カーストリング・インフェルノ   作:戦竜

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第四話 フラッシュオーバー

設備管理区画の中は、外の校舎とはまるで別の世界だった。

 

生徒たちが普段使う明るい廊下とは違い、天井は低く、

壁には無数の配管が走り、足元にはところどころ金属製の段差があり、

非常灯の赤い光だけが通路を不安定に照らしていた。

 

湿った空気と金属の臭い、そして遠くから伝わってくる低い振動が、

ここがまだ炎の支配から完全に逃れた場所ではないことを示している。

 

それでも、教室付近の廊下を覆っていた濃い煙に比べれば、

ここはまだ呼吸ができた。

 

生徒たちは濡らしたハンカチやタオルを口元に当て、

肩を寄せ合いながら、細い通路を一列に進んでいた。

 

先頭は綾小路清隆。

その少し後ろに堀北鈴音と茶柱佐枝。

中ほどには佐倉愛里、長谷部波瑠加、

軽井沢恵、佐藤麻耶、松下千秋たちが固まっている。

 

後方では龍園翔が石崎大地、アルベルトたちを使って列の乱れを抑え、

坂柳有栖は橋本正義に支えられるようにして歩いていた。

 

一之瀬帆波は列の中央と後方を行き来し、

息が乱れている生徒や恐怖で足が止まりかけている生徒に声をかけ続けていた。

 

「あと少しだよ。止まらないで。ゆっくりでいいから、前へ」

 

その声は優しかったが、余裕はなかった。

誰もが分かっていた。

これは避難ではなく、脱出だ。

一つ間違えれば、列は崩れる。

一人が転べば、後ろの全員が止まる。

止まれば、煙が追いつく。

 

そして煙の向こうでは、炎が確実に広がっている。

 

だが、その中で一つだけ、明らかにおかしい点があった。

 

「……スプリンクラーが作動していない」

 

綾小路が低く呟く。

 

天井を見上げても、散水の気配は一切ない。

通常なら、すでに水が降り注いでいてもおかしくない状況だった。

 

「故障、というレベルではないわね」

 

堀北が即座に言い切る。

 

「これだけの火災で一斉に作動しないなんて……あり得ない」

「ククッ、つまり最初から殺す気満々ってわけか」

 

龍園が吐き捨てるように笑う。

 

「安全装置ごと潰してやがる。随分と手が込んでるじゃねぇか」

 

坂柳は静かに目を細めた。

 

「ええ……偶発的な事故では説明がつきませんね。

意図的に停止させられていると考えるのが自然でしょう」

 

その一言で、場の空気がさらに重く沈む。

 

「つまり、この火災は管理されているということね」

 

堀北の言葉に、誰も反論しなかった。

 

綾小路はわずかに視線を落とし、そして前を見据える。

 

「なら、ここで立ち止まる理由はない」

 

やがて、通路の先に扉が見えた。

茶柱が持っていた鍵で開けると、

金属製の扉は重い音を立てて外側へ押し開かれた。

 

そこにあったのは、非常階段へ続く狭い踊り場だった。

 

「……出られた」

 

誰かが小さく呟いた。

非常階段の向こう側には、下へ続く鉄製の階段が見えている。

その先はプール棟方面へ繋がっているはずだった。

校舎内部の廊下とは違い、ここには外気が流れ込んでいる。

 

煙はある。

熱もある。

 

だが、閉じ込められていた管理区画と比べれば、

広い空間に出られたというだけで、多くの生徒の表情に一瞬だけ安堵が浮かんだ。

 

「階段を下りればプール棟へ出られる」

 

真嶋が低く言った。

 

「そこで一度態勢を立て直す。水も確保できる」

「よし、行くぞ。止まるな」

 

龍園が後方から促した。

 

石崎はほっとしたように息を吐き、アルベルトも無言のまま頷いた。

松下が軽井沢の腕を掴みながら、震えた声で言う。

 

「助かる……よね?」

 

