屋上への道は確かに開かれた。
だが、その安堵は長く続かなかった。
背後の校舎で、再び爆発音が響いた。
ドン、という鈍い音ではない。
建物の骨組みそのものが内側から折れ曲がるような、
腹の底へ響く重い破裂音だった。
その直後、廊下の奥から黒煙が噴き出し、
まだ残っていた窓ガラスが次々と震え、細かな破片となって床へ散った。
「……まだ続くのかよ」
須藤が荒い息を吐きながら呟いた。
彼の服は水に濡れ、煤で汚れ、顔には疲労が濃く浮かんでいた。
だが、それでもその目には、倒れたくないという意地が残っていた。
「消防は来ている。だが、ここまで救助が届くとは限らない」
南雲が周囲を見回しながら言った。
いつもの余裕を装った口調ではあったが、
その視線は鋭く、状況を甘く見ていないことは明らかだった。
「校舎、寮、ケヤキモールが同時に燃えている。救助隊は分散しているはずだ。
こちらと合流できるかどうかは、正直、運の要素が大きい」
「運に任せて待つには、ここは危険すぎますね」
坂柳が静かに言った。
彼女は高円寺に背負われた状態だった。
橋本を失い、非常階段で死線を越え、
心身ともに限界に近いはずなのに、その声にはまだ思考の鋭さが残っていた。
「プール棟も崩壊した。下へ逃げる道は潰れたに等しい。
なら、残る選択肢は限られる」
堀北が綾小路を見た。
「屋上に出れば本当に助かるのかしら」
綾小路は短く頷いた。
「上に出れば、ヘリに発見される可能性が高い。
地上の救助が間に合わないなら、空から拾ってもらうしかない」
「そこまで行ければ、の話だがな」
龍園が皮肉混じりに言った。
彼の顔にも煤がつき、腕には擦り傷があった。
石崎とアルベルトを失い、坂柳を支えながら死にかけ、
それでもまだ彼は立っていた。
いや、立っているというより、倒れることを拒んでいるようだった。
「今は行くしかないだろ」
須藤が言った。
「他に方法もないしな」
ひよりは平田、伊吹、神室に支えられながら、小さく息を整えていた。
足の痛みは明らかに増している。
それでも、彼女は弱音を飲み込み、前を見た。
「……私もがんばります」
「無理はさせない」
平田が即座に答える。
「とにかく僕たちが支える」
「言われなくてもやる」
伊吹はぶっきらぼうに返した。
「ここで倒れられたら、余計に面倒だから」
神室も淡々と頷く。
「支える位置を交代しながら行けば、まだ進める」
高円寺は坂柳を背負ったまま、場違いなほど悠然と肩をすくめた。
「しかし私がこのような役を担うことになるとはね。
だが、美しい者は時に重荷すら背負うものだ」
「その重荷が私であることは、不本意ながら幸運ですね」
坂柳は小さく返した。
「感謝はしております」
「当然だ」
その短いやり取りが、わずかに周囲の空気を緩めた。
だが、次の瞬間、廊下の奥から吹き上がった熱風が、その緩みを一瞬で焼き払った。
炎が、見えた。
壁の向こうからではない。
廊下の曲がり角を、まるで獲物を見つけた獣のように、
炎そのものが這い出してきた。
赤橙色の舌が床をなめ、壁をなめ、天井をなめ、
残った酸素を奪うように揺れながら広がっていく。
「急ぐぞ」
綾小路の声が低く響いた。
それが合図だった。
一同は、屋上へ続くルートを目指して動き始めている。
先頭を綾小路と堀北、龍園が確認する。
南雲と須藤は後方と側面を見ながら、瓦礫や崩れた足場を避ける。
茶柱と真嶋は教師として、生徒の列が乱れないよう声をかけ続ける。
