昼休みのプールは、校舎の喧騒から少しだけ切り離された、
別の時間を抱えているように見えた。
教室では弁当箱を開ける音や机を寄せる音が重なっている頃、
プール棟では水面に反射した陽光が天井を淡く揺らし、
白いタイルの上には透明な光の帯が幾重にも流れていた。
水を切る音が一定の間隔で響き、
そのたびにプールサイドへ小さな波が寄せては砕け、
塩素の匂いを含んだ空気が、ここだけはまだ平穏であることを疑わせなかった。
大会を控えた水泳部にとって、昼休みのわずかな時間すら練習の一部であり、
授業でも試験でもないこの空間は、
彼らにとって日常であると同時に、結果を出すための小さな戦場でもあった。
「ターン遅れてる!最後まで集中しなさい!」
水泳部エースの小野寺かや乃がプールサイドから声を飛ばすと、
水中の部員が一瞬だけ悔しそうに表情を引き締め、
次のストロークで水を掴む腕に力を込めた。
その姿を少し離れた位置で見ていた助っ人の南雲雅は、
腕を組みながら口元に薄い笑みを浮かべていた。
「いいねぇ。緊張感がある。こういう空気は嫌いじゃない」
普段の南雲なら、その言葉には余裕と支配者めいた響きが混じる。
この時もそうだった。
少なくとも、まだ彼はこの場所を自分の理解できる範囲の中に置いていた。
その横で須藤健が肩を回しながら、面倒そうに水面を見た。
「つーか、マジで俺たち必要か?泳ぎの助っ人って言われてもな」
「体力と瞬発力の確認かな。須藤くんはそういうの得意じゃない?」
平田洋介が穏やかに返すと、
須藤は鼻の下をこすりながら「まあな」と呟いた。
強がっているようで、褒められれば少しだけ嬉しそうになるその様子は、
いつもの須藤そのものだった。
少し離れた壁際では、同じく助っ人の伊吹澪が腕を組んで不機嫌そうに立っていた。
「なんで私がこんなこと……」
「渋々来てるのは分かるけど、来たならやりなさいよ」
神室真澄が淡々と言う。
「うるさい。あんたに指図される筋合いない」
「じゃあ帰れば?」
「帰れるなら帰ってる」
二人のやり取りは冷たく聞こえるが、そこに本気の険悪さはなかった。
普段通りの距離感。
普段通りの棘。
だからこそ、そこには日常があった。
椎名ひよりはプールサイドの少し後ろに座り、開いていた本を静かに閉じた。
彼女は泳ぐために来たわけではない。
ただ、応援のようなものだった。
隣には朝比奈なずながいて、
プールにいる生徒たちを見ながら楽しそうに笑っている。
「椎名さんも泳げばいいのに。見てるだけじゃ退屈じゃない?」
「私は……見る方が好きなので」
ひよりは柔らかく微笑んだ。
「それに、皆さんが真剣に泳いでいるのは、興味深いです」
「椎名さんらしいねぇ」
朝比奈が笑った。
その笑い声は、プールの水音に混ざって、穏やかに消えていく。
誰も急いでいなかった。
誰も逃げようとしていなかった。
誰も、数分後にこの場所が命を奪う空間へ変わるなど、想像していなかった。
その時だった。
最初の異変は、音ではなかった。
水面が、不自然に震えた。
風もないのに、プールの端から端へ細かな波が走り、
白いタイルに映っていた光がぐにゃりと歪んだ。
小野寺がわずかに眉を寄せる。
「……?」
次の瞬間、床の下から突き上げるような衝撃が来た。
――轟ッ。
それは、建物全体の骨を叩き折るような重い音だった。
プールサイドが揺れ、壁にかけられていた備品が落ち、
金属製の手すりが耳障りな音を立てた。
「な、何だ!?」
須藤が反射的に叫んだ。
しかし、その声にもいつもの勢いはなかった。
驚きが先に来て、怒鳴ることすら遅れたような声だった。
平田も一歩踏み出しかけたところで足を止め、周囲を見回した。
「地震……?」
そう言いかけて、彼自身すぐに違うと気づいた。
揺れ方が違う。
自然な横揺れではない。
どこか一点から爆発的に押し上げられるような、不自然で暴力的な振動だった。
南雲も、最初の一瞬だけ言葉を失っていた。
生徒会長として、上級生として、場を支配することに慣れている彼でさえ、
予想外の衝撃の前では判断が半拍遅れた。
「全員――」
彼が指示を出そうとした時、二度目の爆発が来た。
今度は近かった。
床が跳ねた。