軽井沢は答えようとした。

だが、その言葉が口から出る前に、綾小路は異変に気づいた。

階段下の空気が、妙に明るい。

炎そのものが見えているわけではない。

しかし、煙の奥が赤く揺れている。

そして、耳に届く音が変わった。

ただ燃えている音ではない。

空気が吸い込まれるような、低く、不気味な唸り。

 

「伏せろ!」

 

綾小路の声が飛んだ。

だが、すべての者が反応できたわけではなかった。

次の瞬間、非常階段の下方で、空間そのものが爆ぜるように白く輝いた。

 

フラッシュオーバー。

 

蓄積した熱と可燃性の煙が一気に燃え上がり、

階段下から爆炎が逆流するように吹き上がってきた。

 

それは火の波だった。

赤ではない。

橙でもない。

 

一瞬、白に近いほどの光を帯びた爆炎が、

鉄製の階段と踊り場を飲み込みながら、上へ向かって突き上がった。

 

「きゃあああああああっ!」

 

悲鳴が重なった。

 

熱風が顔を叩き、濡れた布が一瞬で乾きかけ、

金属の手すりが焼けるような音を立てる。

 

次の瞬間、爆炎はただ広がるのではなく、圧を伴って押し寄せた。

空気そのものが殴りつけてくるような衝撃が胸を打ち、呼吸が一瞬で奪われる。

炎は壁を舐めるのではなく、叩き潰すようにぶつかり、

階段の踊り場で弾けてさらに上へ跳ね上がる。

白く発光した熱が視界を塗り潰し、

影という影が消え、すべてが一枚の光に焼き付けられる。

階段の隙間を通って火が噴き上がり、足元からも熱が突き刺さるように迫ってくる。

遅れて轟音が押し寄せ、耳の奥を叩き、骨の内側まで震わせる。

鉄骨が膨張する音とともに軋み、階段そのものが歪んでいるのが分かる。

火の粉ではなく、燃えた空気の塊が塊のまま飛び散り、

触れれば即座に焼かれる距離で弾ける。

炎は一度収まる気配を見せながら、

すぐに次の膨張を孕み、波のように連続して押し寄せる。

その奔流は、逃げる者の背中を確実に追い詰める見えない手のように、

上階へと食らいついてきた。

 

そして先に階段へ踏み出していた数人が、炎に巻かれた。

 

石崎。

アルベルト。

松下。

三宅。

 

そして、坂柳を庇うように前へ出た橋本。

時間にすれば、ほんの数秒だった。

だが、その数秒は永遠のように長かった。

 

「石崎!」

 

龍園の声が響いた。

普段なら誰かの名前を感情的に叫ぶような男ではない。

だが、その声には明らかな動揺が混じっていた。

 

「松下さん!」

 

軽井沢の叫びが、火災報知器の残響を切り裂いた。

 

「みやっち!」

 

長谷部が悲鳴に近い声を上げ、

佐倉は目の前の光景を理解できず、口元を押さえたまま震えていた。

 

坂柳はその場に崩れかけた。

だが、彼女が炎に触れることはなかった。

橋本が最後の瞬間、彼女を強く押し戻していたからだ。

 

「橋本くん……?」

 

坂柳の声は、驚くほど小さかった。

橋本は彼女を守った。

自分が前に出ることで、彼女だけは炎の直撃から外した。

それが偶然だったのか、咄嗟の判断だったのか、もう確かめることはできない。

坂柳の目が、燃え上がる階段の方へ向けられる。

彼女の表情から、いつもの余裕が消えていた。

 

「……橋本くん」

 

その呼びかけに、返事はなかった。

炎の音だけが、すべてを奪うように響いていた。

 

「下がれ!全員下がれ!」

 

茶柱が叫んだ。

真嶋が生徒たちを踊り場の内側へ押し戻す。

綾小路は即座に周囲を見た。

生徒たちは恐怖で固まり、列は崩れかけている。

 

誰かが泣いている。

誰かが名前を叫んでいる。

誰かが座り込もうとしている。

 

このままでは、次の火勢でさらに犠牲が出る。

 

「堀北、中央をまとめろ。

一之瀬、動けない生徒を立たせろ。龍園、後方を押さえろ」

 