軽井沢は佐藤の手を握り、長谷部は佐倉を励まし、
櫛田はみーちゃんの肩を支えながら進んでいた。
一之瀬は、全体の中間に入り、
誰かが遅れればすぐに手を伸ばせる位置を保っていた。
全員が疲れている。
全員が恐れている。
それでも、誰も一人で逃げようとはしなかった。
炎上する廊下へ踏み込んだ瞬間、世界は再び熱に支配された。
床はところどころ剥がれ、天井からは水滴ではなく火の粉が落ち、
壁の内側では電気配線が焼けるような音がしていた。
煙は上に溜まるだけではない。
爆発と空気の流れに押され、低い位置にも渦を巻いて漂っている。
濡れた布を口元に当てても、息を吸えば喉が痛んだ。
視界は悪い。
前を歩く者の背中を見失えば、それだけで迷子になる。
そして、この場所で迷子になるということは、
そのまま炎と煙に呑まれることを意味していた。
「足元を見るな、前を見ろ!」
真嶋が叫ぶ。
「ただし段差には気をつけろ!焦って走りすぎるな!」
「矛盾した指示に聞こえるな」
龍園が低く笑う。
「だが間違ってはいない」
南雲が返した。
「転べば終わり。遅れても終わり。実に分かりやすいねぇ」
「笑えねえよ!」
須藤が吐き捨てる。
その時、右側の壁が赤く膨らんだ。
熱を受けた壁材が内側から押されるように変形し、
次の瞬間、破裂音とともに炎が吹き出した。
「伏せろ」
綾小路の視線が動いた。
全員が反射的に身を低くする。
熱の塊が頭上を走った。
髪の先を撫でるような熱に、軽井沢が悲鳴を飲み込む。
佐藤が震えながら軽井沢の手を握り返した。
「軽井沢さん……怖い……」
「分かってる……でも止まっちゃ駄目……」
軽井沢の声も震えていた。
だが、その手は佐藤を離さなかった。
炎は生き物のようだった。
背後から追ってくる。
横から噛みつく。
上から落ちてくる。
通路の先で待ち構える。
人間が進もうとする場所を見透かしているかのように、次々と退路を奪っていく。
「この学校、どんだけ燃えるんだよ……!」
須藤が歯を食いしばる。
「建材だけじゃない。意図的に燃え広がるよう仕込まれている可能性がある」
綾小路が淡々と言った。
「偶然でここまで連鎖しない」
「つまり、犯人は最初から逃げ道を潰す気だったってことか」
龍園の目が鋭くなる。
「胸糞悪ぃな」
その言葉に、誰も反論しなかった。
廊下の先に、屋上階段へ続く扉が見えた。
希望が見えた。
だが、その直前で、床が大きく揺れた。
爆発だった。
左側の教室内部で何かが破裂し、衝撃波が廊下へ流れ込む。
窓ガラスが砕け、風圧が一同を横から叩いた。
「――っ!」
朝比奈なずながよろめいた。
佐藤も同時に足を取られた。
二人は窓際に近い位置にいた。
割れた窓の向こうには、黒煙と炎に包まれた外の空間が広がっていた。
「なずな!」
南雲が手を伸ばす。
「佐藤さん!」
軽井沢が叫ぶ。
だが、爆風は容赦なく二人を押し出した。
割れた窓枠の向こうへ、二人の姿が吸い込まれるように消える。
一瞬。
ほんの一瞬の出来事だった。
悲鳴が上がった。
けれど、その声が廊下に響き切る前に、背後から炎が迫った。
「止まるな!」
茶柱が叫んだ。
教師としてではなく、生き残らせるために叫んだ。
軽井沢の足が止まりかける。
「佐藤さんが……佐藤さんが……!」
堀北がその腕を掴んだ。
「止まればあなたも死ぬ!」
「でも……!」
「進みなさい!」
その言葉は残酷だった。
だが、正しかった。
