カーストリング・インフェルノ   作:戦竜

6 / 6
第六話 水の恐怖

彼らを待っていたのは、光の届かない水底の恐怖だった。

水中へ飛び込んだ瞬間、世界は音を失った。

 

つい先ほどまで耳を裂くように響いていた火災報知器の音も、

天井の崩落音も、生徒たちの悲鳴も、水面を一枚隔てただけで遠く歪み、

代わりに全身を包み込んだのは、耳の奥を圧迫する重い水音と、

流れに身体を引きずられる鈍い力だった。

 

南雲は先頭を進みながら、濁った水の向こうに目を凝らしていた。

 

プールの底が崩れ、下層の設備空間へ水が流れ込んだことで、

そこには本来なら人間が通ることを想定していない、

狭く暗い水没通路が生まれていた。

 

視界は悪い。

 

水中には細かなコンクリート片やタイルの破片が舞い、

照明はすでに死にかけており、どこからともなく差し込む非常灯の赤い光だけが、

水の中で血のように揺れていた。

 

南雲は片手で壁を探りながら、もう片方の手で後続へ進行方向を示した。

 

後ろには小野寺、須藤、平田、伊吹、神室、朝比奈、

そして足を怪我した椎名ひよりがいる。

 

ひよりは平田に支えられながら進んでいたが、

水中では足の負傷以上に、呼吸と恐怖が彼女の動きを鈍らせていた。

 

水は容赦がない。

炎のように見えるわけではない。

煙のように目に刺さるわけでもない。

 

だが、一度身体を沈めれば、肺に残された空気だけが命綱になる。

どれだけ冷静であろうと、息が続かなくなれば終わりだった。

 

平田はひよりの腕をしっかりと抱え、

できるだけ彼女に負担をかけないよう身体の位置を調整していた。

 

伊吹はそのすぐ横につき、

流れでひよりの身体が壁へ叩きつけられないように押さえている。

 

神室は後方から周囲を確認し、朝比奈はひよりの表情を見ながら、

彼女が限界を迎えないよう必死に視線を合わせていた。

 

須藤は前方を進む南雲と小野寺の少し後ろで、

瓦礫を押しのけながら道を確保していた。

 

普段なら考えるより先に動く須藤だが、この時の彼は驚くほど集中していた。

 

水泳部でもない自分が、この水の中で何ができるのか。

それを考える余裕はない。

今はただ、前へ進む。

誰かが流されないようにする。

 

それだけだった。

 

やがて、通路の先にわずかな光が見えた。

水面へ出られる場所がある。

南雲はそう判断し、後続へ手で合図した。

 

あと少し。

 

そう思った直後だった。

水中で鈍い音が響いた。

南雲の身体が急に止まる。

流れに乗っていたはずの身体が、何かに引っかかったように動かなくなった。

 

「――!」

 

南雲はすぐに足元を確認した。

崩落した天井材と曲がった鉄骨が、彼の脚の近くに絡みついていた。

直接深く挟まれたわけではない。

しかし、金属の一部が制服と足元に絡み、

さらに重いコンクリート片がそれを押さえ込んでいる。

 

水流は前へ引っ張る。

瓦礫は後ろへ縫い止める。

そのせいで、南雲の身体は完全に固定されていた。

 

小野寺が即座に振り返った。

須藤も気づいた。

二人は南雲の元へ戻ろうとしたが、水流がそれを妨げる。

 

南雲は片手を上げ、先に行けという合図をした。

その表情は冷静だった。

だが、目だけは違った。

水中では言葉が使えない。

 

けれど、須藤にも小野寺にも分かった。

このままでは間に合わない。

南雲の呼吸が持たない。

須藤は迷わなかった。

壁に手をかけ、強引に身体を反転させると、南雲の方へ泳ぎ戻った。

 

小野寺も同時に戻る。

平田は一瞬、そちらへ向かおうとしたが、

腕の中のひよりが苦しそうに顔を歪めたことで、踏みとどまった。

 

「……!」

 

ひよりの息が限界に近い。

 

平田は口元を引き締め、伊吹と神室へ視線を送った。

伊吹は頷いた。

神室も頷いた。

朝比奈はひよりの手を握り、水面の方向を指差す。

 

まずはひよりを上げる。

南雲を助けたい気持ちは全員にある。

だが、全員が戻れば全員が沈む。

 

ここでも選択が必要だった。

平田たちはひよりを守りながら、わずかに見える水面へ向かう。

 

