カーストリング・インフェルノ   作:戦竜

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第一話 日常の終わり

昼休みの教室には、いつもと変わらない緩やかな喧騒が満ちていた。

 

午前の授業を終えた生徒たちは、それぞれが机を寄せ合い、

ある者は購買で買ってきたパンの袋を開け、ある者は弁当箱の蓋を外し、

ある者は携帯を片手に友人と他愛のない会話を交わしながら、

何の疑いもなく、今日という日が昨日と同じように過ぎていくものだと信じていた。

 

窓の外には、春とも夏ともつかない柔らかな陽光が降り注ぎ、

校舎の白い壁を穏やかに照らしており、

遠くには放課後に生徒たちで賑わうであろうケヤキモールの開店準備が進められ、

すべてがこの高度育成高等学校という閉ざされた楽園の中で、

整然と、平和に、そして退屈なほど安全に保たれているように見えた。

 

オレ――綾小路清隆もまた、そんな昼休みの一部として、

教室の片隅で長谷部波瑠加、佐倉愛里、

三宅明人、幸村輝彦たちと机を囲んでいた。

 

「ねえねえ、きよぽんってさ、また今日もその無難すぎる昼食なの?」

 

長谷部がオレの手元を覗き込みながら、からかうように笑った。

 

オレの昼食は、コンビニで買ったおにぎりと総菜パン、

それに紙パックの茶という、特に語るべき要素のないものだった。

 

「無難なのが一番だろ」

「いやー、きよぽんらしいけどさ。なんかもっとこう、男子高校生っぽく、

唐揚げ弁当大盛りとか、カツ丼とかないわけ?」

「それは須藤の領分だな」

 

オレがそう返すと、三宅が小さく笑い、幸村は呆れたように眼鏡の位置を直した。

 

「栄養バランスを考えるなら、揚げ物ばかりというのも感心しないがな。

もっとも、清隆の昼食も褒められたものではないが」

「ゆきむー、昼休みにまで健康指導するのはちょっと重いよ」

 

長谷部が肩をすくめると、佐倉が控えめに笑った。

 

「でも……みんなで食べると、何でも少し美味しく感じるよね」

 

佐倉の声は小さかったが、その言葉には嘘がなかった。

彼女は以前より、こうして誰かと同じ時間を過ごすことに少しずつ慣れてきていた。

 

それは劇的な変化ではない。

 

教室の真ん中で大声で笑うようになったわけでも、

誰にでも自然に話しかけられるようになったわけでもない。

 

それでも、こうして同じ机を囲み、食事の合間に言葉を挟み、

時折こちらを見ては少しだけ頬を緩める姿は、

彼女なりにこの場所へ馴染もうとしている証のように見えた。

 

少し離れた席では、堀北鈴音がいつものように一人で食事を取っていた。

 

周囲の騒がしさに流されることなく、背筋を伸ばし、

弁当箱の中身を淡々と口に運ぶその姿は、

教室というよりも図書館の閲覧席にいるような静けさをまとっていた。

 

だが、完全に孤立しているわけではない。

 

時折、須藤が何か話しかけようとして周囲に止められたり、

櫛田が笑顔で声をかけたりすることで、

彼女の周囲にもほんのわずかな人の流れが生まれていた。

 

軽井沢恵は佐藤麻耶や松下千秋たちと弁当を広げ、流行りの店の話や、

次の休日にケヤキモールで何を買うかという話題で盛り上がっていた。

 

「えー、じゃあ今度一緒に見に行こうよ。あそこの新作、絶対可愛いって」

「いいけど、また軽井沢さん、見るだけ見て結局買わないやつじゃない?」

「ちょっと、失礼なんだけど。今回は買うかもしれないでしょ」

 

軽井沢は不満そうに頬を膨らませていたが、

その声音には本気の怒りなどなく、佐藤も松下もそれを分かった上で笑っていた。

 

その近くでは、櫛田桔梗がみーちゃんたちと弁当を囲み、

誰に対しても等しく柔らかな笑顔を向けていた。

 