長谷部も泣きながら佐倉の背を押した。
佐倉は顔を覆いそうになったが、長谷部がそれを許さなかった。
「愛里、前!前見て!」
誰もが喪失を理解していた。
だが、理解する時間は与えられなかった。
死を悼む時間すら、この火災は奪っていく。
一同は屋上へ続く階段に辿り着いた。
だが、その階段もすでに安全ではなかった。
コンクリートには無数の亀裂が走り、
手すりは歪み、上階からは煙が下りてきていた。
それでも、ここを上るしかない。
「上がれ!」
龍園が叫ぶ。
「一列になるな、分散しろ!一箇所に体重かけるな!」
坂柳が高円寺の背から言った。
「階段全体が弱っています。重い者が同じ段に集中すれば崩落します」
「言われなくても分かってる!」
須藤が叫び返しながらも、足の置き方を変えた。
階段を上る。
一段。
また一段。
背後で崩壊音が迫る。
建物が、逃げる者を許さないかのように軋んでいる。
「急いで!でも押さないで!」
一之瀬が声を張る。
「椎名さん、こっち!」
平田がひよりを支えながら上る。
伊吹が反対側で支え、神室が後ろからバランスを見ていた。
ひよりの顔色は悪い。
足の痛みは限界に近かった。
それでも彼女は、唇を噛みながら一段ずつ上った。
「すみません……」
「謝るなって言ったでしょ」
伊吹が短く言う。
「大丈夫。僕たちが支える!」
平田も優しく言った。
その直後、階段の下で爆発が起きた。
崩壊が一気に進む。
下の段から順に、亀裂が走り、割れ、沈んでいく。
「走れ!」
南雲が叫ぶ。
もう慎重に上る段階ではなかった。
全員が限界まで足を動かす。
軽井沢が泣きながら走る。
小野寺が後ろから支えようとする。
平田がひよりを押し上げ、伊吹と神室が左右を固める。
「あと少し!」
屋上の扉が見えた。
その時、軽井沢の足元が沈んだ。
「――え?」
小野寺が反射的に手を伸ばす。
平田も、ひよりを一瞬神室に預けて身を乗り出した。
だが、階段は彼らの善意ごと崩れた。
大きな音とともに、軽井沢、小野寺、平田のいる足場が抜け落ちる。
「軽井沢さん!」
堀北の叫びが響いた。
「平田くん!」
一之瀬が手を伸ばす。
だが届かない。
三人の姿は崩落する階段の向こうへ消えた。
その瞬間、全員が止まりかけた。
だが、階段はまだ崩れている。
止まれば、次は自分たちの足場が消える。
「進め!」
龍園が怒鳴った。
「ここで止まったら全員死ぬぞ!」
その声が、残酷な現実を突きつけた。
堀北は涙を浮かべながらも、歯を食いしばって前へ進んだ。
一之瀬は声にならない声を漏らしながら、佐倉と長谷部を押し上げる。
櫛田はみーちゃんの手を握り、震えながら階段を駆け上がった。
屋上の扉が開く。
冷たい外気が流れ込む。
全員が、転がるように屋上へ飛び出した。
そこには空があった。
黒煙に濁り、火の粉が舞い、それでも確かに空があった。
「……綾小路くんは?」
堀北が振り返った。
その声は、最初は小さかった。
だが、次の瞬間、彼女の顔から血の気が引いた。
「綾小路くんはどこ?」
誰も答えない。
長谷部が振り返る。
佐倉も、涙に濡れた目で周囲を探す。
一之瀬も息を呑んだ。
「綾小路くん……?」
いない。
さっきまでいたはずの綾小路清隆の姿が、どこにもない。
階段のどこかで遅れたのか。
崩落に巻き込まれたのか。
煙の中ではぐれたのか。
誰にも分からない。
堀北が戻ろうとした。
だが、龍園がその腕を掴んだ。
「行くな」
「放して」
「戻ったら死ぬ」
