二刀の覚悟 〜元プロ二刀流、青道高校に転生す〜   作:熊々

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原作持っておらず、原作からは乖離してるかもしれません、、
ご了承ください。

第3話です。

三月下旬の朝、彼は青道の門をくぐります。
四月の入学式を待たずに、寮へ合流する春合宿の朝。
桜はまだ蕾が固く、校舎は卒業式と入学式の谷間にあります。

寮の階段の上で、彼はひとつ、再会をします。
寮の廊下の向こうで、彼はひとつ、洗礼の音を聞きます。
寮の角の部屋で、彼はひとつ、先輩と出会います。

長い春の入り口を、お届けします。


第3話 青の門

青道の門は、思ったより小さかった。

だが門をくぐった瞬間、空気の匂いが変わった。

——土と、汗と、誰かの本気の匂い。

 

三月下旬の朝、桜はまだ蕾が固かった。校舎には人の気配が少なく、卒業式の片付けと、入学式の準備の谷間にあるような静けさだった。野球部の新入生は、4月の入学式を待たずに、いま、ここに合流するように、と先月のスカウトから聞いていた。強豪校では珍しくない流れだ。前世の俺が選んだ高校でも、入学前の春合宿に新入生が呼び出されていた。

 

俺はスポーツバッグを肩にかけ直して、寮の方へ続く坂を上がった。

 

制服はまだ手元に届いていない。中学のジャージのまま、上だけ薄手のジャケットを羽織っている。十五歳の体は、手足の関節がまだ柔らかい。前世なら肩を温めるのに二十分かけていた工程が、今朝は五分で済んでしまった。便利と言えば便利で、薄気味悪いと言えばそうだ。

 

前世の終盤に痛めた左膝の違和感もない。あの靱帯の引きつるような感覚を覚えているのは魂の方らしくて、肉体の方は何の記憶も持っていなかった。中学三年間で再構築したフォームも、この体ならまだ歪みなく回せる。

 

(——二度目はずいぶん早い)

 

坂を上りきると、寮の入り口の階段の上に、見覚えのある背中が立っていた。

 

紺のジャージ。後ろで結んだ髪。彼女は俺の足音に振り返った。

 

「来たね」

 

短く言って、笑う。

 

「先、入ってたんだな」

 

「うん。一週間前から」

 

吉川春乃。一次試験を通過して、既にマネージャー候補としてここに在籍している。電話では聞いていたが、実際に寮の階段の上に立っている姿を見るのは初めてだった。彼女は、こちらが上ってくるのを待ってくれていたわけではないらしい。たまたま玄関に出ていたら、俺の影が坂の下から見えた、という偶然の重なり方だった。

 

「中、ジャージの先輩いっぱいだから。気をつけて」

 

「ああ」

 

「五号室、もうすごいことになってる」

 

「……どんな」

 

「沢村くん、自分で部屋探してた。声が、たぶん寮の外まで聞こえてた」

 

春乃は短く笑って、それから、玄関の方に視線を戻した。マネージャー候補としての一日が、もう彼女の中では始まっている。俺は短く頷いて、玄関の戸を開けた。

 

 

寮の玄関ホールは、午後の光を半分だけ吸い込んでいた。野球部の新入生が、廊下に張り出された部屋割りの紙を覗き込んでいる。沢村が一番前で、紙に顔をくっつけるみたいにして、自分の名前を独り言で探していた。

 

「えーっと、沢村、沢村……うっす!五号室っす!倉持先輩と増子先輩と一緒!」

 

声がそのまま廊下を跳ねていく。先輩二人と一年が一部屋。沢村は満面の喜びだったが、前世の俺の経験で言えば、あの組み合わせは新人にとって「歓迎」と「洗礼」の両方を意味する。倉持洋一は俊足の遊撃手で、二年。増子透は三年で四番候補。新入生に手心は加えない種類の先輩二人だ。

 

俺は人の波が引いてから紙の前に立った。

 

橘颯太——三号室。同室は、御幸一也(二年)。

 

(——御幸さんと、二人部屋か)

 

下級生と上級生の二人部屋という割り振りはこの寮では珍しくないらしい。投手と捕手のバッテリーを同部屋にする、というのは前世のチームでも何度か見た監督の采配だった。意図ははっきりしている。

