職員室から消防へ通報が入ったのは、
校舎全体に火災報知器の音が鳴り響き、
生徒たちの悲鳴と怒号が廊下のあちこちで反響し始めた頃だった。
受話器を握る教員の声は震えていたが、それでも必死に状況を伝えようとしていた。
校舎で爆発があったこと。
学生寮からも黒煙が上がっていること。
ケヤキモール方面でも大規模な火災が発生していること。
複数箇所が同時に燃えていること。
生徒が校舎内に多数取り残されていること。
その一つ一つの情報は、電話口の向こうにいる消防指令員へ伝わるたび、
事態が単なる火災ではないことを明確にしていった。
だが、消防が動き始めたとしても、炎の中に取り残された者たちにとっては、
まだ救助が来たことにはならなかった。
サイレンは遠い。
水は届かない。
助けは、まだ壁の向こう側にある。
そしてその頃、食堂付近では、綾小路たちとは別の集団が、
自分たちの生存のために動き始めていた。
食堂は昼休みの名残を残していた。
テーブルの上には食べかけの定食、倒れたコップ、床に散らばった箸、
踏み潰された紙ナプキンが残されており、
つい数分前までそこが平凡な昼食の場だったことを物語っていた。
しかし今、その空間を満たしているのは味噌汁や揚げ物の匂いではなく、
焦げた空気と煙、そして人間の恐怖だった。
「全員、こちらへ集まってください!走らないで!押さないで!」
星之宮知恵が声を張り上げていた。
いつもの軽い調子は消えていた。
普段なら冗談めかして生徒の緊張をほぐす彼女も、
この時ばかりは教師として、前に立たなければならなかった。
「慌てるな!非常口を確認する!列を崩すな!」
坂上数馬もまた、食堂の出入口付近で生徒たちを制止していた。
彼の声は大きく、強い。
だが、その強さも、炎の前では絶対ではなかった。
食堂付近にいた生徒たちは、学年もクラスもばらばらだった。
一年生の七瀬翼、八神拓也、天沢一夏、宝泉和臣。
二年生の葛城康平、神崎隆二、白石飛鳥、森下藍、山村美紀。
他にも、昼食のために食堂へ来ていた複数の生徒が、
逃げ道を求めて教師たちの周囲へ集まっていた。
「まずは非常口から外へ出ます。煙が濃くなる前に移動しましょう」
七瀬が落ち着いた声で言った。
彼女の表情には不安があった。
それでも、周囲を見渡す目は冷静だった。
怯えて固まっている生徒、泣きそうになっている生徒、
怒りで周囲に当たり散らしそうな生徒。
それらを見たうえで、自分が何をすべきかを考えている。
「ああ。その判断が妥当だろう」
葛城康平が頷いた。
葛城はすでに上着を脱ぎ、
煙を吸い込みすぎないよう口元を覆う準備をしていた。
「食堂は広いぶん、煙が充満するまでに少し猶予がある。
だが、猶予があるだけだ。動くなら早い方がいい」
「外に出れば安全、とは限らないがな」
神崎隆二が外の様子を窓越しに見ながら呟いた。
窓の向こうには、黒煙が空へ伸びていた。
それは校舎の向こう側からだけではない。
寮の方角、ケヤキモールの方向、複数の場所から同時に立ち上っている。
神崎はその光景を見て、眉をひそめた。
「これは事故じゃない。発生箇所が多すぎる」
「テロ、ということでしょうか」
白石飛鳥が低く言った。
彼女の声は震えてはいなかったが、目の奥には緊張があった。
誰も即答できなかった。
だが、誰も否定もしなかった。
その沈黙こそが、答えだった。
「議論は後だ。まずは出るぞ」
坂上が非常口の方へ向かった。
だが、彼が扉の前へ到達した瞬間、その足が止まった。
「……何だ、これは」
非常口の前に、不自然なほど大量の段ボール箱が積み上げられていた。
一つや二つではない。
人の背丈ほどの高さまで雑然と、明らかに通行を妨げるように重ねられている。
食材の搬入用と思われる箱、備品の入っていた箱、空に見える箱、重さのある箱。
それらが非常口の前を塞ぐように積まれ、扉へ近づくことすら難しくしていた。
「嘘でしょ……?」
誰かが呟いた。
星之宮が駆け寄り、段ボールの山を見上げた。
「こんなの、普段ここに置いてあるわけないじゃない……!」
生徒たちの間にざわめきが広がった。
非常口。
そこは、いざという時に外へ逃げるための場所だ。
そこが塞がれている。
しかも、偶然落ちてきた瓦礫でも、火災による崩落でもない。
人の手で積まれたものが、逃げ道を塞いでいる。
「ふざけんなよ!」
怒鳴り声が上がった。
「教師は何してたんだよ!」
「非常口が塞がってるってどういうことだよ!」
「管理してるのは学校だろ!」
非難の矛先は、一気に星之宮と坂上へ向かった。
恐怖は、出口を見つけると怒りに変わる。