「この卵焼き、すごく美味しそうだね。自分で作ったの?」

「うん。でも、ちょっと形が崩れちゃって」

「そんなことないよ。すごく可愛いし、美味しそう」

 

櫛田の言葉に、みーちゃんが照れたように笑う。

 

その光景だけを切り取れば、どこにでもある高校の昼休みだった。

 

友人と机を寄せ合い、昨日見た動画の話をして、

購買の新商品に文句を言い、課題の提出期限を忘れて慌て、

誰かが誰かをからかい、誰かがそれに笑い、

誰かが少し離れた場所で静かに箸を進める。

 

高度育成高等学校。

 

外界から隔絶されたこの学校は、一般の高校とはあまりにも違う。

 

ポイントによる評価、クラス間競争、退学の危険、

そして生徒たちを選別するための冷酷な制度。

 

それでも、その昼休みだけは、確かに普通だった。

 

少なくとも、オレたちはそう錯覚していた。

 

その瞬間までは。

 

――轟ッ。

 

最初に届いたのは、音ではなく、空気の震えだった。

 

窓ガラスが低く唸り、教室の机がわずかに揺れ、

紙パックの茶の表面に細かな波紋が走った。

 

誰かが箸を止めた。

 

誰かが顔を上げた。

 

だが、その時点ではまだ、多くの生徒がそれを単なる大型車両の通過か、

校内設備の異常音程度にしか受け取っていなかった。

 

次の瞬間、世界が裂けた。

 

校舎の外側から、耳を塞ぎたくなるほどの爆発音が叩きつけられた。

 

それは一つではなかった。

 

一拍遅れて別の方角からも爆発音が響き、

さらに遠く、ケヤキモールの方角から巨大な衝撃音が重なり、

教室の窓ガラスが一斉に震え、天井の照明が激しく明滅した。

 

「きゃあああああっ!」

 

誰かの悲鳴が教室を切り裂いた。

 

机の上の弁当箱が跳ね、ペットボトルが倒れ、

床に転がった箸が乾いた音を立てる。

 

教室全体が一瞬で混乱に包まれた。

 

「な、何だ今の!」

 

三宅が椅子から立ち上がり、窓の方を見た。

 

幸村も眼鏡を押さえながら、普段の冷静さを失った表情で周囲を見回している。

 

長谷部は佐倉の肩を反射的に抱き寄せ、

佐倉は何が起こったのか理解できないまま、小さく震えていた。

 

オレは立ち上がり、窓の外へ視線を向けた。

 

そこにあったのは、昼休みの穏やかな風景ではなかった。

校舎の別棟、その中層階付近から黒煙が噴き上がっていた。

 

煙はただの煙ではない。

 

濃く、重く、油を含んだような黒さを持ち、

窓枠を突き破るように外へ溢れ出しながら、青空を汚していく。

 

その根元では、赤橙色の炎がちらちらと揺れていた。

 

最初は小さく見えたその炎は、次の瞬間には窓から廊下へ、

廊下から上階へと飲み込むように広がり、

建物そのものが内側から焼かれていることを示していた。

 

「火事……?」

 

誰かが呟いた。

 

だが、それはただの火事と呼ぶには大きすぎた。

遠く、学生寮の方角からも黒煙が上がっていた。

さらにその向こう、ケヤキモールの屋根付近からも、

巨大な煙の柱が立ち上っている。

 

三か所。

 

校舎、寮、ケヤキモール。

 

この学校の主要施設が、ほぼ同時に火の手を上げていた。

 

偶然ではない。

 

少なくとも、自然発生の事故ではあり得ない。

 

オレがそう判断したのとほぼ同時に、

校内放送のスピーカーが不快なノイズを吐き出した。

 

ザザッ、という耳障りな音。

 

続けて、火災報知器の甲高いベルが校舎全体に鳴り響いた。

 

ジリリリリリリリリリリリリリリリリリ――。

 

その音は、昼休みの喧騒を完全に塗り潰した。

 

弁当の匂いも、笑い声も、友人同士の会話も、

すべてが赤い警告音に押し潰されていく。

 

「落ち着いて!みんな、落ち着いて!」

 