 

——使い切る、か。

 

机の上の手書きの一行を、もう一度頭の中で再生した。片岡監督の角ばった字。あの一行を書いた人間と、たぶんこの部屋割りを決めた人間は、別人ではない。投手と捕手を同じ天井の下に並べた、その意図のところで二人の覚悟が重なっている。

 

ホールの奥に、長い髪を後ろで結んだ女性が一瞬だけ見えた。眼鏡。ファイル。新入生たちの様子をひととおり目で数えてから、廊下の奥へ消えていく。

 

——高島礼さん。

 

俺と目は合わなかった。合わせない、と先に決めてくれた人の歩き方だった。

 

俺は短く息を吐いて、階段を上がる。

 

 

階段を上がる途中で、廊下の反対側、5号室の前から沢村の声が聞こえた。

 

「失礼しまーっす!」

 

ドアを開ける音。直後、暗闇の方から「うわっ!」と叫び声。何かが床に転がる音と、倉持先輩らしき笑い声、それに低い唸り声——あれはたぶん増子先輩——が混じって、沢村の悲鳴がそれを上書きしていく。プロレス技、と廊下の途中まで届いてくる単語を聞いて、俺は頬の内側でわずかに笑った。あの組み合わせなら、沢村は一週間で先輩二人の癖を覚える。苦労はするが、伸びる部屋だった。

 

廊下の奥、寮の二階の角部屋。木の扉に、二人分の名札が貼られていた。

 

『3号室 御幸一也 橘颯太』

 

ノブに手をかけて、開ける。中はもう、半分先輩の領分だった。下段のベッドの脇に、使い込まれた捕手のミット。本棚に並ぶ配球理論の本。机の上に、小さな卓上扇風機。窓辺に黒いサングラスが置かれていた。室内の整い方が、二年生のそれにしては落ち着きすぎている。前世なら「主将になるタイプの部屋だ」と一目で分かる類のしまわれ方だった。

 

「来た来た」

 

声は、ベッドの上から落ちてきた。

 

下段のベッドに胡座をかいた男が、文庫本を片手にこちらを見ていた。短めの黒髪。目が細い。にやり、と笑い方を作るのが上手そうな顔をしている。それから片手を軽く上げた。

 

「橘な。御幸だ。よろしく」

 

「お願いします」

 

俺は短く頭を下げた。御幸はそれ以上は構えない。本に栞を挟んで、ベッドの上で胡座を組み直した。

 

「上、好きに使えよ。下は譲らねえ」

 

「はい」

 

「何だ、その敬語」

 

「先輩なので」

 

「真面目だなぁ」

 

御幸は鼻で笑ってから、文庫本の表紙を指で軽く叩いた。

 

「中学全国制覇の四番投手、154出すって聞いたんだけど」

 

「……ええ」

 

「初日からマウンド乗せられるかもよ」

 

「乗ります」

 

そう返した瞬間、御幸の細い目が、ほんの一瞬だけ静止した。

 

(——まずいな)

 

口の動きを止める前に、答えてしまっていた。中学生が初対面の上級生に「乗ります」と即答する。前世の癖だ。気をつけているつもりで、油断するとこういう返し方が出る。

 

「……お前さ」

 

御幸が文庫本を閉じた。表紙の角で、軽く膝を叩いている。

 

「面白いな」

 

ふっ、と短く息だけで笑った。声は出さない。

 

「初日に先輩相手にそれ即答するの、なかなかいないぜ」

 

「すみません」

 

「お、今度は謝るんだ。へえ」

 

表紙の角で、もう一度膝を叩く。視線がほんの少しだけ、こちらの背筋から首筋を、それから手元のスポーツバッグを、順番に滑った。バッテリーの捕手が投手の身体を見るときの目だ。前世で何百回受けたことがある視線だった。

 

「明日、俺が受けてやろうか」

 

言い方は、優しくない。

 

「お願いします」

 

「即答かよ」

 

御幸は口の端を上げた。にやり、ではない、もっと静かな笑い方だった。

 

「お前、そのミット」

 

御幸が、こちらの枕元のミットを目だけで示した。

 

「中学生がそこまで皮、馴染ませるか?」

 

「……早めに、買ってもらったので」

 

「ふうん」

 