天井の照明が激しく明滅し、プールの水面が大きく盛り上がった。
水が波となってプールサイドへ打ち寄せ、立っていた生徒たちの足元を濡らす。
ひよりは咄嗟に生徒たちが使う着替えやタオルなどが詰まったバックを掴み、
立ち上がろうとして、その場に膝をついた。
朝比奈が咄嗟に手を伸ばしたが、彼女自身も揺れに足を取られ、
壁に手をついてどうにか倒れずに済んだ。
「椎名さん!」
「だ、大丈夫です……」
そう答えたひよりの顔は青ざめていた。
爆発音。
揺れる床。
波打つ水。
それらが一瞬で彼女の思考を奪っていた。
伊吹も神室も、すぐには動けなかった。
伊吹は本能的に腰を落としてバランスを取っていたが、
その目には明らかな驚きがあった。
神室は壁際の手すりを掴んだまま、
普段の無表情を崩し、天井と床を交互に見ている。
小野寺も同じだった。
水泳部として、水場での判断には慣れている。
だが、プールそのものが壊れるという事態は、
練習でも想定訓練でも経験していない。
「……嘘でしょ」
彼女の小さな呟きは、次の崩落音に飲み込まれた。
プールの一角が、沈んだ。
タイルが割れた。
コンクリートが砕けた。
そして、透明だったはずの水が一気に濁り、
巨大な穴へ向かって吸い込まれていった。
それは排水口などという生易しいものではなかった。
床が抜け、下にできた空洞へ水が落ち込んでいくことで、
プール全体に強烈な流れが生まれていた。
泳いでいた部員の一人が、その流れに足を取られた。
「うわっ……!」
彼の身体が中央へ引かれる。
周囲の部員たちが手を伸ばすが、水流がそれを引き剥がす。
次の瞬間、別の部員の身体も引き込まれた。
「待って、やめて、引っ張って!」
悲鳴が水面に響く。
だが、声はすぐに途切れた。
腕を掴もうとした仲間の手は、指先が触れただけで滑り落ちる。
水は重く、速く、容赦がなかった。
一人、また一人と、中心へ引きずられていく。
水面が乱れる。
泡が弾ける。
誰かの手が一瞬だけ浮かび上がり、次の瞬間には排水口に消える。
「やめろ……やめろぉ!!」
須藤の叫びが響く。
だが、その声さえ、水の轟きに飲み込まれる。
中央では、水が渦を巻いていた。
落ちていく。
吸い込まれていく。
抗う余地はなかった。
流れに捕まった者は、二度と戻ってこない。
それは助けられるかもしれない事故ではなかった。
近づけば巻き込まれる死だった。
「近づくな!」
南雲が怒鳴る。
「引き込まれるぞ!」
それでも、助けようとする者の足が一歩出る。
だが、その一歩すら、水が奪おうとする。
恐怖が遅れて全員を包む。
目の前で、仲間が消えていく。
声も、姿も、水の底へ沈んでいく。
そして、やがて。
水面は再び波打つだけのものに戻る。
そこにいたはずの人間は、もうどこにもいなかった。
須藤はようやく我に返った。
「くそっ!」
彼は迷わずプールへ飛び込もうとした。
だが、飛び込む直前で足が止まる。
水面の流れがあまりにも異常だった。
泳げるかどうかの問題ではない。
入った瞬間に自分も引き込まれる可能性がある。
その一瞬の迷いが、須藤の中に生まれた。
「須藤くん!」
平田の声で、須藤は歯を食いしばった。
「分かってる!」
今度こそ須藤は飛び込んだ。
水流が彼の身体を横から殴りつける。
腕を伸ばし、流されかけた生徒の腕を掴む。
「掴め!放すな!」
だが、引き戻そうとしても簡単には戻せない。
水が重い。
まるで見えない巨大な手が、二人の身体を穴の方へ引いているようだった。
小野寺が我に返り、プールサイドから叫ぶ。
「壁側!中央に行かないで!流れに逆らわず、斜めに逃げて!」
その声で、泳いでいた生徒たちがようやく方向を変え始める。
水に慣れている者ほど、正面から流れに逆らう危険性を理解できた。
しかし、恐怖で身体が固まっている者には、その指示すらすぐには届かない。
南雲は拳を握り、一瞬だけ唇を噛んだ。
指示が遅れた。
それを自覚していた。
だが、後悔している時間はない。
「全員、壁側へ寄れ!中央から離れろ!水から出られる者はすぐに上がれ!」
ようやく彼の声がプール棟に響いた。
だが、状況はすでに次の段階へ進んでいた。
天井の一部が崩れた。