一方、須藤と小野寺は南雲の元へ到達した。

南雲は自分で瓦礫を外そうとしていたが、

水中で力を入れるのは難しく、足場もない。

 

しかも、挟まっている部分は手で引っ張った程度では動かなかった。

須藤は歯を食いしばり、コンクリート片を掴んだ。

 

重い。

 

水中で多少軽くなっているはずなのに、

まるで校舎そのものが南雲を押さえつけているようだった。

 

小野寺は周囲を探った。

そこで彼女は、崩落した手すりらしき金属棒を見つけた。

 

長さは十分。

 

曲がってはいるが、使えないほどではない。

小野寺はそれを掴み、須藤の肩を叩いた。

 

須藤が振り向く。

 

小野寺は金属棒を瓦礫の隙間に差し込む動作を示した。

テコの原理。

言葉はない。

だが、須藤は理解した。

小野寺が棒を隙間へ押し込み、須藤が反対側を掴む。

 

南雲もそれを見て、自分の足を引き抜く準備をした。

三人の呼吸の限界が近づいている。

水中では時間の感覚が狂う。

数十秒が何分にも感じる。

 

肺が熱い。

頭がぼんやりする。

視界の端が暗くなる。

それでも、須藤は金属棒を握る手を緩めなかった。

 

小野寺が指で数を示す。

 

三。

二。

一。

 

須藤と小野寺が同時に力を込めた。

金属棒がしなる。

瓦礫がわずかに浮く。

だが足りない。

南雲の足はまだ抜けない。

 

須藤の腕に血管が浮かぶ。

小野寺の表情も苦しげに歪む。

 

もう一度。

 

今度はさらに深く棒を差し込む。

須藤は足を壁に押し当て、全身を使って棒を押し込んだ。

 

小野寺も反対側から支える。

南雲はタイミングを見て、身体を捻った。

 

二度目の力がかかった瞬間、瓦礫が大きく動いた。

制服に絡んでいた金属片が外れる。

 

南雲の足が抜けた。

直後、須藤が南雲の腕を掴んだ。

 

小野寺も南雲の背を押す。

三人は一気に水面へ向かった。

 

その頃、平田たちは先に水面へ出ていた。

 

「ぷはっ……!」

 

平田が水面を破り、ひよりを抱え上げる。

ひよりは激しく咳き込みながら空気を吸った。

 

「椎名さん!」

 

朝比奈がすぐに彼女の肩を支える。

伊吹は水面に浮かびながら周囲を見回し、神室は壁際に手をかけて足場を探した。

 

そこは、プール棟の下層設備室に繋がるような空間だった。

完全に安全ではない。

壁には亀裂が走り、天井からは水滴が落ち、

遠くでは炎の揺らぎが赤く反射している。

 

だが、少なくとも空気がある。

それだけで、生存の可能性はつながった。

 

「雅たちは!?」

 

朝比奈が叫ぶ。

水面はまだ揺れている。

だが、南雲たちの姿はない。

 

ひよりは震えながら水面を見つめた。

 

「……南雲さん……須藤くん……小野寺さん……」

 

平田も息を整えながら、水中を見ていた。

 

戻るべきか。

 

そう思った瞬間、水面が大きく盛り上がった。

 

まず須藤が顔を出した。

続いて小野寺。

 

そして、二人に押し上げられるようにして南雲が水面から出た。

 

「っは……!」

 

南雲は大きく息を吸い、壁に手をついた。

普段なら余裕の笑みを浮かべる男が、その時だけは明らかに息を乱していた。

 

須藤も肩で息をしながら、水面に浮かんでいる。

小野寺はすぐに南雲の足元を確認した。

 

「動かせますか!?」

「……ああ。問題ない」

 

南雲はそう言ったが、声にはわずかな疲労があった。

須藤は水を吐き出すように息を整え、荒々しく言った。

 

「問題ない顔じゃねえだろ、会長」

 

南雲は一瞬だけ須藤を見た。

 

それから、薄く笑った。

 

「助かった、須藤。小野寺もな」

 

須藤は少しだけ目を逸らした。

 

「別に……置いていけるわけねえだろ」

 

小野寺も短く息を吐く。

 

「助けられてよかったです。でも、ここも危ないです。早く移動しましょう」

 

その言葉通り、立ち止まっている余裕はなかった。

水没した通路の先からは、まだ水が流れ込んでいる。

水位が上がれば、今いる空間も安全ではなくなる。

 

さらに、どこかで火災が広がっているらしく、煙が薄く入り込み始めていた。

炎から逃げて水へ。

水から逃げて、今度は煙。

 