それ以上は突っ込まなかった。が、納得した顔でもなかった。一度こちらを撫でて、もう一度撫で直した、という気配だけが残った。御幸は何も言わずに、また文庫本を開く。

 

(——道具で気付かれかけた)

 

俺は荷物の取っ手を握り直して、二段ベッドの上段に荷物を置いた。指の腹に、自分の汗が薄く残っているのが分かった。

 

 

着替えてグラウンドに出る。陽はもう半分傾いていた。一年生がグラウンドの三塁側に集められている。二年生と三年生はすでに別メニューに入っていた。遠くで打球音が連続している。乾いたいい音だ。

 

「キャッチボール五分」

 

二年のマネージャーらしき女子生徒が短く告げた。一年生たちが二人一組になる。俺は無言で、隣で同じく一人になっていた背の高い男に並んだ。同期の捕手志望らしい。短く頷き合って、距離を取る。

 

最初の数球は軽く投げる。肩の関節を少しずつ起こしていく。前世から染みついた手順だ。十球目までは六割、二十球目までで八割。それ以上はブルペンに入ってから。

 

素人は知らないが、この最初の二十球を雑に扱った投手は十年もたない。肘も肩も若いうちは黙って耐える。だが三十を過ぎる頃に必ず請求書が回ってくる。前世の俺はそれで一度マウンドを失いかけた経験を持つ男だった。同じ轍は踏まない。

 

「おい、一年」

 

声が横から飛んでくる。二年生だった。スパイクを履き替えながらこちらを見ていた。日に焼けた頬。

 

「もう一段、上げてみせろ」

 

試している声だった。俺は捕手役の同期を一度見た。男が無言でミットを構え直す。覚悟は決めた、という顔だった。

 

「行ける」

 

短く言って俺は振りかぶる。ほんの少しだけ。本当にほんの少しだけ肩を入れた。

 

球が手を離れる。その瞬間、グラウンドの音が消えた。

 

捕手のミットが、後ろへ吹き飛んだ。

 

ミットごと体勢ごと、二メートル近く後ろへ。男は尻もちをついたまましばらく動かなかった。土埃がゆっくりと立ち上がる。

 

しん、と一年生の列が静まる。二年生が口を半分開けたままこちらを見ていた。

 

俺は息を吐いた。

 

「悪い」

 

短くそれだけ言う。

 

(——加減を間違えた)

 

そのとき視界の遠くに別の人影があった。三塁側のフェンス。腕を組みこちらを凝視している長身の三年生。スカウト資料の中に何度か出てきた顔。

 

——丹波光一郎。

 

青道の現エース。目が合った。合った、というよりは向こうがじっと見ていた。何も言わない。ただ視線だけが長かった。

 

その長さの意味を前世の俺は知っている。新人が入ってくる初日に自分の場所を計算しているエースの目。何度もベンチの端から見てきた表情だ。脅かしたくて来たわけじゃないと弁解できる立場ではなかった。

 

(——自分の場所が削られるかもしれない目だ)

 

悪いな、と俺は思う。思いながら球を返した。

 

そのときグラウンドの反対側から声が跳ねてきた。

 

「うっす!橘先輩、すげえ!」

 

栗色の短髪がフェンス越しに飛び跳ねている。

——沢村。

俺の眉がわずかに動いた。

 

(——同期なんだけどな)

 

苦笑が口の端に出かかってすぐ引っ込めた。

 

中学時代の全国大会の決勝。あの試合の映像をこいつは見たのかもしれない。それで勝手に「橘先輩」になっているのならしばらくは訂正しなくていい。野球は勝手に憧れて勝手に追いかけてそれでだいたいちょうどいい。

 

沢村が叫んだあと、一年生の何人かが俺の背中を盗み見ているのを目の端でとらえる。視線の重さが少し変わった気がした。それでもいい。むしろ早めに整理されるなら好都合だ。一年生の中で誰がどう見られているか、前世なら半年かけて固まったものが、ここでは初日に動き始める。学校というのはそういう場所だった。

 

捕手役だった同期の男が、土を払って立ち上がりながらこちらを見た。一度だけ短く頷いてくる。俺も短く頷き返した。受けてくれた手の痺れが引くまで、明日の朝までかかる種類の球だった。後で名前を聞いておこう、と俺は内心で短く決めた。