「放しなさい!」
堀北の声が震えていた。
怒りではない。
恐怖だった。
もう何人も失った。
それでも、綾小路まで失ったという事実だけは、受け入れられなかった。
坂柳が高円寺の背から静かに言った。
「堀北さん。今、あそこへ戻っても、あなたが死ぬだけです」
「あなたは……それでいいの?」
「いいわけがありません」
坂柳の声が、わずかに低くなる。
「ですが、感情で戻れば、彼が作ったここまでの道を無駄にします」
南雲も周囲を見て言った。
「時間がない。ヘリが来てる」
屋上の向こう側には、消防の救助ヘリが接近していた。
さらに別方向からは、はしご車の先端が屋上付近へ伸びている。
ようやく、救助が届いたのだ。
だが、同時に、屋上の床も揺れていた。
この場所も長くは保たない。
「全員、こちらへ!」
レスキュー隊員が叫ぶ。
「急いで乗り込め!建物が限界だ!」
一同は走った。
涙を流しながら。
喪失を抱えながら。
誰かの名前を胸の中で叫びながら。
それでも走った。
一之瀬、長谷部、佐倉、櫛田、須藤、茶柱、真嶋が、
先に近い位置にいたヘリへ誘導された。
「急げ!」
隊員が手を伸ばす。
須藤は最後まで後ろを見ようとした。
「綾小路は……!」
茶柱が彼の背を押した。
「乗れ!」
須藤は歯を食いしばりながら乗り込んだ。
長谷部は泣きながら佐倉を抱き寄せ、一之瀬は青ざめた顔で床に座り込んだ。
櫛田はみーちゃんの姿を探したが、みーちゃんは別の誘導列にいた。
「みーちゃん!」
「櫛田さん!」
二人の声はローター音にかき消される。
ヘリが浮上を始めた。
その瞬間、屋上の一部が爆発した。
炎が斜めに吹き上がり、爆風がヘリを横から叩いた。
機体が大きく傾く。
誰かの悲鳴が響いた。
そこで終わらない。
一之瀬や須藤を乗せたヘリは炎に包まれ、制御を失った。
ローターの回転が一瞬だけ乱れ、その直後に爆炎が
機体の側面を叩きつけるように広がり、塗装が焼け焦げながら黒煙を噴き上げる。
機体は空中でわずかに持ちこたえようとするが、熱で空気の流れが狂い、
バランスを保てなくなったまま大きく傾いた。
窓越しに見える内部では、乗り込んだ生徒たちの身体が衝撃で左右に振られ、
何かに掴まろうとする動きが断片的に見えた。
機体の尾部が爆風に押される形でさらに流され、完全に水平を失う。
空気を掴めなくなったヘリは、引きずられるように横へ流されていく。
屋上の端から外れるように、機体はゆっくりと、しかし確実に高度を失う。
その落下は一瞬の出来事でありながら、
見る者には異様に長く感じられるほど、無力で抗えないものだった。
そして、機体は傾いたまま炎と煙の中へと滑り落ちていく。
だが――墜落ではなかった。
機体は完全に制御を失ったわけではない。
炎に炙られながらも、パイロットは必死に姿勢を保とうとしていた。
その中で、一之瀬が叫ぶ。
「伏せて!衝撃が来る!!」
その声は、悲鳴ではなかった。
指示だった。
同時に、真嶋が動く。
「頭を下げろ!体勢を低く!シートを掴め!」
教師としてではなく、現場で判断を下す人間の声だった。
須藤が歯を食いしばる。
「チッ……来るぞ!」
櫛田が反射的に身を屈め、長谷部と佐倉を引き寄せる。
茶柱も座席の縁に身体を押し付けるようにして耐える姿勢を取った。
その瞬間。
機体が横方向へ大きく流される。
爆風に押され、空中で姿勢を崩しながら、斜めに落ちていく。
地面が迫る。
速い。
あまりにも速い。