この学校は、まるであらゆる逃げ道を一つずつ潰していく巨大な迷宮のようだった。

 

「椎名さん、立てる?」

 

平田が尋ねる。

 

ひよりは顔を上げ、無理に微笑もうとした。

 

「……少し、難しいです」

「なら支える」

 

平田は即答した。

 

「片側は私が持つ」

 

伊吹が言った。

 

その言葉に、平田だけでなく神室も少し驚いたように見る。

 

伊吹は不機嫌そうに顔を背けた。

 

「勘違いしないで。足手まといが勝手に転ばれたら面倒なだけ」

「はいはい、そういうことにしておく」

 

朝比奈が苦笑する。

神室はひよりの反対側へ回り、肩を支えた。

 

「急ぐけど、無理はさせない。足を引きずるなら、ちゃんと言って」

「すみません……」

「謝らなくていい」

 

神室は短く言った。

 

その言い方は淡々としていたが、冷たくはなかった。

 

水に濡れた一行は、暗い設備空間を進み始めた。

足元にはまだ水が溜まり、靴の中まで冷たさが染み込んでくる。

服も重く、身体に張り付き、動くたびに余計な抵抗となって体力を奪っていく。

 

呼吸は整いつつあったが、震えは止まらない。

それは恐怖だけではなく、濡れたままの身体が熱を奪われているからでもあった。

 

「……このままだと、体力を削られる」

 

小野寺が低く言った。

 

「水が冷たい。動き続ければまだいいけど、止まったら一気にくる」

 

須藤が顔をしかめる。

 

「言われなくても分かる……服が重すぎんだよ」

 

南雲も自分の袖を軽く引いた。

水を含んだ布が、鈍く引きずられる。

 

「確かに、このままじゃ次の移動に支障が出るな」

 

その時だった。

 

「……あの」

 

ひよりが小さく声を上げた。

全員の視線が一瞬だけ彼女へ向く。

ひよりは少しだけ躊躇したように目を伏せたが、それでも言葉を続けた。

 

「役に立つか分からないんですが……」

 

彼女は肩に掛けていた小さな防水バッグを指先で持ち上げた。

プールに来る際に持ってきていたものだ。

潜水の際には邪魔になる可能性もあったが、

それでもひよりは最後までそのバッグを手放さなかった。

それはただの荷物ではなく、何か役に立てるかもしれないという、

彼女なりの小さな意志の表れでもあった。

 

防水仕様のバッグは、外側こそ水に濡れていたが、中身は守られている。

 

ひよりはそれを開いた。

 

中から出てきたのは、折り畳まれたタオルと、簡易的な着替えだった。

Tシャツや短パン、スポーツウェア。

全員分とは言えないが、それでも複数人が使える量がある。

 

「大会前だったので一応、多めに持ってきていて」

 

ひよりは少しだけ申し訳なさそうに言った。

だが、その声には、ほんのわずかに自分が

役に立てるかもしれないという意思が滲んでいた。

 

一瞬、場の空気が止まる。

それから須藤が目を見開いた。

 

「……マジか」

 

小野寺もすぐに中身を確認する。

 

「タオルもある……これなら水分をある程度拭けるし、軽くなる」

 

神室が短く言った。

 

「動きやすさが段違いになる」

 

伊吹も無言で頷いた。

朝比奈がぱっと表情を明るくする。

 

「椎名さん、すごいじゃん!」

 

ひよりは少しだけ目を伏せた。

 

「足手まといにならないように、と思って……持ってきていただけなので」

「なってない」

 

平田がはっきりと言った。

 

「むしろ、今は一番助かるよ」

 

南雲は一瞬だけひよりを見た。

その視線には、評価があった。

 

「用意周到だな。いい判断だ」

 

それから周囲を見回す。

 

「問題は場所だな。このままここで着替えるわけにもいかない」

 

その時、通路の一角に崩れた瓦礫が積み上がっているのが目に入った。

崩落したコンクリートと配管が重なり、ちょうど視界を遮る壁のようになっている。

 

南雲はそれを見て、軽く肩をすくめた。

 

「……この状況で言うのもどうかと思うが」

 

彼は少しだけ口元を上げた。

 

「目隠し代わりになる瓦礫に感謝だな」

 

その軽口に、わずかに空気が緩む。

極限状態の中での、ほんの一瞬の緩和だった。

 

「男女で分かれましょう」

 

小野寺がすぐに指示を出す。

 

「短時間で済ませる。タオルは共有で」

「了解」

 

須藤が頷く。

 

「さっさとやるぞ」

 