 

 

陽がグラウンドの向こうに半分沈んだ頃、練習が終わる。一年生は後片付けに回された。

 

俺はトンボを手にして内野を均し始める。塁線の内側、マウンドの周り、バッターボックスの跡。前世ではこれが一番好きな時間だった。

 

土の表面に引っかいた跡が残る。それをゆっくりと撫でて消していく。ホームベースの周りの足跡が一番深かった。

 

(——ここで二度目の野球をやるのか)

 

胸の奥が少しだけ熱くなる。外には出さない。トンボを引く手の速度だけほんの少し上がった。

 

ベンチの方から声がした。

 

「ふっ……面白い肩してますね」

 

短い、ほとんど独り言のような声だった。顔を上げると、ベンチの横にコーチらしき男が立っていた。長身ではない。表情は柔らかい。だが目だけが妙に冷えていた。

 

——落合コーチ。

 

それだけ認識する。向こうもそれ以上は何も言わない。ただこちらを一度見て視線を外し、グラウンドの全体を見渡しただけだ。それで十分だった。

 

——見られているな。

 

別の方向からも視線を感じた。校舎の屋上の窓のあたり。顔を上げる。逆光で表情までは見えない。ただ長い髪が夕方の風に揺れているのだけがわかった。

 

高島礼さん、と心の中で名前を呼ぶ。練習場で握手した日の手の温度を、なぜかこのタイミングで思い出した。あの日も今日と似た色の夕方だった気がする。

 

(——見られてるな)

 

口の端でほんの少しだけ笑う。窓の方へは視線を返さなかった。返したら何かが進んでしまう気がしたからだ。

 

 

寮へ戻る道は街灯が一つ二つと点きはじめていた。校門と寮の間に短い坂がある。

 

その坂の上で俺は誰かの笑い声を聞いた。

 

くす、と。

 

短い、ほんとうに一瞬の音だ。足を止めて振り返る。誰もいなかった。街灯の下の白い光の輪。そのどこにも人影はない。

 

(——いまの、笑った)

 

誰かがたしかに笑った。しかもこちらを見て、こちらに対して笑った気配がある。馬鹿にした笑いではない。面白がった笑いに近かった。

 

その辺りの男の声だと思う。何より気になったのは、こちらの居場所を完全に把握していそうな笑い方だ、ということだ。隠れる必要を感じていない人間の声、と言い換えてもいい。

 

 

寮の二階、3号室の扉を開けると、御幸はベッドにはいなかった。

 

机の前で、二年用の教科書を広げていた。卓上扇風機が首を振っている。蛍光灯の光が文庫本の上で白く跳ねている。気配だけで、視線はこちらに動かなかった。

 

「お疲れ」

 

声だけが、こちらに来た。机の方は振り向かない。教科書の上で、ペンが一定のリズムで動いている。

 

「ただいまっす」

 

「初日のキャッチボール、誰潰した」

 

俺が答える前に、御幸はもう答えを知っている、という顔だった。視線はノートの上にあるのに、こちらの足音から汗の匂いまで把握している気配があった。寮の廊下の何メートルか先から、すでに今日のグラウンドの結末を読み終えている、という感じだ。

 

「……名前、知らないっす」

 

「お前さ」

 

御幸が、ペンの尻で頬の横を二度叩いた。ようやくこちらを見る。口の端を、わずかに上げる寸前の顔だった。

 

「中学生の出す音じゃなかったって、二年が騒いでた」

 

「悪いっす」

 

「謝るのが早いんだよ」

 

御幸は息だけで笑った。それから、ペンを置いて続けた。

 

「で、お前、加減のつもりであれ?」

 

「……はい」

 

「へえ」

 

その「へえ」が、いやに長かった。短い言葉のはずなのに、息の置き方ひとつで意味が二段重ねになる。前世のチームで言うところの「いいキャッチャー」の話し方だった。

 

御幸は引き出しを開けて、缶のスポーツドリンクを一本、こちらに放った。

 

「飲んどけ。明日も投げる」

 

俺は片手で受け取った。冷たさが、さっき土を握っていた指の腹に染みる。

 

「ありがとうございます」

 

「礼が長い」

 

「すんません」

 