綾小路の声は冷たく聞こえるほど平坦だった。

だが、その平坦さが、逆に何人かの意識を現実へ引き戻した。

 

堀北は唇を噛みながらも頷き、すぐに声を張った。

 

「全員、壁側へ寄って!泣いている場合じゃないわ、次が来たら本当に終わる!」

 

一之瀬も顔を青ざめさせながら、座り込みかけた女子生徒の手を取った。

 

「みんな立って。お願い、今だけでいいから立って」

 

龍園は炎の方を睨みつけたまま、

石崎たちの名を叫びそうになる自分を押し殺すように、

後方の生徒たちを怒鳴りつけた。

 

「押すな!勝手に動いたら殺すぞ!」

 

その言葉は乱暴だった。

だが、パニックの波を止めるには、それくらい強い音が必要だった。

 

その時、炎の向こう側から小さな声がした。

 

「……た、助けて……」

 

みーちゃんだった。

爆炎によって階段付近の動線が分断され、

彼女だけが炎の向こう側の踊り場に取り残されていた。

 

完全に炎の中にいるわけではない。

 

だが、戻るにも進むにも、熱と煙が邪魔をしている。

 

「みーちゃん!」

 

櫛田が叫んだ。

 

「待って、今行くから!」

「駄目だ!」

 

綾小路が止める。

櫛田の足が止まる。

その表情が歪んだ。

 

助けたい。

 

けれど、無理に飛び込めば二人とも戻れない。

その残酷な判断を、彼女は理解してしまった。

 

みーちゃんは泣いていた。

 

「やだ……置いていかないで……」

 

その声は、煙と炎の音にかき消されそうなほど小さかった。

一之瀬が一歩前へ出ようとした。

堀北も動きかけた。

だが、その誰よりも早く、炎の向こうの手すりに一つの影が現れた。

 

「やれやれ。実に騒々しい舞台だねぇ」

 

高円寺六助だった。

いつの間にそこへ到達したのか、誰にも分からなかった。

彼は非常階段の外側にある細い構造部を、

まるで平地を歩くような余裕で移動していた。

黒煙の中でも、その姿勢に乱れはない。

炎に照らされた金髪が揺れ、彼は場違いなほど優雅に微笑んでいた。

 

「高円寺くん!?」

 

一之瀬が声を上げる。

 

「危ないわよ!」

 

堀北が叫ぶ。

 

だが高円寺は聞いていないのか、

聞いた上で気にしていないのか、悠然と手すりを越えた。

 

「美しい私にとって、炎の舞台もまた一つの演出に過ぎない」

「ふざけてる場合じゃないだろ!」

 

誰かが叫ぶ。

 

しかし、高円寺の動きはふざけていなかった。

 

彼は一瞬でみーちゃんの元へ到達し、彼女を片腕で抱え上げると、

足場の限られた鉄骨を軽々と踏み越えた。

 

熱気が吹き上がる。

火の粉が舞う。

 

誰もが息を呑む中、高円寺はまるで曲芸のように外側の構造部を渡り、

こちら側の踊り場へ戻ってきた。

 

「はい、到着だ」

 

みーちゃんは半ば放心状態で、櫛田に抱きとめられた。

 

「みーちゃん!よかった……本当に……!」

 

櫛田の声が震えていた。

みーちゃんは泣きながら、何度も頷いた。

高円寺は肩についた火の粉を軽く払うと、何事もなかったかのように胸を張った。

 

「感謝は後で構わないよ。今は私の美しい避難経路を邪魔しないことだ」

「……助かったわ」

 

堀北が小さく言った。

 

綾小路は高円寺を見た。

彼の身体能力は、この状況では異常なほど有用だった。

 

だが同時に、彼の行動は誰にも再現できない。

つまり、全員が同じ方法で助かることはできない。

 

「階段はまだ使える部分がある」

 

真嶋が言った。

 

「だが下部の一部が焼けている。急ぐ必要がある」

 

爆炎は一度引いた。

 

完全に消えたわけではないが、階段下の火勢がわずかに弱まっている。

 

今なら下りられる。

 

ただし、もう一度同じ現象が起きれば終わりだ。

 

「下りるぞ」

 