「耐えろォ!!」
真嶋の怒号。
直後、衝撃が走った。
それは単なる接触ではなく、
機体全体を内側から叩き壊そうとするような制御された落下の代償だった。
完全な激突ではない、だが地面を掠めた瞬間に発生した摩擦と衝撃が、
機体の外殻を軋ませ、内部へと容赦なく伝播する。
機体の側面がアスファルトを削りながら滑り込み、
耳をつんざくような金属音が空気を裂いた。
装甲が擦れ、フレームが悲鳴を上げ、リベットが弾ける音が連続して響く。
その勢いのまま機体は横へと転がり、重心を完全に失って、容赦なく横転した。
それでも機体は止まらない。
横倒しのまま、地面を引き裂くように滑走し続け、
火花を尾のように引きながら前方へ流されていく。
外から巻き込まれた煙が隙間から流れ込み、焼けた空気が内部を満たしていく。
断続的な衝撃と振動が機体を揺らし、いつ破断してもおかしくない状態が続く。
そして、摩擦が限界に達した瞬間、機体はわずかに跳ねるようにして勢いを殺し、
最後に重たい一撃を地面へ落とすようにして――完全に停止した。
だが、静寂は来ない。
外では炎がすぐそこまで迫っている。
「……っ……」
誰かの呻き声。
「……生きてる……?」
一之瀬がかすれた声で呟く。
視界が揺れる。
耳鳴りがする。
だが、意識はある。
動ける。
「みんな……無事!?」
返事が返る。
長谷部。
佐倉。
須藤。
櫛田。
茶柱。
全員、生きている。
だが――
「真嶋先生……?」
返事がない。
一之瀬が振り向く。
真嶋は、機体の歪んだフレームに身体を打ちつけられていた。
衝撃を真正面から受け止める位置にいた。
生徒を庇うように。
その姿勢のまま、動かない。
「……先生……?」
一之瀬の声が震える。
だが、応答はなかった。
理解するのに、時間はかからなかった。
真嶋が、衝撃を引き受けた。
その結果――他の全員が生き残った。
「……っ……!」
須藤が拳を叩きつける。
だが、止まっている時間はない。
炎が迫る。
煙が流れ込む。
機体はいつ燃え上がってもおかしくない。
「出るぞ!」
茶柱が叫ぶ。
その声で、一之瀬は我に返る。
「動ける人から外へ!」
全員が動き出す。
よろめきながら。
痛みに顔を歪めながら。
それでも、生きている者は、外へ出るしかない。
堀北は、その一部始終を見ていた。
龍園も、坂柳も、南雲も、言葉を失っていた。
その視線の先。
炎の隙間から、
瓦礫の陰から、
人影が動いた。
一人。
また一人。
煙の中から這い出るように、一之瀬たちが姿を現した。
その場に、真嶋の姿だけがなかった。
「そんな……」
堀北の声が震える。
別の隊員が怒鳴った。
「残っている者、こっちへ!早く!」
堀北、龍園、坂柳、高円寺、みーちゃん、
南雲、ひより、伊吹、神室が、最後のヘリへ押し込まれるように乗り込んだ。
機体は定員ぎりぎりだった。
それでも、隊員は全員を収容しようと必死だった。
「上げろ!今すぐ上げろ!」
ヘリが浮上する。
その直後、屋上の床が大きく割れた。
爆風が機体を横から揺らす。
みーちゃんが足を滑らせた。
「――っ!」
彼女の身体が機体の外へ投げ出されかける。
その腕を、高円寺が掴んだ。
「放さん」
ただ一言。
それだけだった。
みーちゃんの身体は機体の外で宙に揺れた。
下には炎に包まれた校舎。
上には不安定なヘリ。
ローターの風が吹き荒れ、煙が顔を叩き、爆炎が再び屋上から吹き上がる。
それは炎というより、建物の底から噴き上がった巨大な怒号だった。
