
「はい」
「うちは、あなたを甘やかしません」
声の調子が、わずかに変わった。
「使い切る、と言いました。これは、約束ではなく、覚悟です」
「ええ」
「もし入学後にあなたが折れそうになっても、私は止めません。止めない代わりに、折れない設計を、最初に組みます。折れる前提で組まれた設計は、選手の側からは見えません」
——折れない設計。
その言い方が、耳に残った。こういう言葉を使う指導者には、過去に一人しか会っていない。
「分かりました」
俺は短く返した。声に余計なものを混ぜなかった。混ぜたら、たぶん、彼女の方が先に気づく。高島礼が、ファイルを脇に挟んで立ち上がった。
「お返事は、急がなくていいです」
「ありがとうございます」
「ただ、青道は、あなたに二つの夏を約束します。一つはピッチャーとしての夏。もう一つはバッターとしての夏」
彼女は、右手を差し出してきた。
「よろしくお願いします」
反射的に、こちらも手を出した。触れた。
——指が、長い。
握手の力は、強くも弱くもない。手のひらの温度が、汗をかいていないせいで、こちらより一度くらい低い。指の関節の角度に、書き仕事の癖がある。二十代の終わりに出会った相手と、同じくらいの指の温度。その瞳は、俺の中身を見抜きかけている色だった。握手は、二秒ほどで離れた。
高島礼は、ベンチから一歩離れて、軽く頭を下げた。
「失礼します」
去っていく背中を、俺はベンチに座ったまま見送った。白いシャツの肩のラインが、まっすぐだった。グラウンドの入り口で、振り返ることはなかった。蝉の声が、また一段ずつ戻ってくる。タオルの内側に、汗が冷えて貼りついている。麦茶のペットボトルの中で、氷が一つ、小さく音を立てて崩れた。
——青道、か。
ベンチの木目を、指先でなぞった。
(——使い切る、って言葉を、外から先に渡された)
口の中で、麦茶の冷たさだけが残っていた。初対面の指導者にあれだけ見抜かれたのは、たぶん、二度目。一度目は、プロ二年目のコーチ。冷静で、温度のある人。あの人と、今日の高島礼は、声の出し方の癖がよく似ていた。
帰り道のアスファルトは、まだ昼の熱を残していた。スニーカーの底が一歩ごとに少しだけ吸い付く。練習場から駅までの十五分、俺はずっと右手の感覚を意識していた。指の腹に、握手の温度が、まだうっすら残っている。あの頃の俺なら、ここで「ああ、いい指導者と出会えた」と単純に喜んでいたはず。今の俺は、それより先に「気づかれた半分はどこから漏れたのか」を遡っていた。礼の角度。声のトーン。質問の返し方。間の取り方。たぶん、その全部が少しずつ大人すぎたのだ。中学生のサンプルを何百人と見てきた指導者には、あの違和感は隠しきれない。
(——隠しきれない、なら、隠さなくていい人を選ぶ)
その結論が、自分の中で意外に早く落ちてきた。隠さなくていい相手のいる場所に、最初から行く。それも一つの戦略だ。
⸻
夜。机の前に戻った。紙の山は、出かける前と同じ場所にあった。けれど、見え方が、少し違っている。シャワーを浴びて、髪を半分だけ拭いて、椅子に座り直したところで、ようやく俺は青道の封筒に手を伸ばした。表書きの一行だけが、他の二十通とも、はっきり違う。俺は青道の封筒を、机の真ん中に置いた。封を切った。中の便箋は、一枚だけだった。印字ではない。手書き。少し角ばった字で、行が一行だけ。
『お前を、二つ使い切る覚悟がある——片岡』
便箋を、両手で持った。動けなかった。指先が、紙の縁を探したまま止まっている。片岡の字は、定規で測ったような均一さはない。一画ずつ、力の入れ具合が違う。
——スカウトの文書じゃない。
(——ずるい人だな)
宣戦布告に近い。あるいは、覚悟の押し付けに近い。どちらにしても、便箋を読まされた側は、もう、断る理由を一つずつ削られていく書き方だった。便箋を机に置いた。椅子の背にもたれて、天井を見た。
——春乃の駅のホームの背中。
電車を待ちながら、こちらに向かって「青道のマネージャー試験、受けるから」と言った時の、肩のあたり。あの背中は、決めてから、こちらに伝えに来た背中だった。先に決めていた。
——片岡監督の、手書きの角ばった字。
『二つ使い切る覚悟がある』。書く方の覚悟が、紙の上に残っていた。
——高島礼の、差し出した手の温度。
汗をかいていない手。理屈の奥にある温度。「折れない設計を、最初に組みます」と言った声。三つが頭の中で重なった。春乃の背中。片岡の字。高島礼の指。順番をつけられない。どれが一番、ということはない。三つのうちのどれか一つが欠けても、たぶん、青道を選ばなかった。
——理由を、一つに、できないな。
そのことに、少しだけ安心した。一つに絞ると、後で揺らいだ時に、その一つが折れたら全部が崩れる。三つ重なっているなら、一つ揺れても残り二つが支える。
(——三本足の椅子で、いい)
俺は便箋を、もう一度、机の真ん中に置き直した。
⸻
机の上を見渡した。便箋の周りに、三十通の封筒が散らばっている。帝京。大阪桐蔭。横浜。仙台育英。智弁。広陵。明徳。一通ずつ並べ直そうとして、やめた。
——並べる必要は、もう、ない。
両手で紙の束をまとめて抱えた。一枚は軽くても、三十枚はそれなりに重い。机の右の引き出しを引いた。一番下の段。普段はあまり開けない。古いスコアブックや、前の学校の卒業文集が入っている段。そこに束のまま押し込んだ。引き出しの奥で、封筒の角が少し折れた。
(——悪い)
声には出さなかった。一通ずつには、書いてくれた人がいる。会ったことのない大人が、俺のために言葉を選んで、便箋を折って、糊を舐めた。その手間に、頭は下げる。下げた上で、奥にしまう。引き出しを閉めた。閉まり切る最後のところで、紙の厚みのせいで、わずかに抵抗があった。木の擦れる、低い音。
机の上が、急に広くなった。便箋一枚と、その下の青道の封筒だけが残っている。蛍光灯の音が、また聞こえてきた。さっきまで、聞こえていなかった音だ。窓の外で、虫の声がさっきよりも近く感じられた。風が、少しだけ、動いたのかもしれない。俺は便箋を、人差し指で、一度だけ、軽く撫でた。
(——二度目の青春を、ここで)
口の端だけが、ほんの少し動いた。
机の上には、青道の紙だけが残っていた。
残りの三十枚は、引き出しの一番奥に押し込んだ。
二度目の青春を、ここで——始める。
第2話、ここまで読んでくださってありがとうございました。
決断の話を書きました。
中学三年生の机の上に、三十一通分の本気を並べる夜です。
書きながら、こちらの背中も少しだけ重くなった気がします。
物語は、ここから青道の門までもう少し続きます。
彼が選ばなかった三十校に、その分の礼を返せる日が、いつかきっと来ます。
今夜は、引き出しを閉める音だけを残して、そっと終わりにします。
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