そしてこの場で一番分かりやすい標的は、教師だった。
「落ち着け!今は責任を追及している場合ではない!」
坂上が声を張った。
しかし、その言葉は火に油を注ぐだけだった。
「責任逃れかよ!」
「外に出られないんだぞ!」
「俺たち死ぬかもしれないんだぞ!」
生徒たちの声が重なり、食堂内の空気がさらに悪くなっていく。
煙はまだ薄い。
だが、精神的な酸素はすでに奪われ始めていた。
その時、前へ出たのが宝泉和臣だった。
「おい、センコー」
低い声だった。
だが、その声を聞いた瞬間、周囲の生徒たちが一歩引いた。
宝泉の表情には、怒りがあった。
恐怖ではない。
焦りでもない。
自分の前にある障害物を、力で壊せば済むものとして見ている目だった。
「テメェら教師がちゃんと見てねえから、こうなってんだろうが」
「宝泉、下がれ。今は全員でこの箱を――」
坂上が言い終える前に、宝泉は彼の胸倉を掴んだ。
周囲から悲鳴が上がる。
「宝泉くん、やめてください!」
七瀬が即座に間へ入ろうとした。
だが、宝泉は怒りに任せて腕を振り、七瀬の制止をはねのけた。
七瀬はよろめき、近くのテーブルに手をついて体勢を立て直す。
「七瀬さん!」
白石が駆け寄ろうとする。
葛城も前に出た。
「宝泉、今ここで暴れても何も解決しない」
「うるせえよ!」
宝泉の声がさらに低くなる。
「道が塞がってる。教師が役に立たねえ。だったら力でどかすしかねえだろうが」
「力を使う相手を間違えるな」
葛城が静かに言った。
その言葉に、宝泉の目が葛城へ向いた。
一瞬、空気が凍る。
宝泉が葛城へ詰め寄り、周囲がまた悲鳴を上げる。
葛城は退かなかった。
大柄な体を正面に置き、宝泉の進路を塞ぐ。
「殴りたいなら後にしろ。
今のお前の力は、人を倒すためではなく、箱をどかすために使うべきだ」
「説教か?」
「事実だ」
宝泉の拳が上がりかけた。
その瞬間、八神拓也がすっと横から割って入った。
「宝泉くん」
その声は驚くほど穏やかだった。
火災報知器が鳴り、煙が迫り、人々が怒号を上げる中で、
八神だけはまるで別の温度にいるようだった。
「ここで坂上先生や葛城先輩を倒しても、非常口は開きませんよ」
宝泉は八神を睨んだ。
「テメェも邪魔する気か」
「いいえ。むしろ協力してほしいんです」
「協力だ?」
「この中で、力仕事に一番向いているのは宝泉くんでしょう。
あなたが先頭に立って段ボールをどかせば、みんな動きやすくなる。
逆にあなたが暴れてしまうと、みんなが止まる。
結果として、あなた自身の脱出も遅れます」
八神の言葉は柔らかい。
だが、的確だった。
宝泉の怒りを否定するのではなく、その力の使い道を変えようとしている。
そこへ天沢一夏が軽い足取りで近づいた。
「そーそー。宝泉くんがここで暴れてもさ、煙は待ってくれないよ?
せっかく馬鹿みたいに力あるんだから、こういう時くらい役に立ちなよ」
「天沢……テメェ、喧嘩売ってんのか」
「売ってない売ってない。褒めてるんだって」
天沢は笑っていた。
だが、その笑みは場を和ませるためだけのものではなかった。
宝泉の注意を分散させ、周囲の生徒が完全に萎縮しないようにしている。
白石も続いた。
「今は全員で動くべきです。
宝泉くんが暴れれば、先生も生徒もあなたを止めるために
人数を割かなければならなくなります。それは無駄です」
神崎も一歩前に出る。
「怒りは理解する。だが、出口を塞いでいる段ボールをどかす方が先だ。
非難するなら、生きて外へ出てからいくらでもすればいい」
言葉が重なった。
七瀬。
葛城。
八神。
天沢。
白石。
神崎。
それぞれの立場から、宝泉を止めようとしていた。
宝泉はしばらく黙っていた。
その拳はまだ握られている。
肩は怒りで上下している。
だが、彼の視線が非常口を塞ぐ段ボールへ向いた。
炎ではなく、教師でもなく、邪魔な箱の山へ。
「……チッ」
舌打ちが食堂に響いた。
宝泉は坂上から手を離した。
坂上は軽く息を吐き、乱れた服を直した。
「宝泉、今は――」
「黙ってろ」
宝泉は短く言い捨てると、非常口前の段ボールへ歩いていった。
そして、一番手前の箱を乱暴に掴み、床へ投げるようにどかした。
中身の入っていた箱が鈍い音を立てる。
「どけりゃいいんだろ。だったら早くやるぞ」
その言葉に、生徒たちの空気が変わった。
恐怖で固まっていた者たちが、ようやく自分たちにもできることを見つけたのだ。
「全員、聞いてください!」
七瀬が声を上げた。
「重い箱は宝泉くんや葛城先輩たちが動かします!軽い箱は後ろへ送ってください!