綾小路が言った。

 

「今度は一人ずつ間隔を空ける。手すりは熱い可能性がある。

布を巻いて掴め。足元だけを見ず、前の生徒との距離を保て」

 

生徒たちは恐怖で青ざめながらも、階段を下り始めた。

先ほどの犠牲があるからこそ、誰も軽々しく動けない。

軽井沢は涙を堪えながら、佐藤の手を握っていた。

長谷部は佐倉の背中を支え、

何度も「大丈夫、大丈夫だから」と繰り返している。

 

だが、その声は自分自身に言い聞かせているようでもあった。

 

坂柳は橋本を失った衝撃から完全には戻っていない。

しかし、彼女は歩いていた。

顔色は白く、杖を握る手は震えていたが、それでも前へ進んでいた。

 

「坂柳さん、無理はしないで」

 

堀北が近くから声をかける。

 

「無理をしなければ、ここで焼かれるだけです」

 

坂柳は静かに返した。

その声にはいつもの棘がなかった。

非常階段を下りる途中、再び校舎全体が揺れた。

 

今度の爆発は近かった。

 

下層階のどこかで何かが破裂し、

衝撃が鉄製の階段を伝って全員の足元を揺らした。

 

「止まるな!」

 

真嶋が叫ぶ。

だが、その直後、階段の一部が嫌な音を立てた。

 

金属が歪む音。

ボルトが弾ける音。

そして、足場が沈む感覚。

 

「上がれ!」

 

誰かが叫んだ。

一部の生徒が反射的に上へ逃げようとした。

 

その混乱の中で、佐倉と坂柳が取り残された。

佐倉は足をすくませ、途中の踊り場で動けなくなっていた。

坂柳もまた、階段の揺れと煙により、前後の移動が遅れている。

そして二人のいる場所の下で、階段の一部が崩れかけていた。

 

「愛里!」

 

長谷部が叫ぶ。

 

「坂柳さん!」

 

一之瀬が振り向く。

だが、全員が一斉に戻れば階段がさらに危険になる。

綾小路は一瞬で位置関係を確認した。

 

佐倉。

坂柳。

 

崩れかけた階段。

残っている手すり。

 

龍園の位置。

堀北と一之瀬の位置。

高円寺は位置的に使えない。

 

使えるものは限られている。

時間もない。

 

「佐倉、オレの方を見ろ」

 

綾小路が声をかけた。

 

佐倉は震えながら顔を上げる。

 

「む、無理……足が……」

「無理じゃない。右足を一段下へ。

手すりは直接掴むな。波瑠加、上着を投げろ」

 

長谷部はすぐに自分の上着を丸め、佐倉の方へ投げた。

佐倉はそれを受け取り、手すりに巻きつける。

 

「いい。次は左足。下を見るな。オレを見る」

 

佐倉の呼吸は乱れていた。

涙で視界も滲んでいただろう。

 

それでも、綾小路の声は一定だった。

 

恐怖に揺れない声。

 

それが、かろうじて佐倉の意識を繋ぎ止めた。

 

一方、坂柳はさらに厳しい場所にいた。

身体能力の低い彼女にとって、不安定な階段を素早く移動することは困難だった。

 

しかも、橋本はもういない。

 

彼女を支えていた存在が、目の前で失われた直後だった。

 

「坂柳さん!」

 

一之瀬が叫ぶ。

 

「こちらへ!手を伸ばして!」

「……簡単に言ってくれますね」

 

坂柳は小さく笑った。

だが、その顔色は悪い。

堀北が下側から指示を出した。

 

「坂柳さん、杖は捨てて!今は邪魔になる!」

 

坂柳は一瞬だけ杖を見た。

それは彼女にとって、ただの道具ではない。

だが次の瞬間、彼女はそれを手放した。

杖が金属音を立てて階段を転がり落ちる。

 

「龍園」

 

綾小路が呼んだ。

 

「テメェが俺に命令か?」

「坂柳を支えろ。お前なら外側から回れる」

 

龍園は一瞬だけ坂柳を見た。

そして、肩をすくめた。

 

「ハッ、俺に相応しい難題だな」

 