大きなコンクリート片が水面へ落ち、水しぶきが爆発のように弾けた。
その衝撃で、プールサイドにいたひよりと朝比奈が思わず身をすくめる。
ひよりは完全に立てなくなっていた。
足を打った痛みもあったが、
それ以上に、目の前の現実が彼女の身体を縫い止めていた。
「動かなきゃ……」
分かっている。
だが、足が動かない。
朝比奈も同じだった。
彼女は普段なら明るく軽やかに周囲を引っ張る側だが、
この時ばかりは、崩れていく天井と水の渦を前に、声が出なかった。
平田が二人の元へ駆け寄る。
「朝比奈先輩、椎名さん、こっちへ!」
その声で、朝比奈がようやくひよりの肩を抱いた。
「椎名さん、立てる?」
「……すみません、足が……」
平田はすぐにひよりの足元を見た。
ひねったか、打撲か。
詳しい判断はできない。
だが、まともに走れないことだけは分かった。
「謝らなくていい。僕が支えるから」
平田はひよりの腕を自分の肩に回させ、
朝比奈と二人で彼女を壁際へ移動させた。
伊吹はまだプールサイドで立ち尽くしていた。
いや、正確には立ち尽くしていたわけではない。
状況を把握しようとしていた。
どこが崩れているのか。
どこなら踏めるのか。
誰が水に落ちているのか。
しかし、爆音と水の流れと悲鳴が情報を散らし、判断を鈍らせていた。
「伊吹!」
神室が叫んだ。
「そっち危ない!」
伊吹が振り返る。
その直後、彼女の足元近くのタイルに亀裂が走った。
「っ!」
伊吹は反射的に跳び退いた。
数秒遅れていれば、足元から崩落に巻き込まれていた。
神室も顔を強張らせていた。
普段なら皮肉の一つでも言う場面だが、その余裕はない。
「こっち!」
神室が手を伸ばす。
伊吹は一瞬だけその手を見た後、舌打ちしながらも掴んだ。
「借りだからね」
「今それ言う?」
「言う」
そんな短いやり取りすら、震えを隠すためのものだった。
須藤はなんとか流されかけていた生徒を壁側へ押しやった。
小野寺が手を伸ばし、その生徒を引き上げる。
「大丈夫!?息できる!?」
生徒は咳き込みながら頷いた。
須藤もプールサイドに手をかけて上がろうとしたが、背後の水流が再び強まった。
さらに大きな崩落が起きたのだ。
プール底の一部が完全に抜け、下の空洞が露出する。
水が滝のように流れ落ちる。
轟音。
水音。
コンクリートの砕ける音。
すべてが一体となって、プール棟を満たした。
南雲はその光景を見て、ようやく最悪の結論に辿り着いた。
このプールサイドに留まっていても安全ではない。
上に逃げればいいわけでもない。
崩落は広がっており、出口へ向かう通路も瓦礫で塞がれつつある。
そして、下の空洞には水が流れ込んでいる。
それは危険であると同時に、唯一の通路でもあった。
「……下だ」
南雲が呟いた。
「何?」
小野寺が聞き返す。
南雲は唇を引き結び、もう一度周囲を見た。
水面。
崩落した穴。
天井。
出口。
ひよりの負傷。
須藤の疲労。
平田の動揺。
伊吹と神室の緊張。
朝比奈の青ざめた顔。
誰もが、自分の言葉を待っている。
だからこそ、南雲は一瞬だけ迷った。
これは命令では済まない。
「潜るしかない」
その言葉に、全員が凍った。
須藤がすぐに反応する。
「はあ!?冗談だろ!」
その声には怒りよりも恐怖があった。
火の中へ飛び込むのとは違う。
水の中は、息ができない。
進んだ先が塞がっていたら終わり。
途中で迷えば終わり。
誰かがパニックを起こせば全員が危ない。
平田も表情を強張らせた。
「潜るって……椎名さんは足を怪我してる。全員で行ける保証は――」
「保証なんてない」
南雲ははっきり言った。
「だが、ここに残れば崩落に巻き込まれる。
出口側も塞がりかけている。下の水流は設備通路へ抜けている可能性がある」
「可能性、ですか」
ひよりが小さく呟いた。
その声は震えていた。
南雲は答えられなかった。
可能性でしかない。
確証はない。
だが、この場に確実な安全など存在しなかった。
朝比奈がひよりの手を握った。
「……椎名さん、怖いよね」
ひよりは小さく頷いた。
「はい。とても……」
その正直な言葉に、朝比奈の顔も少し歪んだ。
「私も怖い」
平田はひよりを見た。