赤橙色の火柱が屋上の縁を突き破るように膨れ上がり、
周囲の黒煙を内側から焼き裂いていく。
熱に歪んだ空気がヘリの下で渦を巻き、
機体そのものを掴み取ろうとするかのように揺さぶった。
屋上に散らばっていた瓦礫は爆風に煽られ、火の粉とともに空中へ舞い上がる。
炎の中心部は白く眩み、直視した者の視界を
一瞬で焼き潰すほどの光を放っていた。
押し寄せる熱波が機内へ流れ込み、
服越しでも肌が焼かれるような錯覚を覚える。
黒煙はただ立ち上るのではなく、炎に押されてうねり、
巨大な獣の背中のように膨れ上がった。
ヘリの下腹を舐めるように火の舌が伸び、
あと数メートル高度が低ければ飲み込まれていたことを突きつける。
屋上そのものが赤く染まり、逃げ遅れた影も、
落ちた破片も、すべてが炎の中で形を失っていく。
それでも爆炎はなお止まらず、まるで最後の一人まで逃がすまいとするかのように、
空へ向かって咆哮し続けていた。
「高円寺くん!」
堀北が叫ぶ。
「支えろ!」
龍園が即座に高円寺の胴を掴んだ。
南雲も反対側から肩を押さえる。
伊吹が床に膝をつき、高円寺の脚を固定する。
神室はひよりを奥へ押し込みながら、空いた手で高円寺の服を掴んだ。
「落ちるなよ、化け物!」
龍園が怒鳴る。
高円寺は笑った。
「私が落ちる?面白い冗談だねぇ」
だが、その腕には確かな負荷がかかっていた。
みーちゃんは泣きながら高円寺の腕を掴んでいる。
「ご、ごめんなさい……!」
「謝罪は不要だ。君はただ、掴んでいればいい」
爆炎が迫る。
屋上から噴き上がった炎が、
まるでヘリを掴もうとする巨大な手のように伸びてくる。
指のように分かれた火の舌が空中でうねり、逃げる機体を執拗に追いすがる。
熱に歪んだ空気がその輪郭を揺らし、炎の腕は実体を持ったかのように迫ってくる。
黒煙を引き裂きながら伸び上がるその姿は、
まるで地上そのものが生きているかのようだった。
ヘリの下で爆風が渦を巻き、
機体を引きずり下ろそうとする圧力が何度も叩きつけられる。
あとわずかでも高度が低ければ、その手は確実に機体を掴み取っていただろう。
熱風が機内へ流れ込み、全員の顔を叩いた。
「上げろ!もっと上げろ!」
隊員の叫び。
ヘリが軋む。
高度が上がる。
だが、まだ足りない。
炎が迫る。
煙が巻きつく。
その時だった。
宙に投げ出されたままの体勢のみーちゃんの進行方向へ、
崩落で弾き飛ばされた巨大なコンクリート塊が、
回転しながら一直線に突っ込んでくる。
それはただの落下物ではなかった。
爆風に乗せられ、角を剥き出しにした塊が、
まるで狙いを定めたかのように、みーちゃんの身体へと迫っていた。
回避は不可能。
もし直撃すれば、その衝撃で腕は引き剥がされ、そのまま炎の中へ落下する。
一瞬で理解できる終わりだった。
「――危ない!」
神室の叫びが空気を裂く。
だが、その瞬間にはもう間に合わない距離まで迫っていた。
その中で――龍園が、踏み出した。
不安定に傾いた機体の床を蹴り、
揺れる重心を力でねじ伏せるように前へ出る。
片手で手すりを掴み、身体を支え、
もう片方の手に握られているのは、救助用の消防斧。
重い鉄の塊。
本来は扉や障害物を破壊するための道具。
だが今は違う。
これは――命を切り開くための刃だ。
「退けェッ!!」
怒号とともに、龍園は全身の筋肉を総動員して斧を振り抜いた。
振り下ろしではない。
横薙ぎ。