櫛田がすぐに立ち上がり、周囲に声をかけた。

 

だが、彼女の声は悲鳴と怒号に飲まれかけていた。

 

「外!外に出なきゃ!」

「でも廊下の方、煙来てない!?」

「先生は!?先生どこ!?」

「携帯!消防に電話!」

 

複数の生徒が一斉に動き出し、椅子が倒れ、

机が押しのけられ、教室の出入口へ人が殺到しかける。

 

その混乱の中、堀北が椅子から立ち上がった。

彼女は一瞬だけ窓の外を見て、次に廊下側の扉を見た。

その表情には驚きこそあったが、恐怖に支配されてはいない。

 

「全員、押さないで。廊下の状況を確認してから動くべきよ」

 

声は鋭く、よく通った。

 

しかし、恐怖に駆られた生徒たち全員を止めるには足りない。

一人の男子生徒が扉を開けた。

その瞬間、廊下側から薄い煙が教室内に流れ込んできた。

 

まだ濃煙ではない。

だが、焦げたプラスチックと木材が混ざったような嫌な臭いが、鼻の奥を刺した。

 

「うわっ、煙!」

 

その男子生徒が後ずさる。

廊下の奥では、非常灯が赤く点滅していた。

通常ならば避難経路を示すはずの光が、

今はただ不安を煽るだけの不気味な明滅に見えた。

 

「清隆くん……これ、何……?」

 

佐倉が震える声でオレを見た。

長谷部も、普段の軽さを消し、唇を引き結んでいる。

 

「分からない。ただ、偶然の火災じゃない可能性が高い」

 

オレはそう答えながら、窓の外をもう一度確認した。

 

黒煙の上がり方。

爆発音の時間差。

 

火災発生地点の分散。

主要施設への同時攻撃。

 

それらは、単なる設備事故では説明できない。

 

「テロ……?」

 

幸村が青ざめた顔で呟いた。

その言葉を聞いた瞬間、周囲の数人が息を呑んだ。

 

テロ。

 

その二文字は、教室の空気をさらに冷たくした。

この学校が普通の学校ではないことを、オレたちは知っている。

 

政治、権力、国家、実験、選別。

 

この場所には、外から見えない思惑がいくつも絡みついている。

そして、そういう場所は時として、誰かの憎悪の標的になる。

 

「とにかく、ここに留まるのは危険だ」

 

三宅が言った。

 

「でも、廊下も危ないよ!」

 

長谷部が返す。

 

「窓からは?」

「ここ何階だと思ってるのよ!」

 

教室内の声が重なり、判断が遅れていく。

その間にも、火災報知器は鳴り続け、廊下の煙は少しずつ濃くなっていた。

 

軽井沢が佐藤と松下を連れてこちらへ視線を向ける。

彼女の顔には明らかな恐怖があったが、それでも完全には取り乱していない。

 

オレと目が合った瞬間、軽井沢はわずかに唇を噛んだ。

何かを聞きたい。

だが、今ここで声をかけるべきではない。

そんな判断が、彼女の中でも働いているようだった。

 

櫛田はみーちゃんの手を握り、他の女子たちにも声をかけている。

 

「大丈夫、まずは落ち着こう。

絶対に一人で走らないで。誰かが転んだら危ないから」

 

その笑顔はいつものように柔らかいものではなかった。

無理に笑顔を作る余裕すらない。

それでも彼女は、周囲の恐怖を少しでも抑えるために声を張っていた。

 

突然、校内放送が再びノイズを吐いた。

全員がスピーカーを見上げる。

だが、そこから流れてきたのは、教員の避難指示ではなかった。

 

ザザッ、ザ、ザザザッ――。

 

乱れた雑音。

 

続いて、途切れ途切れの機械音声。

 

『――火災、発生。校舎……東棟……西棟……避難……指示……』

 

そこで音声は途切れた。

 

続けて、別の音が混ざった。

 

遠くから聞こえる爆発音。

 

先ほどよりも小さいが、確かに建物のどこかで何かが破裂した音だった。

教室の床が再び揺れ、天井から細かな白い粉が落ちる。

 