神室と伊吹と小野寺と朝比奈はひよりを支えながら、瓦礫の反対側へ移動する。

ひよりは足を庇いながらも、自分でバッグの中身を取り出して渡した。

 

「これ、使ってください」

「ありがとう」

 

朝比奈が笑う。

神室は受け取ったタオルで手早く水を拭きながら言う。

 

「本当に助かる」

 

伊吹も無言で着替えを受け取り、濡れた服を乱暴に絞った。

一方、反対側では南雲、須藤、平田が素早く動いていた。

 

「冷えてる時間は短くするぞ」

 

南雲が言う。

須藤はタオルで頭を拭きながら、息を吐いた。

 

「くそ……さっきまでプールで泳いでたのに、なんでこんな必死に着替えてんだよ」

「状況が違いすぎるね」

 

平田が苦笑する。

 

全員が短時間で着替えを終えた。

完全に乾いたわけではない。

だが、水を含んだ重い布から解放されただけで、

身体の負担は明らかに軽くなっている。

 

再び集まった時、ひよりは少しだけ息を整えていた。

足の痛みは消えていない。

だが、その表情には先ほどとは違う色があった。

 

守られているだけではない。

 

自分もこの集団の一部として役に立てている。

その実感が、彼女の中で小さな支えになっていた。

 

南雲が周囲を見渡す。

 

「準備はいいな」

 

誰も異論はなかった。

 

須藤が肩を回す。

 

「さっきより全然マシだ」

 

伊吹も短く言う。

 

「動きやすい」

 

神室が頷く。

 

「時間を稼げた分、次の判断もしやすい」

 

平田はひよりの様子を確認する。

 

「いけるかな?」

「はい、大丈夫です」

 

ひよりは小さく、しかしはっきりと答えた。

 

壁に沿って歩く。

足元には水が溜まり、瓦礫が沈んでいる。

一歩ごとに靴の中へ水が入り、重くなる。

天井から落ちる水滴が、時折首筋に当たる。

 

冷たさで身体が震える。

 

それでも、歩くしかなかった。

 

南雲は先頭に立ち、足元の安全を確認している。

須藤と小野寺はその後ろで、大きな瓦礫をどけながら道を作った。

平田、伊吹、神室、朝比奈はひよりを囲むようにして進む。

 

誰か一人が支えるのではない。

 

全員で支える。

 

それが、ひよりの負担を少しでも減らす唯一の方法だった。

 

「……私、重くないですか?」

 

ひよりが小さく言った。

 

「軽いよ」

 

平田が即答する。

 

「こういう時に気にすることじゃない」

 

神室も言う。

 

「それより足元を見て」

 

伊吹がぶっきらぼうに続けた。

 

「転ばれたら、こっちが困る」

 

朝比奈がその横で笑った。

 

「伊吹ちゃん、ほんと分かりにくい優しさだね」

「うるさい」

 

そのやり取りに、ひよりの表情がほんの少しだけ緩んだ。

恐怖が消えたわけではない。

足の痛みも、水の冷たさも、煙の臭いも消えない。

 

だが、誰かが自分を支えてくれているという感覚は、

彼女の心をぎりぎりで繋ぎ止めていた。

 

しばらく進むと、前方に非常扉が見えた。

扉の隙間から、外光が漏れている。

南雲が近づき、取っ手を確認する。

 

熱はない。

慎重に押す。

重い音を立てて、扉が開いた。

 

外から、煙を含んだ空気が流れ込んだ。

だが、水没空間の湿った閉塞感に比べれば、それでも外の空気だった。

 

「出るぞ」

 

南雲が言った。

一人ずつ外へ出る。

 

そこはプール棟の外周に近い通路だった。

だが、普段の整った景色は消えていた。

地面はひび割れ、一部は水で濡れ、

爆発の衝撃で散らばったガラス片やコンクリート片があちこちに落ちている。

 

校舎の方角からは黒煙が上がり、非常階段の付近では炎が赤く揺れていた。

 

「……あれ」

 

小野寺が目を細める。

煙の向こうから、別の集団が近づいてくる。

濡れた布を口元に当て、煤に汚れ、疲労と恐怖を顔に刻みながら、

それでも前へ進んでくる生徒たち。

 

先頭付近には、綾小路清隆がいた。

その近くに堀北鈴音。

一之瀬帆波。

軽井沢恵。

長谷部波瑠加。

佐倉愛里。

高円寺六助。

みーちゃん。

櫛田桔梗。

佐藤麻耶。

龍園翔。

坂柳有栖。

 