次の瞬間、龍園は手すりの外側へ出た。

常人なら足を滑らせれば終わりの場所を、

荒っぽい動きながらも進み、坂柳の横へ回り込む。

 

「よぉ、リトルガール」

 

龍園は坂柳の腕を支えた。

 

「……あなたに助けられる日が来るとは、想定外ですね」

「予想外だらけのが面白れぇだろ」

「今だけは、その考え方に感謝しておきます……ドラゴンボーイ」

 

坂柳は龍園に支えられながら、一段ずつ下り始めた。

態度はいつものように荒かったが、坂柳を支える手だけは乱暴ではなかった。

 

その下では、一之瀬が手を伸ばしている。

堀北も足場を確認しながら、次にどこへ足を置くべきか指示していた。

 

「そこは踏まないで!右側、まだ生きてるわ!」

 

その直後だった。

 

ギィッ――という嫌な軋みが、足元から伝わった。

龍園の踏み込んだ段が、わずかに沈む。

 

「……チッ」

 

次の瞬間、金属が裂ける音とともに、その段が崩れた。

足場が消える。

龍園の体が一瞬宙に浮いた。

 

「龍園くん!」

 

一之瀬の声が響く。

坂柳の身体もバランスを崩し、前へ傾いた。

二人まとめて落ちる。

 

そう見えた。

だが龍園は反射的に身体を捻り、空中で手すりへ腕を叩きつけるように掴んだ。

 

鈍い音。

その衝撃で、腕が軋む。

それでも離さない。

 

「放すんじゃねぇ……!」

 

龍園の低い声が漏れる。

だが、問題はそれだけではなかった。

坂柳の身体が、彼の腕に引っ張られる形で宙に浮いている。

彼女一人ならまだしも、二人分の体重が一点にかかる。

 

手すりが軋む。

 

さらにもう一段、下の階段が崩れ、火の粉が舞い上がった。

 

「……っ」

 

坂柳が息を呑む。

普段の冷静さはあったが、さすがにこの状況では身体が強張っている。

 

「坂柳、手すり掴め!」

 

龍園が怒鳴る。

 

「無理にでも腕を伸ばせ!」

「……ええ、言われなくても」

 

坂柳は歯を食いしばり、身体を揺らしながら、もう一方の手で手すりへ伸ばす。

 

だが、届かない。

数センチ。

その距離が、異様に遠い。

 

「坂柳さん!」

 

一之瀬がさらに身を乗り出す。

 

「あと少し!手を――!」

「前に出ないで!」

 

堀北が叫ぶ。

 

「崩れるわ!」

 

その間にも、龍園の腕にかかる負荷は増していた。

筋肉が悲鳴を上げる。

手のひらが滑る。

焼けた金属の熱が、皮膚をじわじわと侵していく。

 

それでも龍園は笑った。

歪んだ、いつもの笑いだった。

 

「……ハッ、どこまでも邪魔してきやがる」

 

その言葉に、坂柳の目がわずかに揺れる。

 

「落ちるか、助かるか。どっちが上かって話だ」

「……こんな状況でも、その思考ですか?」

「今さら変えられるかよ」

 

龍園はさらに腕に力を込めた。

その瞬間、身体を一気に引き上げるのではなく――坂柳を押し上げた。

 

「……っ!」

 

坂柳の身体がわずかに上へ持ち上がる。

その勢いで、彼女の手が手すりへ届いた。

 

カシャン、と金属音が鳴る。

坂柳の指が手すりを掴む。

 

「今だ!自分で上がれ!」

 

龍園が叫ぶ。

坂柳はそのまま腕に力を込め、自分の体を引き寄せる。

普段なら到底できない動き。

だが、この状況ではやるしかなかった。

彼女の身体が、どうにか階段の縁へ戻る。

 

その瞬間――龍園の手が、滑った。

 

「――龍園くん!」

 

堀北の声。

だが龍園は、落ちなかった。

最後の瞬間、彼はもう一方の手を伸ばし、階段の縁に指を引っかけていた。

 

完全にぶら下がる形。

下は炎。

上は崩れかけの階段。

逃げ場はない。

 