「もう嫌……何なのこれ……!」

 

誰かが泣き出した。

 

昼休み。

 

つい数分前まで、弁当を広げ、冗談を言い、

次の休日の予定を話していた場所が、今は逃げ場を探すための檻に変わっていた。

 

オレは教室内を見渡した。

 

パニックに陥りかけている者。

 

泣いている者。

 

携帯で誰かに連絡しようとしている者。

 

窓の外を見て硬直している者。

 

そして、動くべきか、待つべきか、その判断を誰かに委ねようとしている者。

 

このままではまずい。

 

火災において、最も危険なのは炎そのものではない。

 

煙。

 

視界を奪い、呼吸を奪い、判断力を奪う。

そして集団の恐怖は、炎よりも早く広がる。

 

「堀北」

 

オレは少し離れた席の堀北に声をかけた。

彼女はこちらを振り向く。

 

「何?」

「教室に残る班と、廊下を確認する班を分ける。全員を一度に動かすと詰まる」

「……同感ね」

 

堀北は短く頷いた。

この状況で、彼女はすぐに理解した。

 

「櫛田。女子を中心に、動けない生徒をまとめてくれ」

 

オレが言うと、櫛田は一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに頷いた。

 

「分かった。みんな、こっちに集まって。ハンカチかタオルがある人は出して!」

「恵」

「清隆……」

「佐藤と松下を連れて、窓際から離れろ。ガラスが割れる可能性がある」

「……分かった」

 

軽井沢は即座に二人を促した。

 

「明人、廊下の様子を見る。啓誠は教室内の人数確認。

波瑠加は愛里についていてくれ」

「了解」

 

三宅は顔を引き締めた。

幸村も青ざめながら頷き、

長谷部は佐倉の手を握ったまま「任せて」と小さく返した。

 

その直後、窓の外が赤く光った。

遠く、ケヤキモールの方向で炎が一気に膨れ上がったのだ。

 

昼の空に、黒煙と火柱が重なっていた。

その光景は、現実感を失わせるほど巨大だった。

 

まるで、この学校そのものが一つの巨大な炉に変えられていくようだった。

 

校舎。

寮。

ケヤキモール。

 

生徒たちの日常を支えていた三つの場所が、同時に焼かれている。

 

これは災害ではない。

 

偶然でもない。

 

誰かが、この学校を燃やしている。

 

誰かが、この閉ざされた箱庭を、逃げ場のない地獄へ変えようとしている。

 

オレは廊下へ向かいながら、煙の流れ、非常灯の位置、

生徒たちの動線、そして外から聞こえるサイレンの有無を確認した。

 

遠くで、ようやく消防車のサイレンらしき音が聞こえ始めていた。

 

だが、それはあまりにも遠い。

 

この規模の火災では、外部からの救助だけを待つことはできない。

 

消防隊が到着しても、校舎、寮、ケヤキモールの三か所が

同時に燃えている状況では、すぐに中へ踏み込めるとは限らない。

 

むしろ、外から見ればここはすでに危険区域だ。

 

救助を待つだけでは、間に合わない可能性が高い。

 

生き残るには、自分たちで動くしかない。

 

教室の扉の前で、オレは一度だけ振り返った。

 

昼食の途中だった机。

 

床に転がった弁当箱。

 

こぼれたお茶。

 

落ちた箸。

 

佐倉の震える手。

 

長谷部の強張った顔。

 

堀北の鋭い目。

 

軽井沢の不安を隠しきれない表情。

 

櫛田の必死な声。

 

そのすべてが、数分前までの日常の残骸だった。

 

そして火災報知器の音だけが、なおも容赦なく鳴り響いている。

 

ジリリリリリリリリリリリリリリリリリ――。

 

それは避難を促す警告音ではなく、

これから始まる惨劇の開幕を告げる鐘のようだった。

 

オレたちの昼休みは、終わった。

 

ここから先にあるのは、授業でも、試験でも、退屈な学園生活でもない。

 

炎と煙に包まれた高度育成高等学校からの、脱出劇だった。

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