茶柱と真嶋の姿も見える。

 

炎の非常階段を抜けてきた者たちと、水没したプール棟を抜けてきた者たち。

 

別々の地獄を通ってきた二つの集団が、ようやく同じ場所へ辿り着いた。

 

「綾小路!」

 

須藤が声を上げた。

 

綾小路は須藤たちの姿を見て、短く状況を確認するように目を動かした。

 

ひよりの足。

南雲の疲労。

小野寺の表情。

 

全員が無事かどうか。

一瞬で把握しているようだった。

 

「そっちも大変だったみたいだな」

 

綾小路が言う。

須藤は荒い息を吐きながら笑った。

 

「大変どころじゃねえよ。プールがいきなり地獄になったんだぞ」

 

南雲は水を滴らせながら、いつもの余裕を取り戻そうとするように口元を上げた。

 

「似たようなものだろう。昼休みにしては、少し刺激が強すぎる」

 

龍園が南雲を見て、鼻で笑った。

 

「生徒会長も随分みっともねえ格好だな」

「お前も似たようなものだ、龍園」

「ハッ、違いねえ」

 

その短いやり取りの中に、奇妙な現実感があった。

 

誰も無傷ではない。

誰も余裕などない。

 

それでも、軽口を叩ける者がいるというだけで、

集団は完全な絶望に沈まずに済む。

 

ひよりは平田たちに支えられながら、彼女らしい静かな声で言った。

 

「皆さん。無事で、よかったです」

 

みーちゃんが駆け寄る。

 

「ひよりちゃん、足を怪我してるの?」

「少しだけです」

「少しじゃないでしょ」

 

伊吹が即座に言った。

ひよりは困ったように笑った。

その笑顔を見て、みーちゃんの表情が一瞬だけ崩れそうになる。

 

だが彼女は踏みとどまった。

ここで泣くわけにはいかない。

 

まだ終わっていない。

 

綾小路は周囲を見た。

 

校舎からの炎。

プール棟の損傷。

外周通路の瓦礫。

空を覆う黒煙。

 

そして、遠くから聞こえる消防のサイレン。

外部の救助は近づいている。

 

しかし、まだここまでは届いていない。

この合流は終着点ではない。

 

次の避難経路を探すための、一時的な接点に過ぎなかった。

 

「移動するぞ」

 

綾小路が言った。

 

「ここも安全じゃない」

 

南雲が頷く。

 

「同感だ。水は抜けたが、次は炎と煙か。忙しい学校だな」

 

茶柱が生徒たちを見回す。

 

「全員、歩ける者は負傷者を支えろ。まとまって動く。勝手な行動はするな」

 

真嶋も声を重ねる。

 

「消防隊の進入路に近い場所へ向かう。だが瓦礫が多い。足元をよく見ろ」

 

須藤はひよりの方を見た。

 

「平田、俺も持つぞ」

 

平田は頷いた。

 

「助かるよ」

「いいです、私は……」

 

ひよりが言いかける。

 

だが須藤は首を振った。

 

「いいから。今は遠慮してる場合じゃねえだろ」

 

伊吹も横から言う。

 

「そう。あんたが歩けないと、こっちの動きも遅くなる。だから支えられて」

 

神室が淡々と補足する。

 

「その方がいい」

 

朝比奈が明るく言った。

 

「ほら、みんなで運べば早い早い」

 

ひよりは少しだけ目を伏せた後、小さく頷いた。

 

「……ありがとうございます」

 

合流した集団は、再び動き始めた。

 

炎の中を抜けてきた者。

水の中を抜けてきた者。

大切な仲間を失った者。

誰かに助けられた者。

誰かを助けた者。

 

それぞれが違う恐怖を抱えながら、それでも同じ方向へ進んでいく。

 

背後では、プール棟の奥から水が流れ出し続けていた。

その音は、炎の爆ぜる音とはまるで違う。

 

だが、彼らにはもう分かっていた。

 

水もまた、命を奪う。

 

火だけが地獄なのではない。

この学校そのものが、今は地獄になっているのだ。

そしてその地獄の中で、生き残るためには、誰か一人の力では足りない。

 

一つでも欠けていれば、ここまで辿り着けなかった。

 

水に濡れ、煤に汚れ、息を切らしながら、それでも生徒たちは前へ進む。

 

もう昼休みの平穏はない。

 

教室も、食堂も、プールも、ケヤキモールも、彼らの知る日常ではなくなっていた。

 

だが、まだ生きている。

 

それだけが、次の一歩を踏み出す理由だった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。