通路側に積み直すとまた邪魔になりますから、食堂の壁際へ!」
葛城もすぐに指示を補足する。
「リレー形式で運ぶ。
先頭は箱を崩す役、中間は受け渡し、後方は積み直しだ。
無秩序に動けば余計に時間がかかる」
神崎が周囲へ声を飛ばす。
「手の空いている者は列を作れ!
無理に重い箱を持つな!落とせば怪我人が出る!」
白石は女子生徒や小柄な生徒をまとめ、軽い箱の運搬へ回した。
「無理をしないでください。持てないと思ったらすぐに隣へ渡して」
八神は宝泉の近くで、箱の崩し方を見ていた。
「上から順番に崩した方がいいですね。下を抜くと崩れて危ない」
「分かってんだよ」
宝泉は乱暴に返しながらも、八神の言葉通り、上の箱から順に落としていく。
天沢は中間地点で箱を受け取りながら、周囲に軽口を飛ばしていた。
「はいはい、段ボールリレー開催中でーす。優勝しても賞品は命だけどね」
「笑えませんよ、それ……」
七瀬が困ったように言う。
その時、少し離れた場所で森下藍が不意に手を挙げた。
「つまりこれは、昼休み限定・非常口前段ボール撤去大会というわけですね。
参加賞は煙を吸わずに済む権利。優勝賞品は外の空気。なかなか豪華です」
沈黙。
周囲の生徒たちは、どう反応すればいいのか分からず固まった。
火災報知器の音だけが虚しく鳴り響く。
その中で、山村美紀だけが小さく口元を動かした。
「……す、少しだけ、面白いと思います」
「山村美紀、あなたは見どころがあります」
森下は真顔で頷いた。
「今の流れで笑えるの、先輩たちくらいですよ」
天沢が呆れたように言った。
だが、そのやり取りによって、張り詰めすぎていた空気がほんの少しだけ緩んだ。
恐怖は消えない。
煙も消えない。
非常口もまだ開いていない。
それでも、人間はほんの一瞬でも息を吐ければ、次の行動へ移ることができる。
段ボールの撤去作業は、想像以上に過酷だった。
箱は軽いものばかりではなかった。
食材の缶詰、清掃用品、備品、紙類。
中には水分を含んで重くなっているものもあり、
焦った生徒が無理に持ち上げようとして足元をふらつかせる場面もあった。
「無理するな!重いなら二人で持て!」
葛城がすぐに声を飛ばす。
「後ろ、詰めすぎです!箱を置く場所を空けてください!」
白石が指示する。
「こっちに回してください!壁際、まだ置けます!」
七瀬が受け渡しの流れを作る。
宝泉は先頭で黙々と箱をどかし続けていた。
乱暴ではある。
だが、その力は確かだった。
彼が一つ大きな箱をどかすたびに、非常口へ続く空間が少しずつ見えてくる。
坂上も黙ってはいなかった。
宝泉に掴まれた直後でありながら、
彼は教師として段ボール撤去に加わり、重い箱を葛城と共に運んだ。
星之宮も女子生徒たちを励ましながら、軽い箱を受け取っては壁際へ運んでいく。
「大丈夫、大丈夫。あと少し。ほら、ちゃんと進んでるから」
その声は明るく作られていた。
だが、額には汗が滲んでいる。
熱のせいか。
恐怖のせいか。
おそらく両方だった。
食堂内の煙は少しずつ濃くなっていた。
天井付近に薄く溜まっていた煙が、目に見える層となって下がり始めている。
照明の光はぼやけ、食堂の奥が白く霞んで見えた。
「急いでください」
神崎が低く言った。
「煙が下がってきています。時間がない」
「分かってる!」
宝泉が最後の大きな箱を掴んだ。
それは他の箱よりも重く、非常口の取っ手の前に押し込まれるように置かれていた。
まるで、最後まで扉を開けさせまいとする意志があるかのようだった。
宝泉が力任せに引く。
箱は動かない。
「宝泉くん、片側が引っかかっています」
八神が指摘する。
葛城がすぐに反対側へ回った。
「同時に引くぞ」
「指図すんな」
「いいから合わせろ」
一瞬、宝泉は葛城を睨んだ。
だが、すぐに箱へ視線を戻した。
「三つ数えろ」
「一、二、三!」
二人が同時に引いた。
箱が鈍い音を立てて動き、床をこすりながら非常口の前から外れる。