迫り来る瓦礫の進行を断ち切るための一撃。
衝突。
鈍い音ではなかった。
骨が砕けるような、重く硬い破砕音が空気を震わせる。
斧の刃が瓦礫に食い込み、その瞬間、内部から亀裂が走る。
次の瞬間。
瓦礫は耐えきれず、弾けるように粉砕された。
破片が爆ぜる。
大小無数の破片が、火の粉と混ざりながら空中へ散乱する。
その一つ一つが凶器になり得る速度で飛び散るが、
中心にあった致命の塊だけは、完全に消えていた。
みーちゃんの目前を、砕けた残骸がかすめるように通り過ぎる。
一歩遅ければ終わっていた距離。
だが、届かなかった。
龍園が、叩き潰した。
「……絶対に落とすなよ!」
低く、しかし確実に言い放つ。
その声は怒りでも焦りでもなく、戦場で状況を支配する者の声だった。
その言葉に応えるように、高円寺の腕にさらに力がこもる。
片腕だけで体重を支えながら、微動だにしない。
爆風が叩きつける。
機体が揺れる。
それでも、その握力は一切緩まない。
「……この程度で手放すと思われては、心外だな」
静かに、しかし揺るぎなく言い切る。
その言葉には誇示も虚勢もなく、ただ事実だけがあった。
その一言だけを残し、さらに引き寄せる。
みーちゃんの手が滑りかける。
「嫌……!」
堀北が身を乗り出し、高円寺の腕にさらに手を添えた。
「引くわよ!」
「当然だ」
高円寺が腕に力を込める。
龍園、南雲、伊吹、神室も同時に支える。
「せーの!!」
堀北の声に合わせ、一同が一斉に引いた。
みーちゃんの身体が少しずつ機内へ近づく。
炎が背後で爆ぜる。
ヘリがさらに上昇する。
最後の瞬間、高円寺がみーちゃんを引き上げ、機内へ放り込むように抱え入れた。
みーちゃんは床に倒れ込み、震えながら息を吸った。
生きている。
その事実だけが、今はすべてだった。
ヘリはようやく煙の層を抜け始めた。
下では、屋上が炎に包まれていた。
自分たちが数秒前までいた場所が、赤く崩れていく。
誰も話さなかった。
堀北は窓の外を見下ろしたまま、涙をこぼしていた。
龍園は歯を食いしばり、拳を握り締めている。
坂柳は高円寺の背から降ろされ、床に座り込んだまま目を閉じた。
南雲は何かを言おうとして、結局何も言わなかった。
ひよりは震える手で口元を押さえ、伊吹と神室はその両側にいた。
みーちゃんは泣きながら、高円寺の袖を握っていた。
高円寺だけが、静かに窓の外を見ていた。
一之瀬たちは救助車に乗せられた。
高度育成高等学校は燃えていた。
校舎も、寮も、ケヤキモールも、昼休みの平穏も、
友人たちの声も、すべてが黒煙の中へ沈んでいく。
助かった。
確かに助かった。
だが、その言葉は誰の口からも出なかった。
あまりにも多くを置いてきた。
あまりにも多くを失った。
そして、綾小路清隆もまた、その中に含まれているかもしれなかった。
ヘリは炎の学園から遠ざかっていく。
煙の向こうに、わずかな青空が見えた。
その青さは、救いのようで、残酷でもあった。
堀北は拳を握りしめた。
涙は止まらない。
だが、彼女は目を逸らさなかった。
燃え続ける学校を、最後まで見ていた。
それは、ただの災害ではなかった。
誰かが仕組んだ地獄だった。
誰かが奪った日常だった。
そして、彼女たちはその地獄から生きて出た。
生き残ってしまった。
その事実が、胸の奥に重く沈んでいた。
炎の頂点を越えた者たちは、空へ逃れた。
だが、本当の意味でこの地獄から抜け出せた者など、まだ一人もいなかった。