「龍園くん!」

 

今度は一之瀬が身を乗り出す。

 

「手を!」

「寄るな!」

 

龍園が怒鳴る。

 

「二人まとめて落ちたら意味ねぇだろうが!」

 

その声に、一之瀬の動きが止まる。

一瞬の判断だった。

そこへ、横から別の手が伸びた。

 

綾小路だった。

 

無言で龍園の手首を掴む。

 

「引くぞ」

 

短い一言。

龍園は一瞬だけ目を細めた。

 

「……テメェに借り作るのは気に入らねぇな」

「文句は上がってから言え」

 

堀北もすぐに反対側から支える。

一之瀬も位置を変え、坂柳の体勢を安定させる。

 

「せーの!」

 

一之瀬の声に合わせ、三人が同時に引いた。

龍園の身体が、階段の縁へ戻る。

重い音とともに、彼は膝をついた。

 

数秒、誰も動かなかった。

炎の音だけが響く。

龍園は息を吐き、ゆっくりと顔を上げた。

 

そして、坂柳を見る。

 

「……死に損ねたな」

「ええ、残念ながら」

 

坂柳はいつものように返した。

だが、その声は少しだけ掠れていた。

 

「あなたのおかげで」

 

龍園は鼻で笑った。

 

「勘違いすんな。たまたまだ」

「ええ、そういうことにしておきましょう」

 

二人の視線が一瞬だけ交わる。

それ以上は何も言わない。

言葉にすれば壊れる何かが、そこにあった。

 

そして、佐倉も。

 

「そこは踏まないで!左側、まだ残ってる!」

「佐倉さん、止まらないで!あと二段!体重を右へ!」

 

声が飛び交う。

炎の音。

崩れる音。

悲鳴。

指示。

祈り。

 

すべてが混ざる中で、佐倉は少しずつ下へ近づいていった。

 

そして佐倉の足が最後の段へ届いた瞬間、

長谷部が彼女を抱きしめるように引き寄せた。

 

「愛里!よかった……!」

 

佐倉は泣きながら長谷部にしがみついた。

 

「止まらないで。まだここも危険よ」

 

堀北の冷静な指示が飛ぶ。

 

坂柳は肩で息をしながら、振り返った。

崩れかけた階段。

炎に照らされた鉄骨。

そして、もう戻れない上の踊り場。

そこには、橋本がいた場所がある。

 

坂柳は目を伏せた。

 

ほんの一瞬だけ。

 

それから顔を上げた。

 

「……行きましょう」

 

その声はかすれていた。

だが、確かに前を向いていた。

全員が非常階段の下層へ到達した時、

上方でついに階段の一部が崩れ落ちた。

 

轟音とともに鉄骨が外れ、火の粉が滝のように降り注ぐ。

 

あと少し遅れていれば、佐倉も坂柳も、

そして助けに戻った者たちも巻き込まれていた。

 

軽井沢は震えたまま、その光景を見上げていた。

 

「もう……何なのよ、これ……」

 

誰も答えられなかった。

長谷部は佐倉を抱きしめたまま泣いている。

一之瀬は唇を噛み、犠牲者たちの名を胸の中で繰り返している。

 

龍園は黙っていた。

 

石崎とアルベルトを失った現実を、まだ言葉にできないようだった。

堀北は拳を握りしめ、感情を押し殺すように前だけを見ている。

 

茶柱と真嶋は教師として、生徒たちに進むよう促さなければならなかった。

 

そして綾小路は、プール棟へ続く通路を見た。

 

助かった者がいる。

 

助けられなかった者もいる。

 

それがこの火災の現実だった。

 

非常階段の先には、プール棟の外壁が見えていた。

 

水。

 

一時的な安全地帯。

 

そして次の判断。

 

炎はまだ終わっていない。

 

むしろ、校舎全体を包む地獄は、彼らをさらに奥へ追い込もうとしている。

 

背後で崩れた階段が燃え続ける中、綾小路たちは再び歩き出した。

 

誰もが失ったものの重さを抱えたまま。

 

それでも、生きている者は進むしかなかった。

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