その瞬間、金属製の非常扉が姿を現した。
「開いた……!」
誰かが声を上げた。
だが、まだ終わりではない。
坂上がすぐに扉へ近づき、取っ手を掴んだ。
熱くはない。
少なくとも、向こう側がすぐ火に包まれているわけではなさそうだった。
「下がれ。ゆっくり開ける」
坂上が慎重に扉を押した。
重い音を立てて、非常口が開いていく。
外の空気が流れ込んだ。
それは新鮮な空気ではなかった。
焦げた臭い。
煙。
熱。
そして、遠くで鳴り響くサイレン。
しかし、それでも食堂内のこもった空気よりはましだった。
「外に出られる!」
生徒たちが一斉に動きかけた。
「走るな!」
葛城の声が飛ぶ。
「順番に出ろ!ここで押したら詰まる!」
七瀬も前に出た。
「体調の悪い人から先に!でも押さないでください!」
神崎と白石が列を整え、天沢が軽く手を振りながら生徒たちを促す。
「はいはい、出口はこちら。押しても早くなりませーん」
宝泉は扉の横に立ち、列に割り込もうとした男子生徒を睨んだ。
「押すなっつってんだろ」
その一言で、割り込みかけた生徒は青ざめて下がった。
普段なら恐怖の対象でしかない宝泉の威圧感が、
この時ばかりは列の秩序を守る役に立っていた。
一人、また一人と、生徒たちが非常口を抜けて外へ出ていく。
食堂の中に残っていた熱と煙から解放される。
そう思った者もいただろう。
だが、非常口の外に広がっていた光景は、安堵とは程遠いものだった。
外は、地獄だった。
校舎の壁面の一部が黒く焼け、窓という窓から煙が吐き出されていた。
中庭へ続く通路には爆発で飛び散った瓦礫が散乱し、
割れたガラス片が陽光を反射して不気味に光っていた。
遠くでは炎が建物の外壁を舐めるように燃え上がり、
熱気が波のように押し寄せてくる。
空は青くなかった。
黒煙が上空を覆い、昼間であるにもかかわらず、あたりは夕暮れのように暗かった。
その暗さの中で、炎だけが異様に明るかった。
寮の方向からも煙が上がっている。
ケヤキモールの方角では、さらに大きな火柱が見えた。
爆発の影響で外灯は倒れ、植え込みは焼け焦げ、
普段なら整然としているはずの通路は、瓦礫と炎と煙で寸断されていた。
「……何だよ、これ」
宝泉でさえ、低く呟いた。
七瀬は息を呑み、白石は口元を押さえた。
神崎は拳を握りしめ、葛城はすぐに周囲の安全確認へ視線を走らせる。
星之宮は外へ出てきた生徒たちを見て、青ざめながらも声を出した。
「全員、建物から離れて!でも炎の方には行かないで!足元に気をつけて!」
坂上も続ける。
「瓦礫に近づくな!壁際を歩くな!上から落下物が来る可能性がある!」
外に出た。
だが、安全地帯に着いたわけではない。
むしろ、ここからが本当の避難だった。
炎に包まれた校舎。
瓦礫で塞がれた通路。
煙に飲まれる空。
遠くから近づく消防のサイレン。
そして、どこへ逃げればいいのか分からない広大な学園。
森下藍が燃える校舎を見上げ、ぽつりと言った。
「これはもう、避難訓練の反省文では済みませんね」
山村美紀が小さく頷く。
「……さすがに、済まないと思います」
そのあまりにも場違いなやり取りに、誰も笑わなかった。
けれど、誰かが泣き崩れることもなかった。
段ボールをどかし、非常口を開け、外へ出た。
それだけで、彼らは一度、絶望に勝ったのだ。
だが、目の前の炎は告げていた。
これはまだ、始まりに過ぎないのだと。
生徒たちは教師たちの誘導に従い、瓦礫と炎を避けながら、
次の安全地帯を探して動き始めた。
背後では、食堂へ続く非常口から煙が漏れ出している。
彼らがつい先ほどまでいた場所も、遠からず炎と煙に飲まれるだろう。
振り返る余裕はなかった。
戻る場所は、もう燃えている。
進むしかない。
炎の中で、彼らはようやく理解し始めていた。
高度育成高等学校は、守られた箱庭ではなかった。
今この瞬間、巨大な火の檻へと変わっていたのだ。