「僕が支える。水の中でも離さない」
「でも、平田くんまで……」
「大丈夫」
大丈夫ではない。
だが、そう言うしかなかった。
伊吹が水面を見下ろしながら、苛立ったように髪をかき上げた。
「最悪ね。逃げるために水の中とか、悪趣味すぎる」
神室も眉を寄せる。
「でも、南雲先輩の判断は間違ってない。
上は崩れる。横は塞がる。残るのは下だけ」
小野寺は深く息を吸った。
彼女が一番、水の怖さを知っていた。
泳げるから安全ではない。
むしろ水に慣れているからこそ、濁った水中での移動がどれほど危険か分かる。
「全員、聞いて」
小野寺は声を上げた。
「潜ったら、絶対に一人で動かないで。流れに逆らいすぎない。
壁に手を当てて方向を確認する。息が苦しくなっても暴れない。
暴れたら余計に酸素を使う」
須藤が息を呑む。
平田も頷く。
伊吹は表情を険しくしたまま、水面を睨んでいる。
南雲が続けた。
「俺が先頭に行く。小野寺がその後ろ。須藤は前方の瓦礫を押しのけろ。
平田は椎名を支える。伊吹と神室は左右。朝比奈は後ろから椎名の様子を見る」
「……私が、足を引っ張りますね」
ひよりがぽつりと言った。
平田は即座に首を振った。
「違う」
朝比奈も強く言った。
「違うよ、椎名さん。全員で行くんだから」
伊吹が舌打ちした。
「今さら一人置いていく方が面倒なのよ。黙って支えられてなさい」
神室が淡々と付け足す。
「その方が合理的」
ひよりは目を伏せた。
それから、小さく頷いた。
「……分かりました」
だが、全員がすぐに飛び込めたわけではなかった。
水面はまだ荒れている。
崩落した穴へ流れ込む水は、黒く濁り、どこへ続いているのか分からない。
そこへ潜るということは、自分の意志で視界も呼吸も
奪われる場所へ入るということだった。
須藤は拳を握りしめた。
「くそ……くそっ」
彼は強い。
喧嘩もできる。
運動能力も高い。
だが、水中で息ができない恐怖は、腕力では殴れない。
平田の顔も青い。
それでも、ひよりを支える腕だけは緩めなかった。
伊吹は何度も呼吸を整えようとしていた。
神室は無言で水面を見ている。
朝比奈はひよりの手を握り続けている。
小野寺は全員の顔を見た。
「怖いのは当然。でも、潜る時間を短くすればいい。
迷わず進めば、必ずどこかで空気がある場所に出られる」
必ず。
その言葉に根拠はなかった。
だが、誰かがそう言わなければ、誰も一歩を踏み出せなかった。
南雲はようやく、生徒会長としての顔を取り戻した。
「行くぞ」
その声は、先ほどよりも低く、強かった。
「俺が先に行く。途中で止まっても、後ろは慌てるな。小野寺、合図を頼む」
「分かりました」
小野寺が頷く。
全員が水際へ集まる。
足元は滑りやすく、タイルには亀裂が走り、背後ではまたどこかが崩れる音がした。
もう猶予はない。
ひよりが一度だけ、プールサイドを見た。
さっきまで本を読んでいた場所。
朝比奈と笑っていた場所。
穏やかな水音を聞いていた場所。
そこはもう、同じ場所ではなかった。
日常は終わっていた。
しかも、音もなくではない。
轟音と崩落と水の渦によって、無残に断ち切られていた。
「大きく息を吸って」
小野寺が言う。
「水の中では、目を閉じないで。怖くても、前を見て」
南雲が右手を上げた。
「三秒後に入る」
誰も返事をしなかった。
返事をする余裕がなかった。
それでも、全員が息を吸った。
一度目は浅かった。
恐怖で胸が詰まり、十分に吸えなかった。
小野寺がすぐに言う。
「もう一度。ゆっくり、深く」
全員がもう一度息を吸う。
今度は少しだけ深い。
平田はひよりの身体を支え、伊吹と神室が左右につき、
朝比奈が後ろで彼女の肩に手を添えた。
須藤は南雲の背中を見た。
南雲は振り返らなかった。
ただ前を見ていた。
「三」
水音が響く。
「二」
天井が軋む。
「一」
全員の身体が、恐怖で強張る。
「行け!」
南雲が飛び込んだ。
続いて小野寺。
須藤。
平田。
ひより。
伊吹。
神室。
朝比奈。
彼らは一人ではなく、互いの存在を確かめながら、暗く濁った水の中へ身を沈めた。
その瞬間、プールサイドに残っていた昼休みの穏やかな空気は、完全に消えた。