「やっぱり長い」

 

御幸は短く息だけで笑って、それから視線を一度、こちらの胸元から指先まで滑らせた。

 

「お前さ、力の抜き方、もうできてるよな」

 

「……どういう意味ですか」

 

「初日のキャッチボールで、本気の七割だろ。あれ。八割は出してない」

 

ペン先で、指の関節を一回、軽く叩いた。

 

「俺の前で八割、出してくれよ。明日」

 

「……はい」

 

「即答するな。考えてから返せ」

 

「すんません」

 

「謝るな」

 

御幸はそれ以上は言わなかった。教科書の方に戻って、ペンを動かす。文字を書いている、というより、こちらの背中を背中で観察している、という気配だった。

 

俺は荷物の整理を続ける。机の引き出しに、前世から続けている自前のトレーニングノートを、いちばん下の段にしまった。深い段は、誰にも覗かれない。前世の癖でそうしてしまった。御幸の机の引き出しの奥にも、たぶん、似たような種類のノートが何冊か眠っている気がする。

 

二段ベッドに上がる前に、ふと窓の外を見た。寮の二階から見えるのは、グラウンドの照明と、その奥にうっすら浮かぶ校舎の屋上の窓だった。今日の夕方、長い髪が揺れていた窓だ。今は明かりが消えている。一日の終わりに、あの人もどこかで一日分の疲労を抱えているはずだった。前世の俺が知っている女性たちは、たいていそういう疲れ方を上手に隠す人たちだった。礼さんも、たぶん、その種類の人だ。

 

下段から、衣擦れの音が聞こえた。御幸が枕元の本に栞を挟む音だった。俺はそれを背中で聞きながら、上段の梯子に足をかけた。

 

その時、廊下の遠くから、5号室の方角で、また沢村の声が漏れた。

 

「うっす!パワプロやりましょう!倉持先輩、勝つまで終わらないっすよ!」

 

「お前に勝つまでとか言われるとマジで朝までやるからな」

 

倉持先輩の笑い声と、ゲーム機のオープニングらしき音楽が、廊下越しに薄く伝ってくる。増子先輩の「もう一回」のような低い声も混じっていた。

 

あいつ、明日の朝、起きれないかもな。

 

口の端だけで一度笑って、それから消した。前世のチームの新人にも、初日の夜に「これは明日来ないやつだ」と分かる新人が一年に一人はいた。沢村はその種類の新人だった。御幸も、たぶん、いまの音を下段で同じように聞いている気がする。

 

その夜、上段で寝る前に、俺は天井を一度だけ見上げた。

 

(——御幸さん、初日でだいぶ撫でてきたな)

 

撫でて、というのが、捕手の癖の一つだ。指のサインを出す前に、相手の仕草を一度だけ撫でてから配球を組み立てる。御幸はあれを、グラウンドじゃなくて部屋の中でやってきた。投手の精神面を、寝る前にもう一周見る。前世のチームの正捕手も、夜の食堂で同じようなことをしていた。

 

——明日もここで投げる。

 

胸の中でそれだけを確かめる。下段からは、短い寝息が聞こえる。御幸はもう、寝ていた。眠る速度まで先輩の余裕だった。寝床に上がる前にもう一度だけ坂の方を思い出した。

 

くすと笑ったあの声。隠れる必要を感じていない笑い方。あの声の主はたぶんこちらの名前を既に知っている。スカウト資料か噂話かあるいはもっと別の経路でか。考えてもいまは答えが出ない種類の問いだ。

 

天井の木目を、目で一度だけなぞる。前世のあの夜と、今夜の天井は、やっぱり違う模様をしていた。

 

部屋に戻ると、御幸はすでに眠っていた。

窓の外、グラウンドのライトが消える音がした。

笑い声の主が、誰だったのか——俺はまだ、知らない。

 




第3話、ここまで読んでくださってありがとうございました。

入寮初日の話を書きました。
入学式より一足早い、新入生だけの三月の朝です。
書きながら、こちらまで春の坂道の匂いがしていた気がします。

物語は、ここから青道の野球が本格的に動き出します。
彼の同期、彼の先輩、彼を試す目、彼を笑う声——
今夜はいったん寮の窓から、消えていくナイター照明だけを眺めて終わります。

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